目次
- はじめに
- ドイツ語原文
- ドイツ語文法事項
- 独文直訳
- 独文逐語訳
- 既刊邦訳
- 仏訳
- フランス語文法事項
- 仏文直訳
- 仏文逐語訳
- Wittgenstein による Russell Paradox 解決法 — 石黒先生論文要約
はじめに
前回は別として、今まで Ludwig Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus における有名な部分をいくつか見てきました。今回はそんなに有名な部分ではないですが、私自身が気になるところをドイツ語原文とその仏訳で読み、私訳を付してみましょう。その上で、その部分の著名な解釈の要約を掲げたいと思います。
今日読むのは命題3.33から3.333です。ここでは Wittgenstein による Russell Paradox の解決法が述べられています。彼はいったいどんな方法でその Paradox を解決するというのでしょうか?
まずドイツ語原文を提示し、それに文法事項を書き加え、そのあと私訳を記します。この訳は既刊の邦訳を見ずにまずは自力で訳し、その後、二つの邦訳で私が誤訳していないか、チェックしました。(すると案の定、誤訳しているところがありましたので、その点については、以下の記事の中で明示しています。)
参考にさせていただいた邦訳は、容易に入手可能な次の文庫本です。
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、
・ ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、光文社、2014年。
これらの訳は大変ためになりました。ここに訳者の野矢先生、丘沢先生にお礼申し上げます。
それから既刊邦訳 (野矢先生訳) と既刊の仏訳を記します。仏訳にも文法事項を書き込み、私訳を付しました。そして最後に今回の部分に関する著名な解釈の要約を書き足して終わりにします。
引用するドイツ語原文と仏訳は以下のものです。
・ L. Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus, tr. by C. K. Ogden, Routledge, 1922/1981, p. 56,
・ Wittgenstein Tractatus logico-philosophicus, tr. par G. G. Granger, Gallimard, 1993, p. 47-48. *1
本文を始める前に一言。私による文法事項の記述や私訳について、間違いが含まれていましたらすみません。私は Wittgenstein の哲学の専門家でもありませんし、ドイツ語やフランス語の専門家でもないので、一切の瑕疵から免れることは不可能だと思います。限られた時間や能力の範囲内で、できるだけのことはしましたが、残っているであろう間違いに対し、あらかじめお詫び致します。それでは本文を始めます。
ドイツ語原文
ドイツ語文法事項
darf nie: dürfen を使った否定文は禁止を表わします。「〜してはならない」。
eine Rolle spielen: 役割を演じる/果たす。
sie: 前方の女性名詞を指しますので、Syntax, Bedeutung, Rolle のいずれかですが、意味の点から言って Syntax を指します。このあと出てくる sie darf の sie も Syntax を指します。
sich aufstellen lassen: sich + 他動詞 + lassen で、意味は大きく言って「〜される、〜できる、〜されうる、〜させる、〜してもらう、されるがままである」。たくさんあるように見えますが、要するに、受動、可能、受動的可能、命令、要請、放任です。もっと手短には、受動的可能、命令、放任の三つを覚えておき、あとは文脈に応じてこの三つの意味を分解して当てはめてやればいいわけです。文法的に細かいことを言わなければ、ですが。(細かいことを言うと、sich が4格の時は「受動、可能、受動的可能、命令」の意味、sich が3格の時は「要請、放任」を意味します。)
von ... die Rede wäre: von 3格 ist die Rede で、「(3格) について話されている / (3格) が問題である」。ここでは接続法第二式の wäre が使われています。ohne dass のあとでは直説法か接続法第二式が使われますが、意味に大差はありません。関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、1994年、123ページ。
Von dieser Bemerkung: この von は「〜から」の意味。「〜について」ではありません。私は後者で訳し、あとで野矢先生、丘沢先生の邦訳を見て、自分が誤訳していることに気がつきました。先生方に感謝致します。
sehen ... hinüber: hinübersehen は小学館の『独和大辞典』にも相良先生の『大独和辞典』にも出てきませんが、分離前綴りと語幹の動詞の意味から言って「何かを越えて向こう側を見る」ということでしょうから、これを意訳し、「見通す、見やる、見てとる、通覧する」などなどとすればいいと思います。
Der Irrtum: -tum を接尾辞に持つ名詞は通常中性名詞ですが、この Irrtum と Reichtum (富) だけは例外的に男性名詞です。
zeigt sich darin: sich4 + 場所の状況補語 + zeigen で「(場所) に現れる」。
darin, dass: darin の da- は dass 文を指します。
sich selbst: 「自分自身」。このあとの in sich selbst の sich selbst も同様です。
enthalten sein kann: この enthalten は過去分詞。この動詞は不定形と過去分詞が同形です。これが過去分詞であることは、直後に動詞の sein があり、これと合わせて受動態になっていることでわかります。
die ganze „Theory of types“: ganz は前から後ろの名詞にかかる付加語的形容詞で、直訳すれば「すべての (名詞)」となりますが、これを逆転させて「(名詞) のすべて」と訳した方がいい場合がよくあります。
darum: 帰結を表わし、「従って、それ故」の意味。この意味の時は、発音は「ダルム」ではなく「ダールム」で、「ダー」にアクセントがあります。
ihr eigenes Argument: ihr に ihre や ihres などの語尾が付いていれば、それは所有冠詞「誰それの」の意味ですが、語尾がなければそれは所有冠詞かまたは人称代名詞「彼女に、君たちは」のどちらかです。どちらなのか、見分ける方法は次の通りです。ihr のあとに男性4格か、中性の1, 4格名詞があれば、その ihr は所有冠詞、さもなければ人称代名詞です。ここでは中性1格の Argument が来ていますので、この ihr は所有冠詞で、「それ自身のアーギュメント」となります。
und es: es は前方の das Funktionszeichen を指しています。ちなみに es は今のような言語内照応の代名詞であり、言語外のものを指すためには使いません。つまり、目の前にあるものについて「それは」と言いたい時には es は使われず、そのような時には das を使います。清野智昭、『中級ドイツ語のしくみ』、白水社、2008年、202-205ページ、特に202-203ページを参照ください。
Nehmen: これは直説法に見えますが、接続法第一式です。倒置していることと、ここでの意味から言って接続法第一式だとわかります。
nämlich: この語は副詞の時、二つの意味があり、それは言い換え「つまり、すなわち」と理由の追加「というのも〜だから」です。しかし Wittgenstein がこの語を使う時、どちらの意味で使っているのか、よくわからない場合が多いです。(形容詞の時は「同じ〜」。)
könnte: 非現実な想定、仮定を述べているので接続法第二式になっています。
gäbe: これも同様の理由で接続法第二式になっています。
die innere hat: die innere と hat のあいだに Funktion F が省略されています。
die äussere,: die äussere Funktion F hat の省略。
Gemeinsam: この文の主語は nur der Buchstabe „F“ であり、動詞は ist, 補語は gemeinsam. der Buchstabe が男性1格、gemeinsam が形容詞であることで、そのことがわかります。つまりここの文は倒置しているので、この文の骨格を正置すれば「Nur der Buchstabe „F“ ist gemeinsam」。そこに複数3格の「den beiden Funktionen (両方の関数にとって)」が挿入されているわけです。すなわち「Nur der Buchstabe „F“ ist den beiden Funktionen gemeinsam (文字 「F」だけが、両方の関数にとって、共通している)」。なぜ倒置しているのかというと、der Buchstabe „F“ に後出の関係文を接続したいため、ひっくり返しているのだろうと思われます。
der aber: der は関係代名詞。先行詞は der Buchstabe „F“.
allein: allein は二つ前の関係代名詞 der にかかっています。この語は遠く離れた語句にかかることがちょくちょくあります。
erledigt sich: sich4 erledigen で「(主語) が片付く」。erledigt の発音は「エアレーディクト」ではなく「エアレーディヒト」。
独文直訳
附記
なぜ F(F(fx)) における二つの F は異なる意味を持っていると Wittgenstein は考えるのでしょうか。Wittgenstein の書いている本文だけでは説明が手短かすぎてピンと来ないかもしれません。そこでその説明を私なりに少しだけ敷衍してみましょう。次のような理由から、二つの F は異なる意味を持っているのかもしれません。
F(F(fx)) における二つの F はともに、たとえば同じ ξ(y) のような形をしているように見えます。しかし3.333の最初の段落によると、各関数は特定の定義域がそれぞれ指定されており、F(F(fx)) の外側の F は、二階の関数 F(fx) を定義域に含む三階の関数であり、内側の F は一階の関数 fx を定義域に含む二階の関数であるという違いがあるので、この区別を明示してやると、外側の F の形は Ψ(φ(fx)) となり、内側の F は φ(fx) という形になり、こうして二つの F は異なった意味を持っているというのでしょう。
また F(F(u)) の代わりに (∃φ):F(φu) . φu = Fu と書くと、なぜ二つの F が異なる意味を持っていることが直ちに明らかになるというのでしょうか。それは以下のような理由からかもしれません。
F(F(u)) だと、どちらの F も ξ(y) という同じ形に見えるため、両方とも同じ関数だと誤認される可能性があります。しかし今の F(F(u)) を (∃φ):F(φu) . φu = Fu と書き直すならば、F(F(u)) の外側の F は、書き直された式の二階の関数 F(φu) のことであり、F(F(u)) の内側の F は、書き直された式の一階の関数 Fu のことであるとわかるため、誤認が避けられるというのでしょう。
ただしまぎらわしいことに、F(F(fx)) の二つの F が異なる形、異なる意味を持っていることを説明する際に、Wittgenstein はこの二つの F のうち、外側の F を三階の関数と見なし、内側の F を二階の関数と見なす一方で、F(F(u)) の二つの F が同じに見えて異なることを説明する際に、Wittgenstein は F(F(u)) の外側のF を二階の関数と見なし、内側の F を一階の関数と見なしており、階数に関し統一が取れていなくてややこしいですね。この齟齬については、このあと取り上げる石黒先生の論文「ウィトゲンシュタインとタイプ理論」で言及されています。先生の論文222ページ注 (16) を参照ください。
独文逐語訳
既刊邦訳
引用は、最初に記した岩波文庫の34-35ページからです。
引用に際して、傍点は下線で代用し、訳注は省略します。〔 〕は邦訳者の挿入です。
仏訳
フランス語文法事項
ne saurait jouer: savoir + 不定詞 (〜できる) が条件法で否定形に置かれている時は丁寧な否定を意味します。つまり「〜できないだろう、〜できないでしょう」。この時、pas は省略されます。この用法は命題3.332にも、また3.333の冒頭にも見られます。
jouer aucun rôle: jouer un rôle で、「ある役割を果たす、ある役を演じる」。
il faut que la syntaxe soit établie: 通常、il faut que 節では接続法が使われます。なぜでしょうか。たぶんですが、次のようなことが理由となっているものと思われます。接続法が使われるのは一般に客観的事実とは認められない文脈においてです。その文脈では客観的事実が主張されているわけではありません。ところで il faut que 節には主に三つの意味があり、それは必然・必要「〜でなければならない」、運命「〜するしかない」、確信「〜であるに違いない」です。この il faut que 節はフランス語文法の入門書では主観的判断を表わすとされることがあります *6 。つまりそれは客観的事実を主張する文脈を構成しているのではない、ということです。上の三つの意味も、それぞれ判断を下す主体が主観的に述べているのだ、というわけです。必然・必要「〜でなければならない」は、判断主体が「そうでなければならない」と命令・要求しているのであり、運命「〜するしかない」は、「そうするより仕方がない」と断念しているのであり、確信「〜であるに違いない」は、「そうであるに違いない」と推測していると言えます。このようなことから主観的文脈を構成するとされる il faut que 節では接続法が使われているのだと推定されます。私のこの見解が間違っていましたらごめんなさい *7 。
pour autant: 対立を表わす副詞句。「だからといって、その一方で、とはいえ、しかしながら」。
faire état de la signification: 「(名詞) を考慮して、(名詞) を引き合いに出して」。
elle ne peut que supposer: ne 〜 que − (− しか 〜 しない) の que は、限定したい語の直前に置かれます。ここでは supposer が限定されています。
À partir de cette remarque: 「(名詞) から」。
se manifeste: 「(主語) が現れる」。
ceci qu': ceci が que 節を伴うと、ceci は que 節を指します。
faille: なぜここで接続法が使われているのか、私には確かなことはわかりません。接続法が使われるのは客観的事実を主張しない文脈や事実であるともないとも断定せず、判断を保留する文脈においてですが、ここの que 節内は事実であるとは主張されておらず、むしろ事実に反する、事実に照らして間違っていると Wittgenstein が考えていることが述べられているので接続法が使われているのではないかと推測されます。つまり彼が考えたところでは「ラッセルは必要もないのに記号の意味について語る必要があると間違って思っていたのだ」いうわけです。この推測が誤っていましたらすみません。
à son propre sujet: おそらくですが、ここの à 〜 sujet は「au sujet de + 名詞 ( (名詞) の件について)」の変形ではないかと思われます。また son propre + 名詞、つまり所有形容詞 + propre + 名詞は「その (名詞) 自身」の意味。よって à son propre sujet は「それ自身について」。これと同じ用法が3.333の第一段落、第ニ段落にも出てきます。
c'est là toute: 「c'est là + 名詞・代名詞」は「cela est + 名詞・代名詞」のこと。このように、「cela est + 属詞」の属詞が名詞・代名詞の時は、cela が ce と là に分離します。朝倉、『新フランス文法事典』、項目 ce1, 103ページ。
par conséquent: したがって、それ故。
Supposons, ..., que ... puisse ...: supposer que + 接続法で、「〜であると仮定する」。
aurait: 条件法現在になっているのは、これが事実に反する条件節の帰結節を成しているからでしょう。ただしその条件節はここでは暗に前文の Supposon, ... argument が担っています。このあと出てくる devraient が条件法現在になっているのも同じような理由からです。
est de la forme φ(fx): est de + 名詞で、「(名詞) を性質として持つ」。
Seule est: ここの文は倒置しています。元に戻すと、おそらく La seule lettre F est commune aux deux fonctions か、またはこの文の主語を Seule la lettre F に代えたものあたりになると思います。
en elle-même: それ自体で。elle は la lettre F を指します。
dénote: この dénote は見たところ直説法現在ですが、あるいはひょっとするとそれと同形の接続法現在なのかもしれません。というのは「定冠詞 + seul + 名詞」に関係代名詞節が付く時、その節中では接続法が来るのが普通であり、時に直説法も来るからです。なぜこのような時に接続法が来るのかというと、接続法は通常、判断を保留した文脈で使われるのですが、何かが唯一のものであると判断する場合には、その判断を下す前に、どれが唯一のものであるのか、精査する必要があり、この精査の際に判断が一旦保留されていて、この保留状態が seul に後続する que 節に接続法として現れているのです。以上の点については、渡邊淳也、『中級フランス語 叙法の謎をとく』、白水社、2018年、89-90ページを参照ください。しかしここまで説明しておいてなんですが、この dénote は接続法ではなく、ただの直説法だったらごめんなさい。
Ceci: cela に同じ。前文を指します。
au lieu de: 「(名詞) の代わりに」。ここの名詞が不定詞なら、「〜する代わりに」。
Ainsi: ここの文は倒置しています。「このように」の意味の ainsi が文頭に来ると倒置します。「それ故に、だから」という帰結を意味する ainsi が文頭に来る場合は、倒置する場合もしない場合もあります。この文の主語は le paradoxe de Russell で、ainsi がなければ、この主語がその ainsi の位置に入ります。
se trouve: S + se trouver + 属詞で、「S が (属詞) であるとわかる」。
仏文直訳
仏文逐語訳
Wittgenstein による Russell Paradox 解決法 — 石黒先生論文要約
どうして Tractatus の Wittgenstein によるならば Russell Paradox が防げるというのだろうか。
このことに関し、たまたま目についた英語論文を二つ三つ読んでみたのですが、私個人にはあまり印象には残りませんでした。(生意気なことを言ってすみません。)
そのあと、随分前に目を通したことのある石黒先生の次の論文を再読してみました。
・ 石黒ひで 「ウィトゲンシュタインとタイプ理論」、中川大訳、『現代思想』、1997年8月号、初出1981年。
この論文は、先に読んだいくつかの英語論文よりもずっと深い洞察をたたえており、なおかつ Wittgenstein の哲学の包括的な理解に基づいて書かれていることが一目瞭然でした。そこで先生のこの論文を私なりに要約することで、どういうわけで Wittgenstein は Russell Paradox をブロックできると考えたのか、その理由を極めて大まかに、かつ少しばかり私の解釈、読みを加えて、つづってみましょう。
以下の説明は、私によって、石黒先生が理解された Wittgenstein を記したものです。石黒先生が理解された Wittgenstein を、私が理解した限りで記しているため、私が誤解している可能性も非常にあります。先生の論文には私にとって難しすぎて理解できないところもあちこちにありましたので、どこかで私が誤解していることは必定です。以下はそのつもりでお読みください。なお、このあとたびたび言及する Russell Paradox は既知とさせていただきます。
論点1
さて、Russell Paradox に出てくる核心を成す文は何か循環したところがあるように見えます。その文を φ(φ) と書いてみましょう。
石黒先生の理解されている Wittgenstein によると、この文の右の φ が名前だとすると左の φ は命題関数の記号ではなく名前になるそうです。また今の文の左の φ を命題関数の記号だとすると右の φ は名前ではなく命題関数の記号になるそうです。そうすると問題の文は文とはならず、正しく形成された表現ではなくなって、φ(φ) という文を使った Russell Paradox は、さしあたり、ブロックされるようです。以上は、石黒先生が論文中で主張されている「論点1」です。論文215-216ページを参照ください。
論点2
また、やはり石黒先生の理解されている Wittgenstein によると、問題の文を F(F(fx)) と表わす時、二つの F について、右の F は2階の述語と解され、左の F は3階の述語と解され、同じ形をした F が一つの文中に、二度、異なる階数を持って出現していますが、Wittgenstein によると、このようなことは許されないことのようです。もしも文 F(F(fx)) を私たちが筋道立てて理解できているとするならば、その時、私たちは同じ F を使いながら、その文の右の F を2階、左の F を3階の述語として暗黙のうちに読んでいるのだ、とWittgenstein は考えているようです。そうするとまた、F(F(fx)) という文を使った Russell Paradox は、その文の暗黙の勝手な読みを許さないとするならば、さしあたり、ブロックされるようです。以上は、先生が論文中で主張されている「論点2」です。論文216-217ページを参照ください。
論点1, 2に対する反論
しかし、以上のようにすれば一見 Russell Paradox はブロックされるように見えますが、「「性質であるという性質も性質である」(*) という文は立派な文であり、理解可能な文であってしかも真である。このことは上の二つの論点に対する反例となっている」という反論があるかもしれません。文 (*) の「性質」という表現はその主語と述語で同じ形をしていながら一方は名前であり、他方は述語になっていると言え、また一方と他方とでは階を異にしていると言えそうです。
論点3
これに対し、石黒先生の理解されている Wittgenstein によると、そもそも自分が形式的概念と呼んでいるものは本来の述語にはなり得ず、「性質である」という概念は形式的概念であって、故に問題の文 (*) は表現としてあり得ないのである、と言って先の反論に応えます。以上は、先生が論文中で主張されている「論点3」の前半です。論文217ページを参照ください。
あるいは今の反論に対してもう一つ、応答がありうると石黒先生は考えます。それはこうです。対象言語とメタ言語を区別する者がいるならば、文 (*) では「性質」という表現が、その主語では対象言語の語彙として使われ、述語ではメタ言語の語彙として使われていると思われますが、先生の理解する Wittgenstein によると、対象言語に含まれる述語であるとともにそれがメタ言語としても使われるという、そういうことのない述語があって、「性質である」という述語はそのような述語の一つであり、故に問題の文 (*) のような言い方は間違っているのだ、ということです。以上の形式的概念と対象言語/メタ言語の話は、先生が論文中で主張されている「論点3」の後半です。論文217ページを参照ください。
論点4
このように反論に答えた後でも次のような反論が考えられます。それは以上の Russell Paradox の定式化では「性質である」という述語を主語に述語付ける形で Paradox が表わされているものの、現在では述語付けの方法では普通 Russell Paradox は定式化されず、集合とその要素の間の成員関係 ∈ を使って表わされているのであり、この関係を元にすれば石黒先生版 Wittgenstein の主張は潰える、というものです。
これに対する石黒先生版 Wittgenstein の応答は、Russell と同様に集合は論理的虚構であると考えて、述語付けの方が基本であり、成員関係による表現は一つの言い回し (façon de parler) に過ぎない、とするものです。以上は、先生が論文中で主張されている「論点4」です。論文219-220ページを参照ください。
最後の論点
こう答えた後でもまだ次のような反論があるかもしれません。それは文の主語と述語に、あからさまにそのまま同じ形をした φ や F が現れることは許されないという先の論点1と2に対し、あからさまにではなく、Russell の確定記述句の中に現れる関数のようにして述語が主語の一部として正式に名前の形を取って文に現れることがあるのであり、このような文を使って Russell Paradox を定式化するならば *8 、石黒先生版 Wittgenstein の主張は覆されるのではないか、というものです。
これに対する石黒先生版 Wittgenstein の応答は次のものです。問題の文を F(fx) とし、この Fを述語、fx を F を確定記述句に使った命題関数記号に基づく名前とすれば、確かに問題の文は正しく形成された文かもしれないが、Tractatus における3.333の最初の段落が暗に言っていることは、f のアーギュメントすべてに渡る量化を示した表現を fx の x に代入することは許されない、ということであり、こう解すると Paradox はブロックできるというものです。以上は、先生が論文中で主張されている「最後の論点」です。論文220ページを参照ください。
終わりに
なるほど、先生の言う通りだとすると、Russell Paradox は Wittgenstein の Tractatus の方法でブロックできるかもしれません。本当にできるかどうかは更なる検討が必要でしょうが。
ここまで、私が理解した限りでの石黒先生版 Wittgenstein の主張を記してきました。できるだけ専門用語を使わず、背景となる事柄の説明も極力排して、直感的にわかりやすい説明を心がけてきましたが、そのため不正確なところや誤解しているところなど、多々あると思います。そのようでしたらごめんなさい。石黒先生にも、誤解を広めてしまったことをお詫び申し上げます。
ただし石黒先生の論文には「もうちょっと説明がほしいな」と感じられる部分もいろいろとありました。たとえば先生の論文中ではたびたび Russell の悪循環原理に触れられていますが、この原理についてはいくつかの異なる定式化があることが昔から知られていながら(Gödel, 戸田山先生)、石黒先生が「悪循環原理」という言葉でどのようなことを念頭に置かれているのか、はっきりとあるいは詳細には述べられていません。その原理が正確には何であるかによっては論文の内容の理解度も違ってくると思います。
それに先生による Wittgenstein 哲学の解釈が正しいのかどうかも、論文中でその解釈を正当化する論証が十分行われていないため、門外漢の私には確信が持てませんでした。まぁ、論文の字数制限などがあって、やむをえないことだったのかもしれませんが。
何にせよ、そもそも私は Wittgenstein の哲学や論理学の知識が大変乏しいので、石黒先生が正確かつ詳細に説明を尽くし、Wittgenstein 解釈正当化の論証を積み上げてくれても私にはよくわからなかったでしょうが。
今日はこれで終わります。いつものように私の話に誤解や無理解、勘違いやひどい思い込みがありましたらすみません。誤訳や悪訳、誤字や脱字などにもお詫び申し上げます。どうかお許しください。
*1:URL=<http://www.unil.ch/files/live//sites/philo/files/shared/etudiants/5_wittgenstein.pdf>.
*2:私は当初これを「この見地について」と訳しましたが、これは誤訳でしょう。このことは野矢先生、丘沢先生の邦訳から教えられました。改めて感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
*3:私はここでのドイツ語 Urbild をいわゆる独立変数のことではないかと解しました。そのあと、今回のブログのうしろの方でも触れる次の論文、石黒ひで、「ウィトゲンシュタインとタイプ理論」を参照してみました。すると石黒先生は数学者とも相談の上、このドイツ語を「定義域」と解されておられました (208, 224ページ)。そこで私としましてもそのように訳すことにしました。なお、次の覚書もちょっとだけ参考になるかもしれません。B. Wolniewicz, ''A Note on Black's ''Companion'','' in: Mind, vol. 78, no. 309, 1969. この覚え書きによると、ドイツ語の Urbild は絵や図や画像とは関係ないそうです。しかもこのドイツ語は Plato の idea のドイツ語訳として使われているそうです。そのことを踏まえてこの語を訳せば「実体」とか「形相」とか、あるいは意訳して「本質」と書けるかもしれません。しかし、まぁここでは哲学史的意味合いを含ませるよりも、単に数学的文脈を念頭に置いた訳を記した方がいいでしょうね。
*4:二つの F が異なるという理由の、もう少し詳しい説明は、この直訳の直後の「附記」をご覧ください。
*5:この式を現代風に書き直せば「(∃φ)(F(φu) ∧ (φu = Fu) )」となるでしょう。
*6:たとえば、数江譲治、『フランス語の ABC』、白水社、2002年、226-227ページ。また、朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、subjonctif (mode) の項目では、il faut は意志を表わすとされています(p. 507)。
*7:ちなみに、il faut que 節でなぜ接続法が使われるのか、その詳しい説明は、上記朝倉先生のご高著における subjonctif (mode) の項目や falloir の項目には出ていないように見えます。加えて、あとで言及する渡邊淳也先生のご高著『中級フランス語 叙法の謎をとく』でも詳細な説明はないように思われます。
*8:たとえば、その Paradox の核心を成す文として、英語でなら、 'The declarative expression which is not applicable to itself is predicative to itself (自分自身に適用可能でない述定的表現は自分自身に可述的である)' という文を考えてみるといいかもしれません。(このような英文があるのかどうか知りませんが。) この文の主語/主部は一つの確定記述になっています。なお、確定記述の例として、しばしば 'the present king of France' のような、前置詞 of を使った名詞句が上げられますが、関係代名詞節も確定記述の一つであることを Russell 自身が ''On Denoting'' だったか『数理哲学序説』で述べていたと思います。正確にはどこでだったのかは調べ直している時間も余力もまったくないのですが。