目次
はじめに
今日は Immanuel Kant の Kritik der reinen Vernenft に見られる有名な文章をドイツ語原文で読んで、味わってみましょう。第一版 (1781年) の序文 (Vorrede) の冒頭を読んでみます。
そしてその独文に対し、私による文法解説と、やはり私による直訳を掲げてみます。それから岩波文庫の邦訳『純粋理性批判』(以下『純理』) の該当箇所を引用して、直訳と比較してみましょう。
岩波文庫から引用することに関しては、深い意味はありません。『純理』については多数の邦訳が試みられており、たとえば平凡社ライブラリー版などが本格派の人からは好まれているようですが *1 、おそらく最も広く読まれているのは岩波文庫版でしょうから、岩波文庫から引いてみることにいたします。
それから仏訳も上げてみて、私による仏文法解説とその直訳も付けてみます。
ところで私はドイツ語、フランス語の専門家ではなく、それらの言語を苦手としていますので、完璧な文法説明や完璧な訳を提供することは、もとよりできません。できるだけ正しい説明と正確な訳文の提示に努めましたが、間違いが残っておりましたら謝ります。ごめんなさい。どうかお許しください。
また、私は Kant の哲学については無知ですので、今回取り上げる Kant の文章に対する私の論評は避けることにいたします。ではさっそく始めましょう。
ドイツ語原文
Kant の文章は、便宜上、Project Gutenberg から引っ張ってくることにします *2 。
ドイツ語文法事項
daß: これは前方の das besondere Schicksal の内容を表わす daß です。
sie durch Fragen: 人称代名詞単数1格の sie は女性名詞 Vernunft を指しています。このあともたびたび単数または複数の sie と、関係代名詞の die が出てきますが、これら sie と die がそれそれどの名詞を指しているのか、文脈から意味内容を推し測って特定しなければならず、注意する必要があります。
die sie nicht: die は関係代名詞複数形で4格、Fragen を指し、sie は人称代名詞単数1格で Vernunft を指しています。
sie sind ihr: sie は人称代名詞複数1格、Fragen を指し、ihr は人称代名詞単数 sie の3格で、Vernunft を指しています。
die sie aber: die は関係代名詞複数形4格、Fragen を指し、sie は人称代名詞単数1格、Vernunft を指しています。
sie übersteigen: sie は人称代名詞複数1格で、Fragen を指しています。
直訳
以下に私訳である直訳を記します。語学に資するため、日本語の読みやすさ、自然さは追求せず、逐語的な訳出を目指しています *3 。
岩波訳
・カント 『純粋理性批判 (上)』、篠田英雄訳、岩波文庫、岩波書店、1961年、13ページ。
直訳と岩波訳との相違点
直訳と岩波訳の主な相違点を確認してみましょう。
なお、岩波訳の篠田先生は、上で引用した独文を底本とせず、別の文を元に訳出されているかもしれません。そのことから直訳と岩波訳に違いが出ている可能性もあります。この点、ご留意の上、以下の比較をお読みください。
さて、直訳と岩波訳を比べると、細かいところより大きな流れのほうが互いに異なっていることが目立ちます。
直訳では話の流れが次のようになっています。
まず、理性は或る特別な運命を有している、と告げられます。それからそれがどのような運命なのかが説明されます。その説明とはこうです。
一方で、理性はある問題を拒否しようとするのですが、できません。なぜならそれは否応なく理性に課せられている問題だからです。
他方で、理性はその問題に答えようとするのですが、できません。なぜならそれは理性の能力では答えられない問題だからです。
こうして文章全体を読み終わってから、読者は話を振り返りつつ「要するに、理性が有する特別な運命とは、答えられないが答えなければならず、しかし答えなければならないと言われても、それでもやはり答えようがないという、そういう問題に理性は囚われてしまうということだな、そのようにして理性は進退窮まり苦悩を余儀なくされる運命にあるのだな」と理解します。
直訳はドイツ語原文の流れに沿って訳しています。その流れを変えずに訳しています。
これに対して岩波訳は原文の流れを変えて訳しています。ただし読者がその文章全体を読み終わったあとに理性がどのように進退窮まっているのかを読み取るのではなく、その文章を読み終わる前に、その文章を読んでいる途中で、理性の窮地が何であるかを読み解けるように訳しています。
その際、直訳とは違い、岩波訳では読者が Kant の言わんとしていることを汲み取りやすいよう、追加的に理由を述べる denn の意味を、「というのも、〜だからである」と単純に訳すのではなく、「しかじかであるのは、〜だからである」というように、「というのも」の内実を「しかじか」によって補足して訳しています。
こうして直訳と岩波訳を比べてみると、もちろん岩波訳のほうが圧倒的にわかりやすいですね。
ちなみに、数ある『純理』邦訳のうち、たとえば平凡社ライブラリー版と石川文康先生版は、岩波訳と同様に、今検討している箇所について、原文の流れを変えて訳しています。それに対し、熊野純彦先生版と光文社古典新訳文庫の中山元先生版は原文の流れに沿って直訳調で訳しておられます。この他にも『純理』の邦訳はありますが、まずはこの程度の報告としておきます。
それにしても Kant の著名な一文の邦訳が、かくも互いに大きな相違を有するとは、意外というか、なかなか面白いですね。邦訳を読み比べることの楽しさは、それが語学の勉強になるとともに、訳者の先生方のお手並みが拝見でき、かつそれに対する自分の能力が把握できるところにあると思います。「なるほど、そのように処理すればいいんだ、うまいなぁ」と感心できることしきりだったりして面白いです。
フランス語訳
ここでも便宜上、Wikisource France から仏訳を引くことにいたします。
・Kant Critique de la raison pure, trad. J. Barni, 1869 *4 .
フランス語文法事項
est soumise, ..., à cette condition: soumettre A à B で「A を B に従わせる、服せしめる」。本文ではこれが受動態になっていて、直訳すれば「人間の理性は〜という奇妙な状況に服せしめられている」となります。
cette condition singulière qu': ここでは「ce + 名詞 + 同格の que + 補足節」という構成を取っています。cette は que 以下の内容を実質的に指していて、場合によってはことさら訳出するには及ばない言葉です。次の文献を参照ください。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』白水社、2002年、項目 'ce2,' I. の60, 丸3番、109-110ページ。なお、このあとに出てくる qu’elle en の que も condition と同格の que です。
elle en est accablée: accabler A de B で「A を B で攻め立てる」。本文ではこれが受動態になっていて、de B が en に取って代わられています。直訳すれば「理性がそれらの問題により攻め立てられる」。
suggérées: 発音は「シュジェレ」ではなく「シュグジェレ」。一つ目の g が「グ」と発音されることにご注意願います。
ne saurait les résoudre: savoir + 不定形の savoir を条件法で否定し、pas を伴わない時、単なる可能性の否定「〜できない」という意味の場合と、可能性の丁寧な否定「〜できません、〜できないでしょう」という意味の場合があります。ここでは前者の意味。
直訳
自然でこなれた訳ではなく、硬めの直訳調で記します。
解説
今回取り上げた Kant の文章について、日本語の入門書を参考にして、ごくごく簡単な説明をしておきます。
参考にしたのは次の二冊です *5 。
・ 石川文康 『カント入門』、ちくま新書、筑摩書房、1995年、22-39ページ、
・ 御子柴善之 『カント 純粋理性批判』、角川選書、KADOKAWA、2020年、27-29ページ。
さて、ある種の認識に関して、理性は特殊な運命を有している、と Kant は言っていました。
この「ある種の認識」とは、私たちには経験できない事柄や、私たちの経験を越えた事柄を知ろうとすることを言います。このような、私たちの経験を越えたことを知ろうと努める学問を、形而上学と言います。
Kant の時代の形而上学では、宇宙の果てや宇宙の向こう、世界の始まりや世界の終わり、世界の究極の要素のあるなしや、世界に起こる事態に必然性があるのか否かなどについて、考えていたようです。
物事を筋道立てて考え、可能な限り、その推論を進めて行く理性は、この形而上学の領域で行使されるならば、「特殊な運命」が待ち受けている、と Kant は言います。
その「特殊な運命」とは、形而上学に属する事柄 A については、A が理性によって証明されるとともに、A の否定も理性によって証明されてしまい、A であるとも A でないとも言えず、進退窮まって身動きが取れなくなってしまう、というものです。理性は形而上学的認識においては矛盾に陥って苦悩を余儀なくされる、というのです。
これは、Kant の『純理』の後半にある超越論的弁証論におけるいわゆるアンチノミーのことを言っていると考えられています。
Kant は『純理』の序文冒頭で、合理的な推論能力である理性を、経験を越えた事柄に適用するならば、矛盾に陥らざるをえない、言っているのです。
「これはどういうことなのか、それをこれから説明しよう」という形で『純理』は始まるんですね。このことが Kant の言うとおりだとすると、面白そうな話ですね。
こうやって、Kant の言うとおりなのか、一つ確かめてみようと思いつつ、『純理』の森の中へと私たちは入っていくわけです。
でも、この「森」は、ただの森ではなく、密林だと思います。魅力的なところもありますが、非常に危険なジャングルだと思います。草木が行手を阻み、身体中、すり傷だらけになりながらでないと進むこともできないジャングル、一度入り込んでしまったら、右も左もわけがわからなくなり、沼地に腰まで埋まって脱出できず、あとはもう死ぬしかないという point of no return の地だと思います。
このジャングルを越えたところには桃源郷が待っているんだ、と思うかたは『純理』の序文に続いて本文に入って行くといいでしょう。そんな桃源郷はない、と考えるかたは、序文に続く本文は、軽く斜め読み、拾い読みすればいいと思います。
私としては「たぶん桃源郷はないが、それでも面白そうなところのあるジャングルだな、でも本格的に踏破したいとは今のところ思っていないし」という感じで、「突入」することは以前からずっと躊躇している状況です。
Kant の『純理』の話に関しては、「どうも変だな」と思うことがいくつかあり、のめり込めないでいるのです。分析的/総合的、ア・プリオリ/ア・ポステリオリの区別は (それを維持するにせよ、しないにせよ) 重要だと思いますし、彼の超越論的演繹が成功しているか否かにも興味がありますし、アンチノミーの話も面白いのですが、こんなことを言っては何なんですけれど、基本的なところで大きな間違いを犯しているのではないかと感じてしまい、Kant 先生の認識論には没頭できないのです。
まぁ、うるさいこと言っていないで、もっと勉強します。このあたりでもう駄弁を弄するのはやめにしましょう。生意気なことを言ってすみませんでした。
これで終わります。いつものように、誤解や勘違い、無理解や無知蒙昧な点が残っておりましたらすみません。誤訳や悪訳、誤字や脱字についてもお詫び致します。何卒お許しください。
*1:この邦訳は複数の専門家による訳文のチェックと推敲がなされており、その分、正確な訳が記されていると考えられることから、これが理由で本格派の人に好まれているのだろうと推測されます。
*2: https://www.gutenberg.org/cache/epub/6342/pg6342.html. 2022年9月閲覧。
*3:「どんな場合にも、直訳が意訳にまさる」と考えているわけではありません。何かを習得するにはまず基本を身に付けねばなりません。成人してからの語学学習においては、原文を直訳できることが基本だと思います。それが自在にできるようになれば、普通は自然に直訳から離れて行き、こなれた意訳へと移って行くものです。そこでここではいきなり意訳へと走るのではなく、地道に直訳を試みることを繰り返すことにいたします。
*4:https://fr.m.wikisource.org/wiki/Critique_de_la_raison_pure_(trad._Barni)/Tome_I/Préface_de_la_1re_édition . 2022年9月閲覧。
*5:この二冊を選んだことには深い意味はありません。一冊目は以前からよく読まれていると思われる本の一つ、二冊目は最近出た詳細なコメンタリーです。