Comparing Japanese Translations of Poincare's Science and Hypothesis

目次

 

はじめに

最近、相次いで Henri Poincaré の『科学と仮説』の邦訳が出版されました。次の二つがそれです。

・ ポアンカレ  『科学と仮説』、伊藤邦武訳、岩波文庫岩波書店、2021年 *1

・ ポアンカレ  『科学と仮説』、南條郁子訳、ちくま学芸文庫、筑摩書店、2022年 *2

この『科学と仮説』には以前からよく読まれてきた次の文庫本もありました。

・ ポアンカレ  『科学と仮説』、河野伊三郎訳、岩波文庫岩波書店、改版、1959年 *3

そこで今回は、『科学と仮説』のフランス語原文を一部掲げて、これら三者の訳文を読み比べてみましょう。そしてそれぞれがどのように違うのか、見てみましょう。(本日は訳文を比べるだけで、その哲学的内容については基本的に述べません。私にはそのような力はないので。ただし、末尾の「附記」でほんの少しだけ触れますが。)

読み比べるのは本文冒頭の第一章、第一節です。

まずフランス語原文を上げます。それからその文法事項を記します。文法事項についてはあまりに初歩的だと個人的・主観的に感じられる項目は記していません。

そして私による直訳を掲げます。この訳は自然な訳でもこなれた訳でもなく、読みやすさを無視したものです。原文の雰囲気がそのまま伝わるようわざと無骨な訳にしています。

また、この直訳は既訳を参照せずに自力で訳しました。

そのあと、刊行年順に、河野先生訳、伊藤先生訳、南條先生訳を提示します。以下、それぞれの訳を K, I, N と略記します。

それから私の直訳を含めた各訳の相違点を見てみましょう。

なお、私はフランス語の先生ではありませんし、フランス語が得意なのでもありません。そのため、私が誤訳していたり、間違ったことを述べている可能性があります。そのようなことがないよう努めましたが、それでも誤訳や間違いが含まれていましたらごめんなさい。前もってお詫びいたします。

あと、三人の先生方が依拠したフランス語原文と、私がここに掲げるフランス語は、それぞれ細部で異なっていることがあり得ます。その結果が各訳文の相違に現れていることもあるかもしれません。ですから以下の比較は完全に正確なものだ、というわけではありません。これら比較についてはどうか割り引いてお読みください。この点を忘れないようにお願いいたします。

 

フランス語原文

原文は簡便を期して次から引きます。

・ Henri Poincaré  La Science et l’Hypothèse, Flammarion, 1917, Chapitre 1, in Wikisource France *4 .

CHAPITRE PREMIER

Sur la nature du raisonnement mathématique.

I

 La possibilité même de la science mathématique semble une contradiction insoluble. Si cette science n’est déductive qu’en apparence, d’où lui vient cette parfaite rigueur que personne ne songe à mettre en doute ? Si, au contraire, toutes les propositions qu’elle énonce peuvent se tirer les unes des autres par les règles de la logique formelle, comment la mathématique ne se réduit-elle pas à une immense tautologie ? Le syllogisme ne peut rien nous apprendre d’essentiellement nouveau et, si tout devait sortir du principe d’identité, tout devrait aussi pouvoir s’y ramener. Admettra-t-on donc que les énoncés de tous ces théorèmes qui remplissent tant de volumes ne soient que des manières détournées de dire que A est A ?

 Sans doute, on peut remonter aux axiomes qui sont à la source de tous les raisonnements. Si on juge qu’on ne peut les réduire au principe de contradiction, si on ne veut pas non plus y voir des faits expérimentaux qui ne pourraient participer à la nécessité mathématique, on a encore la ressource de les classer parmi les jugements synthétiques a priori. Ce n’est pas résoudre la difficulté, c’est seulement la baptiser ; et lors même que la nature des jugements synthétiques n’aurait plus pour nous de mystère, la contradiction ne se serait pas évanouie, elle n’aurait fait que reculer ; le raisonnement syllogistique reste incapable de rien ajouter aux données qu’on lui fournit ; ces données se réduisent à quelques axiomes et on ne devrait pas retrouver autre chose dans les conclusions.

 Aucun théorème ne devrait être nouveau si dans sa démonstration n’intervenait un axiome nouveau ; le raisonnement ne pourrait nous rendre que les vérités immédiatement évidentes empruntées à l’intuition directe ; il ne serait plus qu’un intermédiaire parasite et dès lors n’aurait-on pas lieu de se demander si tout l’appareil syllogistique ne sert pas uniquement à dissimuler notre emprunt ?

 La contradiction nous frappera davantage si nous ouvrons un livre quelconque de mathématiques ; à chaque page l’auteur annoncera l’intention de généraliser une proposition déjà connue. Est-ce donc que la méthode mathématique procède du particulier au général et comment alors peut-on l’appeler déductive ?

 Si enfin la science du nombre était purement analytique, ou pouvait sortir analytiquement d’un petit nombre de jugements synthétiques, il semble qu’un esprit assez puissant pourrait d’un seul coup d’œil en apercevoir toutes les vérités ; que dis-je ! on pourrait même espérer qu’un jour on inventera pour les exprimer un langage assez simple pour qu’elles apparaissent ainsi immédiatement à une intelligence ordinaire.

 Si l’on se refuse à admettre ces conséquences, il faut bien concéder que le raisonnement mathématique a par lui-même une sorte de vertu créatrice et par conséquent qu’il se distingue du syllogisme.

 La différence doit même être profonde. Nous ne trouverons pas par exemple la clef du mystère dans l’usage fréquent de cette règle d’après laquelle une même opération uniforme appliquée à deux nombres égaux donnera des résultats identiques.

 Tous ces modes de raisonnement, qu’ils soient ou non réductibles au syllogisme proprement dit, conservent le caractère analytique et sont par cela même impuissants.

 

フランス語文法事項

(この「フランス語文法事項」のセクションについては、2022年5月8日に大幅な修正と追加を施しました。どこをどのように修正し追加したのかについては、煩瑣になるため明記しておりません。)

lui: 前方の cette science を指します。この lui は意味上の主格 (この科学にとって) か、または意味上の与格 (この科学に) を意味するものと思われます。私は与格を意味していると取りました。間違っていましたらすみません。

les unes des autres: この句は les unes propositions des autres propositions の略だろうと私は判断しました。そしてここの des は de les の略記だろうと判断しました。意味としては逐語訳すると「その他の命題たちからの諸命題」となると思います。これはつまり「他の複数の命題からそれぞれの命題が導かれること」を表わしており、この句はこれが含まれている文の主語 toutes les propositions と同格になっていると私は解しました。間違っていましたらごめんなさい。

d'essentiellement nouveau: 副詞の essentiellement が 形容詞の nouveau にかかり、それからこの形容詞が d' とともに前の rien にかかっています。rien に形容詞がかかる時は de を介して、男性形でかかります。

Admettra-t-on: 単純未来形。これは語気緩和か (認めるでしょうか)、または意志 (認めるつもりがあるのだろうか) を表わしていると思われます。私は後者のつもりで訳しました。

ne soient que: 接続法現在。なぜ接続法になっているのかというと、この動詞を含んだ節の内容を Poincaré は事実ではないと考えているから、事実とは認めないとしているからです。

Sans doute: 現在、これは通常「おそらく」というような意味で訳されますが、ここでは話の流れから言って「疑いなく」とか「確かに」という意味を持っています。この意味の sans doute は古風な用法です。

des faits expérimentaux: expérimental は普通「実験的」と訳されますが、それはそれでいいとしても、数学の話の中ではこれを「実験的」と訳すと狭すぎる、またはミスリーディングであると考えられます。実験と言えば、試験管を振っているような、あるいは何か大きな機械の前でボタンを操作しているようなイメージがありますが、明らかに数学の文脈ではそれは無関係ですし、ここではもっと広くとって「経験的」というような意味で訳した方がいいと考えられます。私訳は「経験的」という訳語を採用しました。

qui ne pourraient participer: 条件法になっていますが、それは仮定の帰結を表わしているからだろうと思います。つまり、仮に経験的事実が数学的必然性に与しようとしても、そうはできないであろう、ということを述べようとしているからです。

Ce n'est pas résoudre la difficulté: ここで動詞の résoudre は主語の属詞として使われている純粋不定詞。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、266ページ、項目 infinitif, C の II の 10 を参照。

c'est ... la baptiser: この動詞 baptiser も純粋不定詞。発音は「バプティゼ」ではなく「バティゼ」。la は前方の la difficulté を指す直接目的語。

lors même que la nature ... n’aurait plus ... de mystère: lors même que + 条件法で、「たとえ~だとしても」。de mystère の de は否定文の直接目的語の un mystère の un が de に変化したため。

ne se serait pas évanouie: 条件法 (過去) になっているのは、仮定の帰結を表わしているからです。すなわち、「たとえ仮に総合的判断がもはや謎ではないとしても、例の矛盾は消え去りはしなかっただろう」ということです。

elle n’aurait fait que reculer: faire reculer 名詞で、「(名詞) をうしろに下げる、下がらせる、バックさせる」。条件法 (過去) になっているのは、これもやはり仮定の帰結を表わしているから。つまり、「たとえ仮に総合的判断がもはや謎ではないとしても、その矛盾はうしろ側に追いやられたのでしかなかっただろう」。

ne devrait pas: 助動詞 devoir の否定は多くの場合、禁止「〜してはならない」を意味しますが、「〜するはずはない」の意味のこともあります。ここでは後者の意味です。そしてここで条件法に置かれているのは、それが語気緩和か反事実を表わしているためだろうと思われます。

ne devrait être: これも「〜であるはずはない」。条件法になっているのは si の条件文に対する帰結を表わしているからであり、反事実を意味しています。以下に出てくる pourrait, serait, aurait はすべてこの仮定の si に対する帰結を表わしているために条件法の形を取っていると思われます。(aurait は仮定の帰結であるよりも、語気緩和を表わしているのかもしれませんが。)

frappera: 単純未来形になっているのは、これが予測または未来のどちらか、たぶん後者を意味しているからだと思われます。次に出てくる annoncera も予測または未来のどちらかだと思われます。

procède: 動詞 procèder は一般に「生じる、行う」の意味ですが、ここでは「進む、前進する」の意味です。小学館の『ロベール仏和大辞典』、1988年、項目 procèder, 自動詞の2番をご覧ください。

un esprit assez puissant pourrait: ここで条件法になっているのは、この段落初めの Si による仮定の帰結を表わしているからでしょう。すなわち、「数の科学がまったく分析的であるならば、十分有能な知性は~することができるであろう」ということです。

d'un seul coup d'œil: この句 (一目見るだけで) は un coup d'œil (一瞥) から来ているのだろうと思います。

en: これは前方の「d'un petit ... synthétiques (少数の総合判断から)」を指しています。

que dis-je!: 成句「いや、それどころではない! もっと適切に言えば」。

on pourrait même espérer qu’: ここでも条件法になっているのは、この段落初めの Si による仮定の帰結を表わしているからだと思われます。つまり、「数の科学がまったく分析的であるならば、我々は~であることを期待さえできるであろう」ということです。

assez simple pour qu’elles apparaissent: assez + 形容詞 + pour que + 接続法で、「~であるほど (形容詞) な」。apparaissent は直説法と同形の接続法。

Nous ne trouverons pas: 単純未来になっているのは、未来かまたは推測を表わしてのことだろうと思われます。

cette règle d'après laquelle:  この cette は後出する関係代名詞節を先行して示す指示形容詞。ここを直訳すると「(関係代名詞節) によるところのこの規則/あの規則」。小学館の『ロベール仏和大辞典』、396ページ、項目 ce1, 四角の1の丸5番、または朝倉、『新フランス文法事典』、109ページ、項目 ce2, I. の60 の丸2番をご覧ください。

une même opération ... donnera: 単純未来になっているのは、単に未来を表わしているのだと思われます。つまり、「例の規則によって、同じ二つの数に同じ演算操作を加えるならば、そのあとに同じ結果が出てくるだろう」ということです。

qu'ils soient ou non réductibles: que + 接続法 + ou non ~ で、「~であろうとなかろうと」。

 

直訳

私による直訳を掲げてみましょう。繰り返しますが、読みやすさは考慮に入れず、しばしば不自然であることを厭わず訳しています。

第一章 数学的推論の本性について

I

 [たとえば哲学のような数学以外の学問ならば、それが本当に成り立ちうるのか、その成立の可能性を問題にすることもあり得ようが、実は] 数学的科学 [= 数学] の可能性でさえ解き難い一つの矛盾であるように思われる。この科学が見た目の上でしか演繹的でないとするならば、誰も疑おうとは思わないこの完璧な厳密さはどこからここに至っているのだろうか。反対に [見た目だけでなく、本当に演繹的だとして] この科学が表現する命題のすべてが、形式的論理学の規則により、一方が他方から引き出されうるとするならば、どうして数学が一つの巨大な同語反復に還元されてしまわないのだろうか。[論理学の規則としての] 三段論法は我々に本質的に新しいことは何も教えることはできず、しかもすべては同一律から始めねばならないとするならば、すべてはその同一律に戻ることもまたできねばならないだろう。それ故、これほどの容量を占めるこれら数学の諸定理のすべての表現は、回りくどい仕方で A は A であると言っているのでしかない、と我々は認めるつもりがあるのだろうか。

 疑いなく我々は、すべての推論の起源に位置する公理にさかのぼることができる。もしもそれらの公理を矛盾律に帰着せしめることができないと我々が判断するとしても、もしもそれらの公理に、数学的必然性には関与できないであろう経験的事実を見たいともまた思わないとしても、そのような公理をア・プリオリな総合的判断に分類する手立てを我々はまだ持っている。[だが] それでは困難を解決したことにはならず、その困難にただ名前を付けただけである。それに、総合的判断の本性が我々にとり、もはや神秘なものを持っていないとしても、その矛盾は消え去りはせず、後景に退いただけでしかなかっただろう。というのも三段論法的推論は、我々がその推論に与えるデータ [= 推論の前提] に何ものも付け加えることはできないままであり、これらのデータはいくつかの公理に帰着せしめられ、その結果、我々はその結論に [前提に含まれていたものとは] 別のものを改めて見出すはずはないだろうからである。

 どの定理も、その証明のなかに新たな公理が挿入されないならば、新しい [知識を含んでいる] はずはなかろう。その際の推論は、直接的な直観から借りてきた、ただちに明白な真理しか我々にもたらすことはできないだろう。その推論はもはや [直観に対する] 介在的な寄生者でしかなかろう [つまり、その推論は直観を介して真理が保証されるものでしかない] し、したがってそうすると、三段論法的道具立てのすべては我々に [直観への] 借りがあることを隠すことにもっぱら役立っていないかどうか、自問することには根拠があるのではなかろうか。

 [数学成立の可能性についての] 矛盾は、我々が数学の何らかの本を開くならば、我々にもっと強い印象を与えるだろう。ページごとに著者は既に知られている命題を一般化する意図を表明しているだろう。そうすると、数学の方法は特殊から一般へと進むものなのだろうか。そしてその時、我々はどうしてそれを演繹的と呼ぶことができるのだろうか。

 いずれにせよ、数の科学がまったく分析的であるならば、つまりその科学が少数の総合的判断から分析的に始めることができるならば、十分能力のある知性の持ち主は一目見ただけでその判断から [引き出されうる] すべての真理を見て取るように思われる。いやそれどころではない! それらすべての真理が普通の知性の人に、十分知性のある人と同様、一目でただちにわかるよう、それらの真理を表わすための十分に単純な言語をいつの日か我々は考案することを期待さえできるだろう。

 我々はこれらの帰結を認めることを拒否するならば、数学的推論はそれ自体で一種の創造的な力を持ち、従ってそれは [論理学の推論規則である] 三段論法とは区別されることをよくよく受け入れねばならない。

 この [数学的推論と論理学的推論の] 違いは、大きいものでもあらざるを得ない。二つの等しい数に同様に適用された [1を足すというような] 同じ操作が同一の結果を生み出すというそういう規則のよくある使用のうちに、我々はたとえば [確実なのに新知識を生む数学的推論という] 神秘を解く鍵を見出すことはないだろう。

 この [1を足すというような] 推論方法は、厳密な意味での三段論法に還元されようがされまいが、すべて分析的特徴を保つのであり、このことにより、[その方法は新しい知識を生み出す] 力もないのである。

 

河野訳

次に古くから親しまれている定番の訳を示しましょう (20-22ページ)。〔 〕は引用者ではなく訳者によるものです。

第一章 数学的推理の本性

 数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。三段論法は我々に何も本質的に新しいことを教えることはできないし、もしすべてが同一律から出てくるべきものだとすれば、すべてはまたそこに帰着するはずである。それではこんなに多くの書物を満たしている定理の全部の叙述は「A は A である」というのを、まわりくどい方法でいったものに過ぎないということを承認するものがあるだろうか。

 もちろん推理全部の根源にある公理にまでさかのぼることはできる。もし公理を矛盾律に帰着させることができないと判断し、そのうえそれを数学的必然性を持ち得ない実験的事実と認めることを欲しないとしても、なおこれらの公理を〔カントのいう〕先天的綜合判断のうちに入れるというくふうもある。これはその困難を解決するものではなく、ただ名前をつけただけである。そのうえ綜合判断の本性が我々にとって少しも神秘的でないとしたところで、矛盾は消滅するわけではなくて、あとじさりさせただけのことになる。三段論法的推理はそこに持ち出された材料に何一つ付け加えることができずにいるし、その材料はいくつかの公理に帰着するのだから、その結論のうちには別のものは何も発見できないはずである。

 証明のうちに新たな公理を取入れてない限り、どの定理も全く新たなものとはいえないはずである。推理は直接の直観からかりてきた直ちに自明な真理以外のものを我々に与えることはできない。推理はただ中間にある無用の介在物に過ぎず、従ってすべての三段論法式の仕組は我々の負債をかくすだけの役にしか立たないと考える理由はないのだろうか。

 もし我々が数学の本をどれでも一冊開いてみるならば、この矛盾はいっそう強く感じられる。どのページを見ても、著者は前に知られている命題を一般化しようとする意図を示している。そうだとすると数学的方法は特殊から一般へと進むのだから、どうして演繹的だと呼ぶことができるのか。

 もしまた数の学問が純粋に分析的であったとしたらば、すなわち分析的に少数の綜合判断から出発することができるものとしたらば、相当に力を持った理知ならばただのひと目でそれの真理をことごとく知ることができるはずだと思われる。あるいはまた、これらの真理を表象するための十分に簡単な言葉を発明し、そのため普通の知能を持つ人にも、直ちにその真理が見えるようになる日が来るものと期待できるかも知れないとさえいえるだろう。

 もしこれらの帰結を認めまいとするならば、数学的推理はそれ自身で創造的な一種の力を有していて、従ってそれは三段論法と区別すべきものであることを許さなければならない。

 そればかりでなく、その差は甚だしいとさえいわなければならない。我々は、たとえばこの規則に従って、同一の一様な計算を等しい二つの数に適用して同一の結果を生ずるからといって、この規則をいくらしばしば用いてみても神秘の鍵は見出せないのである。

 これらすべての推理の方法は、本来の意味の三段論法に帰着するとしないとに関係なく、分析的だという特徴を保っているから、まさにこのために無力なのである。

 

伊藤訳

さて、最近出たばかりの改訳を記します (23-26ページ)。引用文中の ( ) と〔 〕は、引用者によるものではなく、訳者によるものです。

第一章 数学的推論の本性について

 数学という科学については、そもそもそれが可能だということが、一つの解決不可能な矛盾であるようにも思われる。もしもこの学問が演繹的であるのは単に見かけの上だけだというのであれば、誰もが夢にも疑ってみようとも思わないこの完全な厳密性は、どこから来るというのだろうか。また、反対に、数学が言明しているすべての命題の一つ一つが、形式的な論理学の諸規則から導出されるというのであれば、なぜ数学は一つの大掛かりな同語反復の塊だということになってしまわないのか。三段論法はわれわれに本質的に新しいことは何も教えてくれず、一切が同一律から派生するというのであれば、一切はそこへと戻っていくことができなければならない、ということになるだろう。そうだとすると、万巻に及ぶ数学書を埋め尽くす一切の定理の陳述は、A は A である、ということの婉曲表現だと認めるべきなのだろうか。

 もちろん、われわれはすべての数学的推論 (raisonnement mathématique) の根本に位置するところの諸公理にまでさかのぼることができる。それらの公理を矛盾律〔ある命題とその否定の命題が同時に成り立つことはないという論理法則〕へと帰着させることはできないと考え、しかもそこに、数学的必然性にはあずかることのない経験上の諸事実を見出すことはできないとしても、われわれには、それらをア・プリオリな総合判断に分類するという別の手があるだろう。といっても、これは困難を解決したということではない。それは単に命名したということでしかない。われわれにとって総合判断が何かということがもはや謎ではないとしても、最初の矛盾が消滅したわけではなく、ただ一歩後ろの方へ戻ったにすぎない。三段論法の推論は依然として、そこに対して与えられたものに何も付け加えることがないままである。そしてこの所与のものはいくつかの公理に還元できるから、三段論法に従った推論の結論には、これ以外のものを発見することができないのである。

 どの定理についても、その証明過程において新たな公理の参入がなければ、新しい定理とはなりえない。推論がわれわれに与えてくれるのは、直接的な直観から借りてこられた直ちに自明な真理以外にはない。そこで、推論とはただ公理と結論との間に寄生する媒介者ということになるが、そうであるとすれば、推論が従う三段論法という仕掛けのすべての機能は、ただ自分たちが直観に負っている負債を隠蔽するためだけに役立つと、考えるのではないだろうか。

 われわれが数学の書物のどれかを開いてみると、ここでいっている矛盾はさらに強く迫ってくるはずである。数学書の著者はどの頁でも、既知の命題を一般化しようという意図を表明している。そうであるのならば、数学的方法とは個別から一般へと進む方法なのであろうか。そうだとすれば、どうしてそれが演繹的だといえるのだろうか。

 最後に次のような疑問もある。もしも数の科学が純粋に分析的であるか、あるいは少数の総合判断から分析的に導出されうるというのならば、十分優秀な知性にとっては、そのすべての真理を一瞬にして認識することができるのではなかろうか。さらには、これらの真理を表わすために、普通のレヴェルの知性にとっても直ちに真理が明らかになるような、非常に簡単な言語が発明される望みさえあるといえるのではないか。

 こうした不条理な結論を受け入れないとしたら、数学における推論には一種の創造的な力があり、それゆえにこそ、それは三段論法とは区別されるのだ、ということを認めざるをえないのである。

 実際に、数学の推論と三段論法の相違はきわめて大きいとさえいわざるをえない。われわれはたとえば、二つの等しい数に同じ演算を一様に加えれば、その結果は等しいものを生む、という規則をしばしば使用する。しかし、この種の規則の使用に数学上の謎を解く鍵を見つけることはない。

 こうした推論の規則は、厳密な意味での三段論法に還元できるかどうかはともかくとして、分析的性格を保っている以上、まさしく無力である。

 

南條訳

これも出たばかりの最新の訳を掲げます (16-18ページ)。引用文中の [ ] は、引用者によるものではなく、訳者によるものです。

第1章 数学的推理の本性について

I

 数学が科学でありうるということ自体、解けない矛盾であるように思われる。もしこの科学の演繹性が見かけにすぎないならば、誰ひとり疑おうともしないあの完璧な厳密性はどこから来るのだろうか。もし、逆にそれが本当に演繹的で、あらゆる命題が形式論理の規則によって芋づる式に引き出されるならば、どうして数学は巨大な同語反復になってしまわないのだろうか。三段論法は本質的に新しいことは何一つ教えることができないのだから、もしすべてが同一律 ["A は A である"] から出てこなければならないとすれば、すべてがそこに戻ることもまた可能でなければならないだろう。それなら、あれほど多くの書物にあふれている定理はすべて "A は A である" をまわりくどい言い方で述べたものにすぎない、と言われても仕方がないのだろうか。

 たしかに、これらすべての推理の出発点にある公理までさかのぼることはできる。もし、それらの公理を矛盾律に帰着させることはできないと判断し、なおかつそれらを実験事実とみなしたくもないならば (なぜなら実験事実は数学的必然性をもたらすことができないから)、それらを先験的総合判断に分類するという手がまだ残っている。しかしこれは問題を解決したのではなく、名前をつけたにすぎない。そして、たとえ総合判断の本性がわたしたちにとってもはや神秘ではないとしても、上に述べた矛盾は消えたわけではなく、後ずさりしただけである。三段論法的推理が、前提として与えられた条件に何も付け加えることができないことには変わりがなく、それらの前提条件は結局いくつかの公理に帰着するのだから、結論のなかにはそれらの公理以外には何も見つからないはずだ。

 どんな定理も、その証明の中に新しい公理が入ってこない限り、新しいものではありえないはずである。ところが三段論法的推理はわたしたちに直接的直観から借りてきた直ちに自明な真理しか返すことができない。つまりこの推理は無用な仲介業者にすぎないのだ。となると、どんな三段論法的装置もわたしたちの借りを糊塗するための役にしか立たない、と思うのが当然ではないだろうか。

 一方、数学の本を開いてみれば、矛盾がますます強く感じられるようなことが書いてある。どのページでも、著者はすでに知られた命題を一般化するのだと言っている。これは数学の方法が特殊から一般へと進むということではないか。それがどうして演繹的だと言えるのか。

 最後に、もし数の科学が純粋に分析的だとしたら、つまり、少数の総合判断から分析的に生まれうるのだとしたら、それ相当の強力な精神の持ち主ならば一目でその真理をすべて見通すことができるのではないだろうか。いや、それどころか、将来、それらを表現するために十分単純な言語が発明されて、普通の人でも直ちにそれらが真であることがわかるようになることすら期待できるのではないだろうか。

 そのような結論はお断りだというなら、数学的推理がそれ自体で一種の創造力を持っていること、したがって、三段論法とははっきり異なっていることを、いさぎよく認めなければならない。

 この差異は根源的なものでさえあるに違いない。たとえば、二つの等しい数に同じ演算をほどこすと同じ結果が得られるという規則をいくら使っても、難問を解く鍵は見つからない。

 この種の推理法は、本来の意味での三段論法に帰着できてもできなくても、すべて分析的な性格を持っており、まさにそのために無力なのである。

 

各訳の主な相違点

個人的に関心を引いた各訳の相違点を上げ、検討してみましょう。改めて申し上げますが、河野先生訳、伊藤先生訳、南條先生訳をそれぞれ K, I, N と略記します。

 

La possibilité の段落

même: これはちょっとここでは訳しにくい言葉です。この言葉について、冒頭から長いコメントを以下に記します。

さて、この言葉は直訳すれば「〜でさえ、ですら」または「〜自体」となるでしょう。K はこれを「〜からしてすでに」と訳し、I は「そもそも」、N は「〜自体」と訳しています。

ところで même が使われるのは、二つのものごと A, B について、A に対してあることが成り立つのだから、それは B に対してはなおさら成り立つと言いたい時や、A などではなく、他でもない B そのものについてそれは成り立つと言いたい時に使われます。ですから、même という言葉が出てきているということは、ここで何かと何かが比較されているのですが、その二つのものごとのうち、一方が「数学」または「数学の可能性」であることはわかるものの、他方が何なのか、よくわかりません。

私が想像してみるに、その他方とは (1) 「現実の、現場の、実際の数学」か、(2) 数学以外の、たとえば学問として成立しているのかどうかが疑われる哲学のような学問の可能性のことか、はたまた空想をふくらませると、(3) それは社会における解決困難な矛盾のことなのかもしれません。

つまり、ここで Poincaré が言いたいのは、

(1) 現実の数学にも解決困難な、未解決の難問はあるが、そもそも話の初めからしてその数学が成り立っていると考えること自体に解決困難な矛盾が存在するのである、

ということか、

(2) 哲学のような、曖昧模糊としたことを述べている学問が成立しているのか、疑わしいと考えるのはわかるが、実は確実で絶対に正しいと思われている数学自身がそもそも成り立っていると言えるのか、実はこのことこそがはなはだ疑問である、

ということか、

(3) 解決困難な社会的矛盾があるのはもとより自明なことであるが、実は理論的学問の典型と思われる数学自身の成立可能性からして既にそこに矛盾が含まれているように見えるのである、

ということか、以上のいずれかを Poincaré は言おうとしているのではないかと私は考えるのですが、はっきりしたことはわかりません。個人的には、何となくですが、(2) が一番近いかな、と感じているのですが。

まぁ、いずれにしても、直訳を含めるとここでは四通りの訳が現れており、それぞれ訳出の工夫が少しばかり見られて面白いですね。どれが一番よいというわけではありませんが、K がちょっと秀逸であると思われました。

lui: この言葉は三先生のどの訳にも現れていません。先生方が依拠された原書には、この言葉は記されていなかったのでしょうか。それとも記されてはいたものの、訳出するとくどくなるのであえて訳出しはしなかったということでしょうか。

この lui は前方の cette science のことを指していて、意味上の主格「この科学にとって」か、意味上の与格「この科学に/へ」を表わしていると思われます。どちらであれ訳出しなくても大して問題は生じないと考えられますが、直訳では与格の意味で訳出しています。

cette parfaite rigueur: この cette を N は「あの」と訳し、他はみんな「この」と訳しています。しかし N 訳の方がいいでしょうね。というのもこの cette は誰もが共通に思い浮かべることを念頭に置いているさまを表わしており、そんな時は「この」とは普通言わず、「あの」とか「例の」、「周知の」などと言うからです。

たとえば口頭で二人の人が話し合っている時に一方が他方に「私が今言っている濃い赤色とは、ほら、あの夕陽の赤色のことだよ」と述べることはあっても「私が今言っている濃い赤色とは、ほら、この夕陽の赤色のことだよ」とは述べませんよね。

というわけで、この cette は「あの、例の、周知の」という意味を持った指示形容詞なので、N 訳が一番的確な訳を提供してくれていると思います。

les unes des autres: この句を直訳は「一方が他方から」、K は「次から次へ」、I は「一つ一つが」、N は「芋づる式に」と訳しています。K と N は基本的に同義でしょうね。そうすると全部で三通りの訳が考えられるということでしょうか。

直訳ではここの des を de les の略と解し、かつ de を「〜から—へ」の意味だと取っています。つまり「一方の結論である命題たちが他方の前提である命題たちから (引き出される)」ということで、この句は主語と同格だと解しています。

いずれにしても三通りのうち、どれが正しいのか、私にはわかりません。あるいは第四の訳があって、それが正しいのかもしれませんが。少なくとも「互いに」という訳では文意にそぐわないのでそれは正しくないでしょうね。

Admettra: これを直訳は「認めるつもりがあるだろうか」というように、単純未来を意図の意味で訳し、K は「承認するものがあるだろうか」と存在の意味で、I は「認めるべきなのだろうか」と当為の意味で、N は「と言われても仕方がないのだろうか」と断念の意味で、各者各様に訳しています。どれがいいのか、私には判断がつきません。

volumes: これを直訳は「容量」、K は「書物」、I は「数学書」、N は「書物」と訳しています。直訳の「容量」は誤訳か、誤訳ではないとしてもあまりいい訳ではないかもしれませんね。

 

Sans doute の段落

Si: 直訳は譲歩の意味で「〜するとしても」、K, I も同様、N は仮定・条件の意味で「〜ならば」と訳しています。ここでは譲歩の意味で訳すとぴったりだと思います。

ne veut pas non plus y voir: 直訳「見たいとも思わない」、K 「欲しない」、I 「できない」、N 「みなしたくもない」。これは I 以外、すべて同義で欲求の否定。I だけ可能性の否定の意味で訳しています。I の依拠した原書ではここの veut が peut になっていたのでしょうか。あるいはそうかもしれません。

expérimentaux: 直訳「経験的」、K 「実験的」、I 「経験上の」、N 「実験」。このフランス語は普通は「実験的」と訳されますが、数学の文脈ではそれでは狭すぎると思います。もちろん数学の文脈で「実験的」と訳してもいい場合もあるでしょうが、ここではそう訳すとちょっと不自然にすぎると感じます。ここはより広く取って「経験的、経験上の」と訳した方がいいと思います。

données: 直訳「データ (推論の前提)」、K 「材料」、I 「(与えられた) もの」、N 「前提として与えられた条件」。K の「材料」はメタファーとしてはいいのかもしれませんが、ちょっと不恰好な感じが個人的にはしました。こんなことを言ってすみません、河野先生。

ne devrait pas: 直訳「はずはないだろう」、K 「できないはずである」、I 「できないのである」、N 「ないはずだ」。I は単に事態の成立が不可能であることを表わし、それ以外は事態が成り立たないことを話者が確信している様子を表わしています。I では確信の様子は特に表わすまでもないと考え、単刀直入に事態の不可能性を読み取って訳したのでしょうか。

 

Aucun の段落

ne devrait être: 直訳「はずはなかろう」、K 「とはいえないはずである」、I 「とはなりえない」、N 「ではありえないはずである」。ここでも前項と同様のことが言えます。

rendre: 直訳「もたらす」、K 「与える」、I 「与えてくれる」、N 「返す」。N は別にそれはそれでいいとしても、ちょっとストレートにすぎると感じられます。

un intermédiaire parasite: 直訳は「[直観に対する] 介在的な寄生者」、K 「無用の (介在) 物」、I 「(公理と結論の間に) 寄生する媒介者」、N 「無用な (仲介業) 者」。ここは何を言わんとしているのか、よくわからないところであり、まるっきり直訳する以外、正直に言って、訳しようがないです。Poincaré 先生も、もう少し説明を加えてくれないと誰も理解できないと思いますよ。

n'aurait-on pas lieu de: 直訳「根拠があるのではなかろうか」、K 「理由はないのだろうか」、I 「ないだろうか」、N 「当然ではないだろうか」。I は単なる否定疑問、他はすべて根拠や理由があることを述べています。I 訳はさらりとした訳を目指しているのかもしれません。

 

La contradiction の段落

annoncera: 単純未来になっていることを考慮して、直訳では「表明しているだろう」と、推測・予測の意味を加味して訳しています。他は K 「示している」、I 「表明している」、N 「言っている」となっていて、推測・予測の意味は省いています。

 

Si enfin の段落

enfin: 直訳「いずれにせよ」、K 「また」、I 「最後に次のような疑問もある」、N 「最後に」。ここではこれまでの問題を著者が突き放して何か述べようとしているニュアンスを私は感じましたので、直訳では「いずれにせよ」と訳しています。

purement: 直訳は「まったく」、それ以外はみな「純粋に」。ここで「純粋に」と訳してもあながち間違いではないでしょうが、純粋か不純かが問題となっているわけではないので、ここは強意の意味で、直訳では「まったく」と訳しています。

toutes les vérités: 直訳「その判断から [引き出されうる] すべての真理」、K 「それの真理をことごとく」、I 「そのすべての真理」、N 「その真理をすべて」。les を「その」とだけ訳すと「少数の総合的判断すべて」の意味だというように誤読を誘うので、直訳では en の意味をはっきりと明示して訳しています。

que dis-je!: 直訳「いやそれどころではない!」、K 「あるいはまた」、I 「さらには」、N 「いや、それどころか」。K, I はさっぱりとした訳にしていますね。

 

Si l'on の段落

bien: 直訳「よくよく」、K は未訳、I も未訳のように見えます。N は「いさぎよく」。N 訳はいい訳ですね。拝見した時、「なるほどそう訳すんだ、うまいなぁ」と思いました。

 

La différence の段落

doit ... être: 直訳「あらざるを得ない」。これは真っ正直な直訳であり、苦しい訳ですね。K 「いわなければならない」、I 「いわざるをえない」、N 「違いない」。N だけ確信を表わしています。K, I 訳がいいと思います。

dans l'usage: ここの箇所は何を言わんとしているのか、判然としません。この次に述べられている、一を足すというような単純な演算規則、または Euclid の「要請」に見られる規則は一種の分析的な命題にも思われますが、この命題の中に問題を解く鍵を見つけようとしても見つからない、とここでは言っているように思われます。しかし正確にはよくわかりません。直訳では「使用のうちに」、K では「用いてみても」、I 「使用に」、N 「使っても」となっています。直訳と I 訳は問題の規則の使われているさまを観察してみても、という雰囲気で訳されているように見えるのに対し、K, N ではその規則を観察するのではなく、使ってみても、という雰囲気で訳されています。

cette règle: 直訳「〜というそういう規則」、K 「この規則」、I 「〜という規則」、N 「〜という規則」。cette はこのあとの関係代名詞節で述べられている規則を表わしていると考えられますが、K 訳だと前の方の何か違う規則を表わしているように思われて誤読を誘うと感じられます。

 

総評

以上の比較から、私の個人的で主観的な印象をまとめて述べてみます。

K は全体的にやはり少し古い文体であり、若い人には昔風に感じられるかもしれません。しかしご高齢の方には一番親しみやすい文体でしょう。

I は手堅く感じられます。専門家や本格的な勉強を目指す人には最も合う文体と思われます。その一方で、意図的に肩の力を抜いて訳しているのか、助動詞の意味合いをあえて訳出せず、簡略に済ませているところが今回読んだ部分ではありました。

N は一般の人に最も読みやすい訳になっていると感じられました。個人的に「そう訳せばいいんだな」と、訳出の参考になったところもありました (もちろん K, I 訳でも参考になった部分がありました)。

また、(直訳を除いて) N 訳だけが印刷上、横組みになっていて、理系的な側面もある本書としては、その分より読みやすく感じられました。

なお、念を押しておきますが、私が直訳を用意する際に依拠したフランス語の文章と諸先生方が依拠されたフランス語の文章はそれぞれ細部で異なっているかもしれず、それが各訳文の違いとなって現れているのかもしれません。また、今回は本文冒頭の数ページを読み比べただけですので、各邦訳書がそれぞれ全ページに渡って上に述べた傾向を有するとは限りません。私の印象は当然ながら私に相対的なものであり、極めて限定的なものですから、一部から全部を推し量るようなことはされないようにお願いいたします。

 

最後に、翻訳とは別に、Poincaré の文体について私が感じたことを記してみましょう。

Poincaré の文章はわかりやすくて明晰であると言われることがあります *5 。確かに難解で深遠で秘教的な文章ではないと感じられますが、だからといってどの文章も明晰であるとまでは言えないと私には思われます。

試みに、今回読んだ部分を思い返してみてください。たとえば Aucun の段落や La différence の段落は何が言いたいのか、不明瞭であり、とても明晰だとは言いがたいです。たぶん皆さんも同様に感じられたのではないでしょうか。

そして何といっても気にかかったのは、否定疑問文 (〜ではないだろうか) が肝心なところで複数回出てくることです。

それは最初の段落の comment の文に Admettera-t-on の文、Aucun の段落の dès lors 以下の否定疑問文のことです。これらは別に意をくむことはできますが、ちょっとわかりにくく感じられます。

一般にわかりやすい文章とは短い文でかつ肯定文だとされていると思います。それに対し、わかりにくい文章とは否定文であり、それが疑問文になっているといっそうわかりにくいとされていると思います。

確かに否定疑問文だと修辞的効果が十分見込め、読者を引き込み、巻き込んでいく力を持ちますが、フランス語を母語とせず、苦手としている私のような人間には、それでは誤読へと誘われてしまう可能性も高まるので、否定疑問文は危険です。回りくどい否定疑問文を使うのではなく、短い肯定文を使った方がやはり圧倒的に明晰です。この点で今回読んだ箇所はすみずみまで明晰であるとは言いがたいと感じました。

これは私の個人的な印象にすぎないかもしれませんが、しかし Poincaré の文章は明晰だと言われる割には案外もってまわった言い方や不明瞭な物言いが散見されて、評判ほどではないような気がするのですが、どうでしょう? どうでしょうね。(Poincaré 先生、すみません。)

 

附記 発見の文脈と正当化の文脈

今回は本文の内容にまったく触れないつもりでしたが、一つだけ、明らかに Poincaré が間違っていると私には思われる点で、かつ皆さんも同様に Poincaré は間違っていると同意していただける点を指摘しておきます。

本文で Poincaré は「数学書を開くと、著者は特殊な命題を一般化しようとたびたび努めている。論を特殊から一般へと進めるのは帰納法の特徴である。故に数学は演繹的ではなく、帰納的な学問と言えるのではなかろうか」というようなことを述べている箇所があります *6

これは、多くの人がすぐに気がつくように、誤りだと思います。数学が演繹的であると言われるのは、数学の定理の正当性は、演繹法に基付く証明によるからであり、経験に訴える帰納法によって保証されるのではないからそう言われるのです。

数学においても経験に訴える帰納法を利用しても構いません。実際に、ある一般的な定理 (予想) が成り立ちそうかどうかを、具体的にいろいろと特殊事例を計算してみることによって見当を付けることはあるでしょう。

この場合、特殊事例から一般的な定理が成り立ちそうかどうかを帰納的に推定しているわけです。

そして成り立ちそうだとわかれば本格的にその予想を証明し、それが成功すれば、演繹的な仕様で証明をきちんと書き下し、定理として証明を完了せしめるわけです。

つまり数学では何事か一般的なことを発見する際に経験的な帰納法を利用することがあり、そうして発見した結果を正式に正当化する際には演繹的な証明が利用される、というわけです。手短に言えば、数学においては、発見の文脈では経験的帰納法が利用されることがあり、正当化の文脈では演繹法が利用される、ということです。

数学を演繹的な学問と呼ぶことには何の問題もなく、そう呼んでまったく構いません。

この手の指摘については、既に久しい以前に以下の著名な論文でなされていますので、私の手柄ではありません。

・Warren Goldfarb  ''Poincaré against the Logicists,'' in W. Aspray and P. Kitcher eds., Minnesota Studies in the Philosophy of Science, vol. 11, 1988 *7 .

この論文の前半である Part I をご覧ください。

Poincaré は「数学は帰納的な学問ではないのか」と言っていますが、結局発見の文脈と正当化の文脈とを混同しているために、そのような判断に至っているのです。本来発見の文脈で語られるべき帰納の方法を、正当化の文脈に持ち込んでしまって「数学は演繹的ではなく帰納的なのでは?」と述べているのです。そのように私は考えます。

 

さぁ、話がかなり長くなりました。このあたりで終わりにしましょう。本日の話の中で、誤解や無理解、勘違いや誤字、脱字などがありましたらすみません。誤訳や悪訳に対してもお詫び申し上げます。また、河野先生、伊藤先生、南條先生の訳について、私が間違ったことを申しておりましたら謝ります。ごめんなさい。しかし先生方の訳は大変勉強になりました。ありがとうございました。

 

*1:底本、Henri Poincaré, La science et l'hypothèse, 2e éd., Flammarion, 1906/1968.

*2:底本、Henri Poincaré, La Science et l'Hypothèse, Flammarion, 1902/2014.

*3:底本、Henri Poincaré, La Science et l'Hypothèse, 1902/1917.

*4:URL = <https://fr.wikisource.org/wiki/La_Science_et_l%E2%80%99Hypoth%C3%A8se/Chapitre_1>, 2022年3月閲覧。

*5:伊藤先生訳の岩波文庫に収録されている伊藤先生による「解説」、425ページ。

*6:本気で Poincaré が「数学は演繹的ではなく、帰納的な学問である」と主張しているかどうかは、今は問わないとしても。

*7:URL = <https://conservancy.umn.edu/bitstream/handle/11299/185664/11_02Goldfarb.pdf?sequence=1&isAllowed=y>.