How to Read French Theories in Japanese

目次

 

はじめに

ここのところ、語学的な話ばかりが続いておりましたので、一回息抜きを入れます。

 

私にとって、フランス現代思想はとても難しいです。その翻訳書を読んでも入門書を読んでもまったくといっていいほどわかりません。そのためその種の本を読むのは完全にあきらめました。それにしてもフランス現代思想思想書を読むことができる人はどのような頭の構造をしていて、どんなふうに読んでいるのか、不思議に思っていました。

すると先日、次のような書籍が出版され、

・千葉雅也  『現代思想入門』、講談社現代新書講談社、2022年、

この本に「付録 現代思想の読み方」という項目があったので興味深く拝見させていただきました。そこでは、フランス現代思想に強い方による思想書の具体的な読み方が示されていました。その内容は私にとっては非常に意外なものでした。

実際にどのようにフランス現代思想を読めばいいのか、この付録を参考に、それを記してみましょう。

 

フランス現代思想の模範的な読み方

参考にするのはその付録の221-225ページで、以下ではその222ページから G. ドゥルーズの『差異と反復』を孫引きしてみます。原文の傍点は下線で代用します。(1) などの数字は引用者による挿入です。

(1) 同一性は最初のものではないということ、(2) 同一性はなるほど原理として存在するが、ただし二次的な原理として、生成した原理として存在するということ、(3) 要するに同一性は <<異なるもの>> の回りをまわっているということ、(4) これこそが、差異にそれ本来の概念の可能性を開いてやる (5) コペルニクス的転回の本性なのであって、(6) この転回からすれば、差異は、あらかじめ同一的なものとして定立された概念一般の支配下にとどまっているわけがないのである。

 

このフランス現代思想の文章をどのように読みこなせばいいのかというと、だいたい次のとおりのようです。多少私による修正を加えて説明します。

(1) 「最初のもの」を「第一」に置き換えてしまう。「同一性が第一なのではない」。

(2) 「生成した」という言葉には深い意味はないと思われる。そこで「生成した→生じた→派生した」のように変換する。よって「生成した」を「派生した」に置き換える。「同一性は確かに原理ではあるが、二次的な原理であり、派生した原理である」。

(3) 「<<異なるもの>>」に特殊な二重山括弧が付いているが、そのことは無視して、異なるものとは単なる差異のことだと考える。そして同一性という抽象的概念が差異という抽象的概念の回りを文字どおり物理的にまわることはありえないので、同一性が差異の回りをまわるというのはただの比喩だと捉え、中心にある差異が主であり、その回りをまわるという同一性が従であると考えて、ここの比喩は差異と同一性の間に主従関係があることを言っていると理解する。よって「同一性は <<異なるもの>> の回りをまわっている」を「同一性は差異に従属している」と読み換える。

(4) 「これこそが」と書かれているので、(3) = (4)。つまり「同一性は差異に従属している」と捉えてやることが「差異にそれ本来の概念の可能性を開いてやる」ことなのであると解する。

(5) 固有名詞・専門用語の「コペルニクス的転回」については初心者は無視して飛ばせばよい。せいぜい「考え方を変えること」ぐらいに読み換えておけばよい。

(6) 「差異は、... 概念一般の支配下にとどまっているわけがない」についても、抽象的な「概念一般」が抽象的な「差異」を文字どおり政治的に支配することはありえないので、この文は比喩と解し、「差異は、... 概念では捉えられない」と読み換える。そして概念一般に対する形容表現「同一的なものとして定立された」を「ひとつの同じものとして固定された」に言い換え、問題の文全体を「差異は、ひとつの同じものとして固定された概念では捉えられない」に読み換える。これはつまり「差異とは、概念的に思考できないものである」ということを言っていると解する。

以上の引用文の結論・要点については「同一性は主ではなく従であり、二次的で派生的なものであり、差異の方こそが主なのである」と解釈できれば、初心者の読者としてはそれで十分である。

 

このような具合に読み換えるといいらしいです。これは私には意外でした。というのも私は哲学の文章は一字一句おろそかにせず、一字一句を文字どおりに取って、厳密に読み解かねばならないと思っていたからです *1

いずれにせよ、上の例から次のような読解の指針が得られるかと思います *2

 

フランス現代思想読解の指針

フランス現代思想の文章は、

[1] 場合によっては、いくつかの語句を脇に置いて理解すればよく、

[2] 場合によっては、いくつかの語句の意味を、近い意味、類似した意味に読み換えてよく、

[3] 場合によっては、その骨子を読み取るため、大幅に言い換えてよい、

もののように思われます *3

 

これはあからさまな言い方をすれば、フランス現代思想の文というものは、

[1a] しばしば、いくつかの語句を無視してよく、

[2a] しばしば、いくつかの語句の意味を、別の意味に連想ゲームのように読み換えてよく、

[3a] しばしば、その骨子を読み取るのを名目として、自由に言い換えてよい、独自の解釈を盛り込んでよい、

ものと解されるかもしれません。そう解してもよいと捉える人も出てくるでしょう。

ここまで大胆に細部に目をつむり、ここまで大胆に「意訳」してよいとは思っていなかったのでちょっとショックでした。どおりでフランス現代思想の文を読めないわけだ。しかし、まぁ、今のように大胆に話を単純化していいのはフランス現代思想の初心者でいる間だけのようですが。

でも実際にこのようにして読めば、フランス現代思想の文を一応は読めそうですね。これはいいことを教えてもらいました。大変ありがとうございます。ほどほどに大胆に読めばいいんだ。慎重に、でも大胆に読み換えればいいわけですね。忠実と逸脱の間で上手にバランスを取りながら、文章を読み解いていけばいいみたいです。

 

フランス現代思想の読み方の実践例

このようなことを教えていただいたあと、出版されたばかりの次の本をたまたま手に取る機会がありました。

内田樹  『レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む』、新教出版社、2022年。

するとそこに、上で記したフランス現代思想の読み方を実践している実例がありましたので、それをここに提示してみましょう。

この本には

内田樹  「レヴィナスの時間論」、『福音と世界』、2014年12月号、新教出版社

を加筆・修正した文章が「はじめに」と題された部分に入っています。そしてこの『福音と世界』掲載の「レヴィナスの時間論」の方は内田先生のブログ *4 で読むことができますので、便宜上、このブログの文から引用しながら、千葉先生によるフランス現代思想の読み方の、内田先生バージョンを見てみることにしましょう *5

 

内田先生は書いておられます。

『時間と他者』は次のような一節から始まる。

「この講演の目的は、時間とは孤立した単独の主体にかかわることがらではなく、主体と他者の関係そのものであることを証明することにある。」(Emmanuel Lévinas, Le temps et l’autre, PUF, 1983, p.17)

先生はこの文の前半を以下のように読み換えておられます。

 

読解 1

時間とは孤立した単独の主体にかかわることではない。これは何となくわかる。地球上に最後に一人だけ生き残った人間がいたとする。彼において時間は流れているだろうか、流れていないと私は思う。時計がこちこちと時間を刻むということはありうるだろう。でも、その針の移動は何も意味しない。誰も彼を訪ねてこないし、誰も彼を待っていない。彼が何を話しても、何を書いても、それを聴く人も、読む人もいない。彼がそのとき宇宙の成り立ちについて恐るべき真理を洞察したとしても、それを告げる相手はどこにもいない。彼には受け取るものも贈与するものもない。彼は生きながら死んでいる。そのような人間にとって時間はないに等しい。

これはすごく大胆な言い換えですね。「時間とは孤立した単独の主体にかかわることではない」から、ここまで言い換えることができるとはすごいです。

この読解は上記「フランス現代思想読解の指針」における [2], [3], 特に [3] の適用に当たりそうですね。

 

また、先生は記しておられます。

「時間は主体と他者の関係 (relation du sujet avec autrui) そのもの」だとレヴィナスは書く。

この文について先生は以下のように述べておられます。

 

読解 2

ふつう「関係」という語を私たちは空間的な二項関係を思い浮かべることなしには理解することができない。しかし、「関係」という語を空間的形象に置き換えた瞬間にこの命題は無意味なものとなる。どうすればいいのか。

論理学的には無理筋だが、私たちは窮余の一策としてこれを「主体と他者の関係が時間である」と読み換えてみる。「主体と他者の関係は時間の中で展開する」でもいい。「主体と他者の関係は時間を媒介させない限り意味を持たない」でもいい。無理な読み換えだが、それで少しだけわかってくることがある。時間は主体と他者の間で「熟す」ものだということである。

「時間は主体と他者の関係そのもの」だというのを「主体と他者の関係は時間を媒介させない限り意味を持たない」に言い換えるのも、結構大幅な読み換えですね。

この読解は上記「フランス現代思想読解の指針」における [2] の適用に当たると思われます。

 

そしてレヴィナスさんはハイデガーに言及し、この言及に対して内田先生は、次のように記しておられます。

 

読解 3

[レヴィナスは時間を問題にしているが] なぜ、そのようなものを問題にするのか。それは直接にはハイデガーが解決したつもりでいることをもう一度未決状態に戻すことをレヴィナスはめざしていたからである。

このように先生は記しておられますが、これを記している段階では、ハイデガーが解決したつもりでいることとは何であるかについてはまったく追究せず、その問いは脇に置いておいて先に進もう、と述べておられます *6

この読解は上記「フランス現代思想読解の指針」における [1] の適用に当たるでしょうね。

 

ここまで極々簡単ではありますが、「フランス現代思想読解の指針」にのっとりながら、どのようにその種の文章を読み解けばいいのか、その実例を見てみました。

 

個人的な疑問

しかし個人的に疑問に思うことがあります。上記「読解 1」で、内田先生は「時計がこちこちと時間を刻むということはありうる」と言いつつも、「時間はないに等しい」と言っておられます。これは矛盾しているのではないでしょうか?

 

また、上記「読解 2」で、内田先生は「「関係」という語を私たちは空間的な二項関係を思い浮かべることなしには理解することができない」と述べておられます。また同じブログ記事の別の箇所で、先生は「「関係」と言われると、項と項を結ぶ線分のようなものを思い浮かべる」とも述べておられます。しかし、関係を空間的な線分を思い浮かべずには理解できない、ということはないように思われます。

たとえば「愛は思いやりと関係がある」と言われた時、私なら「うん、そうだろうな」と思いますが、その際、愛と思いやりの間に、何か空間的な二項関係まで思い浮かべなければ今の発言を理解できないというわけではありません (少なくとも私は)。

 

また関係にもいろいろあって、二項関係だけでなく、もっと項数の大きい関係もあり得ます。たとえば「12,345項関係と12,346項関係は確かに違いますよね」と尋ねられれば、私は「確かに違います」と答えますが、その時、それらの関係を空間的な、多数にのぼる線分として思い浮かべ、それからその膨大な数の線分を一本一本区別した上で、「違う」と返答するわけではありません (少なくとも私は)。

そもそも言葉の意味とはその言葉から何か思い浮かぶもののことである、とは言えないと思います。このことは既に前からしばしば指摘されていることです。ですから、何を思い浮かべるかは問題ではなく、何も思い浮かばなくても問題ではないと思います。

 

まぁ、しかし、このようなことを言っても「それこそ問題ではない」と内田先生の方から言われてしまいそうな気がします。先生にとってレヴィナスさんの文章 (やその言い換え) は分析したり解析して、細部の矛盾を言挙げすべき対象ではなく、そこに不整合があろうがなかろうが、そこから私たちのための「人間的叡智」を看取し、それを私たちの人生に反映させていくことこそ大切なのであり、重箱の隅をつつくような真似は慎むべきなのだと言われてしまうように思います *7 。実際、今回取り上げている単行本の『レヴィナスの時間論』における「第I講の読解」部門の第8節「レヴィナスを解釈するルール」(68-72ページ) において、内田先生はレヴィナスの『時間と他者』に対する釈義を与えるに際し、一番重要なのは、正しい解釈を提示することではなく、次々と新たな解釈が湧き出てくるような解釈を示すことである、というような趣旨のことを述べておられます。それにまたそこで先生は、自分がレヴィナスを解釈していくなかで、あとから「あの解釈は間違いでした」と詫びを入れ、前言撤回することがあるかもしれないが、もしもそのようなことになったならば申し訳ないが許していただきたい、というような趣旨のことも述べておられます。つまり先生のレヴィナス解釈は正しいかどうかや、筋が通っているかどうかは、あまり重要視されていない、ということみたいです。ですから「先生の解釈は矛盾しているようですが」と、問題点を指摘してみても、それは野暮なことなのかもしれませんね。そのようでしたら私としましても「どうもすみません」と謝るほかなさそうです。(きっと私は普通の意味で「未熟者」なのでしょう。)

 

いずれにしましても、レヴィナスさんの文章を理解しようとすれば、矛盾に至るほどの言い換えを許容しなければ読み解けないものなのかもしれません。だとすると、それはまたすごいですね。そこまで大胆になることは私には無理そうですが。

 

終わりに

私の拙い話はこのあたりまでにしましょう。最後に、千葉先生、ドゥルーズ先生、レヴィナス先生、内田先生に感謝申し上げます。フランス現代思想の文章というものをどのように読みほどけばいいのか、教えていただきました。私はその種の文章の模範的な読者にはなれそうにありませんが、今後その種の文章に出会ったら、上の「指針」にのっとって読み換えれば、当座はその場を乗り切れそうなのでちょっとだけ安心です。しかし、ただ乗り切って、上手い具合にやり過ごすだけではいけないのでしょうけれど。

 

今日はこれで終わります。誤解や無理解、勘違いや無知蒙昧なところがありましたらお詫び致します。誤字や脱字についても深謝致します。どうかお許しください。

 

附記: 分析哲学と大陸哲学とのそのあいだ

他に適当なところがないのでここで追記しておきますが、分析哲学と大陸哲学であるフランス現代思想との違いは、註で述べたこととは別に、もしかするとユークリッド幾何学に見られる公理系を理解することと、現代流の、ヒルベルト幾何学に見られる公理系を理解することとの違いにうかがうこともできるかもしれません。個人的にはそのようにも感じます。

ユークリッド幾何はそこで何が語られているかはその著者 (ユークリッド?) と読者の間で一応は理解が共有されていると思います。それは文字どおり、そのまま点や線や三角形などのことです。一方、ヒルベルト以降の幾何学では必ずしもそこで何が語られているかは事前に共有されている必要はありません。当初、ビール・ジョッキについて語られているかのように見えたものが、よく読むとあとになって点や線のことだとわかる、などということがあり得ます。あるいは逆に、点や線について語っているかのように見えたものが、あとになってビール・ジョッキについてのことだと判明することもあり得ます。そこで問題にされている基本的な用語は必ずしも事前には了解されているとは限らず、その公理系を通していわば文脈的に定義され、また文脈的に理解される、というわけです。

フランス現代思想ジャーゴンについてもこの「ビール・ジョッキ」の例が当てはまるかもしれません。「時間は主体と他者の関係そのもの」だというレヴィナスの例の難解な一文について、内田先生は述べます。

私たちはこの一行目から「ゲームのルール」を替えなければいけないことを教えられる。ここから先は自分たちの因習的な時間概念、空間概念を持ったまま読み進めることはできない。とりあえず「時間」という語を私たちがふだん使っているような意味で使うことを自制しなければならない。レヴィナスの言う「時間」は私たちがふだん「時間」という言葉で言おうとしていることと語義の一部は重なっているが、私たちがその語では決して指し示さないような意味や状態をも含意している。それが何であるかは、今のところまだわからない。「語義をペンディングしたまま読み進むこと」、これも哲学者が私たちに要求する困難な作業のひとつだ。

レヴィナスの言う「時間」は、ヒルベルト流の公理系に見られる「ビール・ジョッキ」なのかもしれません。ビール・ジョッキについて語っているように見えながら、実は点や線について語っているのかもしれませんし、あるいは逆に「点」や「線」という言葉を使いながら、まったく別の、ビール・ジョッキなどについて語っているのかもしれません。フランス現代思想ジャーゴンは、文字どおりには取ることができず、文脈的に定義されているので、最後までその文章を読み切ったあとでそのジャーゴンの意味が確定する類いのものなのかもしれません。とはいえ、読み切ったあとでも何が何だかわけがわからないということの方が圧倒的に多いでしょうが。

このようにフランス現代思想ジャーゴンヒルベルト流公理系の基本用語のごとく、その言葉の意味を通常の意味を持ったものとは必ずしも見なさず、さしあたりその理解をペンディングに付し、その意味は改めて一から著者のコントロール下に盛り込まれるものなので、読者もそのつもりでフランス現代思想に触れなければならないとするならば、これはこれでモダニズムの挙措とよく似ていますね。案外モダンな感じがします。というのも、モダニズムは伝統に対する反逆であり、作者の構想した設計図に基づき一から、全体をコントロールしつつ統一的に作り直すことを志向する、一言で言えば、革新志向の運動ですし、ヒルベルトによる新しい幾何学の構想もモダニズムの一環でしょうから。まぁ、このあたりは私の個人的な空想・妄想ですけれど。どうか真に受けないようにしてくださいね。それでは。

 

*1:あるいは、確かに哲学の文章は一字一句おろそかにせず、それを文字どおりに取って、厳密に読み解かねばならないのかもしれませんが、いわゆる思想の文章はそうではないのかもしれません。しかしその場合、哲学の文と思想の文をどうやって区別するのか、きちんと区別できるのか、という問題が出てきます。ヘーゲル先生の典型的な悪文は、あれは哲学ではなく思想の文なのでしょうか。「ヘーゲル哲学」という言い方があると思いますが、あれは間違っていて、正しくは「ヘーゲル思想」と言うべきなのでしょうか。う~む、困ったな。

*2:なお、この「指針」は千葉先生の御高著に必ずしもそっくりそのままの形で出てきているとは限りません。先生の話を私の方で一部簡略化し、追加を施したものです。

*3:ひょっとすると、このような指針に従っても許されるのがいわゆる「大陸哲学」で、許されないのがいわゆる「分析哲学」なのかもしれませんね。

*4:URL = <http://blog.tatsuru.com/2014/11/16_0915.html >, 2014年11月16日。閲覧は2022年5月。

*5:ただし、内田先生の方が千葉先生よりもフランス現代思想に関しては先輩に当たるのでしょうが。

*6:なお「脇に置いておこう」というこの話は、内田先生のブログにはなく、単行本の「はじめに」の14ページ目で追加されているものです。

*7:もしかすると、ここに見られるように、論証の細部にまで分け入って、何よりも第一にその妥当性をうんぬんするのがいわゆる「分析哲学」であり、一方、そこまで細かいことを言うよりも、むしろその話の大局を把握して、そこに「人間的叡智」、「人生の真理」を洞察しようとするのがいわゆる「大陸哲学」なのかもしれませんね。