The Final Years of Kurt Grelling

先日、次の本を購入し、

  • Nikolay Milkov and Volker Peckhaus eds., The Berlin Group and the Philosophy of Logical Empiricism, Springer, Boston Studies in the Philosophy and History of Science, vol. 273, 2013,

何となく中を見ていると、Kurt Grelling さんの伝記が internet 上で、誰でも無料で読めることに初めて気が付いた。以下がそれです。

  • Abraham S. Luchins and Edith H. Luchins  ''Kurt Grelling: Steadfast Scholar in a Time of Madness,'' in: Gestalt Theory, vol. 22, no. 4, 2000, pp 228-281, expanded version, 2001, http://gestalttheory.net/archive/kgrelbio.html.

Kurt Grelling さんと言えば、Grelling's Paradox で有名であり、悲劇的な死を遂げたことでも知られていると思います。そこで上記の伝記の悲劇的な死に至るくだりを読んでみました。詳しい話を知らなかったので、ちょっと驚きました。また、読んでいて胸が熱くなる文章もありました。Grelling さんの死の真相がわかるとともに、胸打つところもありました。これはぜひ皆様にご紹介したいと思いました。以下ではこれらのくだりを訳出して内容をお伝えしたく思います。ただし、以下の訳文を読むだけではなく、必ず上記の page で英語原文もお読みください。私の訳文はまったく補助的なものです。英語原文を読まなければ、読んだことにはならないとご理解ください。上記の page では、Kurt Grelling さんらの写真も見ることができます。必ず上記の page を見てあげてください。繰り返しますが、私の訳文は参考程度のものですので、誤訳が含まれているでしょうから、絶対に英語原文に当たってください。なお今回は、blog の記事にしては、非常に長いです。ものすごく長いので、時間のない方は、読むのはやめておかれたほうが、よいと思います。

伝記的事実の一部を訳出する前に、Grelling's Paradox を復習しておきます。簡単なのですぐ説明し終えると思います。(Kurt Grelling さんの運命に興味があり、論理学的な事柄には直接関心がない方は、以下の一段落を飛ばしてください。)

形容詞には自分自身に当てはまるものと、当てはまらないものがあります。「短い」という形容詞は、「「短い」は短い。」と言えますので、「短い」という形容詞は、自分自身に当てはまります。しかし、「長い」という形容詞は、「「長い」は長い。」とは言えないと思われますので、「長い」という形容詞は、自分自身に当てはまりません。自分自身に当てはまる形容詞のことを、「オートロジカル (autological)」と言い、自分自身に当てはまらない形容詞のことを「ヘテロロジカル (heterological)」と言うことにすれば、「短い」という形容詞は、オートロジカルであり、「長い」という形容詞は、ヘテロロジカルです。ところで、「オートロジカル」という言葉も形容詞であり、「ヘテロロジカル」という言葉も形容詞ですので、それぞれについて、オートロジカルか、ヘテロロジカルかを考えることができます。試みに「ヘテロロジカル」は自分自身に当てはまるとしてみましょう。つまり、「「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルである。」 すると、「ヘテロロジカル」という言葉は、ここで自分自身に当てはまっていますので、「ヘテロロジカル」はオートロジカルです。すなわち、「ヘテロロジカル」がヘテロロジカルであるならば、「ヘテロロジカル」はオートロジカルです。では、「「ヘテロロジカル」はオートロジカルである。」としてみましょう。すると、ここで「ヘテロロジカル」という言葉は、自分自身に当てはまるということが言われていますので、自分自身に当てはめてよく、「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルです。すなわち、「ヘテロロジカル」がオートロジカルであるならば、「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルです。こうして、「ヘテロロジカル」がヘテロロジカルであるならば、「ヘテロロジカル」はオートロジカルであり、かつ、「ヘテロロジカル」がオートロジカルであるならば、「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルですので、「ヘテロロジカル」がヘテロロジカルであることと、「ヘテロロジカル」がオートロジカルであることは、同値です。「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルか否かのどちらか一方でしょう。しかし、「ヘテロロジカル」がヘテロロジカルであることとオートロジカルであることが同値であるならば、「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルであるとともに、ヘテロロジカルではないということになります。あるいは、「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルではないとともに、ヘテロロジカルでもあるということになります。これは矛盾です。(何だか、頭がこんがらかってくるかもしれませんが、とても簡単なことですので、ゆっくり読み直してみてください。わかりにくかったら、すみません。)


さて、Grelling さんの最後の日々を以下で訳出させていただきますが、訳出するのは伝記後半部分にある 'The Final Years of Kurt GRELLING' のうちの次です。

    • First a brief overview to bring us to the final years
    • 10 May 1940 - 18 September 1942
    • Words of Explanation
    • Kurt and Greta GRELLING as Described in Survivors' Letters
    • Letter from Hans FRAENKEL to Karin GRELLING, dated 20 September 1945
    • Letter from W. TRAUMANN to Karin GRELLING, dated 18 June 1946
    • TRAUMANNs second letter, of 24 July 1946
    • A Comment on the GRELLINGS' Fate (の一部)

および、最後にある

    • Epilogue (の一部)

です。上記 'A Comment on the GRELLINGS' Fate' と 'Epilogue' の間にある 'Parallels with Academic Diarists' と 'A Parallel to Otto SELZ' は、訳出から完全に省きました。Grelling さんの伝記的事実そのものを語っているのではなく、似たような人生を歩んだ人々の話が中心となっているからです。また、註の類いも一切省いています。さらに、注意しておきますと、私は英語が得意でありませんし、Grelling さんを専門的に研究しているのでもありません。当時の状況に詳しい訳でもありません。したがって、訳出してはみるものの、誤訳が多数含まれている可能性が非常に高いです。それに、徹底的に厳密に訳出しているというのでもありません。前から前から次々に訳し出すという形で訳しています。例えば関係代名詞を「〜するところの−」と、行きつ戻りつ訳すのではなく、「−である。それは〜している。」のように訳していたり、人称代名詞をいわば開いて訳していたり、人称代名詞を全部逐一訳し出すと、くどすぎる場合は、文脈にそのいみ内容をゆだねて、その前後からそれとなくわかるように訳したりしています。厳密、正確には、英語原文をご覧ください。文法的には難しいところはありません。(と言いながら、誤訳していましたらすみません。) 訳文は、参考程度にしてください。読み直して確認し推敲してから、ここに訳文を掲載しているのではありません。訳文は読み直していません。繰り返します。読み直していません。ただ一気に訳し下しているという感じです。同時通訳しているような感じです。絶対に私の訳文を真に受けないようにしてください。英語原文の大よそのところを伝えるだけのものです。大よそでさえ伝えられていれば幸いです。大よそでさえ伝えられていなければ、残念です。以下の訳文を読むだけですましてしまわず、無料で読める英語原文に当たるようにしてください。あらかじめ、含まれている誤訳に対し、ここでお詫び申し上げます。誠にすみません。何にしろ、Grelling さんに起こった出来事が、どのようなものであったのか、それができるだけ多くの方々に共有されることを願って訳出させていただきます。


翻訳本文に入る前に、本文を理解する上で、最低限必要な情報をお知らせ致します。この文は Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins というご夫婦の研究者による Kurt Grelling の伝記です。Kurt Grelling には妻の Greta Grelling がいました。二人には子供たちがいて、そのうちの姉であるのが Karin Grelling, 弟であるのが Claude Grelling でした。この兄弟姉妹は、今回の伝記が書かれた時点でご存命のようです。Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins のご夫妻は、特に Claude Grelling に連絡を取り、e-メールで質問などすることで、伝記を書かれたようです。また、以下の本文中には収容所からの生還者である Hans Fraenkel, W. Traumann という方々の書簡が引用されています。

最後に、本文中で使用されているカッコについて、説明しておきます。少しややこしいです。
翻訳本文の地の文でのカッコ [ ] は、 Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins のお二人によるものです。一方、翻訳本文中に Hans Fraenkel, W. Traumann という方々の書簡が引用されていますが、その書簡中で使われているカッコ [ ] は、Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins のお二人によるものではなく、Claude Grelling さんによるものです。これら書簡中でのカッコ { } は、Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins のお二人によるものです。また、leader dots を挟む省略を表わすカッコ […] は、翻訳者によるものです。また〚 〛も翻訳者によるものです。(Gestalt logic) のように英単語や英語の語句などを挟んでいるカッコ ( ) も翻訳者によるものです。さらに脚注はすべて翻訳者によるものです。

Krut Grelling, 最後の年月 (The Final Years of Kurt GRELLING)


我々を最後の年月へと導く、最初の手短な概観 (First a brief overview to bring us to the final years)

Carl Gustav [Peter] Hempel がアメリカに行った時、Kurt Grelling は Berlin を立ち、Brussels へと向かった。それは1937年と1938年のことで、Hempel の代わりに Paul Oppenheim と研究するためだった。「愛すべき母国」に戻れる機会が Grelling にはっきりと訪れた時、「周到な計画なしに」 (''at random'') 国外へ移住することはやめて、母国へ戻ろうかどうかと逡巡した。それは1938年1月に Otto Neurath への手紙で書いている通りである。ここでためらったことで、彼を助け出し、アメリカへ連れてくる試みに、時間がかかってしまったのかもしれない。しかし、1938年11月9日から10日に渡る水晶の夜事件の後、Grelling はドイツの土を踏むことはなかった。

計画によると、Peter とその最初の妻である Eva の Hempel 夫妻は、1937年にアメリカに着き、当地で Grelling のために仕事を見つけてあげようとし、後で Paul と Gabrielle の Oppenheim 夫妻もそれを手伝った。Oppenhaim 夫妻は1939年にアメリカに来て、New Jersey の Princeton に落ち着いた。両夫妻は先頭に立って Grelling を救おうと努力し、the New School for Social Research に彼の役職を確保しようとした。彼らは Hans Reichenbach らから強力な推薦状を取り付けていた。Max Wertheimer の文書によれば、彼は Grelling を役職候補に推薦しており、それは二回目の推薦でうまくいった。

我々が*1最初に Grelling のことを知ったのは、Wertheimer による、1936/1937年の大学院の授業 Logic and the Scientific Method でのことだった。New York の the New School for Social Research においてのことである。[Wertheimer が1916年から1929年にかけて the University of Berlin にいた時に、彼は Grelling と知り合い、1929年から1933年にかけて the University of Frankfurt にいた時に、Oppenheim と知り合った。] Wertheimer によるその他のクラスやセミナーで、我々は Grelling と Oppenheim の共同研究のことを聞いた。Grelling 単独で、および Oppenheim との共同で、諸構造を扱うゲシュタルト論理学 (Gestalt logic) を展開する試みを学んだ。Werthaimer もまたゲシュタルト論理学を発展させることに、大変興味を持っていた。学生の幾人かは Wertheimer と Grelling の間で交わされるであろう生き生きとした議論の様を、想像して語ってみせた。Grelling が New School の大学に脱出してきて、他の亡命教授陣に加わるよう誘いを受けているといううわさを聞いた時のことである。そのうわさは1940年に最もよく聞かれた。が、Grelling はやってこなかった。


1940年5月10日 − 1942年9月18日 (10 May 1940 - 18 September 1942)

そうこうするうちに、事態は Grelling にとって悪化していた。1940年5月10日、ドイツ軍がベルギーとオランダに侵攻した最初の日、Grelling はベルギーの Joelles で望ましからざる外国人として収監された。4日後、彼はフランスに移送された。ドイツの支配下にはまだない地域の「自由」フランスにである。[〚Kurt Grelling のご子息の〛Claude Grelling のコメント。「父がベルギーで捕らえられ、 フランスに送られたことに、皮肉な印象を受けました。たぶん、ベルギー人は父がドイツ人だったから「好ましからざる外国人」として父を捕まえたのだろう。一方、Vichy 政権のフランスは父がユダヤ人だったから収監したのだろう。」〚つまり、ドイツ人ではなくユダヤ人にすぎなければ、ベルギー人に捕まらなかっただろうし、ユダヤ人ではなくドイツ人にすぎなければフランスに送られることはなかっただろう。〛] Grelling は二年以上に渡って南フランス Vichy 体制下の収容所に収監された。St. Cyprien, Gurs, Les Milles, そして Rivesaltes の各収容所にである*2。妻の Greta は Kurt から離れることを〚あるいは Kurt と離婚することを〛拒み、離れることで、「アーリア系」として助かろうとはしなかった。1941年1月、Grelling は Gurs 収容所から Bernays に宛てて手紙を書いた。


みじめな状況のなか、学問に取り組むことで、バランスを保ち {胸を張り} 続けようとしています。今のところ、うまくいきました。この収容所で、私より若い二人の友人を見つけたからです。一人はとてもよくできる数学者で、もう一人は哲学に興味を持っている著作家です。二人とともに哲学の問題、数学の問題を議論しています。


〚現代の論理学史家である〛Peckhaus は、この数学者が誰であるのか、特定することは、うまくいかなかったものの、この著作家のほうは、うまい具合にオーストリア人の Jean Améry (1912-1978) だとして特定してみせた。この人は Holocaust に関する多産な著作家となった。1971年、Améry は半自伝的な本を出版した。それは essay という体裁で自分の人生のいくつかの時期を扱っている。その第三章の「敗走 (Debakel)」で、彼は Gurs 収容所に収監されたことを取り上げており、Kurt Grelling と交わした哲学的な議論をつづることからその章を始めていた。そこで Grelling は 'Georg Grelling' と呼ばれていた。


〚この段落、Peckhaus による報告。〛1941年1月22日、the New School for Social Research のファースト・ディレクター、Alvin Johnson から Gurs 収容所の司令官に、外電が届いた。Grelling を哲学の「助教授」として、New School に二年間、年2,000ドルで採用することが述べられていた。そして、アメリカ人移民枠数とは別に、必要な visa が取れるよう司令官の助力を求めていた。Gurs 収容所から Paul Bernays に宛てた、1941年2月10日付けの Grelling によるハガキでは、次のような「うれしい知らせ」が明らかにされていた。つまりアメリカに既にいる友人が、the New School for Social Research に哲学の助教授として二年間、彼を採用するというオファーの獲得に成功した、というものである。Grelling は、解放されるという期待も述べていた。1941年3月1日、彼は [おそらく] スペインとポルトガル経由で アメリカに向かう visa を取得した。それから彼は Aix-en-Provence 近くにある [国外移住を待つ被収容者用の] Les Milles の収容所へ移された。その間に、Grelling の妻の Greta がベルギーから到着していた。二人はともに、Marseilles にある難民のための救援組織、Varian Fry 緊急救出委員会の助けを借りながら*3、何とか出発しようと試みた。〚しかし〛出発はどんどん延びた。アメリカが入国の条件を増々加えてきたからである。そしてついに、乗船券は手に入らなくなってしまったのである。


[上で引用した Peckhaus の文章には、次のようなことも記されていた。つまり、アメリ国務省は、過去の Grelling の政治的な行動により、ある懸念を抱いていたかもしれない、ということである。我々のインタヴューに対し、 Hempel は次のように発言した。つまり、国務省は Grelling の政治的見解について、Hempel に何度か質問してきた、と。フィンランドの司書であり、論理学者かつ言語学者である Uuno Saarnio 宛ての1946年のある手紙のなかで、Hempel は Grelling 夫妻の運命に国務省の影響を結び付けていた。インターネット上の Kurt Grelling に関する無署名のある記事は、イタリアのジャーナリストに答えた Hempel のインタヴューに触れていた。〚そこで〛Hempel が報告したと言われているのは、Grelling が共産主義者だったかもしれないという疑念を国務省が抱いていた、ということである。Grelling は社会主義者だったが (例えば、彼は社会民主党に所属していた。このことにより彼は広い意味で社会主義者と見なされていたのであり、1911年から1914年にかけて、社会主義者団体の月報または新聞に、最近起こったことを概観する記事を書いていた。)、彼が共産主義者だったという証拠はない。国務省の懸念によって、Grelling 夫妻の救出は引き延ばされ、ついには手遅れとなるに至ったのである。]

1941年11月、Grelling とその家族は、公式にドイツの市民権を失い、財産を没収された。いわゆる「ユダヤ人問題の最終解決」は、1942年の8月に、フランスまで届いていた。最優先事項は、つまり戦争遂行よりも優先されたのは、「ユダヤの出自」を持つ者とその家族を殺害することにあった。フランスの収容所からユダヤ人を移送することが、Vichy 政権の協力のもとに始まった。

Greta Grelling は1942年8月に捕らえられ、Les Milles 収容所から出ることを許されなくなった。Henry Manen 牧師は、収容所から出られるよう Greta を以前から進んで支援してきたが、もう助けることができなくなってしまった。1942年9月初め、Grelling 夫妻は、Les Milles 収容所から Rivesaltes 収容所を経由して、Paris 近郊の Drancy 収容所へ送られた。Grelling 夫妻の子供たちは、被移送者名簿に載っていた両親の名前をリストにして記録していた。その名簿によると、人々が送られたのは、1942年9月16日のことで、Drancy から、33番列車隊 (Convoy) により ポーランドに向かい、1942年9月18日に悪名高い強制収容所 Auschwitz に着いたのだった。夫妻はおそらく着いたその日に、そこで死を迎えたか、隣接する絶滅収容所 Birkenau で死を迎えたと、推測せざるを得ない。[Claude Grelling は私たちに次のことを書いて来てくれた。「9月16日は、列車が Drancy の Bourget 駅を Auschwitz に向けて出発した日でした。私の知る限り、両親が抹殺された実際の日に関しては正確な情報がありませんが、労働収容所での仕事に不適格とおそらく判断されたでしょうから、たぶん列車が着いたその日に二人はガス室に送られたものと思います。」]

Grelling 夫妻の悲劇的な運命を理由として、Peckhaus の報告の最終節には、収容と根絶、というあからさまな題名が付いている。Peckhaus は自身のその報告を、次のような言葉で結んでいる。「Grelling は New School から誘いを受けていた。それによって彼は助かったかもしれないが、結局、フランスにおけるホロコーストの殺人機構に巻き込まれてしまったのである。」


説明の言葉 (Words of Explanation)

Grelling が収監されていた収容所は、ドイツ軍の支配下にはまだなかった地域である「自由」フランスにあったということを、心に留めておくべきである。これらの収容施設は、文献のなかで刑務所、強制収容所として時々言及されることがあるが、ドイツの支配下にあるような収容所、およびそのような収容所に付き物の恐怖と、混同すべきではない。収容施設での規則は (1942年8月までは)、緩やかなものであったので、Gurs 収容所で Grelling は手紙を受け取ることも書いて出すこともできたし、本を一箱分、受け取ることもできた。被収容者は許可なく出かける自由はなかったが、許可は下りたし、例えば Grelling は Aix-en-Provence の街にある図書館で勉強することができた。訪問者からは、いくらか食料を買うことも、もらうこともできたし、Aix-en-Provence の街に住んでいて、Les Milles 収容所を訪れていた Greta から、食料を得ていたのである。状況が変わったのは1942年8月のことで、その時、Greta は捕らえられ、収容所から出ることを許されなくなった。1942年9月初め、Les Milles 収容所は閉鎖された。Les Milles には多数の被収容者が残っていて、そこには Grelling 夫妻も含まれていたが、彼らは Rivesaltes 収容所へ新たに移送された。そこは、スペイン国境の近く、フランス南西部角の際、Perpignan のそばに位置していた。Rivesaltes からは、多数の被収容者が、占領下フランスのParis 近郊、Drancy/Bourget 収容所にある鉄道駅を経由して、Auschwitz に送られた。非占領下のフランスから移送されて来たユダヤ人は、Paris の地域で捕らえられたユダヤ人と Drancy/Bourget で一緒にされ、移送列車 (Convoy) を仕立てられて、Auschwitz へ送られた。


生還者の手紙に記された Kurt Grelling と Greta Grelling (Kurt and Greta GRELLING as Described in Survivors' Letters)

収容所においてさえ、Grelling は学ぶことを愛し、他の人々と一緒に学びたいと強く願う姿を示していた。Gurs 収容所の Grelling から出された1941年のある短い手紙では、本を一箱分、送ってくれたことに対し、数学者の Bernays にあふれんばかりの感謝の念をつづっていた。この箱は、送り主の名前なしで届いたのだが、それはきっと Bernays が送ってくれたのだと Grelling は思ったのである。さらに続けて Grelling は、次のように書いた。このような状況のなかで、本がどれほどのことを意味するのか、それらの本は主に数学と哲学の本なのだが、それは自分にもわからないほどだ、と。他の人も加わって、これらの本を勉強し議論してくれればと Grelling は願った。Grelling にとって、本は空気と同じぐらい必要不可欠なものだった。収容所から Bernays に宛てた書簡やハガキのなかで Grelling は、Bernays が何を読んでいて、わからないことは何なのか、明らかにしてくれるよう求めていた。数学と哲学の分野で何が起こっているのか、知りたかったのである。収容されていた時の Grelling の手紙には、自由だった時に示していたのと同じ特徴が表れていた。自分自身の研究と能力を評価するに際し、控え目であること、他の人の研究を理解したいという熱望、そして、学問的な議論がしたいという切望、である。

二人の生還者、Hans Fraenkel と W. Traumann は、Grelling 夫妻と Les Milles 収容所、Rivesaltes 収容所に収監されていたが、Grelling の娘、 Zürich における Karin へ送った手紙には、Grelling は、議論を熱心に求める学者として、思慮深く善良で規律ある個人として、記されており、妻は生き生きと描かれていた。Fraenkel は Karin に、1945年9月、ヨーロッパでの戦争が終わった後、わずか数週間で手紙を書いた。Traumann は1946年の夏に二通、手紙を書いていた。生還者の二人はともに、Greta をフレンドリーで知的で強い女性として描いていた。回りのよく見えていない夫なら困ってしまったであろう日々の決定事項をこなした強い女性として、である。毎日、彼女は夫に誠実に接していた。彼女は収容所に収監されている人たちに手料理を持ってくるほど思いやりがあったし、森に隠れていた逃亡者たちに、以前、食べ物を与えていたほど勇敢だった。その上、彼女は被収容者たちが頭を使う必要があることを理解していた。数十年後、Peckhaus が手紙のコピーを Karin にお願いしたとき、判読しがたい筆跡を読むのに困っていたと彼女は述べた。〚そこで〛Peckhaus は手紙をタイプし直した写しを用意し、彼女に送ってあげた。我々はその手紙のいくつかの部分を〚以下で〛提示しよう。それは、1995年、Claude Grelling が自身の子供たち三人のために、タイプされた写しから翻訳したものである*4。1998年、私たちの要望に応えて、Claude は生還者の手紙を、親切にも全部を翻訳してくれた。〚以下の書簡中において〛子供たちに対する Claude の解説は、角カッコ〚 [ … ] 〛に入れてある。我々が挿入したものは、結びカッコ〚 { … } 〛に入れてある。


Hans Fraenkel から Karin Grelling への手紙、1945年9月20日。(Letter from Hans FRAENKEL to Karin GRELLING, dated 20 September 1945)

[この手紙が書かれた時は、ヨーロッパでの戦争が終わって三、四か月後のことで、Fraenkel さんはスイスにいましたが、彼は生まれはドイツ人だったと思います。手紙のなかで言っていることからして、彼は福音派キリスト教徒で、おそらく按手礼を受けた聖職者*5でした。彼が最初に私の両親に会ったのは Les Milles で、私の両親とともに Rivesaltes に送られました。ここから「ドイツへの強制労働」のための移送列車に〚人々が〛乗せられました。この列車の目的が「ドイツへの強制労働」にあるとしたことは、塀の内でのパニックと、塀の外での騒乱を、おそらく避けようとしてのことでしょう。フランスの多くの市民は (勇気ある Dumas 牧師を含め)、この移送〚の真の目的〛に気が付いていたからです。〚移送に関する〛この表現は実質的なところでは、確かに正しかったかもしれません。強制労働収容所 Auschwitz には、Birkenau と呼ばれた関連する絶滅収容所があったからです*6。いずれにせよ、Rivesaltes から列車はあなたたちの祖父母を乗せ、直接 Auschwitz に向かわず、Paris の地域に行き、Paris 市内とその近郊で捕らえられたユダヤ人と一緒にされ、33番列車を仕立てられ、Bourget/Drancy を立ち、Auschwitz へ向かったのでした。あなたがたは、いくつかの抜粋部分に興味を感じるだろうと思います。Fraenkel さんは、なかでも次のように書いていました。]


あなたのお父さんは勉強の好きな [または勤勉な] 人でした。毎日、分厚い本を読んで勉強し、〚収容所内でなされる〛講義の準備をいつも進んで行っていました。折り畳み式の椅子と本を持ち、中庭の日の当たるところに向かいそこで座っていたり、夏には日陰になっている角を [求めて] いるところをしばしば見かけました。彼は自慢そうによく手入れのされた角ばったあごひげを蓄えていました。それはあなたのお母さんが [収容所に、1941年か1942年に] やってくるまでのことで、そうして隠していたもの、飾っていたものが取れて、表現豊かな表情が見えるようになりました。

お父さんと私は最初、お互いにうまく理解し合えませんでした。お父さんの哲学的な関心事と私の神学的な関心事は、互いに相反したものだったからです。私は一度、お父さんにとても腹を立てたことがありました。「一言も理解できなかった」と、お父さんがそっけなく感想を述べ、私が行った講義を台無しにした時のことです。今ではお父さんが正しかったと、認めざるを得ません。その講義はひどいものでしたから。そんなことがあったにもかかわらず、私はお父さんの知的誠実さを大切に思いますし、お父さんも私を高く評価してくれました。お互いに尊敬し合っていることが明らかになりました。そしてお母さんが現れた時 [Les Milles にやってきた時]、(それがいつだったか、もう思い出せないのですが) お父さんと私の関係は、目に見えてもっと心のこもったものになりました。お母さんは会ってすぐ打ち解けることのできる人だとわかったからです。そしてお母さんを通じて、お父さんとも、より親しくなったのです。お父さんとの関係はもっと形あるものともなりました。プロテスタントのグループのリーダーとして、意見を交わすため、あなたのご両親に具体的な質問をしていたからです。[私の父は、あなた方も知っての通り、普通に言えば、キリスト教徒でした。だから、私の両親は「プロテスタント」のグループに数え入れられていたのでしょう。]

1942年5月、私は他の人たちとともに、[強制] 労働収容所に送られました。私の聖書研究グループのメンバーたちが、お別れ会を開いてくれました。感動しましたし光栄に思いました。私にとって本当に素晴らしかったことは、私への思いやりから、お父さんがその会に出てくれたことでした。こんなに異なったところのある私たち二人が、お互い何によって引かれ合うのか、明らかになりました。それはすなわち、私たち二人が、それぞれのやり方で、相手を人格者だと相互に認め合ったことによるのです。それぞれが、皆の前で相手の信じるところを認めたのです。私は彼の哲学的信念を、彼は私のキリスト教の信仰を、認め合ったのです。

移送が始まった時 [つまり、フランス人が「ユダヤ人問題の最終解決」に協力し始めた時]、私は Les Milles に戻ってきて、私たちはいつも交わることで、あなたのお母さんと私は真の友情を築き上げました。彼女が [収容所に] いるということは、言うまでもなく、夫を擁護する勇気ある行動なのでした。「アーリア系」の女性として、彼女は Aix [-en-Provence] に居続けることができました。しかし、望みは残されていないと感じていた夫を、勇気を持って助けていました。初めの頃、彼女は森に隠れている人々に食料を持ってきてやっていました。彼女は毅然としていました。彼女が、知性の人であったあなたのお父さんを、人生を通してずっと引っ張ってきたのだと、私は理解するようになりました。お父さんは人生 [の現実] に直面して、無力になっていました。見たところ、心ここにあらずといったような感じで、物思いにふけっていましたが、善良な人で、議論を愛し、確固たる自身の見解を抱いていた人でした。

[Fraenkel さんは、その言葉とは裏腹に、父が信念を持っていないこと〚希望を持っていないこと〛を、こころよく思っていなかったのだろうと思います。母が父の人生にとって、そして私たちの家族みんなの人生にとって、持っていた役割についての Fraenkel さんの記述は、多くの真実を含んでいたと思います。母が日々のことがらを切り盛りしていたのです。]

私たちは、家畜を運搬する同じ貨車に乗せられて、一緒に Rivesaltes へ列車で運ばれました。そしてバラックでともに隣同士になって眠り、多くの時間、話をしました。若い Dumas 牧師は、私たちのために、何くれとなくしてくれました。つまり、彼は私たちとともにいてくれて、私たちとともに聖書を読んでくれ、記念日の贈り物としてパンを与えてくれ (gave us a gift of date bread), 私たち八人を [移送されるべき人物のリストから] 除いてくれたことを、その移送が始まる前の晩に教えてくれました。だから、私たちは、その恐ろしい日の朝を平穏にすごしたのです。1時に移送は終わりました。私たちは新しいバラックに解放され、昼食を食べ、ブドウをいくらか買い、まったく安心しながらな暖かい日差し (the warm air) を楽しんだのでした。

その日の晩8時に、突然警報が鳴りました。再び私たちは暗闇の中でアルファベット順に整列させられました。司令官は懐中電灯を使いながら、リストから次々と名前を読み上げました。彼は初めから終わりまで三回、リストに眼を通しました*7。司令官〚の読み上げる声〛が、再び私たちの名前のそばまできました。私はあなたのお父さんとお母さんのそばに立っていました。二人は誰かとしゃべっていました。その時、二人の名前が響き渡りました。お父さんは、何かの間違いに違いないと説明するために、前へ出ました。しかし、司令官はぞんざいな態度を取り、お父さんに一言も、ものを言わせません。お父さんとお母さんが荷物を取りに行くのに、警備員二人が一緒に行かされました。しばらくしてから、お母さんが私の名を呼ぶのが聞こえました。「ここだ」と私は答えました。お母さんは言いました。「Dumas 牧師に伝えて。」 私は言いました。「わかった。できるだけ早く、朝一番にそうするよ。」 「遅すぎる。」 これがお母さんから聞いた最後の言葉でした。お父さんは黙ったままでした。リュックを背負い、スーツケースを持ち、静かに自分の運命を受け入れていました。

Dumas 牧師は、列車のところにいました。指揮官は牧師に対し、「八名のリストについては尊重してやった」と、真面目に請け合いました。暗闇の中で、彼は { Dumas? 指揮官? } お父さんとお母さんを見ませんでした。それで、Dumas 牧師がこの不運な出来事を最初に知ったのは翌朝で、それから彼は、こういう場合の常として、Lyons [にある鉄道駅] に電報を打ちました。その結果、そこで間違いは正され、列車から二人は降ろされるはずなのです。しかし、その列車は、今回初めて Toulouse を通る路線を取りました。それから Dumas 牧師が電話をした時には、列車は既に [「自由」フランスと占領下のフランスの間にある] 境界線を越えてしまっていました。 Dumas 牧師と私たち全員は、二人を失ってしまった悲しみでいっぱいでした。あなた方のご両親は、私たちのよき友でした。私は、正しい道を示してくださるよう、神に祈り続けねばならないと、思わざるを得ません。あなた方は、きっとまた { あの世で } ご両親に会うでしょう。しかし、あなたとあなたの弟さん〚Claude Grelling〛は、あなた方のご両親が人格者であり、今ではそのような人はまれであるということを、確かにお認めになってよいのです。


心から愛情をこめて、あなたの

Hans Fraenkel


W. Traumann から Karin Grelling への手紙、1946年6月18日。(Letter from W. TRAUMANN to Karin GRELLING, dated 18 June 1946)

[Traumann さんは弁護士で、Les Milles と Rivesaltes の両方に、1941年3月から1942年9月にかけて、私の両親とともに収容されました。彼は Karin に { スイスの首都 } Bern から手紙を書きましたが、ドイツ人だったと推測されます。その名前から、ユダヤ系かもしれません。Fraenkel さんの手紙から得られる情報を繰り返さないようするならば、あなたたちに興味があるだろうと思われるのは、Traumann さんの手紙に書かれたあなた方のおじいさんおばあさんについてのいくつかの追加情報でしょう。〚まず引用するのは〛1946年6月18日の日付のある最初の手紙から。]

私は、あなたのお父さんと同じく、Les Milles および Rivesaltes の収容所に捕らわれる運命を共有した者として、自己紹介させてもらいたく思います。[私は] そこでお父さんから、スイスに子供たちがいると聞きました。私はしばらくの間、この国に住んでいることからも、今や邪魔されることなく手紙を書くことができる以上、私たちが一緒にすごした最後の時間について、あなたにお話しするのが私の義務であると感じました。

あなたのお母さんは [Aix-en-Provence の] 街に自由の身で住んでおり、時々 [Les Milles] 収容所の夫を訪ねることができました。 1942年8月のある日、[また] お母さんが見えた時、収容所を離れることを禁じられ、それでその時以来、私たちとともにとどまることになりました。おそらくその理由は、労働可能な被収容者をドイツへ送り返す移送が8月4日に始まっており、フランス当局は、この蛮行に関する話が外部に知られるようになることを望まなかったからです。その時までは、Marseilles に行く許可がしばしば下りていたし、あなたのお父さんも Aix へ行っているので、収容所に住むことを受け入れることもできていたのですが、その8月の日のあとは、許可は停止されてしまったばかりでなく、犠牲者の選別も始まったのです。これは悲惨な情景を生みました。情け容赦なく家族が引き裂かれたからです。結婚している者の間では、若い方が追い払われ、年のいった方 − 60才以上か65才以上 − は、あとに残されました。あるいは夫婦のうち、「アーリア系」の方は大目に見られながら、もう一方は連れ去られたのです。年長の子供たちは追放され、年下の子供たちは養育院に預けられ残されたのです。このような選別が行われた中庭では、痛ましい光景が見られることになりました。

あなたのお父さんは移送される運命にありました。〚当初〛移送されなかったのは、アーリア系の妻がいるためか、あるいはお父さんが洗礼を施されていたためか、これらのどちらかによりました。いずれにせよ、当初、移送されずにすんだのは、似たようないくつかの場合と同様に、Aix からきている素晴らしい牧師さんが、多大な労力でもって何とかしてくれていたからです。彼は何日間も収容所を離れずにいてくれたのです。9月の初め、一連の移送が完了した時、収容所は閉鎖され、残された被収容者たちは、そのなかにあなたのご両親と私とが含まれていたのですが、Perpignan の近くにある Rivesalts 収容所に連れていかれました。そこでもまた同じように、ドイツにやるべき者の査定と選別が行われました。そのために、私たちはバラックから引っ張り出されました。そこは非常にひどい状態でした。信じられないぐらいたくさんの虫がいたからです。私たちは荷物を外に運び出す必要がありました。そして収容所の暑い中庭で立ったまま何時間もすごさねばなりませんでした。またもやあなたのご両親は大目にみてもらい、残ることが許されました。二人は最終的に助かったのだと私たちは思いました。それからすぐ、次のことが起こったのです。移送のため選ばれた者のうちの幾人かが、送られるのを避けようと思い、有刺鉄線のフェンスを越え、逃げ出したのです。ところで、強制労働に従事する者には、特定の数が指示されていました。収容所の当局は、その数の労働者を送り出すよう要求されていました。それで当局は、逃げた分の欠員を補う必要がありました。だから当局は、その時まで保護していた者のなかから無作為に引っ掴まえました。なかから掴み出されたのは、あなたのお父さんでした。ある晩遅く、10時ごろ、9月20日ぐらいのころだったか [実際には、9月15日], 私はあなたのご両親お二人がリュックを背負い、手にスーツケースを持って、出て行くのを見ました。 お父さんが私に向かって叫びました。− 私たちは近くまで行くことができなかったからです。− 「行くよ。」 私は叫び返しました。「神のご加護を。」 これでお終いでした。お母さんは自分の意志で行きました。そのあとすぐ、二人は引き離されてしまったかもしれないと思います [明らかにそうではありません。二人の名前がともに33番列車用のリストに載っているからです。]. 二人の運命のその後は、あなたの知っての通りです。

これと似た多くの例のうち、この例は、特に私のすぐそばで起こったことです。と言うのも、私はあなたのお父さんと親友になっていましたし、あなたのお母さんを大切に思うようになっていたからです。あなたのお父さんと私は、Les Milles でとても活発に、うまく組まれた講義のコースに取り組んでいました。お父さんは私による歴史の講義を聴いてくれました。私たちは同じ屋根の下で眠り (We bunked in the same hall), そこで、中庭で、Aix で、何時間もわくわくする会話を共有しました。私はお父さんの鋭い知性に感心し、その優れた精神を高く評価しました。お父さんとお母さんという二人の見事に傑出した個性の思い出によって、収容所ですごした私の時間は、まだましに感じられます。私は、あなたとあなたの弟さんとの間で、これらの思い出を共有する機会を持てたことを、うれしく思います。

あなた方お二人に、心からのあいさつを添えて、あなた方に献身的な

W. Traumann


1946年7月24日の Traumann の二番目の手紙 (TRAUMANNs second letter, of 24 July 1946)

[収容所での] あなたのご両親について、ほとんどご存じではないとあなたはお書きでしたので、何か重要なことをあなたにお話しできるか、やってみることにします。あなたのお父さんは、ものを考えるのに鋭い人で、明晰で、洞察力がありました。数学と論理学がお父さんの専門分野であると、すぐに誰でもわかりました。収容所の好ましからざる状況にもかかわらず、彼はいつもこれらの学問について、忙しく取り組んでいました。お父さんは窓のそばの自分の席で何時間も座っていることがあったものですし、Aix 大学の図書館の中で勉強していたものです。収容所では、お父さんは数学の講義をし、現代論理学のコースを教えていました。いわゆる「新しい論理学」と呼ばれるもので、お父さんはこの学問について、修行の身にありました。実際、お父さんは Russell の主要な著作を英語から、かつて翻訳していたのです。この学問は難しいので、予想されるように、聴講者を多く得ることはありませんでした。お父さんはまた、私たちの「セミナー」に参加してくれました。将来、平和を実現するに際し、生じてくる諸問題を解決する必要がありますが、その解決のための新たないくつかの取り組みについて、それをどのように一本化して行くべきなのか、私たちのセミナーでは、このことを検討していました。お父さんは、私の歴史の講義を聴いてくれました。収容所で、これらの活動を支援してくれていたクエーカー教徒たちは、世界中の捕虜収容所における様々な囚人たちの、このような活動を記した小冊子を1945年に出版しました。Les Milles で撮られた一枚の写真があります。私の講義の聴講者からなるサークルが写っています。そのなかには、あなたのお父さんの姿も見えます。お父さんは収容所で、あごひげを生やしていました。あとで剃り落されはしましたが。

あなたのお母さんはフランスへ移りましたが、それは違法なことで、困難を伴いました。[母がどのようにして何とか占領下のベルギーから占領下のフランスへ渡ったのか、そのあと、「自由」 フランス区域へ、どのように渡ったのか、私はまったく知りません。] 彼女は Aix のとても質素な屋根裏部屋で暮らしていました。私はそこに時々彼女を訪問するために伺ったことがあります。収容所では、お母さんは我々男性を多大な労力でもって世話してくれました。お母さんが私たちのためにおいしい豆料理をどんなふうに振る舞ってくれたのか、鮮明に覚えています。お母さんについて、唯一いただけない点は、ヘビー・スモーカーだったところです。本を読むことで、明らかにとても博識な女性だったので、お母さんは私たちが知的な探究を { 必要としていることを } 理解していました。お父さんがアメリカの大学に行くことになっていたことを、あなたはおそらくご存じでしょう。これらの計画はすべて −私自身の移住計画も含めて− 粉々になりました。アメリカが二度に渡って入国の要件を厳しくしてきたからで、ついには船の席がなくなるまでになってしまったのです。

Les Milles で、1942年8月、ドイツへの強制送還のための選別が始まった時のこと、お父さんはドイツへ送られる手はずになっていたことがありました。彼は既に列車に乗って座っていたと思います。しかし、Aix からきていた牧師の Manen さんの努力により、自分の役割を心から献身的に引き受けることで、お父さんを救い出すことに成功したのですが、ご存じの通り、最終的にはそれも無駄に終わりました。Manen さんは、これらの努力を、教会の小冊子で「Gr.」という題のもとに、実例として記しています。残念なことに、私はこの本の名前を知りません。Geneva かその他のところの援助委員会を通せば、その本を見つけるのは容易なはずです。たぶん、H. G. Fraenkel さんが知っています。

若いころ、私は Heidelberg に住んでいました*8。そこではあなたの叔母である Sachs 夫人と顔見知りでした。[これは、私の叔母の Charlotte のことでしょう。彼女は私の父を含めた兄弟姉妹のうち、一番年長の姉で、Hans Sachs 教授の妻でした。教授は細菌学の分野で研究をしており、Frankfurt の化学療法研究所における Paul Ehrlich と緊密に協力し合う共同研究者でした。] その地で叔母さんは私の親戚を知っていました。私はまた、あなたのお父さんが、政治について語るのを愛する熱烈な平等主義者 (democrat) だったということを*9、あなたに言っておきたいと思います。それは明らかに家風でした。と言うのも、あなたのおじいさんは、『予は弾劾す(J'Accuse)』という政治的な小冊子を書いていたからであり [「小冊子」とは言い難い。英語版でほとんど500ページに近い], これは当時、広く知られるものとなりました。それが『予は弾劾す』と呼ばれたのは、{ Émile } Zola { 1840-1902 } が書いた本にちなんでいます*10

あなた方お二人にとって、以上の追加情報が、悲しみのなかにいるあなた方に、何ほどか慰めを与えられるのでは、と願っています。もっと知りたいようでしたら、お手紙ください。

弟さんにも心からのあいさつを添えて、敬い申し上げます。

W. Traumann


[これら三つの手紙については、ここまでにしましょう。なぜ私がこれらの手紙について以前からよく知らなかったのだろう、と思われるかもしれません。収容所で両親を知っていた人たちから、戦後すぐ、Karin と私が、あるいは Karin と私のどちらかが (Karin and/or I), 手紙をもらったことは確かに覚えています。しかし、私にはそれらの手紙をついぞ見た覚えがありません。これには、私の記憶力がよくないという理由の他に、いくつかわけがあるようです。それらの手紙は〚筆記体による〛手書きでした。手書きのものを読むのはすごく難しいと、Karin は Peckhaus さんに話をしたので、Peckhaus さんは Karin に、タイプして転写したコピーを送ってくれました。Peckhaus さんは、私の持っているオリジナルのコピーを取りました。私にはこのコピーも読むことができません。もっとも、それが読めないのは、ドイツ語の筆記体で書かれていることよりも、コピーのクォリティーにより多く関係しているのでしょうが。(私は活字のドイツ語を読むのには、よくできた辞書が必要です。筆記体のドイツ語は、私には非常に難しいです。) *11。それにまた、1945-46年に Karin がこれらの手紙を受け取った時、私たちはスイスで三年間か四年間、離ればなれでした。両親が寄宿学校 'Les Rayons' に授業料をもはや払うことができなくなり*12、学校もただではもう在籍させておくことができなくなったあとのことです。1942年、15才の時、Karin は Zürich に行き、そこでようやくのこと、看護婦として〚働くことを〛認められました。〚1942年 (?) 〛12才の時、私は Montreux の近くにある Baugy-sur-Clarens のスイス人家族に引き取られ、1946年に the Collège de Montreux 付属の高校を終えました。これはもちろん (高価な写真複写を別とすれば) コピー機が発明される前のことであり、ファックスが発明される前のことで、Karin も私も遠出するためのお金もなく、それで1942年以降、ルーテル世界救援団の後援のもとに私がアメリカに来る前は、私たちはお互い一度か二度しか会いませんでした。]

[いずれにせよ、これらの手紙によって、両親の人生の最後の日々について、より詳しいことがわかります。私たちは「〜でありさえすれば!」と言いたい誘惑に駆られます。Rivesaltes で、本来移送されるはずの人たちが、逃げ出しさえしなければ。あの晩、両親が引き抜かれた時、収容所に Dumas 牧師がいてさえくれれば。両親を乗せた列車が Toulouse ではなく、いつものように Lyons を通る路線を取ってくれさえすれば。列車が境界線を越える前に、Dumas 牧師の連絡が届いてさえいたならば…。しかし、あの列車で送られるのが、Kurt Grelling と Greta Grelling ではなく、他の人たち、−たぶんその人たちは私たちとは別の子供たちの両親だったかもしれません− そのような人たちが送られていたらよかったのになんて、私が本当に望むでしょうか? 逃げたその人たちが、戦争を生き延びてくれていたら、と私は願うだけです。そうでなかったら無意味だったかもしれないあなた方の祖父母の死に、その人たちが生き延びてくれることで、何がしか意味と尊厳が与えられるでしょう。それに両親が生き延びていたならば、私は決してアメリカにくることはなかったでしょうし、あなた方のお母さんと恋に落ち、結婚し、三人の素晴らしい子供たちに恵まれることも、確かになかったでしょう。ほとんどこの50年間を通じて、あなた方みんなは私の人生に喜びと意味を与えてくれました。だから、少なくとも私にとっては、たとえ私の両親にとってはそうでないとしても、Auschwitz の悲劇は幸せな結末で終ったのです。けれど、私が時々「生き残った者の罪の意識」を少しばかり感じているのでは、とあなた方が疑っているとするならば、もちろんそうです。しかし、過去を変えることは、できもしないし望ましくもないことも、私は知っているのです。お二人が安らかに眠らんことを!]


Grelling 夫妻の運命についてのコメント (A Comment on the GRELLINGS' Fate)

[…]

Grelling 夫妻の死を、「不運」のせいにしたり、「運命のいたずら」のせいにしたり、あるいは収容所に収監されていた者の幾人かが脱走したことのせいにしたりすることによって、二人の死に責任のある犯人たち、ホロコーストの、その他何百万という犠牲者の死に責任のある犯人たちを、見逃すことになってはならない。にもかかわらず、Grelling 夫妻が、身代わりとして、明らかに「無作為に」選び出されたということは、「不運」の典型例と見なされるかもしれない。この「不運」により、Kurt は多くの人生の機会を奪われたのだ、ということになるだろう。しかし、「不運」という点から、あるいはその他のネガティブな点から、彼を悼むべきではない。この見解に Claude Grelling 氏が同意している様が、2000年5月9日の彼のe-メールに見られる。


父の人生における不幸な出来事を、さらに究極的には両親の死を、「不運」のせいにする者がいたり、「運命のいたずら」のせいにする者がいたりすることを考えると、昔から、気分がよくありません。私の考えでは、これらの出来事に「偶然 (random)」など、まったくなかったのです。すべては悪意に満ちた反ユダヤ主義に帰すことができます。それは Hitler 以前のヨーロッパの大部分 (と、さらにアメリカの多く) に行き渡り、 この狂人によって非常に純化されることになったのです。Kurt Grelling と Greta Grelling 〚の運命〛は、珍しいものではありませんでした。二人の経験したことは、運の悪い災難ではありませんでした。これらの出来事は、その他の何百万というユダヤ人も共有したのであり、Hitler のもと、巧妙に仕組まれた政府の政策の結果だったのであって、その政策以前から、それほど公然としたものではなかったものの、にもかかわらず醜い差別が行われてきた結果だったのです。「不運」なんて、何ら関係なかったのです。


私たちは Kurt Grelling が「幸運」だったところについて考えたい。〚次が幸運にも、彼が有していた美点である。〛力強く、探究心旺盛な、対象を事細かに分析してみせる精神、最高度の知的誠実さ、卓越した教師、助言者、教える才能、献身的な妻、自分たちの子供を救い出す機会が持てたこと、そしてこの子供らを通じて、自分たちの子供の子供、さらには未来の世代を救い出す機会を持てたこと、Grelling 夫妻を勇敢にも救出しようと努力し、彼の学問的貢献が、確かにしかるべき評価を受けるようし、彼の知的遺産を間違いなく不朽のものにしようと努めた同僚たちと友人たち*13。こうして、彼の研究がなされてから60年、その研究に、ますます注目が集まっている。Nazis によっても Vichy 政権のフランス人によっても、〚Grelling の成し遂げた功績の〛その輝きが、絶滅させられることはなかったのだ!


結語 (Epilogue)

[…]

1999年11月22日のe-メールで、私たち〚Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins〛は「ユダヤ人学者」という語が〚今回の伝記の題で Kurt Grelling に対し、使用されるのに〛ふさわしいかどうか、〚Claude Grelling 氏に〛疑問を投げかけた。ことによると、彼の父は自分自身をユダヤ人とは見なしていなかったかもしれないからである。11月24日付けの彼による熟慮を重ねたe-メールにより、新たな知見が私たちにもたらされた。ユダヤ人だと見なされることは、彼の父にとって何を意味していたのか、についてである。同様に、そのことは、ナチのドイツで年若い男子生徒だった Claude Grelling 氏に、いかなる影響を与えたのか、のちのヨーロッパとアメリカでの生活において、氏にいかなる影響を与えたのか、についても新たな知見がもたらされた。〚氏によるそのe-メールを引用しよう。〛


この前のあなた方のe-メールには、考えさせられました。なかでも、私の父は「自分自身をユダヤ人とは見なしていなかったかもしれない」と述べておられます。かつてそのような疑問について、多くのことを考えたことはまったくありませんでしたし、当然のことながら、実際私には確かなことはわかりようがありません。ご存じかとは思いますが、私が父を最後に見たのは9才の時でした。子供の頃、家族がユダヤ系かどうかという疑問は、私たちが話題にしたもののうちの一つではありませんでした。〚とは言え〛Berlin で第一、第二学級の時、私は学校の友達からユダヤ人と見なされているのだということを、痛いほど教えられたことがありました。そのことは自分でもわかっています。私は一度か二度、なぐられました。ドイツの学校で使う私の肩掛けかばん (一種のランドセル) には、繰り返し大きな赤い字で ''J'' と印を付けられました。私は泣きながら、走って家に帰ったことを覚えています。このような時に、父が何と言ったのか、はっきりと思い出すことができませんが、大抵父は、そのことでケンカをしてはいけないよと言いました。このようなことがあったのは、もちろん1936年から1938年のことで、Hitler が権力を手にした後、父が既に失職した後のことでした (当時、そのことは知りませんでしたが)。


[…]


〚Claude Grelling 氏のe-メールの続き。〛最後に、あなたは11月22日のe-メールを、私があなた方の人生を豊かにした、という言葉で結んでおられます! 親愛なる Luchins 教授、逆ですよ。あなたとあなたのご主人の研究により、私の父は誰なのか、父の精神と思想、ヨーロッパ文化とその哲学における父の位置について、私は計り知れないほどの理解が得られました。あなた方に感謝申し上げます。私はついに、私の父が誰であるのかを知るに至ったのです。

上記翻訳最後のほうの「Grelling 夫妻の運命についてのコメント (A Comment on the GRELLINGS' Fate)」のすぐ前の段落内で、Claude Grelling さんが、脱走者について恨んでいないことをお話しされていますが、これには胸打つものがあります。このような心境には、なかなかなれないと思います。

また、上記翻訳最後の「結語 (Epilogue)」直前の文、「こうして、彼の研究がなされてから60年、その研究に、ますます注目が集まっている。Nazis によっても Vichy 政権のフランス人によっても、〚Grelling の成し遂げた功績の〛その輝きが、絶滅させられることはなかったのだ!」にも、ちょっと胸が熱くなります。訳文内の「絶滅」という語は、'extinguish' の訳です。掛詞の類いとして使われているのでしょうね。

それに「結語 (Epilogue)」のなかの Claude Grelling さんの子供時代に経験したことにも目頭がちょっと熱くなる。そして何と言っても「結語 (Epilogue)」の一番最後の文に一番胸が熱くなります。
Grelling 夫妻は Auschwitz において悲劇的な形で人生を終えましたが、ご夫妻のお子さんたちは、何とか幸せを確保したようで、本当によかったと思います。


以上です。なお、訳文が長いのと時間がないのとで、残念ながら翻訳文は見直しておりません。繰り返しますが、推敲をせず、そのまま訳し下しただけですので誤訳が含まれているはずです。(実際に、例えば、言葉に統一が取れていないところがあります。) 翻訳はあくまでも参考程度にしてください。絶対に上の訳文だけ読んですましてしまわずに、英語原文を読んでみてください。最初にも述べました通り、net 上で誰でも無料で読むことができます。いずれにせよ、Kurt Grelling さんと Greta Grelling さんの人生が、この試訳を通じて、私たちの記憶に残る一助となれば幸いです。大変ありがとうございました。

*1:ここでの「我々」とは誰のことなのか、訳している私には、正直に言って、よくわからない。Grelling についてのこの伝記を書いている Abraham S. Luchins と Edith H. Luchins の、二人の夫妻のことだろうと思うのだが、ひょっとすると、そうではないかもしれない。とりあえず、そのまま訳出します。

*2:調べてみると、St. Cyprien は、フランス最南端、地中海沿岸側、スペイン国境付近の街のことと思われます。Gurs は、フランス南西部、スペイン国境付近の山にある村のことと思われます。Les Milles は Marseille の真北数十キロ、Aix-en-Provence 南西郊外にある街のことだと思われます。Rivesaltes は、先ほどの St. Cyprien の少し北にある街のことだと思われます。以上は訳者である私の推測です。これらの地名と、その大よその位置は、頭に入れておいてください。以下の文章を読む際に役立ちます。

*3:Varian Fry は 'the American Schindler' と呼ばれる journalist で、多数のユダヤ人の救出に努めた方のようです。哲学者では Hannah Arendt が彼の手助けで脱出できたようです。See ''Varian Fry,'' in Wikipedia, in English, May 2013, http://en.wikipedia.org/wiki/Varian_Fry.

*4:Claude Grelling さんとそのお子さんたちは、アメリカに住んでおられるようです。そのためお子さんたちはドイツ語が読めないと思われます。そこで父の Claude Grelling さんが、タイプされたドイツ語から、お子さんたちにとって祖父母に当たる Kurt と Greta の Grelling 夫妻の話を英語に翻訳した、ということが、ここで言われています。そしてその英語から今回日本語に翻訳しているということになります。

*5:'an ordained minister' の訳。「按手礼」とは、聖職者として任命されるための儀式の一つ。任命する聖職者が任命される者の頭上に手を置いて、聖職者としての権能を伝達するような儀式のことのようです。Fraenkel さんは、その種の任命儀式を受けた聖職者であったということが言われているのだろうと思います。なお、私はキリスト教の儀式についてはよく知らないので、以上の説明は推測を含んでいます。

*6:Auschwitz と Birkenau の詳しい関係は知らないのですが、たぶん、強制労働収容所である Auschwitz に人々はまず送られ、そこで労働に耐えられないと判断された人は絶滅収容所 Birkenau に送られたのかもしれません。だとすると、確かに実際まずは、強制労働のための収容所に送られていたことになるので、「ドイツへの強制労働」という表現は、表面的には、正しいと言えば正しいということになります。

*7:ここでの原文は 'Three times he combed though the list' となっています。'though' が使われていますが、'through' の間違いだと思いますので、'through' と理解して訳しました。

*8:推測ですが、若いころに Heidelberg に住んでいたということは、大学生のころに住んでいた、ということだと思われます。

*9:'democrat' には、「民主党員」という語義を別にすれば、「民主主義者」と「平等主義者」の語義があるようです。そのうち、ここで「平等主義者」という語義を採ったのは、すぐ後で出てくるように、Dreyfus 事件との絡みからです。Dreyfus 事件については私はよく知りませんが、この事件が熱を帯びたその理由の一端は、「人は、宗教や人種によって差別されるべきではない」ということだったと思います。つまり、警察の取り締まりや裁判での取り扱いに関しては、人は平等に遇されるべきである、ということだったと思います。そのようなわけで、ここでは 'democrat' を「平等主義者」と訳しています。

*10:Dreyfus 事件に抗議する記事を Zola は当時の新聞に書きました。その題名が 'J'Accuse...!' でした。

*11:「それらの手紙は〚筆記体による〛手書きでした。」から、ここまでの翻訳については、正直に言うと、訳してはみたものの、言わんとしていることが今一つ把握できないでいます。英語原文の構文や文法は、特別に難しいということはないと思います。使われている英語の単語も難しくはないと思います。念のため、初歩的な単語も英和大辞典で引いて確認してみたのですが、私には解決の糸口がつかめませんでした。これは私に読解力がないことが一番の原因だと思いますが、もしかすると、この英語原文を書かれた Claude Grelling さんが記述を省略し、説明を圧縮しておられて、読解に支障をきたしているのかもしれません。しかし、私の訳文が間違っておりましたら謝ります。誠にすみません。一応英語原文を掲げておきます。参考にしてください。'The letters were handwritten, and PECKHAUS sent Karin copies of the typed transcriptions because she told him that she had great difficulty reading the handwriting. He made copies of the originals which I have and I can't read them either, although that may have more to do with the quality of the copy than that they're in German script. (I need a good dictionary to read printed German; handwritten German is very difficult for me.)'

*12:おそらく、Grelling 夫妻が収容され亡くなってしまったため、授業料が滞ってしまった、ということだろうと思われます。

*13:ここで原文は「make sure +名詞+過去分詞」という構文が取られている。'make sure of' とか 'make sure that 節' などが通常の構成だと思われますが、ここではそうなっておらず、'make sure' が名詞と過去分詞を従えていて、普通でない形態を取っています。文脈からその意味としては「確実に (名詞) を (過去分詞) にする」と読めますし、それが最も自然な読み方であるように思われますので、そのように解して訳しています。