Why Is It Incorrect to Translate Frege's 'Bedeutung' as 'Reference'?

なぜ Gottlob Frege (1848-1925) の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのは、まずいのでしょうか? この疑問に対する答えを記した文献として、影響力があったと思われるものは、次のものです。

  • Ernst Tugendhat  ''The Meaning of 'Bedeutung' in Frege,'' in: Analysis, vol. 30, no. 6, 1970 (邦訳 エルンスト・トゥーゲントハット 「フレーゲにおける 'Bedeutung' の意味」、高橋要訳、『理想』、理想社、第639号、1988年夏号)


また、国内では次の本がそうです。


このうち、私は前者の論文に依拠して、先の疑問に対する答えを記します。後者の飯田先生の本の251ページには、「フレーゲの「Bedeutung」を「指示」と訳すのは、なぜまずいのか?」という問題が、読者に対する一種の練習問題として掲げられています。飯田先生の本に基付いて先の疑問に対する答えを与えても構いませんが、先生の問題の背後には、「Frege の Sinn und Bedeutung の理論を、Donald Davidson に見られるような、自然言語の体系的意味論に生かす形で理解するには、'Bedeutung' を「指示」と訳すのはまずい、それはなぜなのか、このような自然言語の体系的意味論への活用をも考慮して、'Bedeutung' を「指示」と訳すのがまずい理由を答えよ」という意図が働いていると考えられ、先ほどからの疑問に、Frege からはやや離れて、Davidson のような自然言語の体系的意味論の話を持ち出した上で答えるというのは、少々解答文が長くなりすぎるため、以下の私の解答では、より Frege に密着した Tugendhat 論文に依拠するという訳です*1。さらに、Tugendhat 論文では、その前半に依拠して解答を与えます。というのも、Tugendhat 論文の前半部分で、問題の解答が与えられており、後半部分では、その解答の正しさが確認されているという体裁を 件の論文は取っているため、答えを一通り知るためには、差し当たり論文の前半部分に注目すればよいと考えられるからです*2。なお、先の疑問に対する答えをこの後、私は記しますが、私自身は Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのはまずいと主張している訳ではありません。そのように訳すのはまずいのかどうか、判断を今のところ保留させてもらえればと思います。確かに Frege の Sinn und Bedeutung の理論を生かすためには、私も 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのは、得策ではないだろうと思います。しかしその一方で、Frege の著作の exegesis という観点から見ると、 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのはまずいとする Tugendhat さんによる根拠は、脆弱なところもあると感じています*3。脆弱であるというこの理由は、以下で解答を述べる中で Tugendhat さんによる解釈の問題点として、読者のみなさんに提示します。


さて、ここから後、「いみ」という表現を使った場合、それは前理論的に使われているものと理解して下さい。下で「いみ」と書かれていれば、それは術語、専門用語として使っているのではなく、何らかの立場や理論を前提とせず、素朴にかつ最広義になるように使っています。


加えて、解答を記す前に、少なくとも三つ、確認をしておきたいことがあります。それは、「指示」という表現のいみと、'reference' という表現のいみについて、および Frege の 'Bedeutung' を、「指示」とは別に、「指示対象」と訳し得るのか、についてです*4。「なぜ Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのは、まずいのでしょうか? 」という疑問に答えるには、「指示」、'reference' がそれぞれ何をいみしているのか、ある程度はっきりしていなければなりません。そこでごくごく簡単にですが、そのことの確認を行います。(「指示対象」の話は、「指示」のいみ、'reference' のいみについて、確認した後に述べます。) 以下での三つの確認を経ずに、すぐさま「指示 (reference)」と訳すのがまずい理由を知りたい方は、次の「前置き 始まり」から「前置き 終り」までの文章を飛ばしていただいても構いません。「前置き 終り」の後に理由を述べます。そしてこの日記項目の最後に box で囲んでその理由を簡略にまとめておきます。正確には最後の辺りに配置された二つの box のうちの最初の box 内に Tugendhat さんに依拠した解答が略述されています。


前置き 始まり

(1)
指示とは何かについて考え出すと、非常に長い話になります。指示とは何であるかは、思いのほか、自明ではありません。ですからわかり切ったこととして話を進める訳にはいかないのですが、指示について詳細で厳密な説明をし出すと、そもそもの問題に対する解答の記述の入り口にさえたどり着かなくなるので、極めて手短な確認だけで済ませます*5
指示とは、指を使って何かを示すことを言います。富士山を目の前にしている時、指を使って富士山を示すことがありますが、指示とは元々そのようなことを言います。そして、指を使って示すことのみならず、言葉についても、その指示が言われることがあります。例えば「「富士山」という言葉は、富士山を指示している」などのようにです。このような場合は、「富士山」という言葉に人間が持っているような指があって、その指を突き出しながら「富士山」という言葉が何かを示しているのではもちろんありません。私たちが指を使って示すことを、代わりに言葉を使って示す場合、その言葉は指示していると言われます。指によって何かが示されるのと類比的に、言葉によって何かが示される時、その言葉は指示していると言われるのです。指示とは一方に名前があり、他方に何かがあって、この名前と何かとの関係を言います。この関係は「名指し関係 (name-relation)」と言われます。そして名指され、指示されている何かも、しばしば「指示」と呼ばれます。そして指示という関係、名指し関係は、その関係中に何かが媒介されていてもいなくても、差し当たり問題ではありません。「富士山」という言葉は、直接富士山を指していると考えることもあれば、その言葉は、日本一高い山、という何か概念のようなものを媒介して間接的に富士山を指していると考えることもあります。どちらにしてもこの際「富士山」は、富士山を指示していると考えられます*6


(2)
次に 'reference' のいみについてです。私は英語を母語とはしておらず、英語の native 並みの運用能力からは、遥かに遠く隔たった所に位置していますので、'reference' のいみについて、微妙な nuance は全く言うことができません。ここでは以下の文献に従って、

  • Michael Beaney  ''Introduction: 4. The Translation of 'Bedeutung','' in his ed., The Frege Reader, Blackwell Publishers, Blackwell Readers Series, 1997, pp. 36-46

'reference' のいみとして含まれているものをごく簡単に記してみたいと思います。

次のような言い回しがあります。(I) '''bachelor'' means ''unmarried man'',' 'Heavy clouds mean rain.' この場合、'mean(s)' のいみは 'bachelor' と 'unmarried man' を関係付け、heavy clouds と rain とを関係付けています。つまり前者では言語表現と言語表現を、後者では言語表現のいみといみを、関係付けています。これに対し、(II) '''the Philosopher'' means Aristotle,' 'a word means the idea or the thing it stands for.' では、'mean(s)' のいみは 'the Philosopher' と Aristotle を関係付け、ある語とその観念、あるいはそれが表すものを関係付けています。この場合の前者は、言語表現とそれがいみしているものを、後者はいみされる言語表現とそれの観念、あるいは表されるものを、関係付けています。ものごとの在りようという点から見てみると、(I) は言語表現と言語表現、いみといみという、同じ種類のもの同士が関係付られているのに対し、(II) では言語表現といみという、異なる種類のものが関係付けられています。(I) の場合を水平な (horizontal) いみ、(II) の場合を垂直な (vertical) いみと便宜上呼ぶことにします。'mean(s)' については上記のように、水平ないみで使われることも、垂直ないみで使われることもあります。そしてこの他にもいみに関する言葉を、今述べた水平か垂直かという観点から、大まかながら、分類することができます。そうすると Beaney さんに依るならば、'reference' の動詞である 'refer to' は水平であることもあるが、垂直に使われることの方が多いと考えられるようです。また、名詞の 'reference' は、先ほどから述べている関係付けの関係そのものをいみすることもあれば、関係付けられたものをいみすることもあります。つまり例えば、'''the Philosopher'' refers to Aristotle.' という場合、'the Philosopher' を Aristotle に関係付けることそのものを 'reference' と言うこともあれば、関係付けられている Aristotle を 'reference' と言うこともあります*7

この 'reference' の話によれば、 'reference' とは日本語で言えば「指示」という言葉に近いと感じられます。「指示」も、言語表現と言語表現以外のいみされているものとを関係付けることが多いと考えられます。こうして「指示」と 'reference' はともに言語表現と、それとは種類を異にする、言語表現以外のものとを関係付ける関係そのものか、関係付けられているものを、典型的にはいみすると考えることができます。手短に言えば、名前が名前以外のものを名指すということが、それらの典型的パターンだ、という訳です。


(3)
最後に、以下の解答では、Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すことがまずいとされる理由を述べますが、Frege の 'Bedeutung' を、「指示」とは別に、「指示対象」と訳し得るのか、について、前もって確認しておきます。
Frege の Bedeutung を、objekt / object と解することは、一般的にはできません。Frege にとり、言語表現一般について、その Bedeutung はいずれも objekt / object かというと、そうではありません。いわゆる単称名 (singular terms) や固有名 (proper names) の Bedeutung は objekt / object です。しかし、いわゆる述語 (predicates) や関数名 (function names) の Bedeutung はFrege にとり、objekt / object ではありません。ですから Frege の 'Bedeutung' を、一般的には、 'objekt / object' と言うことはできません。よって 'objekt / object' の和訳である「対象」と 'Bedeutung' を訳すことは、一般的には、できません。したがって、「指示対象」の「指示」が何をいみしているのであれ、'Bedeutung' を「指示対象」と訳すことは、一般的には、できません。ひどくくどくどと申しましたが、このことは専門家には周知のことだろうと思います。ですから Frege の 'Bedeutung' を「指示対象」と、一般的に訳す可能性は、初めから排除されていることを、ここに確認しておきます*8

前置き 終り


さて、なぜ Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのは、まずいのでしょうか? この疑問に対する答えを Tugendhat 論文の前半に依拠して記したいと思います。そして、この答えを、消極的な理由による答えと積極的な理由による答えの二段階に分けて解答します。


まず、消極的な理由による答えです。なぜ Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのはまずいのか?
それは、文と名前が異なるならば、名前について指示 (reference) が言えるとしても、文について指示が言えない限り、いわゆる述語も含め、言語表現一般については、その Bedeutung を指示だとは言えない、ということです。言い換えると、文が名前の一種でないならば、例え名前について指示が言えたとしても、文や述語については指示が言えないと考えられているのだから、文や述語や名前を含んだ言語表現一般について、その Bedeutung を一律には指示だとすることはできない、ということです*9
もう少し別の言い方をしてみましょう。なぜ 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すとまずいのかと言うと、名指しの関係 (name-relation) に偏らず、名前の対象 (objekt / object) と文の真理値との間の共通性・協働性を堅持したまま、その協働性を説明するためには「指示」では事をうまく言い表せない。名前には名指し関係を含意させながら、文には名指し関係を含意させずに名前と文の Bedeutung の共通性を説明できねばならないとするならば、'Bedetung' の訳語として「指示」はふさわしくない、ということです。
さらに換言すると、Tugendhat さんの真意としては、我々は名前については指示が言えると考えるが、文や述語については指示が言えるとは考えていない。我々は名前を使って何かを指示することはあるが、文や述語を使って何かを指示することは、普通あり得ない。つまり名前と、文・述語は明らかに全く異なる機能を持っており、指示について言えるのは前者だけであって、後者についてはそれは言えない。Frege は文にも単称名(名前)にも述語にも通常 Bedeutung がある言っている。文・名前・述語、いずれにも 'Bedeutung' という言葉でそれがあると言っている。しかし名前と、文・述語は明らかに異なる機能を持っているのだから、この点を考慮して、名前・文・述語すべてに名指し関係・指示関係を含意する「指示 (reference)」という訳語を与えるべきではない。名指し関係・指示関係を含意しない別の訳語を当てるべきだ、と言うことにあります。
これが「指示 (reference)」という訳語の否定的な側面を指摘することからくる、'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない Tugendhat 論文からの消極的な理由です。


さて、以上のように述べると、すぐに二つの問題点が指摘できます。
一つ目は、anachronism による問題点です。確かに私たちは、名前は通常何かを指示するものと見なし、文や述語は指示をしないものと見なしています。ですから、文や述語について指示を言うとするならば、それは誤りであると考えます。したがって文や述語の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのは、明らかな誤りを犯すものと考えられます。しかし、現在の私たちからどれほど誤りだと思われることであっても、Frege がそう考えているのならば、それをそのまま矯めることなく訳すべきです。こちらの解釈を (例え老婆心からとはいえ) 勝手に押し付けてはいけません。Tugendhat さんはこのような anachronism に陥っていると思われます。
二つ目の問題点は、一つ目とも関連するのですが、Tugendhat さんは、Frege を解釈するにあたり、文と名前が異なると考えていることです*10。Tugendhat さんは、文という言語表現の category と名前という言語表現の category が、それぞれ別々の category であると考えています。実際に Tugendhat さんの論文では文と名前が異なる category に属するということが、前提とされ、そのように仮定されています*11。しかし Frege の専門家ならば、みんな知っていることだと思うのですが、そしてまた、そのことを承知で Tugendhat さんは文と名前が異なる category に属すると言っているものと思われるのですが、Frege にとって文と名前は同じ category に属します。つまり文は名前なのです。文は名前の一種なのです。名前のうちの一つに文があるのです。両者は異ならず、同じ一つの category にまとめられているのです。このことは Frege の研究者はみな知っていることと思います。Frege が最も mature な時期に刊行したと考えられる彼の主著 Grundgesetze, Bd. I (1893) において、文が名前であることが明記されていることは*12、研究者にとり、周知の事実です。それだけでなく、Tugendhat 論文は、その議論を主として Frege の ''Über Sinn und Bedeutung'' 論文 (1892) に負っていますが、先の Grundgesetze, I と恐らくほとんど同じ時期に書かれたと思われるこの ''Über Sinn und Bedeutung'' 論文においてさえ、Frege は文を名前と見なしているのです*13。現在の私たちがどんなに文を名前とは見なしたくないとしても、そしてそれがどれほど説得力あることだとしても*14、文を名前とは見なさないことは、historical Frege に対する faithful な解釈とは、考えられないと思われます。しかも文を名前とは見なさないで Frege を解釈することは、些細な修正では決してあり得ません。そうすることは Frege の解釈に重大な帰結をもたらすと思われます。つまり、Tugendhat さんは Frege ならば決して認めないような仮定のもとに Frege を解釈してしまっているのです。


次に、積極的な理由による答えです。なぜ Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すのはまずいのか?
Tugendhat さんは、Frege 自身が彼の Bedeutung をうまく説明できていないとして、Tugendhat さん自身による、Bedeutung の説明の代案を提示しています。その際に Tugendhat さんが持ち出す、Bedetung を統べる原理の名前として、「外延的等置性 (extensional equivalence)」だとか「ライプニッツの不可識別者同一の原理 (Leibniz' Principle of the Identity of Indiscernibles)」だとか、Carnap の「交換可能性の原理 (principle of interchangeability)」だとかを持ち出してきますが*15、要するに諸般の事情をこちらの方で勘案してみると、Tugendhat さんは、Frege にとって、次の式が成り立つと考えています*16。''a'', ''b'', ''c'' はそれぞれ何らかの言語表現の名前です。具体的には何らかの単称名か述語か文です。'Bd( )' とは'The Bedeutung of ( )' という operator の名前の略です。

    • Bd('a') = Bd('b') ⇔ In a sentence S, which contains an expression 'a', 'a' is interchangeable with 'b' salva veritate.

この式の右辺を満たす左辺の operator が、すなわち Bedeutung である、と Tugendhat さんは主張されます。右辺に現われている、言語表現に関する interchangeability salva veritate という関係は、同値関係 (equivalence relation) です。念のために確認しますと、

    • 'a' is interchangeable with 'a' salva veritate は成り立ちます。
    • 'a' is interchangeable with 'b' salva veritate ならば、'b' is interchangeable with 'a' salva veritate も成り立ちます。
    • 'a' is interchangeable with 'b' salva veritate で 'b' is interchangeable with 'c' salva veritate ならば 'a' is interchangeable with 'c' salva veritate も成り立ちます。

故に、interchangeability salva veritate という関係は、同値関係です。

こうして結局 Tugendhat さんにとって、Bedeutung とは、言語表現の集合に同値関係を入れることで作られる同値類 (equivalence class) のことです*17。ある言語表現がある Bedeutung を持つとは、その言語表現がある同値類に属しているということです。そしてある言語表現が、言語表現のある集合に属するということだけでは、そのことに指示の含意はありません。

このように同値関係なり同値類を持ち出すことによって、指示の含意を回避しようとする戦略は、割とよく知られた手立てです。例えば、物体に関する形を、相似関係という同値関係によって同値類に分類してやるならば、物体が自身の形に対し、ある関係に立っていると考える必要はありません。単にその物体がある集合(= 同値類)に属する、形を同じくする集合にその物体が属しているだけ、と捉えることができます。この時、一方に無形の物体があって、他方に内実のない形があって、一方から他方へとある関係、つまり指示の関係・名指しの関係が成り立っていると考える必要はありません*18。同様に、言語表現の Bedeutung も、interchangeability salva veritate という同値関係によって分類してやるならば、言語表現が自身の Bedeutung に対し、ある関係に立っている、指示の関係・名指し関係にあると考える必要はありません。単にその言語表現が言語表現のある集合に属していると、Bedeutung を同じくする集合にその表現が属しているだけだと、考えることができるのです。一方に表現があって、他方に何かがあって、その一方から他方へと指示の関係が成り立っていると見る必要はないのです。こうして上記の interchangeability salva veritate という同値関係は、指示の関係や名指しの関係は含意しないものと考えられるのです。よって Frege の Bedeutung に対し、上記の interchangeability salva veritate という同値関係が成り立つとするならば、そこには元々指示の関係は含意されていないのだから、'Bedeutung' は「指示 (reference)」と訳されるべきではない、ということになります。
以上が積極的な観点による、'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきでない理由です。


消極的観点からの解答の時もそうでしたが、Tugendhat さんによる、この積極的な観点からの解答にも、問題点を指摘することができます。やはり二点上げておきます。
一つ目は、もしも Bedeutung を上記のように言語表現に関する同値関係・同値類と見なすならば、指示の関係は回避されますが、むしろこれは問題を引き起こしてしまいます。Bedeutung を同値関係・同値類と見なすならば、その時、言語表現 (とその集合) の存在を認めるだけでよいことになります。このことは、Bedeutung が言語表現の集合に他ならず、言語表現 (とその集合) だけが考慮されていればよく、それが表すものに注意する必要がないということであり、ひたすら言語内に終始することになるということです。しかしこれは Frege の実在論 (realism) には全くそぐわない結果となります。Frege は一般に実在論の立場を採っていたものと考えられます*19。Frege にとり 'Aristotle' の Bedeutung は現実に存在する(存在した) Aristotle 本人です。このことと、Tugendhat さんがなした interchangeability salva veritate という同値関係・同値類による Bedeutung の特徴付けとは、両立しないように思われます。Interchangeability salva veritate という同値関係・同値類による Bedeutung の特徴付けは、Frege からその実在論的傾向性を取り去ってしまうことになり、Frege の base となっている特徴を無視してしまうことになります*20
二つ目の問題点は、Tugendhat さんの特徴付けが依拠している仮定です。Tugendhat さんは、Frege にとり、文の Bedeutung は真理値であると、端的に仮定されておられます*21。その上で、Frege の Bedeutung を interchangeability salva veritate という同値関係によって定義しています。Tugendhat さんが、Frege における文の Bedeutung を真理値であると端的に仮定しているということについては、諸家によっても指摘されています*22。しかし、Frege にとって、文の Bedeutung とは真理値のことであると、端的に仮定してしまっては、それこそ問題です。少なくとも、端的に、天下り的に、いきなり仮定してしまっては、問題です。なぜなら Frege 自身が、文の Bedeutung を真理値であると、端的には仮定していないからです*23。端的に仮定してしまうことに、はっきりと Frege は抵抗を示していたからです。端的に仮定してしまうことは Tugendhat さんが大きく依拠されておられる Frege の有名な論文 ''Über Sinn und Bedeutung'' において、Frege が実際にやっていたことに反しますし、この論文において Frege が何をやっているのかに対して、理解ができなくなってしまいます。Frege が彼の ''Über Sinn und Bedeutung'' の、7割以上ものスペースを使ってやろうとしていたことは、あるいは少なくとも論文の半分以上のスペースを使ってやろうとしていたことは、文の Bedeutung が真理値であることの、仮定ではなく、論証でした。あるいは文の Bedeutung が真理値であることの確証を得ようとしていました。論文の読者に文の Bedeutung が真理値であることを納得してもらおうと、そのことの証拠を示す論証を論文の7割、ないしは5割を使って Frege は示そうとしていたのです*24。''Über Sinn und Bedeutung'' の、「宵の明星」、「明けの明星」云々が語られている論文序論部分の後の、いわば本論で展開されていたのは、文の Bedeutung が真理値であることの、仮定ではなく、論証でした。文の Bedeutung が真理値であることの論証・確証を完遂すべく書かれていると考えられる ''Über Sinn und Bedeutung'' に大きく依拠されている Tugendhat さんが、文の Bedeutung を真理値であると、端的に仮定してしまっては、Frege の意図に反します。Historical Frege に faithful であろうとするならば、文の Bedeutung は真理値であると、端的に仮定してしまってはいけません*25


さて、今までに縷々説明してきたことから、なぜ Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すとまずいのか、という問題についての Tugendhat さんに依拠する解答を、ごく手短にまとめておきます。

Tugendhat さんに依るならば、

    1. 文と名前が異なるとすると、名前については指示が言えるとしても、文については指示が言えない限り、いわゆる述語も含め、言語表現一般については、その Bedeutung を指示だと言うことはできないので、Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない。
    2. Frege にとって Bedeutung とは、言語表現の集合に同値関係を入れることで作られる同値類のことに他ならず、同値関係を入れることで同値類を作ること自体には指示の含意はないのだから、Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない。

以上です。念のために付言しておきますと、この解答には諸家からの異論がありうるということは、先述の通りです。


なお、ここで、付録として、Dummett さんに依拠した答えも、取り合えずごく手短に記しておくことにします。

Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない Dummettian な理由


Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではない理由は、体系的ないみの理論をこの際差し当たり考慮せずに、Dummett さんの観点から、簡潔に略述すれば、恐らく以下のようになるだろう。

Frege の Bedeutung には二つの側面がある。一つは、その prototype として、name/bearer relation を持っているという側面である。もう一つは、semantic role という側面である。前者の name/bearer relation は、言語表現と言語表現外の何かとの関係を表している。後者の semantic role とは、ある言語表現がある文に含まれている時、その言語表現がその文の妥当性に関して働きかける機能や、ある文の妥当性がその文に含まれている言語表現に依存しているメカニズムのことを言うとともに、ある文がある論証に含まれている時、その文がその論証の妥当性に関して働きかける機能や、ある論証の妥当性がその論証を構成している文に依存しているメカニズムのことを言い、これはいわば主に言語内に関する事柄である。Frege においては、言語外からの作用を伴いつつ、言語内の働きを統制している原理に、文脈原理 (context principle) と合成原理 (composition principle) があり、彼の Bedeutung はこの二つの統制原理に従っているものと考えられる。
以上のことを簡略に言えば、Frege の Bedeutung には、言語外へ向かう特徴と言語内で働いている特徴の二つの側面があると言える。

ところで「指示 (reference)」とは、言語表現と、この言語表現外の、何かとの関係や、その何か自身のことである。したがって「指示 (reference)」という言葉では、言語外への側面に強調点が置かれていることになる。「指示 (reference)」という言葉からは言語内で働いているメカニズムがあり得るということに気が付かない。もしも Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すならば、Frege の Bedeutung に備わっている言語外を目指す特徴と言語内で働く特徴の二つの側面を同時に表すことができない。言語外を目指す特徴は表すことができても、言語内で作用している特徴を表すことができない。Frege の考えに詳しくなければ、「指示 (reference)」からは、いわば言語内を統制しているメカニズムを表す文脈原理や合成原理による機能が読み取れない。またそのため、Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すならば、言語表現のいみとは言語表現外の何らかのものであり、どの言語表現にも必ず言語表現外のものが対応しており、言語表現のいみとはそれに尽きるのであるという、いわゆる 'Fido'-Fido principle を Frege が堅持しているという嫌疑が、彼にかけられてしまうことになる。

このようなことのために、Frege の 'Bedeutung' を「指示 (reference)」と訳すべきではないのである。*26


最後に。
Frege の 'Bedeutung' のいみを厳密・正確に理解するには、最終的には 'Bedeutung' という言葉の、地域差と時代的な差をも確認し、考慮に入れる必要があるでしょう。地域差とは標準語 (standard German)、地域語 (regiolect)、方言 (dialect) のことであり、時代による差とは、19世紀後半にその語が使用されていたということです。また、当時の当地での学校文法や、当時の論理学での専門用語との関係も、理解しておく必要があるでしょう。これらのことについては、私自身の今後の勉強課題です。


本日の日記に関して、誤解や無理解、誤字、脱字等が含まれていましたら、お詫び致します。何卒ご容赦下さい。私の記述には間違いが含まれている可能性がありますので、必ず裏を取って下さい。典拠とした文献の情報は、多数本文や註に織り込みましたので、そのまま真に受けず、必ず確認を取ることをお勧め致します。何にしましても、間違っていましたら謝ります。ごめんなさい。勉強に精進致します。

*1:それにそもそも私には、Davidson などの言語哲学を持ち出して解説する力量は、全くないという理由もあります。また、自然言語の体系的意味論を射程に置いた解答を以下で与える訳ではありませんから、飯田先生の課題に対する解答としては、以下の私のものは不充分な答えとなります。

*2:Tugendhat 論文の前半とは、便宜上、その論文で複文 (complex sentence) の分析が始まるまでを言っています。原論文では p. 186 の上から2行目まで、 邦訳では29ページの下段半ばまでです。

*3:'Bedeutung' の英訳として、'reference' (「指示」) を採ることの利点や欠点に関しては、そしてその訳語として 'meaning' (「意味」) などを採ることの利点や欠点に関しても、次の文献が大変参考になります。Michael Beaney, ''Introduction: 4. The Translation of 'Bedeutung','' in his ed., The Frege Reader, Blackwell Publishers, Blackwell Readers Series, 1997, pp. 36-46. ここでは 'reference', 'refer to' の他に 'denote', 'designate', 'mean', 'signify', 'connote', 'imply', 'stand for' 等々の違いが説明されていて非常に有益です。この Beaney さんの考察を読むと、 'Bedeutung' の訳を、通り一遍一律に「意味」としたり、'reference' として、いつでも事が済むという訳ではないことがよくわかります。つまり、 'Bedeutung' を「指示 (reference) 」と訳すのも「意味 (meaning) 」と訳すのもどちらも一長一短があり、前者が実際にふさわしい時もあれば後者がふさわしい時もあり、いつでもどこでも「指示」がよいとか「意味」がよいと言えるものではなく、さらには各論者が Frege の哲学全体や論理学全体をどう解し、今後のためにそれをどう利用していくべきかに応じて、どの訳語を選択すべきかが分かれてくるということです。こうして、何も考えず、 'Bedeutung' を一律に「意味」と訳したり「指示」と訳したりして済ますことは、Frege を厳密・正確に理解したいと思えば、できないということです。常に論者の判断が求められ、試されているということです。ですから 'Bedeutung' を「意味」と訳すのも、これは全く neutral な訳とは必ずしも言えず、何らかの理論的前提が働いているということを忘れてはならないということです。私自身は 'Bedeutung' を「意味」と訳す理論的前提に魅力を感じていますが、その一方でこの理論的前提のあるものは根拠がいくらか薄弱であるとも考えています。

*4:もちろんこれら以外にも、確認しておきたいこと、あるいは確認すべきことは、色々ありますが、それをしていると全く話が先に進まないので、やむを得ず断念しておきます。

*5:やはり指示についても、詳細を解説する力量が私には欠けているので、その解説は元々私にはできない相談なのですが。

*6:ここでの指示の話は、特定の哲学的理論を前提としてなされているのではありません。例えば、Russell や Strawson らの教説を前提してなされているのではありません。「指示」という言葉の日本語における原義と私に思われることを、簡略に提示しているだけです。

*7:この段落の話は先に本文に掲げた Beaney さんの論考、特に p. 40 に依っています。

*8:いわゆる述語の Bedeutung は概念 (Begriff) であって、概念は対象ではないことについては、例えば、vgl. Gottlob Frege, 》[Ausfürungen über Sinn und Bedeutung]《, in: Nachgelassene Schriften, Hrsg. von H. Hermes, F. Kambartel, F. Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, SS. 128-9, 135, G. フレーゲ、「意義と意味詳論」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、103-104、111ページ。この他には例えば Frege が Husserl に出した書簡中に記されている、言語表現のいみについて自説を説明した有名な図をご覧下さい。1891年5月24日の日付のある書簡です。Vgl. Gottlob Frege, Wissenschaftlicher Briefwechsel, Hrsg. von G. Gabriel, H. Hermes, F. Kambartel, C. Thiel und A. Veraart, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Zweiter Band, 1976, S. 96, G. フレーゲ、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年、5ページ。他にもありますが、くどくなるので省きます。

*9:今、「Bedeutung を一律には指示だとすることはできない」と記しましたが、Tugendhat 論文によると、「一律には」と言うどころか、一切指示 (reference) と解するべきではないと考えることも、ある程度は可能です。これは Tugendhat さんの論点を Frege に強く読み込んだ場合の、Tugendhat さん自身による解釈です。「ある程度」というのは、Tugendhat さんが、それをある程度しか認めておられないようだからです。先ほどからの Tugendhat 論文には、そのドイツ語版もあって、そこに Tugendhat さんによる postscript が付され、そこで Tugendhat さんは一切指示が関与してこないとまでは言わない、と述べられているようだからです。ただ、私はこのドイツ語版については未見であるため、Tugendhat さんがどの程度指示の関与を認めておられるのか、あるいはどの程度認めておられないのかについては、詳細は現時点でここに記すことができません。いずれにしましても取り合えず Tugendhat, p. 183, 邦訳、26ページをご覧下さい。そしてこの強い読みについては、この後に出てくる積極的な理由の中で述べます。

*10:例えば Tugendhat, p. 179, 邦訳22ページ。

*11:Ibid. 実際に Tugendhat 論文では、文が名前ではないということが論証されているのではなく、文が名前ではないことが当然のこととして、単に仮定されています。

*12:Grundgesetze, I, §§2, 26.

*13:„Jeder Behauptungssatz, in dem es auf die Bedeutung der Wörter ankommt, ist also als Eigenname aufzufassen, […]‟, 》Über Sinn und Bedeutung《, in: Kleine Schriften, Zweite Auflage, Herausgegeben und mit Nachbemerkungen zur Neuauflage versehen von Ignacio Angelelli, Georg Olms, 1990, S. 149. 「語の意味が問題となるすべての主張文は、固有名として理解すべきである。」(「意義と意味について」、土屋俊訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、80ページ)、„Der Nebensatz konnte als Nennwort aufgefasst werden, ja, man könnte sagen: als Eigenname jenes Gedankens, jenes Befehls usw., als welcher er in den Zusammenhang des Satzgefüges eintrat.‟, 》Über Sinn und Bedeutung《, S. 153. 「副文は名詞として理解されうるし、それどころか、複合文の脈絡のなかに現われる思想、命令などの固有名としても理解されうるのである。」(「意義と意味について」、86ページ。)

*14:文を名前だとは見なすべきでないと述べているものとしては例えば簡単には、Michael Dummett, Frege: Philosophy of Language, Second Edition, Duckworth, 1981, pp. 6-7. 同じ著者のごく最近の著作からは、Michael Dummett, The Nature and Future of Philosophy, Columbia University Press, Columbia Themes in Philosophy Series, 2010, pp. 65-67.

*15:Tugendhat, pp. 180-81, 邦訳、24ページ。

*16:これは Tugendhat さんによる、いわゆる truth-value potential のことを言います。Truth-value potential のわかりやすい一般的な定義は、次を参照して下さい。野本和幸、『フレーゲ言語哲学』、勁草書房、1986年、94-96ページ。

*17:このように、要するに Tugendhat さんの truth-value potential とは、言語表現の集合に同値関係を入れて同値類を作ることに当たるのだという指摘は、次を参照して下さい。Dummett, Frege: Philosophy of Language, pp. 199-200, Michael Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy, Harvard University Press, 1981, p. 154, 野本、『フレーゲ言語哲学』、96ページ。

*18:幾何学上の形を相似という同値関係と見なす idea は、次を参照して下さい。ヘルマン・ワイル、『数学と自然科学の哲学』、菅原正夫、下村寅太郎、森繁雄訳、岩波書店、1959年、10-11ページ。物体の形を同値関係・同値類と見なすことで、物体の、自身の形に対する関係を、指示の関係から回避せしめる戦略についての説明は、次を参照して下さい。飯田隆、『言語哲学大全 II 意味と様相 (上)』、勁草書房、1989年、190-92ページ。

*19:さらには platonism の立場を採っていたものと考えられます。

*20:この一つ目の問題点については、次を参照して下さい。Dummett, Frege: Philosophy of Language, pp. 196-203, Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy, Chapter 7, 'Frege's Notion of Reference,' 野本、『フレーゲ言語哲学』、97-99ページ。なお、この一つ目の問題点の指摘に対しては、Tugendhat さんが、自身の ''The Meaning of 'Bedeutung' in Frege'' のドイツ語版 postscript で反論を展開なさっているようですが、先ほどの註でも述べた通り、私は今のところドイツ語版 postscript は未見ですので、この反論の分析は、他日に期したいと思います。加えて、飯田先生は先生のご高著、飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、109-111ページで、Frege の Bedeutung に実在論的傾向をお認めになっているものの、144ページの註 (37) では、先ほどからの Tugendhat さんによる Bedeutung の特徴付けが Frege の実在論的傾向に反することに (少なくともその註の中においては) 異論を提出することなく、かえってこの Tugendhat さんの特徴付けが、Frege の 'Bedeutung' を「指示」と訳すべきではない根拠の一つとなるとしておられます。Historical Frege の faithful な解釈を目指すならば、Tugendhat さんの特徴付けには大いに異論を差し挟まねばならないところでしょうが、historical Frege を離れてしまえば、そう目くじらを立てる必要はないということでしょうか。強調点の置き所が違うということなのでしょうか。

*21:Tugendhat ,p. 181, 'We then start from the truth-value of sentences, call this their significance [= Bedeutung], […]' 邦訳、25ページ。

*22:Ignacio Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' in L. Jonathan Cohen, Jerzy Los, Helmut Pfeiffer, Klaus-Peter Podewski ed., Logic, Methodology, and Philosophy of Science VI: Proceedings of the Sixth International Congress of Logic, Methodology, and Philosophy of Science, Hannover, 1979, North-Holland, Studies in Logic and the Foundations of Mathematics, vol. 104, 1982, p. 743, n. 9 (因みに、この note 9 には note 9 であることを示す数字の '9' が脱落してしまっています。しかし前後の註から明らかにこの註は9番目の註です。), Dummett, Frege: Philosophy of Language, p. 199, 野本、『フレーゲ言語哲学』、98ページ。

*23:Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' Ignacio Angelelli, "The Mystery of Frege's "Bedeutung"," in: Revista Patagónica de Filosofía (Patagonian Journal of Philosophy), vol. 2, no. 1, 2000, 野本、『フレーゲ言語哲学』、98ページ。

*24:7割だとか5割だという話については、当日記、2011年1月30日の 'What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? More Precisely, What Problem Is a Great Part of his Most Famous Paper Devoted to?' を、取り合えずは参照して下さい。

*25:この二つ目の問題点の指摘の際に述べた ''Über Sinn und Bedeutung'' における Frege の本来の狙い・主要な狙いが、「宵の明星」、「明けの明星」云々という単称名のいみに Sinn と Bedeutung を区別すべきだという点にあるのではなく、むしろ単文・副文・複合文のいみに Sinn と Bedeutung を区別し、特に主張力を取り去った文の Bedeutung が真理値であることを示すことにあるのだ、という話は、後日この日記上で説明を試みたいと思います。しかしこの点については私の説明を待つまでもなく、既に研究者によって、しっかりと・詳しく、説明されているところです。詳細は次を参照して下さい。Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' pp. 740-41, Angelelli, "The Mystery of Frege's "Bedeutung"," the last paragraph of section 2, 野本、『フレーゲ言語哲学』、100-102ページ。また次も参照するとよいです。Joan Weiner, Frege, Oxford University Press, Past Masters Series, 1999, pp. 91-105, especially pp. 96-104, Joan Weiner, Frege Explained: From Arithmetic to Analytic Philosophy, Open Court, Ideas Explained Series, vol. 2, 2004, pp. 89-103, especially pp. 94-102. 加えて次もご覧下さい。Richard L. Mendelsohn, The Philosophy of Gottlob Frege, Cambridge University Press, 2005/2010, p. 127, p. 210, n. 5. Mendelsohn さんのこの本の p. 127 には、次のような文が見られます。'Frege (1892c)[= 》Über Sinn und Bedeutung《] was primarily concerned with this extension of the sense/reference distinction to sentences, and with identifying and justifying his choice of the truth values as referents. He devoted fully half his essay to examining purported counterexamples, showing in each case that reference-shifting had occurred inside 'that' clauses.' この文における 'this extension of the sense/reference distinction to sentences' とは、以下のようなことを述べているようです。この文の直前で Mendelsohn さんは、A. Church さんの Slingshot Argument と D. Davidson さんの Slingshot Argument を解説しておられます。Church さんの Slingshot では definite descriptions を使って論証が行われ、Davidson さんの Slingshot では class abstractions を使って論証が行われています。前者の Church さんの Slingshot では、definite descriptions 同士が入れ替えられた時、変わるものと変わらないものが考察され、後者の Davidson さんの Slingshot では、class abstractions 同士が入れ替えられた時、変わるものと変わらないものが考察されていました。これらの場合、変わるものが Frege にとっての Sinn に相当し、変わらないものが Frege にとっての Bedeutung に相当します。Church, Davidson さんの論証では、definite descriptions と class abstractions をそれぞれの論証で取り換えた時の様子が考えられた訳ですが、これに対し、Frege は、ドイツ語の複合文を構成する副文を取り換えた時に、複合文の Sinn と Bedeutung はどうなるのかをも考察しました。Mendelsohn さんによる先の 'this extension of the sense/reference distinction to sentences' とは、Slingshot で取り換える言語表現を definite descriptions と class abstractions から、文を含むものへと拡張させてやった場合の Sinn と Bedeutung のことを言っているようです。そして今引用した Mendelsohn さんの文の末尾には次のような註が付されています。'This confirms that he [= Frege] regarded the identification of the truth values as referents of sentences as the main result of the essay [= 》Über Sinn und Bedeutung《].' この註自身は p. 210, n. 5 に見られます。

*26:以上の詳細は、次を参照して下さい。Michael Dummett, Frege: Philosophy of Language, Second Edition, Duckworth, 1981, Michael Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy, Harvard University Press, 1981.