According to Frege, Is It True That for Any Concept, its Extension Is Logical?

先日、街を歩いたり、地下鉄に乗ったり、廊下を歩いたりしていた時に、つらつらと考えていたことがある。そしてその過程で個人的にちょっと驚いたことがあった。補足を加えつつ、そのことを今回再構成してみたい。以下で記すことは、今述べたように、歩きながら漫然と考えていたことで、じっくりしっかり入念に考え抜いた事柄ではありません。ですから、以下の話は間違いや不正確なところがあるかもしれませんので、もしも読まれるならば、割り引いてお読み下さい。また、個人的につらつらと考えていたことなので、「である」、「何々だ」というような文体をとっています。断定的に響くかもしれませんが、その場合はお手数ですが文末を「です」、「ます」と読み替えつつお読みいただければ幸いです。それでは始めます。


Frege にとって個数言明 (numerical statement) とは、概念に関する言明である (Grundlagen, 『算術の基礎』、§46)。では、概念に関する言明とは、いかなるものか。そのような言明の例を挙げるならば、次がそうである。「木星は4つの衛星を持つ」 (そして今、木星は実際に4つ、かつ4つだけ衛星を持つとしよう。) Frege によるならば、この言明はつまるところ「木星の衛星という概念には、数4が帰属する」と書き換えられる (§57)。「いくつであるか」に答える個数言明は、このように、数えようとしているものの概念に、何という数が帰属しているかを述べている言明である。そして Frege は自然数の各々を、概念の外延と見なした (§68)。それはなぜか。また、Frege は自然数の各々を、対象と見なした (§57)。それはなぜか。

しかし、そもそも自然数 0, 1, 2, ..., は我々にいかに与えられるのか。Frege は、このことに対し、いかなることを述べていたか。文脈原理を思い出してみよう (§62)。各々の自然数は、何らかの文において、数詞という形を取って私たちの前に現われる。例えば先の「木星は4つの衛星を持つ」のようにである。Frege によるならば、この文は次のように書き換えられる。「木星の衛星の数 = 4」 (§57) なぜこのように書き換えるのか。Frege はこの時、算術の分析を念頭に置いている (§57)。算術では等式、同一性命題が多く見られる。そのような式や命題が多数見られることが算術では普通であり、支配的なのである (§57)。Frege のねらいは自然数の観念 (notion) を算術で使われている観念として分析することにある (§57)。したがって算術の取り扱う自然数に関する日常的な文についても、算術の支配的な形式にならって、日常的な文を算術によく見られるような式に変形するのである (§57)。それで、上記のような等式「木星の衛星の数 = 4」に書き換えるのである。

さて、この等式を見てみよう。「木星の衛星の数 = 4」 この等式の右辺の数詞 '4' は、あたかも対象の名であるように見える (§57)。この等式の元の文「木星は4つの衛星を持つ」では、一見したところ、'4' が対象名であるようには見えないが (それは形容詞のように見え、何か性質の名前のように感じられるが) (§57)、書き換えた後では、数詞 '4' は対象名のように見える。そのため、4は対象であろうと推測される。しかも数詞 '4' は、等号、同一性記号の横に置かれている。ところで、そもそも同一性という関係は、一階の関係である*1。よって、同一性関係が argument に取るのは概念や関係ではなく、対象である*2。よって「木星の衛星の数 = 4」の右辺の名前が、対象の名であろうという推測は、「木星の衛星の数 = 4」という等式が、まっとうなものである限り、正しいものとして裏付けられる。このようにして等式「木星の衛星の数 = 4」の同一性関係が一階の関係であり、そこでの4が対象であると確認できたとしよう。

ではこの等式「木星の衛星の数 = 4」の左辺は何か。「木星の衛星の数」は、あたかも概念の名前であるかのように見える。つまり、木星の衛星の数とは、概念であるように思われる。しかし、これまでの考察から、木星の衛星の数が概念であるはずはない。それが概念であることはできない。なぜなら、等式「木星の衛星の数 = 4」の右辺が対象の名であり、同一性記号が一階の関係を表しているとするならば、この等式が真であると考える限り、この式の左辺も対象の名でなければならないはずだからである。しかもドイツ語、英語では、「木星の衛星の数」という語句は、'die Zahl der Jupitersmonde,' 'the number of Jupiter's moons' となって、それぞれ定冠詞が付いている (§57)。これはこれらの語句が対象の名であることを示唆している (§51, §66, n. 1)。したがって我々はここで、概念と見えるものから対象を得なければならないということになる*3。概念を変換して対象を得なければならないのである。

ところで Caesar Problems は Frege の著作において、最低でも三ヶ所で現れる。Grundlargen の §56 と §66, Grundgesetze の §10 である。「木星の衛星の数」、'die Zahl der Jupitersmonde,' 'the number of Jupiter's moons' はそれぞれ概念の名前ではなく、対象の名前なのだ、という今までの話は、この Grundlargen の §56 における Ceasar Problem の話に関係する。Grundlargen, §56 の前の §55 において、Leibniz に示唆された自然数の定義が提示されているが、§56 ではその定義が適切なものではないとして、Frege により却下されている。却下の理由を平たく言ってしまうと、大よそ次の通りと考えられる。§55 における自然数の定義では、自然数を二階の概念として定義している。「概念 F には数 1 が帰属する」というような文を §55 では規定しているが、そこでは、一階の概念 F に、数 1 が帰属する、という二階の概念が、どのような場合に当てはまるのかが定められているのである (§§55-57)。このように、各々の自然数は概念と見なされている。自然数が概念ならば、概念については同一性が言えない。同一性が言えるのは対象だけである。そして概念について同一性が言えないならば、自然数についても同一性が言えない。自然数について同一性が言えないならば、自然数が Julius Caesar か否かは言えない (§56)。概念/自然数の異同については何も言えないし、概念/自然数を同定することはできないからである。あるいは若干言い換えると、Julius Caesar が自然数か否かは何とも言えないし、Caesar が自然数でないとも正当には言えないことになる。これはいかにもまずい。まずい理由は、そもそもここでの定義では、自然数を概念として定義してしまっていることにある。自然数を概念としてしまうから、Caesar を自然数の候補から排除できずにいるのである。Caesar を自然数の一例から除外するためには、今の場合、自然数を概念と見なすのではなく、対象と見なすべきなのである。*4

それでは、「木星の衛星の数」というような、一見概念の名と見えるものが、概念ではなく、対象を意味して (bedeuten) いなければならないとする時*5、そうやって概念の名と目されるものによって意味される対象とは何か。それが概念の外延である。概念の外延とは、概念の名前と目されるものによって、あたかも bedeuten されているかのように見なされる何かである。概念名によって bedeuten され、同一性記号の argument に入りうるものとされるのが概念の外延である*6。(概念語によって bedeuten され、同一性記号の argument に入りえないものは概念である。) したがって、概念の外延は対象である。よって、等式「木星の衛星の数 = 4」の右辺が対象の名であり、同一性記号が一階の関係を表しているならば、この式が真であるとする限り、この等式の左辺も対象を意味せねばならず、この場合、概念を変換して得られる対象とは、その概念の外延だ、ということになる。これで、件の等式の左辺が、概念の名と見えようとも、実はそれは概念の外延という対象を意味しているのだと言うことが可能になるのである。

木星の衛星の数」を概念の外延の名前だとするこのくだりは、Frege の著作において、最低でも三ヶ所で現れる Caesar Problems のうちの、Grundlagen, §66 の Caesar Problem と関係している。この section での Caesar Problem では何が述べられているのだろうか。それは Hume's Principle が自然数の定義としては適切ではないとして、その原理を却下する根拠が述べられている。Hume's Principle が自然数の正しい定義ではないという理由が述べられているのが、§66 の Caesar Problem なのである。ではその理由とは何か。§§64-66 において Frege は、Hume's Principle と類似した原理として、方向概念を与える原理を参考例として掲げている。この例、特に §64 の冒頭部分の言い方から、Hume's Principle も方向の原理も、それぞれ自然数と方向の文脈的定義であることがわかる。そして §68 では一転して自然数の定義として概念の外延を採用する明示的定義を提出して、こちらの明示的定義を Frege は本採用している。このことと、Grundgesetze, §10 の内容とを勘案するならば、Grundlagen, §66 の Caesar Problem では、自然数の定義が文脈的定義となっていることに Frege が難色を示しているものと推測することができる。それではこの場合の文脈的定義の難点とは何か。Hume's Principle: N(F) = N(G) ⇔ F 〜 G を見てみよう。これは左辺を右辺で定義している。ということは、右辺が書かれているところで、左辺に書き換えてよいということである。また、左辺が書かれているところでは、右辺のように書き直してよいということである。そして 'N(F) = N(G)' と書かれている場合、それが正しいかどうかは、Hume's Principle の右辺を見て、その右辺が成り立つかどうかを確認すればよい。この右辺が成り立てば、Hume's Principle の左辺である 'N(F) = N(G)' も成り立っていて正しいことがわかる。それでは 'N(F) = q' と書かれていた場合、これが正しいかどうかはどうしたら判断できるであろうか。もしも q = N(G) であるならば、'N(F) = q' を 'N(F) = N(G)' と書き直し、そしてこれを定義により 'F 〜 G' と書き換えて、F 〜 G が成り立つかどうかを見ればよい。これが成り立てば、N(F) = N(G) も成り立ち、N(F) = q も成り立つことがわかる。しかし 'N(F) = q' の q が N(G) であるか、あるいは何らかの概念Φについて q が N(Φ) なのかどうかわからない場合には、'N(F) = q' が正しいかどうかを、Hume's Principle からどう判断すればよいだろうか。実のところ Hume's Principle からは、'N(F) = q' を Hume's Principle の右辺に相当するものに、どう書き換えればよいのか、わからない。この点については Hume's Principle は何も教えてくれない。Hume's Principle ではあくまで 'N(F) = N(G)' と書いてあれば 'F 〜 G' と書き直してよい、あるいは 'F 〜 G' と書いてあれば 'N(F) = N(G)' と書き直してよいと言っているだけで、'N(F) = q' と書いてある場合には、どう書き直せばよいのか何も指示がない。したがって N(F) = q が成り立つかどうかはこれを Hume's Principle の右辺に相当するものに書き換えることができなければ、N(F) = q の成否は何とも言えないのである。ところで、Frege にとって、各々の自然数は対象である。対象であるものは、任意の対象に対し、原理的にはその異同が言えなければならない。原理的にその異同が言えるようなものが対象なのであった。だから、ある自然数 N(F) が対象ならば任意の対象 q について、N(F) = q が成り立つか否かが原理的に言えなければならない。だからある自然数 N(F) について、N(F) = Caesar か否かが言えなければならない。しかし、今先ほど述べたように、Hume's Principle からは任意の対象 q や Caesar について、N(F) = q や N(F) = Caesar が成り立つか否かは言うことができない。よって、個々の自然数を対象と見なす限り、Hume's Principle では自然数の定義としては不充分である。それを充分なものにするためには、N(F) なら N(F) が何であるのか、明示的に示してやらねばならない。'N(F) = q' の 'q' に具体的で一意的な対象名を当ててやらねばならないということである。つまり、自然数を明示的に定義してやらねばならないということである*7

あるいは Hume's Principle の文脈的定義としての難点は、次のようにも言えるかもしれない。つまりその難点とは Hume's Principle の基数オペレータの Bedeutung が一意に定まらないことである。Hume's Principle: N(F) = N(G) ⇔ F 〜 G の基数オペレータ N(x) は、通常、概念 F なら F について、F に当てはまるものの数をそのまま返す関数である。Hume's Principle の右辺が成り立つ場合、その左辺の基数オペレータは、それぞれ F の数と G の数を返し、それらの数は等しいとして、左辺も成立することになる。しかしこの基数オペレータには、右辺が成立している時に、その左辺も成立するように、基数オペレータに通常とは別の関数を割り当てることも可能である。ということは f(x) = N(x) という基数オペレータの f(x) としては、Hume's Principle を成立させつつ、しかも複数の異なる関数を取ることができるということである。それら複数の関数のうち、どれを取っても Hume's Principle を成り立たしめることができるので、どれを取ったらよいのかについては任意であり、はっきり言ってしまえば、どれを取ればよいのかわからない、ということである。つまり、f(x) = the number of x's = q の q が何であるかは、必然的にこれであるとは決まっておらず、文脈的定義においては厳密には不定なのである。方向オペレータの場合で言えば、地軸の方向が何であるかは不定であり、ということは、地軸の方向がイギリスであるかどうかは不定であり、地軸の方向がイギリスでないとは、平行関係に基づく方向の原理からは正当な根拠をもっては言えないということである。こうして一般的には、文脈的定義では、定義される言語表現の Bedeutung が一意には定まらない。一方、Frege にとって各々の自然数は、同一性について言うことのできる一義的な対象である。したがって自然数が対象であるならば、数を表す基数オペレータの Bedeutung が一意に定まらないということは、つじつまが合わないことのように思われる。式 'the number of x's = q' では、両辺の表しているものは、等号の両側にあるのだから、対象であって一意に定まるべきである。そうすると、自然数が対象であることを前提とした上で、帳尻を合わせるためには、不定性を招き入れる文脈的定義を捨てて、明示的な定義を採用すべきであるということになる。このような訳で、Frege は §68 で自然数の明示的定義を持ち出して、概念 F に帰属する基数とは、F と等数的 (gleichzahlig) である、という概念の、その外延であると規定したのである。*8

以上のようにして、Caesar Problems, Caesar Objections を通して、自然数の明示的定義により、概念を変換して概念の外延という対象を得ることが可能であるとしよう。この時、学問上のいかなる概念に対しても、それを変換して概念の外延を、一般的には値域を、得ることができることを保証するのが、他ならぬ基本法則Vである。通常、この法則の右辺から左辺への移行が、概念を変換して対象を得る作用に当たる。基本法則Vは、概念を対象へと変換する原理なのである。概念を変換して対象を得ることが可能であることを要請しているのが、基本法則Vなのである。


さて、これらのようなことを考えながら、私は先日外を歩いていた。そして夜にスーパーマーケットの中を歩きながら、さらに以下のように考えた。

以上の通りだとすると、なぜ自然数の各々を、ある概念の外延と見なすことができれば、自然数は論理的な対象であると言えるのだろうか。取り分け、なぜ概念の外延は論理的なものだと言えるのだろうか。そもそも、いかなる概念についても、その外延は論理的なものであろうか。どんな概念であっても、その外延は論理的な対象と言えるのか。

そして、夜のご飯のおかずを買うために向かった総菜売り場の前に来た時に、次のように思った。

まさか! どんな概念でも、その外延が論理的であるなんて、そんなはずはあるまい。どんな概念であれ、その外延は必ず論理的だと言えるのだろうか? 大体、論理や論理学にふさわしそうな概念もあれば、全く論理的に見えず論理学に関係しそうもない概念もある。それにもかかわらず、あらゆる概念の、その外延は論理的だと言うのか? 日本人という概念を考えてみろ、日本人という概念のその外延は論理的だと言えるのか、爪楊枝という概念を考えてみろ、爪楊枝の概念の外延は論理的か、ペンギンの概念はどうか、南極にペンギンが群れているが、この群れは論理的なものだと言えるのか?*9 まさか! では、概念の外延の中には、論理的なものと論理的ではないものがあるのだろうか。どれがそうで、どれがそうでないのか。両者を分け隔てる基準は何か。そもそも概念の外延を二つの group に分類するなどということを、Frege はやっていただろうか? そんなことをやっていたという証拠を思い出せないのだが…。これらの点について Frege はどのように考えていたのか。そこで家に帰ってこのことに関して有用と思われる次の二次文献を読み直してみた。

  • Marco Ruffino  ''Why Frege Would Not be a Neo-Fregean,'' in: Mind, vol. 112, no. 445, 2003. 邦訳、マルコ・ルフィーノ、「フレーゲはなぜ新フレーゲ主義者ではなかったか?」、須長一幸訳、岡本賢吾、金子洋之編、『フレーゲ哲学の最新像』、双書 現代哲学5、勁草書房、2007年

この中で、個人的にとても驚く記述が見られた。引用してみる。

One would expect that Frege has in mind here only extensions of purely logical concepts as logical objects (like, e.g., the horizontal stroke in GGA I [Grundgesetze, Band I]). But it appears that he places no restriction on the logicality of extensions, that is: for any concept (be it logical or empirical), its extension is a logical object. This is at least what is suggested by the following example presented in the same letter [the letter to Russell, at June 22, 1902, written by Frege]:


One still has to distinguish here system from class. The class of atoms that compose the chair on which I am sitting is not the chair itself. A whole whose parts are material is itself material; in contrast, I would describe a class not as a physical, but as a logical objects [sic]. […]


(Here, as in many other places, he uses the term 'class' interchangeably with 'extension'.) The class of atoms that compose the chair here is clearly not the extension of a logical concept, but of an empirical one. As it seems, the only restriction placed by Frege on the logicality of extensions is that the corresponding concept must be sharply delimited. But although he appears to be liberal regarding the logicality of extensions in general, it turns out that only extensions of logical concepts play a role in the formal system of GGA I and GGA II [Grundgesetze, Band II]. *10

According to Professor Marco Ruffino, in Frege's philosophical logic, 'for any concept (be it logical or empirical), its extension is a logical object'! That's unbelievable!

ではなぜ Frege にとって外延は論理的なのか。それは、概念が論理学と不即不離の関係にあると Frege が考えているからのようである。

The notion of concept is a primitive one within logic in that no definition can be provided for it […]. Frege characterizes concepts as 'building blocks' ('Urbansteine') of logic […]; in GGA I, p. 3, he calls them the 'fundamental stones' ('Grundsteine') of his logical system; and in the notes to Jourdain's article he says that 'concepts are something primitive which cannot be dispensed with in Logic [sic]' […]. […] [H]e argues that Schröder's calculus of classes does not count as logic properly speaking, since it dispenses with the notion of concept.
What this reflection shows is the following: in Frege's view, concepts are the main subject that logic has to deal with in unfolding the laws of truth. Concepts then have a special status as logical entities. From the recognition of this special status of concepts in logical investigation we can obtain a better understanding of Frege's view on logical objects: the paradigmatic nature of extensions as logical objects is derived, I submit, from the methodological and ontological primacy of concepts in logic. Their logicality comes form the fact that they are objects necessarily introduced by the activity of logical investigations. They are, in Frege's view, a necessary product of doing logic, for doing logic necessarily involves talking about concepts, and talking about concepts requires, according to him, 'transforming' them into their representative objects. And these are extensions, if I am correct […]. *11

Frege は、論理学を概念にかかわる学問と見なしていたようである。論理学は概念にかかわらざるを得ず、かつ概念にかかわることが論理学にとっては本質的なのである*12。そうすると、概念から得られた概念の外延も論理的であると考えられる。あるいはそれは論理にかかわる何かであると考えられる。さらに言うと、Frege はいかなる概念も、それが鋭利な境界を持つものであれば、その概念の外延が論理的なものであることを認めていたようである。いかなる概念であれ、その概念の外延は論理的な対象なのである。例えば先ほどの、日本人という概念や爪楊枝という概念やペンギンという概念も、いかに卑近でいかに経験的と見えようとも、それらが鋭利な境界を持っているならば、それらの外延は論理的なものなのである。したがって、個々の自然数が、何であれ何らかの概念の、その外延であるとするならば、その概念が鋭利な境界を持つ限り、個々の自然数は論理的な対象なのであり、自然数は論理的なものなのである。自然数は論理的なものに基礎を持つものなのである。

もしも上記のことが正しいとするならば、自然数が何か特別な対象だから論理的なのだ、という訳ではないことがわかる。単に、種々様々にある多数の、鋭利な境界を持つ概念の一種の、その外延だから論理的なのだ、というだけのことである。自然数の概念は、いわば高尚な概念や卑近な概念などのうちの一種にすぎず、個々の自然数はその外延となっているから論理的なのだ、というだけのことである。

いずれにせよ以上のことを前提にして基本法則Vから出てくる矛盾を避け得るならば、Frege の念頭に置いていた論理主義は完遂されるだろう。そしてこのことの完遂には、基本法則Vが大変重要なのである。なぜなら自然数を論理的な対象として確保するために、概念から概念の外延を論理的な対象として引き出してやることを可能にするのが基本法則Vなのである。これがなければ、自然数を論理的対象として確保することはできないと、Frege にとっては考えられたのである。

PS
以上の話からすると、Frege にとって、鋭利な境界を持てば、その概念も論理的なのではあるまいか? 日本人という概念も、爪楊枝という概念も、ペンギンという概念も、もしも鋭利な境界を持っているなら、随分卑近な概念だが、それらの概念自身も論理的なものではあるまいか? 何だかにわかには信じがたい気もするのだが…。


以上で終わります。誤解しているところや無理解なところや完全な間違いが含まれているかもしれませんので、その点に対し、前もってお詫び申し上げます。誠に申し訳ございません。勉強し直します。

*1:See, e.g., Gottlob Frege, ''[Ausfürungen über Sinn und Bedeutung],'' in: Nachgelassene Schriften, Hrsg. von H. Hermes, F. Kambartel, F. Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, SS. 131-132, 邦訳、G. フレーゲ、「意義と意味詳論」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、106-107ページ。Gottlob Frege, ''Begriffsschrift II,'' dictated to Rudolf Carnap, in Erich H. Reck and Steve Awodey ed., Frege's Lectures on Logic: Carnap's Student Notes, 1910-1914, Open Court, Full Circle: Publications of the Archive of Scientific Philosophy, Hillman Library, University of Pittsburgh, vol. 1, 2004, p. 88.

*2:Ibid.

*3:Gottlob Frege, ''XXI/9 Frege an Jourdain,'' in: Wissenschaftlicher Briefwechsel, Hrsg. von G. Gabriel, H. Hermes, F. Kambartel, C. Thiel und A. Veraart, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Zweiter Band, 1976, S. 121, 邦訳、G. フレーゲ、「書簡 9 フレーゲよりジャーデイン宛」、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年、204ページ。

*4:この段落の話については、次も参考にしている。Harold W. Noonan, Frege: A Critical Introduction, Polity, Key Contemporary Thinkers Series, 2001, pp. 104-107. なお、Caesar Problems については、議論の多いところであり、Grundlargen, §56 の Caesar Problem を、ここで私が述べたようにだけ解されるべきであると、主張したい訳ではない。あまり深読みせず、simple に考えた場合には、大体このような説明になるのではなかろうか、というぐらいのものとして受け止めていただければと思う。因みに、私は Caesar Problems がすっかりわかっているという訳ではない。この問題に該当する Frege の文章を読んでも、またこの文章に関する諸家の解説を読んでも、わかったようなわからないような感じがしている。

*5:本日の日記のこの項目は、Grundlagen, 『算術の基礎』に多く依拠しているが、この著作ではまだ Sinn und Bedeutung の区別はなされていない。ではあるが、ここでは簡便のため、かつ事の明確化のため、'Bedeutung' とその派生語を利用させてもらう。

*6:Frege にとって概念の外延が、詳しくは何であるかについては、それと集合などとの対比が必要である。しかしここではそうするいとまがないので、参考までに次の文献を参照されたい。三平正明、「フレーゲカントールの対話」、『思想』、岩波書店、no.954、2003年第10号。

*7:この段落での説明と似た説明は、次にある。Charles Parsons, ''Frege's Theory of Number,'' in W. Demopoulos ed., Frege's Philosophy of Mathematics, Harvard University Press, 1995, originally published in M. Black ed., Philosophy in America, Cornell University Press, 1965, pp. 190-191. The pagination is the former's. 邦訳、チャールズ・パーソンズ、「フレーゲの数の理論」、小川芳範訳、岡本賢吾、金子洋之編、『フレーゲ哲学の最新像』、双書 現代哲学 5、勁草書房、2007年、47-49ページ。及び、Richard G. Heck, Jr, ''The Julius Caesar Objection,'' in his Frege's Theorem, Clarendon Press / Oxford University Press, 2011, pp. 129-130. This paper was originally published in 1997. なお、Grundlagen, §66 の Caesar Problem は、今述べたようにしか理解してはならない、と言っている訳ではない。

*8:この段落での話は、Noonan, Frege, pp. 115-117 を参考にしている。この本の pp. 116-117 の部分で、基数オペレータに割り当てることのできる複数の異なる関数の具体的事例が挙げられている。なお、先の註でも述べたが、Caesar Problems については長い間議論を呼んでいるため、Grundlagen, §66 の Caesar Problem が、ここでの私の説明のようにしか理解することができない、と言いたい訳ではない。Grundlagen, §66 の Caesar Problem に対する私の説明も、simple に捉えた場合には、おおよそこのようなものになるのではなかろうか、というぐらいのものとして取っていただければと思う。もう一度念を押しておくが、私は Caesar Problems がすっかりわかっているという訳ではない。この問題に該当する Frege の文章を読んでも、諸家の解説を見ても、わかったようなわからないようなところがあることを、付言しておく。

*9:厳密に言うと、この群れ自身は Frege にとって外延ではない。次に引用される英文を参照のこと。

*10:Ruffino, p. 57, n. 8. 邦訳、205ページ、註(8)。原著者によって付されている註は省いて引用している。

*11:Ruffino, pp. 69-70. 邦訳、196-197ページ。原著者によって付されている註は省いて引用している。

*12:See, not traditional Aristotelian syllogistic, but Aristotle's syllogistic. Also consider Frege's masterpiece title Begriffsschrift, 'Begriff' in 'Begriffsschrift.'