Can We Believe in God after Auschwitz?

目次

 

はじめに

先日来、ハイデガー哲学の入門書を読み、それに関連して、ナチ・ドイツの歴史やヒトラーの伝記、それにユダヤ関係の本などを読んでいました。そのような本の一つに、次がありました。

内田樹  『私家版・ユダヤ文化論』、文春新書、文藝春秋、2006年。

この本の中では、その「結語」と銘打たれた部分に興味を持ちました。そこで今回はその部分を拝読して個人的に思ったことを記してみます。

なお、以下では神は存在するのか否かについて話をしていますが、私自身は、神がいるのかいないのか、よくわからない、と思っています。

 

アウシュビッツのあとで、神は存在するか?

さて、アウシュビッツのような大虐殺のあとで、私たちは神が存在すると信じられるでしょうか? 私は心情的には「存在しないのではないか」と強い疑念を抱いてしまいます。

アウシュビッツのみならず、ナンキン、ヒロシマナガサキなど、立て続けに大量殺戮が起こりましたが、これらのあとでも素朴に神の存在を信じることは難しいと感じます。

しかし、それでも「存在しない」と断言するのは早いかもしれません。

神は、存在するならば、いくつかの特徴、属性を所有していることでしょう。たとえば

神は、

(1) 全知である、

(2) 全能である、

(3) 大変慈悲深い (慈悲心を有する)、

などです。「大変慈悲深い」というのは具体的には「極めて困難な状況にある人を、誰でもいつでも必ず救ってくださる、そのような心を持っている」などと敷衍できるでしょう。

すると、アウシュビッツのような過酷で悲惨な状況に置かれている人は、神が存在すれば必ずや誰であれ救ってくれるものであると感じるでしょう。けれども神はアウシュビッツにおいて、ほとんどの人を救出することなく見捨てられました。慈悲深い神がこれほど陰惨な状況下にいる人を座視したまま手をこまねいているなど信じがたいことです。してみれば「神は存在しないに違いない」と思いたくもなります。

しかしアウシュビッツが示しているのは神の不在、非存在、神がいないことではなく、神は依然存在するのですが、神は慈悲深いという属性 (3) を備えていない、ということだとも考えられます。アウシュビッツを経験すると、心情的にはそこから一足飛びに神の不在を結論したくなりますが、それでも一気に神の不在を結論することは、実のところ、論理的にはできないと思われます。もちろん最初から神はいないとも考えられますが、神はいることはいて、けれども慈悲深い精神はお持ちでない、とも結論できます。

あるいはアウシュビッツが示しているのは、神は全知であるという属性 (1) を備えていない、ということかもしれません。実は神はアウシュビッツなどなどが起こっていることを知らなかったのかもしれません。そのため対抗策を取れず、手をこまねく結果になったのかもしれません。信じがたいことですが ... 。

あるいはまた、アウシュビッツが示しているのは、神は全能であるという属性 (2) を備えていない、ということなのかもしれません。実は神はアウシュビッツなどなどが起こっていることを知ってはいたのですが、力及ばず、それを阻止できなかったのかもしれません。これもまた信じがたいことですが ... 。

以上、三つの属性がそれぞれ欠けている場合を述べてみましたが、これらとは異なる理由で神はアウシュビッツなどを起こるがままにせしめたのかもしれません。

けれどもここでは神が属性 (3) の、慈悲心を備えていない場合を考えてみます。

 

神は薄情者なのか?

では、なぜ神は (3) を備えず、皆を救済されなかったのでしょうか?

ここで先ほど上げた内田先生のご高著をひも解いてみましょう。まず、アウシュビッツを受けたあとの人間の態度について、内田先生とレヴィナス先生が評価されている言葉を引用してみます。その際、内田先生が書き込んでおられる註の番号は省きます。また丸括弧内の数字は内田先生のご高著のページ数です。

 「ホロコースト」の後、第二次世界大戦を生き延びたユダヤ人たちは、当然ながら深い信仰上のつまずきに遭遇した。「なぜ、私たちの神はみずから選んだ民をこれほどの苦しみのうちに見捨てたのか」という恨めしげな問いを多くのユダヤ人は自制することができなかった。中には信仰を棄てるものもいたし、権謀術数や軍事力でしか正義は実現できないというシニスムに走るものもいた。そのような同時代人に向けて、レヴィナスユダヤ教正系の立場から、それは幼児のふるまいに等しいと諭している。

 「罪なき人々の受難」という事実からただちに「神なき世界」、人間だけが「善」と「悪」との判定者であるような世界を結論するのはあまりに単純で通俗的な思考といわなければならない。おそらくそのような人々は神というものをいささか単純に考えすぎているのだ。レヴィナスはそう告げる。

 「神は善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰し、あるいは赦し、その善性ゆえに人間たちを永遠の幼児として扱うものであると思いなしているすべての人々にとって、無神論は当然の選択である」*1 (226-227)

最後の角括弧内の言葉はレヴィナス先生によるものです。

また、次のようにも言われています。原文の傍点は下線に変えて引用します。

 [精神的に] 幼い人々は善行が報われず、罪なき人が苦しむのを見ると、「神はいない」と判断する。人間の善性の最終的な保証者は神だと思う人は [つまり、最後には神が我々人間に代わって善を実現してくれると思っている人は]、人々が善良ではないのを見るとき、神を信じることを簡単に止めてしまう。「神はなぜ手ずから悪しき者を罰されないのか」「神はなぜ手ずから苦しむ者を救われないのか」。これは幼児の問いである。全知全能の神が世界のすみずみまでを統御し、人間は世界のありように何の責任もないことを願う幼児の問いである。(225)

このようにレヴィナス=内田先生は述べられたあと、なぜ神は属性 (3) である、私たちが期待するような慈悲心を備えておられないのか、その理由を語っておられます。聞いてみましょう。

「なぜあなたの神は、貧しい者たちの神でありながら、貧しき者を養われないのか?」。あるローマ人が古代の伝説的な賢者であるラビ・アキバにそう尋ねたことがあった。そのときラビはこう答えた。「私たちが地獄の責め苦をまぬかれることができるようにするために」。

「人間の義務と責任を神が人間に代わって引き受けることはできないという神の不可能性をこれほどきっぱりと語った言葉は他にありません。人間の人間に対する個人的責任は神もそれを解除することができないような責任なのです」(225-226)

この最後の角括弧もレヴィナス先生のお言葉です。

引用文冒頭にある「なぜあなたの神は ... 」というセリフは、随分皮肉が効いていますね。つまりこんなふうに言っているように聞こえます。「神様、あなたは本当に貧しい者の味方なのでしょうか? 貧しい者の味方ならば、なぜ彼ら彼女らを等閑視されておられるのでしょうか? なぜ助けてあげないのですか? あなたの力をもってすればこの者たちを富める者に変えることなど何でもないでしょうに。ずいぶん薄情なかたですね」。

引用文冒頭にあるセリフはまた以下のように言い換えてもよいでしょうね。すなわち「なぜあなたの神は、正しき者たちの神でありながら、悪しき者を罰されないのか?」

レヴィナス=内田先生によるならば、これらの質問に対する神の答えは次のようになると私には思われます。

アウシュビッツを含め、人間のなしたあらゆる悪行は、あなたがた人間のせいでそうなったのです。それはあなたがたの責任なのです。それなのに神にその責任を取らせようというのですか? 神に尻ぬぐいをさせようというのですか? それは違うでしょう。あなたがた自身で善いことをなし、正義を実現すべきではないですか。

アウシュビッツの苦難の中にあるとき、神が私たちをお助けくださらないのは、そもそもそれが私たちのせいだから、ということです。私たち自身でそれにけりをつけなければならないから、ということです。

 

神が望んでおられること

しかし神は隠れたまま救出に乗り出そうとされないことで、私たちに何をしようとしているのでしょうか? 何を望んでおられるのでしょうか? 何を期待しておられるのでしょうか?

レヴィナス=内田先生の言葉を引いてみましょう。下線は引用者によるものです。

「[…] 秩序なき世界、すなわち善が勝利し得ない世界において、犠牲者の位置にあること、それが受難である。そのような受難が、救いのために顕現することを断念し、すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟をこそ求める神を開示するのである」

 ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」についての弁神論を語り終える。(227-228)

最初の角括弧はレヴィナス先生によるものです。

悪い人間に人が痛めつけられているとき、その人の救出のため、神が現れることはありません。私たちの側からすればひどい話だと思います。助けてくれてもいいではないかと思います。

けれど神は助けに現れません。神は遠くから私たちを見ています。恨み節を封印し、自らの力で歯を食いしばって立ち上がる人間を、神は求めておられるのです。痛めつけられている人に危険を冒しつつ手を差し伸べる人間が出てくることを、神は求めておられるのです。自分たちで悪を制し、自分たちで正義の裁きを下す、そのような社会の出現を、神は求めておられるのです。

人が悪に苛まれているとき、神が現れて悪を罰し、その人を救出するならば、話は簡単です。毎度毎度そうすればこの世は平和です。勧善懲悪、因果応報 (善因善果、悪因悪果) が神の手によりいつでも自動的に成り立つのなら、人間の出る幕はありません。

子を溺愛する親のように、子供がこければ神がいちいち出てきてすかさず起こし、「お腹がすいた」と泣けばたっぷりご飯を与え、人のものを壊しても神が代わりに謝ってくれれば、この世はもう天国です。私たちはただのんびり寝て過ごせばいいだけです。

しかしこれでいいのでしょうか? こんな人生でいいのでしょうか? ちゃんとした大人になって、ちゃんとした人生を送りたくはないでしょうか?

結局、神が救出に現れないことによって神は私たち人間に何を望まれているのか、その簡潔な答えは直前の引用文に書かれていました。それは、成熟した人間になること、これです。あるいは「独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらしうるような人間」(228) になること、これです。これを神はお望みだ、ということです。

振り返ってみると、アウシュビッツにおいて、神は私たちを救出されませんでした。神は無慈悲なかた、慈悲心 (3) を欠いたかたと思われました。しかしレヴィナス=内田先生によると、無慈悲に見えるのは表面的なことであって、神の気持ちとしては人々がもっと成熟するようにと考えて意図的に人々の間に介入することを避けているのだ、ということです。おそらく神としてもアウシュビッツのような惨事を座視していることは辛いことかもしれません。けれども人類がより高い精神的レベルに達するためには手出しすることを断念し、こらえておられるのかもしれません。

アウシュビッツのあと、神は存在しないと結論することは一応可能かもしれません。しかしその一方で、神は存在するのであって、ただし人間の社会に介入されないことにより、慈悲心を欠いているように見えるだけなのだ、とも言えると思われます。

 

おわりに

アウシュビッツ、ナンキン、ヒロシマナガサキなどのあとで依然神は存在していると言えるでしょうか?

「もはや、存在しているとは言い難い」と答えたくなるところです。「神は慈悲深いはずであり、私たちを見捨てられるはずはない。にもかかわらず私たちを見捨てられた。ということは、神はそもそもいないのだ」と言いたくなります。けれども、神は存在しない、と即断するのではなく、ただ私たちが期待するような意味では神は慈悲深くはない、というように、神の存在を否定せず、神の存在を肯定したまま、神の慈悲心の所有を否定するという選択肢は生きていると考えられます。この場合、神はもちろん依然として存在し、しかし神はあえて救出のために手出しをせず、自ら立ち上がることを願って私たちを静観されておられるのだ、ということになります。

とはいえ、悪に痛めつけられているとき、冷静に神の存在を肯定し続けることは、私個人には難しいです。神が助けてくれなければ「どうして助けてくれないのですか? 本当はいないのでは?」と私なら思ってしまいます。レヴィナス=内田先生には申し訳ないですが、悪に虐げられ、救出されずに打ち捨てられたならば、私は神の不在をほとんど確信し、それでも神の存在を信じている人は、それこそ神を素朴に信じすぎている、と思ってしまいます。激痛に涙を流しているあいだ、それでも神の存在を信じている人は、神の存在に関し、楽天的すぎる、と私なら思ってしまいます。(その一方で、痛みが過ぎ去れば「神様、助けてくれてありがとう」と、私は無邪気に口走るでしょうが。)

それにもかかわらず、くりかえしますが、それにもかかわらず、レヴィナス=内田先生は言うでしょう。

不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位に踏みとどまるがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない (228)

のだ、と。神は「人間の理解も共感も絶した遠い境位に踏みとどま」っているものなのであり、あなたの理解から隔絶した、はるか彼方にいらっしゃるかたなのだ、と。

う〜む、難しいですね。ほんと難しいですね。

 

これで終わります。いつものごとく、誤字や脱字、衍字の類いが残っていましたらすみません。無知や無理解、勘違いも散見されるかもしれません。ごめんなさい。最後に今一度付言しておきますが、私は神がいるのかいないのか、わからないでいます。いるとも、いないとも、どちらとも主張できずにいます。困ったときに助けてくれる神がいればいいとは思っているんですけれどもね。でもそれは、レヴィナス=内田先生からすれば、幼児の態度ということになるんでしょうけれど ... 。

 

追記 1. 悪に苛まれながらも成熟した人間に成長することのできた人として、具体的には私は『夜と霧』のヴィクトール・フランクル先生を思い浮かべます。フランクル先生は、神が望んでおられる成熟した人間の具体例ではないでしょうか? 私は何となくそう思います。(先生自身は「自分にはいろいろと欠点もある」とおっしゃるでしょうが。)

追記 2. 今回の話は神義論に関するものであり、古くはヨブ記、近世・近代ではライプニッツ以来のもので、長きに渡り議論されて来ました。しっかりと話を詰めて行くためには、これら従来の神義論を踏まえる必要があります。

追記 3. レヴィナス=内田先生によると、遠き神の計らいによる人間の成熟化の過程には、「もともと人は誰であれ、他の人に対する責任を有する」という考え、有責性の考えが関係しているそうです。しかし、これが正確、詳細に言って、どういう考えであり、どのように成熟化に関係しているのか、私にはムズカシク、よくわかりません。あるいはひょっとすると、これはむしろ私であれ誰であれ、理解を超えた考えなのかもしれません。つまり「信じる/信じない」という信仰の次元に属する事柄なのかもしれません。いずれにせよ今後機会があれば理解を深めて行きたいと思っています。

 

*1:引用者註: 「神は善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰し」と語られている部分は勧善懲悪、因果応報を述べていると考えられます。「神は善行をしたものには報償を与え」の部分が「勧善」と因果応報のうちの「善因善果」に当たり、また「過ちを犯したものを罰し」の部分は「懲悪」と因果応報のうちの「悪因悪果」に当たります。そしてここではこれら勧善懲悪、因果応報は、実はこの世においては必ずしも成り立たない、普遍的に成り立つとは限らない、と述べられています。にもかかわらずそれらが必然的に、普遍的に成り立つと素朴に信じている者は、アウシュビッツの悪事の前では容易に無神論に陥ってしまうことになる、と言われています。