Until the End of his Life, Had Frege Been Holding the View That Russell's Contradiction Couldn't Be Evaded in his Begriffsschrift?

「Frege は自身の主著『算術の基本法則 (Grundgesetze der Arithmetik)』第1巻を出した後、その第2巻を完成させようとしていたところ、この第1巻の論理体系から矛盾が生じることを Russell により知らされた。いわゆる Russell's Paradox の知らせである。Frege は急遽、主著の第2巻の補遺に矛盾を防ぎ得ると考えられる対策を取って、破局から逃れることができたと考えた。しかし結局 Frege は自らの論理体系から Russell's Paradox による矛盾が出てくることを防ぐことができないと感じて、失意のうちにこの世を去った。」

Frege について特に詳しくはないものの、彼については少しは聞いたことがあるという方が上記の文章を読んだならば、恐らくそれほど引っ掛かりを感じることもなく、この文章を読み終えるのではないでしょうか。私自身もはっきりとした引っ掛かりを覚えることなく読み終えてしまうのではないかと思います。自身の学問的目標を達成しようとしている時に、そこから矛盾が生じると指摘されて、応急処置は講じたものの、やはり最終的には矛盾から逃れることはできないと感じて、生涯の学問的望みを断念し、不遇のうちに亡くなってしまったのが Frege である、これが彼を取り巻いているイメージのように思われます。私も何となく漠然とそんなイメージを Frege に対して抱いてきました。Russell Paradox から生じる矛盾を回避するために、Frege が Grundgesetze の第2巻補遺で取った対策からも、矛盾が生じるということが実際に具体的に証明されたのは、Frege が亡くなった後でしたが*1、Frege 自身はたとえ矛盾の存在を示す証明を実際に手にしていなかったとしても、自分の作り出した論理体系に、応急処置を施した後も、依然として矛盾が含まれているのではないか、という疑念を振り払うことができず、意気消沈した状態で、彼はこの世を去ったのだろうと、私たちは想像するかもしれません。


しかし、この通りだとすると、どうも腑に落ちない事柄が出てきます。
たとえば Frege は、Russell Paradox の知らせを受けた15年ほど後に、大学を退職し、Logische Untersuchungen を発表しています。そのなかの ''Der Verneinung'' や ''Gedankengefüge'' では、彼の概念記法の基本的なところを詳しく論じているように見えます。もしそうだとすると、矛盾している論理体系の基本的なところを論じているということになります。率直に言えば、間違っている論理体系の基本的部分を解説しているということです。Frege 自身が矛盾し間違ってしまっていると感じている論理体系を、どうして彼は真顔で論説できるのでしょうか。
個人的な話をここで一つ挟みますと、私が Frege について学び始めた頃、読んだ文献の一つに、次の翻訳がありました。

この本を買ってきて、全部読みました。この本の後半に Logische Untersuchungen が入っていたと思います。それを読んだ時に漠然と感じたのは、その時には私は既に Frege の論理体系は矛盾していると知っていたので、なぜ Frege は Logische Untersuchungen の中で、矛盾している論理体系の基本的部分を熱心に論述しているのだろう、ということでした。矛盾して間違っているだろうに、なぜだろうな、と感じました。''Gedankengefüge'' が出た2年ほど後に Frege は亡くなります。最晩年の作品の中で、彼自身が作り出した論理体系の基本的部分を一生懸命論じている訳です。矛盾している論理体系だろうに、なぜこうも熱心かつ真剣に論じているのでしょうか。不思議な気がします。

また、自身の作り出した論理体系では矛盾から逃れられず、失意のうちに没した Frege というイメージからは、腑に落ちないと思われる事柄が少なくとももう一つすぐに思い浮かびます。それは彼が Russell Paradox に出会ってしまった後も、大学の授業で自身の論理学を解説する 'Begriffsschrift' と呼ばれる授業を、退官する2年前まで、その間休講することもあったかもしれませんが、几帳面なことにほとんど毎年のように開講していたということです。いずれにせよ、例の Paradox を Frege が知るのは1902年ですが、この年の夏学期は恐らくこの Paradox との関係からか、'Begriffsschrift' の講義は開講していないようです。しかし1903年から1917年初頭の学期までは毎年のようにこの講義を行い、途中休講になっているのは、1908年夏学期ぐらいのようで、この1908年夏学期を除いた1903年から1917年初冬まではずっと概念記法の講義を行っていたようです。1917年の夏学期と1918年の概念記法講義は、どうやら Frege の健康上の理由から休講となり、そのまま1918年を最後の年として、彼は退官しています*2。矛盾して間違っていると自身で感じていたかもしれない論理学を、なぜ Frege は大学の授業で真面目に教授できるのでしょうか*3。ほとんど毎年のように退官する少し前まで、矛盾していると思われる概念記法の授業を行っているということは、どういうことなのでしょうか。


腑に落ちないと考えられるこれらの事柄から、もしかして Frege は自身の論理体系が、矛盾していないと感じていたのではないか、と推測されます。あるいは自身の論理体系に見つかった矛盾を回避できると感じていたのではないでしょうか。実際に、このような推測が必ずしも的外れではないことを伝える文献が残っています。それは Frege が亡くなる二ヶ月ほど前にしたためた書簡です。亡くなる二ヶ月ほど前の書簡ですから、恐らくこの書簡に記された考えを胸中に抱いたまま、Frege はあの世へ向かったものと推察されます。その書簡の該当箇所を以下で引用してみますが、その前にこの書簡が書かれた背景を述べておきます。
まず、Frege は ''Erkenntnisquellen der Mathematik und der mathematischen Naturwissenschaften'' という論文を1924/1925年頃に書いています。これを新カント派の Richard Hönigswald さんという方が読みました。Hönigswald さんは哲学の本のシリーズを編集されていたようで、Frege のこの論文を自分のシリーズの一冊に加えたいと考えました。そこで Frege に手紙を書いて、この論文を膨らませて小冊子にしてほしいと頼みました。この時、Hönigswald さんは Frege に質問をし、Rassell Paradox に対する見解を詳しく知りたいと手紙に記しました。Frege はこれを受けて、返信をしたためています。それが以下に引用する Frege の書簡です。ここでの引用文中及び引用文中の註における「[ ]」は、引用者によるものではなく、邦訳にあるものです。また原文と邦訳にある註はすべて省いて引用します。引用する文献は以下の通りです。

  • Gottlob Frege  ''XVII/5 Frege an Hönigswald 26.4. - 4.5. 1925,'' in: Wissenschaftlicher Briefwechsel, Hrsg. von G. Gabriel, H. Hermes, F. Kambartel, C. Thiel und A. Veraart, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Zweiter Band, 1976, 邦訳、G. フレーゲ、「[書簡 5 フレーゲよりヘーニヒスワルト宛]、1925年4月26日-5月4日」、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年

この書簡を記した後の、およそ二ヵ月ほどした7月に Frege は亡くなっています。それでは書簡の文面の一部を引用してみます。なお、今回の日記で引用する文章は、どれも大変興味深く、重要と考えられるので、以下で多数の長文が引用文として出てきますが、どうかご容赦下さい。

Ich wende mich zuerst den Paradoxien der Mengenlehre zu. Sie entstehen dadurch, dass man einen Begriff, z.B. Fixstern, mit etwas verbindet, was man die Menge der Fixsterne nennt, was durch den Begriff bestimmt erscheint und zwar als ein Gegenstand. Ich denke mir also die unter den Begriff Fixstern fallenden Gegenstände zu einem Ganzen vereinigt, das ich als Gegenstand auffasse und mit einem Eigennamen „die Menge der Fixsterne‟ bezeichne. Diese Verwandlung eines Begriffes in einen Gegenstand ist unzulässig; denn nur scheinbar ist die Menge der Fixsterne ein Gegenstand; in Wahrheit gibt es einen solchen Gegenstand gar nicht. *4


私は [きょう] 初めて集合論のパラドクスに向かいました。パラドクスは、例えば、恒星といった、一つの概念を恒星の集合と呼ばれるあるものと結合することによって生じます。そしてその集合は、当の概念によって確定されながらしかも対象として現れるのです。かくて私は恒星という概念に属する諸対象を一つの全体にまとめ、それを一つの対象として把握し「恒星の集合」という固有名で表示しようと考えます。[しかし] 一つの概念から一つの対象へのこの変換は許されません。というのは恒星の集合は単に見かけ上対象であるに過ぎないからです。本当のところはこのような対象は全く存在しないのです。*5

ここで Frege は、概念を対象としての集合に結び付けることが Russell Paradox の原因だ、だから概念を対象に変換してはならない、と述べています。Frege にとって Russell Paradox の原因は、概念には対象が伴うとすること、あるいは概念を対象として捉え返してしまうことのうちにある、ということです。

Das Wesentliche dieses in ein Gestrüpp von Widersprüchen führenden Verfahrens ist in folgendem zusammenzufassen. Man sieht die unter F fallenden Gegenstände als ein Ganzes, einen Gegenstand an und bezeichnet es mit dem Namen „Menge der F‟ („Begriffsumfang von F‟, „Klasse der F‟, „System der F‟ usw.). Man verwandelt hiermit ein Begriffswort „F‟ in einen Gegenstandsnamen (Eigennamen) „Menge der F‟. Dieses ist unzulässig wegen der wesentlichen Verschiedenheit von Begriff und Gegenstand, die freilich in unseren Wortsprachen sehr verdeckt ist. *6


矛盾の藪の中に導くこの過程で本質的なことは、次のようにまとめられるべきでしょう。F に属する諸対象を一つの全体、一つの対象と見なし、そしてそれを「F の集合」 (「概念 F の外延」、「F のクラス」、「F の体系」等) という名前で表示します。これによって概念語「 F 」を対象名 (固有名) 「F の集合」に変換しているのです。このことは、確かに我々の日常語ではすっかり覆われていますが、概念と対象との本質的な差異の故に、許されないことです。*7

ここでは Frege は、概念語を、集合やクラスの名前である対象名に変換してはならないと、述べています。

Der Ausdruck „der Umfang des Begriffes F‟ scheint durch seine vielfache Verwendung so eingebürgert und durch die Wissenscahft beglaubigt zu sein, dass man es nicht für nötig hält, ihn genauer zu prüfen; aber die Erfahrung hat gelehrt, wie leicht man dadurch in einen Sumpf geraten kann. Auch ich gehöre zu den Leidtragenden. Als ich die Zahlenlehre wissenschaftlich begründen wollte, war mir ein solcher Ausdruck sehr gelegen. Zwar kamen mir zuweilen bei der Ausarbeitung leise Zweifel, aber ich beachtete sie nicht. So geschah es, dass nach Vollendung der Grundgesetze der Arithmetik mir der ganze Bau zusammenstürzte. Durch ein solches Ereignis muss man nicht mur sich selbst warnen lassen, sondern man muss auch andere warnen. Eine weithin sichtbare Warnungstafel muss aufgerichtet werden: niemand lasse sich einfallen, einen Begriff in einen Gegenstand zu verwandeln! Hiermit mögen die Paradoxien der Mengenlehre zunächst abgetan sein! *8


「概念 F の外延」という表現は、その多様な使用を通じて大変広くゆきわたっており、また学問的に許容もされているので、それを一層厳密に検討する必要があるとは見なされないかもしれません。しかしながら、それによっていかにたやすく泥沼に落ち込みうるかを、経験が教えてくれました。私もまたそうした犠牲者の一人です。私が数論を学問的に基礎づけたいと思ったとき、こうした表現は私にとり大変好都合でした。時に推敲に際してかすかな疑いが私に兆すことがありましたが、私はそれに注意を払いませんでした。そうして『算術の基本法則』の完成後に全ての建物が崩壊するということが起こったのでした。このような出来事によって自分だけ用心するのみならず、また他人にも警告せねばなりません。遠くから見えるような次のような警告板を立てなければなりません。即ち、誰も概念を対象に変換しようなどと思ってはならない! これでさしあたり集合論のパラドクスは解決されたとしてよろしい! *9

ここでの Frege の主張は、次のように表すことができると思われます。すなわち、問題の根は 'der Umfang des Begriffes F' という表現のうちにある、概念を対象に変換してはならない、そのように変換しなければ Russell Paradox は防ぎ得るのである (そしてその結果、Begriffsschrift は無矛盾なまま保たれるのである)。


こうして今まで引用してきたこの書簡では、Frege の見解によると、Russell Paradox は防げるのだ、ということです。Russell Paradox により生じる矛盾から逃れることができるのだ、と Frege は言っています。概念を、概念の外延や集合やクラスという対象に変換しなければ、Begriffsschrift は無矛盾なままだ、と言っているものと考えられます。死のほとんど直前に書かれたこの書簡で Frege は、Begriffsschrift の部分系の無矛盾性を信じているものと見ることができると思われます。

この1925年4月の書簡にさかのぼること15年前の1910年春から秋の頃に書かれたと推測される次の書簡でも、Frege は Russell Paradox の原因について触れています。

  • Gottlob Frege  ''XXI/9 Frege an Jourdain,'' in: Wissenschaftlicher Briefwechsel, Hrsg. von G. Gabriel, H. Hermes, F. Kambartel, C. Thiel und A. Veraart, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Zweiter Band, 1976, 邦訳、G. フレーゲ、「書簡 9 フレーゲよりジャーデイン宛」、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年

Und nun hat sich grade gezeigt, dass bei der Einführung der Klassen eine Schwierigkeit entsteht (die contradiction Russells). Bei meiner Weise, die Begriffe als Functionen aufzufassen, kann man die Hauptsachen der Logik behandeln, ohne von Klassen zu sprechen, wie ich das in meiner Begriffsschrift gethan habe, und jene Schwierigkeit kommt dabei nicht in Betracht. Ich habe mich nur schwer zur Einführung der Klassen oder Begriffsumfänge entschlossen, weil mir die Sache nicht ganz sicher schien und, wie sich gezeigt hat, mit Recht. Die Gesetze der Zahlen sollten rein logisch entwickelt werden. Die Zahlen aber sind Gegenstände und in der Logik hat man zunächst nur zwei Gegenstände: die beiden Wahrheitswerthe. Da lag es nun am nächsten Gegenstände aus Begriffen zu gewinnen, nämlich die Begriffsumfänge oder Klassen. Dadurch wurde ich dazu gedrängt, mein Widerstreben zu überwinden und den Ubergang von den Begriffen zu ihren Umfängen zuzulassen. Und nachdem ich mich einmal dazu entschlossen hatte, machte ich von den Klassen einen ausgedehnteren Gebrauch, als nöthig gewesen wäre, weil sich damit manche Vereinfachungen erzielen liessen. Freilich habe ich dabei den Fehler gemacht, meine anfänglichen Bedenken zu leichthin fahren gelassen zu haben im Vertrauen darauf, dass von Begriffsumfängen in der Logik schon lange die Rede gewesen ist. Die Schwierigkeiten, die mit dem Gebrauche der Klassen verbunden sind, fallen weg, wenn man nur von Gegenständen, Begriffen und Beziehungen handelt, was in dem grundlegenden Theile der Logik möglich ist. Die Klasse ist nämlich etwas Abgeleitetes, während wir im Begriffe - wie ich das Wort verstehe - etwas Ursprüngliches haben. Demgemäss sind auch die Gesetze der Klassen weniger ursprünglich als die Gesetze der Begriffe, und es ist nicht sachgemäss, die Logik auf die Klassengesetze zu gründen. Die logischen Urgesetze dürfen nichts enthalten, was abgeleitet ist. Man kann die Arithmetik vielleicht als weiter entwickelte Logik ansehn. Damit ist aber gesagt, dass sie im Vergleich zur grundlegenden Logik etwas Abgeleitetes ist. *10


そして、いまでは明らかなとおり、クラスを導入すれば困難が生じるのである (ラッセルの矛盾)。概念を関数として把握しようとする私のやり方では、私の概念記法において為されたように、クラスについて語ることなく論理学の主要問題を取り扱うことができ、その場合には上の困難は問題とはならない。唯一困難を伴って私が行なったのはクラスもしくは概念の外延を導入する決意を固めたことであった。というのも、私には、事態がまったく安全であるようには見えなかったし、いまでは明らかにされているように、それには正当な理由があったわけである。数の法則は純粋に論理的に説明されなければならなかった。しかしながら、数は対象であり、また、論理学においてはさしあたり二つしか対象はない。両方の真理値である。そこで急務とされたのが、概念から対象を手に入れること、すなわち、概念の外延もしくはクラスを手に入れることだったのである。このことによって、私は自らの葛藤を押さえつけ、概念から概念の外延へと移行することを容認するようにせきたてられたのである。そして、いったんこうした決意を固めた後では、私はクラスについて、必要であった以上の拡張された使用さえ行なった。というのも、そうすることによって、多くの単純化が成功したからである。たしかに私は、そうすることによって誤りを犯した。すなわち、概念の外延というものが、論理学においてすでにながらく語られてきたものである、という事実によりかかって、軽はずみにも、自分の最初の疑念を手離してしまったのである。クラスの使用に結びついた諸困難は、対象や概念や関係のみを取り扱うことにすれば解消する。そして、それは論理学の基本的な部分に関しては可能である。すなわち、クラスはなんらかの派生的なものであり、他方、我々は概念 −私がこの語をそう理解するかぎりでの− において、なんらかの根源的なものを有する。したがって、概念の法則はクラスの法則よりも根源的なものであり、論理学をクラスの法則に基づかせるのは適切さを欠いている。論理学の基本法則は、派生的なものをなにひとつとして含まない。ひとはおそらく算術を一層展開された論理学と見なすことができるであろう。ということは、しかしながら、算術は、基礎的な論理学に比べれば、なんらかの派生的なものである、と言われることになる。 *11

ここではとても重要なことがたくさん述べられているので、この引用文の内容を一言で言い表すことはできません。あまりに興味深い内容のため、一文一文について逐一考え込んでしまいそうです。それはさておき、今までの話の流れから、関連することがらのみを取り上げてみます。極めて重要で、注目に値する文も見られますが、それらについてはあえて一切言及しません。
まず、Russell Paradox により生じる矛盾の原因は、クラスまたは概念の外延を導入したことにある、と Frege は述べています。しかしクラスを導入することによって生じる矛盾は、クラスの導入をやめ、対象や概念や関係のみを取り扱うことにすれば、避けることができる、と Frege は言っているように見えます。そしてこのことは論理学の基本的な部分 (in dem grundlegenden Theile der Logik) では達成可能である、と Frege は語っているようです。論理学の基本的/基礎的な部分とはどの部分のことを言うのか、はっきりとはわかりませんが…。


翻ってみるに、最初に引用した最晩年の1925年の書簡や、今引用したばかりの1910年の書簡から、Frege にとって Russell Paradox の原因は、概念の外延や集合やクラスを導入することにあり、これら概念の外延や集合やクラスの導入がなされるのは、概念を対象に変換することによってであった、と考えてよいように思われます。


それでは概念を対象に変換するとは、具体的にはどういうことを言うのでしょうか。例えばドイツ語や英語などの日常語のうちでは、それはどのようにすることなのでしょうか。そのことの一例がよくわかる晩年の Frege の文を次に引用してみます。引用するのは1924/1925年頃に書かれたと考えられる次の論考の一部です。

  • Gottlob Frege  ''Erkenntnisquellen der Mathematik und der mathematischen Naturwissenschaften,'' in: Nachgelassene Schriften, Hrsg. von H. Hermes, F. Kambartel, F. Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, 邦訳、G. フレーゲ、「数学と数学的自然科学の認識源泉」、金子洋之訳、野本和幸、飯田隆編、『フレーゲ著作集 5 数学論集』、勁草書房、2001年

引用してみましょう。

Eine für die Zuverlässigkeit des Denkens verhängnisvolle Eigenschaft der Sprache ist ihre Neigung, Eigennamen zu schaffen, denen kein Gegenstand entspricht. Wenn das in der Dichtung geschieht, die jeder als Dichtung versteht, so hat das keinen Nachteil. Anders ist es, wenn es in einer Darlegung geschieht, die den Anspruch auf strenge Wissenscahftlichkeit macht. Ein besonders merkwürdiges Beispiel dazu ist die Bildung eines Eigennamens nach dem Muster „der Umfang des Begriffes a‟, z.B. „der Umfang des Begriffes Fixstern‟. Dieser Ausdruck scheint einen Gegenstand zu bezeichnen wegen des bestimmten Artikels; aber es gibt keinen Gegenstand, der sprachgemäss so bezeichnet werden könnte. Hieraus sind die Paradoxien der Mengenlehre entstanden, die diese Mengenlehre vernichtet haben. Ich selbst bin bei dem Versuche, die Zahlen logisch zu begründen, dieser Täuschung unterlegen, indem ich die Zahlen als Mengen auffassen wollte. Es ist schwer, einen allgemein üblichen Ausdruck zu vermeiden, wenn man die Fehler, die daraus entspringen können, noch nicht kennengelernt hat. Es ist gar schwer, vielleicht unmöglich, jeden Ausdruck, den uns die Sprache darbietet, auf seine logische Unverfänglichkeit zu prüfen. So besteht denn ein grosser Teil der Arbeit des Philosophen - oder sollte wenigstens bestehen - in einem Kampfe mit der Sprache. Aber vielleicht sind nur wenige sich dieser Notwendigkeit bewusst. Derselbe Ausdruck


   „der Umfang des Begriffes Fixstern‟


ist gleich noch in anderer Weise ein Beispiel für die verhängnisvolle Neigung der Sprache, scheinbare Eigennamen zu bilden. Ein solches ist schon


   „der Begriff Fixstern‟.


Durch den bestimmten Artikel entsteht der Schein, es solle hiermit ein Gegenstand bezeichnet werden, oder, was dasselbe ist, „der Begriff Fixstern‟ sei ein Eigenname, während doch „Begriff Fixstern‟ eine Begriffsbezeichnung ist und damit im schärfsten Gegensatze zu jedem Eigennamen steht. Es sind unabsehbare Schwierigkeiten, in die wir durch diese Eigenheit der Sprache verstrickt werden. *12


言語の、思考の信頼性にとって致命的な性質の一つは、いかなる対象もそれに対応しないような単称名辞を造り出す傾向性である。こうしたことが虚構において生じたとしても、誰もがそれを虚構として理解する限り、それは何の欠陥でもない。[だが、] そうしたことが、強い学問性 (科学性) が求められるような説明において生ずるならば、話は別である。これに対する、特に注目すべき実例は、「概念 a の外延」という原型に基づく単称名辞の構成、例えば「概念恒星の外延 der Umfang des Begriffes Fixstern」である。この表現は、定冠詞をもつがゆえに、一つの対象を表示するように思われる。しかし、言語的にそのようにして表示されうる、いかなる対象も存在しない。ここから、集合論パラドックスが生み出された。それは、この集合論を壊滅させたのである。私自身は、数を論理的に基礎づけようと試みたときに、数を集合として把握しようとしたがゆえに、この思い違いによって屈服させられた。普通の一般的表現に起因する欠陥をいまだわれわれが知らないときに、そうした表現を避けるのは難しい。言語がわれわれに提供するすべての表現について、それらが論理的に無害かどうかを調べ尽くすのは、全く困難であり、あるいは不可能ですらあるかもしれない。したがって、その場合、哲学者の仕事の大部分は言語との格闘に存する − あるいは、少なくともそうあるべきである。だが、たぶんこの必要性はごくわずかにしか意識されていない。同じ表現


   ''概念恒星の外延''


は、さらに別の仕方ではあるが同様に、見せかけの単称名辞を造り出すという言語の有害な傾向性の実例である。すでに、


   ''概念恒星 der Begriff Fixstern''


がそのような例である。定冠詞があるために、その表現によって一つの対象が表示されるはずだという見せかけ、あるいは同じことだが、''概念恒星 der Begriff Fixstern'' は単称名辞であるという見せかけが生ずる。だが、その一方で、''概念恒星 Begriff Fixstern'' は概念を表示する表現であり、したがって、あらゆる単称名辞とはまったく対照的なのである。それは察知できない困難であり、言語のこの特異性によってわれわれはその困難に巻き込まれてしまうのである。*13

定冠詞を含む表現 'der Umfang des Begriffes a' の 'a' を概念語 'Fixstern' と入れ換えてやること、別言すれば、概念語 'Fixstern' に定冠詞付きの表現 'der Umfang des Begriffes' を前置してやること。すなわち 'der Umfang des Begriffes Fixstern' と表現すること。別の例では概念語 'Begriff Fixstern' に定冠詞 'der' を前置して 'der Begriff Fixstern' と言い表すこと。これらが日常語のレベルにおける概念の、対象への変換手続きだ、ということです。そしてこの引用文中でもまた、概念の、対象への変換が Russell Paradox の原因であると Frege は述べています。


それでは日常語ではなく Begriffsschrift において、概念を対象に変換するとは、どのようにすることなのでしょうか。そのような変換の役目を担った Begriffsschrift の device とは何でしょうか。それは、すぐに思いつくように、基本法則V, または基本法則V'です。今まで述べてきたことから、概念を対象に変換することは、いかなる場合も例外なく許されないと、もしも Frege が考えていたとするならば、かつ Begriffsschrift において、概念を対象に変換することが、基本法則V, および基本法則V'によって担われているとするならば、Frege は基本法則V, および基本法則V'を廃棄、禁止せねばならないでしょう。彼が Grundgesetze の第2巻補遺で基本法則Vを捨てて、V'に乗り換えたことは、よく知られています。この補遺を書いた後、Frege は基本法則Vを禁止し、V'を堅持し続けたのでしょうか。それともそれを書いた後のある時点でV'も廃棄、禁止するようになったのでしょうか。


どうやら Frege はVもV'も廃棄し、禁止しているのではないかと思わせる文献資料が残っています。それは次の英訳書に掲載されている Frege の講義録です。

  • Erich H. Reck and Steve Awodey ed.  Frege's Lectures on Logic: Carnap's Student Notes, 1910-1914, Open Court, Full Circle: Publications of the Archive of Scientific Philosophy, Hillman Library, University of Pittsburgh, vol. 1, 2004

ここには1910-1911年冬学期の講義 'Begriffsschrift I' と1913年夏学期の講義 'Begriffsschrift II' が Carnap の書き取りとして掲載されています。両講義とも、Begriffsschrift の解説であり、I は入門編、II は中級・上級編といった感じです。そこで注目すべきなのは後者の II の方であり、ここでは解析学の基本概念が Begriffsschrift の言葉で表せるとして、そのことを実行してみせており、多数の複雑な式が現れています。そしてそこでは Grundgesetze基本法則のI, II, IIIが使用されており、しかし基本法則のIV, V, VIは、私が流し読んでみた限り、使用されていないようです。また、上記の Reck and Awodey 本には解説が2本収録されていて、

  • Gottfried Gabriel  ''Introduction: Frege's Lectures on Begriffsschrift''
  • Erich H. Reck and Steve Awodey  ''Frege's Lectures on Logic and Their Influence''

これらの解説どちらにおいても、上述の Frege の二つの講義録では基本法則のIV, V, VIが利用されていないと述べています*14。加えて Gabriel さんの解説文では、件の Frege の講義においては、概念の外延や値域について触れられていないと述べています*15
Frege は意図的に基本法則VやV'を避けているのでしょうか。正確なところはわかりません。たまたまそれらの法則を使っていないだけなのかもしれません。どういった事情で Frege がVやV'を使っていないのか、詳細はわからないのですが、可能性としては、VもV'も使うべきではないとして、わざと使っていないのかもしれません。そうだとすると、残りの法則で充分であると Frege は考えていたのかもしれません。VやV'などを落とした Begriffsschrift の部分系で充分で、この系は無矛盾であると Frege は信じていたのかもしれません。
そうだとすると、晩年に Logische Untersuchungen において熱心に Frege が Begriffsschrift の基本的部分を真面目に解説していたことの説明が付きます。VやV'を落としたBegriffsschrift の部分系の基本的部分は無矛盾だと信じていたから、その部分の解説を真面目にしていたという訳です。また、晩年のたびたびの講義で Begriffsschrift を解説していたことの説明も付きます。VやV'を落としたBegriffsschrift の部分系は無矛盾だと信じていたから、その部分系に限り、大学で講義していたという訳です*16


Frege は、VはもとよりV'を持った Begriffsschrift も、矛盾していると思っていたかもしれません。そのため、これらを含めた法則のいくつかを落として Begriffsschrift を確保・堅持したのかもしれません。その場合、彼はその Begriffsschrift が無矛盾であると信じていた可能性があります。自然数を論理・論理学から説明する彼の試みは、放棄されたかもしれませんが、Begriffsschrift の部分系は無矛盾だとして保持していた可能性があります。そしてこれを利用しつつ、今度は自然数を論理・論理学によってではなく幾何学によって説明する試みを最晩年に Frege は取ったのかもしれません。この最晩年の試みは、死を迎えることによって中断されてしまいましたが、その死を迎えるにあたっては、Begriffsschrift は、全部が全部矛盾していて駄目であると Frege は考えていたのではなく、VやV'らを落とした Begriffsschrift の部分系は永遠に残り、これを使って幾何学による自然数の新たな説明が可能であると前向きに信じながら Frege はあの世へと旅立ったのかもしれません。幾何学による自然数の説明は別として、VやV'を落とした Begriffsschrift の部分系が生き残ったというのは事実かもしれません。その系は現代の論理学に取り入れられ、今も私たちの心の中に生き続けていると言えるでしょう。


以上の記述に対し、誤解や無理解、勘違い、それに誤字、脱字等が含まれていましたら、申し訳ございません。ここにお詫び致します。

*1:Frege が Grundgesetze の第2巻補遺で取った対策からも、矛盾が生じるという証明の歴史と、その証明の分析についての二次文献としては、恐らく次の文献がまずは何より参照される必要があるだろうと個人的には思っています。Gregory Landini, ''The Ins and Outs of Frege's Way Out,'' in: Philosophia Mathematica, vol. 14, no. 1, 2006.

*2:Frege の概念記法の講義記録については、野本和幸、『フレーゲ入門 生涯と哲学の形成』、双書エニグマ勁草書房、2003年、148, 210-211ページを参照しました。

*3:Carnap は Frege による概念記法の講義に出ていたことがありましたが、その際には、Russell Paradox の話が語られた覚えはないと言っています。Rudolf Carnap, ''Intellectual Autobiography,'' in Paul Arthur Schilpp ed., The Philosophy of Rudolf Carnap, Open Court, The Library of Living Philosophers, vol. 11, 1963, pp. 4-5. そして Charles Persons さんは Frege による概念記法の講義について、次のように書いています。'[I]t is hard to imagine him [Frege] presenting a system he knew to be inconsistent without even mentioning the problem [Russell Paradox].' See Charles Parsons, ''Some Remarks on Frege's Conception of Extension,'' in M. Schirn, Hrsg., Logik und Philosophie der Mathematik = Logic and Philosophy of Mathematics, Frommann-Holzboog, Reihe Problemata, 42, 1976, p. 274.

*4:Wissenschaftlicher Briefwechsel, S. 85.

*5:G. フレーゲ、「[書簡 5 フレーゲよりヘーニヒスワルト宛]」、316ページ。

*6:Wissenschaftlicher Briefwechsel, S. 86.

*7:「[書簡 5 フレーゲよりヘーニヒスワルト宛]」、317ページ。

*8:Wissenschaftlicher Briefwechsel, SS. 86-87.

*9:「[書簡 5 フレーゲよりヘーニヒスワルト宛]」、318ページ。

*10:Frege, ''XXI/9 Frege an Jourdain,'' S. 121.

*11:G. フレーゲ、「書簡 9 フレーゲよりジャーデイン宛」、203-204ページ。

*12:Frege, ''Erkenntnisquellen der Mathematik und der mathematischen Naturwissenschaften,'' SS. 288-289.

*13:G. フレーゲ、「数学と数学的自然科学の認識源泉」、300-301ページ。

*14:Gabriel, p. 3, Reck and Awodey, p. 33.

*15:Gabriel, p. 6. しかし日常語で概念を対象に変換した 'the concept ''square root of 4'' ' という言い回しに相当するドイツ語は、1913年夏学期の講義中で Frege は使っていたようです。See p. 66, and Gabriel, p. 6. 最晩年に、概念を対象へ変換してはならないと、きっぱり述べていた Frege がなぜそのような変換を許す言い回しを、この時点で使用していたのかは、よくわかりません。そのような変換を禁止しようとしたからこそ、VやV'を禁じていたのだと思われるのに、その一方で 'the concept ''square root of 4'' ' という言い回しを使うのは、不整合で筋が通りません。厳密にはこのような言い回しは使うべきではないのだが、日常語でなされる講義で、その種の言い回しを一切禁止してしまっては、あまりに厳格すぎて、講義内容が受講者に理解しがたいものとなるので、教育的配慮から、便宜的にその種の言い回しを使っているのかもしれません。しかし詳細はわかりません。

*16:その他に、晩年に Begriffsschrift に関する落穂拾いのような仕事を Frege はいくつか残していましたが、このことの説明も付きます。VやV'を落としたBegriffsschrift の部分系は無矛盾だと信じていたから、VやV'に絡んでこない部分で有用なものを拾い出し、まとめ直していたのだろうという訳です。