Why Did Lesniewski Investigate into the Singular Sentence 'A ε b' ? Why Did Lesniewski Build his Ontology upon the Singular Sentence 'A ε b' as Sole Axiom?

なぜ Lesniewski は単称文 'A ε b' について考察していたのだろうか? なぜ Lesniewski は単称文 'A ε b' を唯一の公理として Ontology を構成したのだろうか?

私はこれらの疑問に対して、決定的な答えを持ち合わせている訳ではない。そもそも私は Lesniewski の論理学や哲学に関し無知であり、彼の論理学や哲学に関する二次文献にも疎い。そのため以下の私の話は全く speculative なものであり、個人的な推測の域を完全に出るものではない。一つのごく私的 memorandum である。ですから、決して真に受けないようにして下さい。今回はいつもと違って、文体として、敬体ではなく常体を採用させてもらいます。深いいみはございません。


さて、なぜ Lesniewski が単称文 'A ε b' について考察していたのかに関しては、実際のところ、本人がその考察の背景を述べている。そこで彼自身によるその叙述をここで引けば、標記の疑問の解決が達成されるようにも思われるが、彼のその叙述は短くて簡単なものであり、その叙述を読んだだけでは更なる疑問が浮かんでくるまでで、充分な解決には到達していないように思われる。そこで彼のこの叙述を検討することを通して、標記の疑問に対し、少し突っ込んだ個人的な推測を暫定的に述べてみたい。これは全くの推測であり、根拠はない。

まず最初に、問題となる Ontology の公理を掲げておく。一つ目は Lesniewski の original に近い表記、二つ目は Principia 風の表記、三つ目は英語による表記である*1

    • ᄂAa」 「⏀ ( ε{ Aa } ϙ(⊢(ᄂB」 「⊢( ε{ BA } )⏋) ᄂBC」 「⏀- (ϙ( ε{ BA } ε{ CA }) ε{ BC } )⏋ ᄂB」 「⏀- ( ε{ BA } ε{ Ba } )⏋))⏋.
    • (A, a) : : ε{Aa} .≡ ∴ ~( (B).~(ε{BA}) ) ∴ (B, C) : ε{BA}.ε{CA} .⊃. ε{BC} ∴ (B) : ε{BA} .⊃. ε{Ba}.
    • A is a if and only if ( (for some B, B is A) and (for any B and C, if B is A and C is A, then B is C), and (for any B, if B is A then B is a) ).


次に、なぜ Lesniewski が単称文 'A ε b' について考察していたのかについては、先述の通り、本人がその考察の背景を述べていたので、当人のその弁を以下に引用してみる。当人のその弁はポーランド語で書かれているようだが、不勉強なことに、私はポーランド語が読めないので、その英訳と和訳を借りてきて掲げてみる。まず英訳から。なお、この引用文中の表現 'A ε b' は、先に掲げた Ontology の各公理左端辺りに出てくる表現 'ε{ Aa }', 'A is a' に相当する。

 While using colloquial language in scientific work and attempting to control its 'logic', I endeavoured to somehow rationalize the way in which I was using in colloquial language various types of propositions passed down to us by 'traditional logic'. While relying on 'linguistic instinct' and the often non-uniform tradition of 'traditional logic', I attempted to devise a consistent method of working with propositions which were 'singular', 'paticular', 'general', 'existential' etc. The results of my efforts were useful and I continued my efforts in applying to the 'symbolism' the equivalents of various types of propositions, after the change to the 'symbolic' way of writing.
 It so happened in connection with the semantic analyses which I applied to various categories of propositions, and in connection with considerations to do with the possibility of 'reducing' by definitions one types of proposition to others in keeping with my way of using various types of propositions, my interest in 1920 was centred on 'singular' propositions of the type 'Aεb' and on the mutual relations between such propositions. […] I wished to take one step further and, using the 'singular' propositions of the type 'Aεb', to base all my delibrations on some clearly formulated axiomatization which would harmonize with my theoretical practice in this domain at that time. In relation to such an axiomatization I required that no 'constant' terms should appear in it with the exception of the expression '.' [sic] in propositions of the type 'Aεb' and terms which appear in the 'deductive theory'. *2

今度は和訳。

 日常言語を ''論理'' 的に使用することに熟達しようと努力しながらも現実の研究にはまだ日常言語を使用していた時代に、既に私は ''伝統的論理学'' によって伝えられたさまざまなタイプの文が当の日常言語では一体論理的にはどのように使用されているのかを何とか分析してみようと努力していた。自分自身の ''言語感覚'', 及び多くの点で統一に欠ける ''伝統的論理学'' の伝統を基礎として、私は当時既に ''単称文'', ''全称文'', ''存在文'' 等の諸文を論理的に首尾一貫した仕方で整合的に操作する方法を創り出そうと努力していた。こうした努力の結果を利用しながら、記法を日常言語から ''記号的'' 記法に変えたあと、伝統的論理学に於けるさまざまなタイプの文をそれらに対応する ''記号'' 的表現に置き代え、それら諸文の論理的に首尾一貫した整合的な操作方法を求める努力をさらに続けて行ったのである。
 こうして、さまざまなタイプの文に私が行った論理意味論的分析、および、(それら (全称、特称、存在等の) 諸文の意味用法を私なりに理解、確定しての話だが) それらのうちのあるタイプの文を他のタイプの文へ定義によっていかにして ''変換'' しうるかという問題について私が行った考察を巡って、型 ''A は b である'' (A is b) の ''単称'' 文と他の諸文間の相互関係が1920年に当分の間私の関心の中心となったのである。[…] 私はもう一段高く歩みを進めたいと思い、また型 ''A は b である'' (A is b) の ''単称'' 文の分析を通じて行った私のあらゆる考察を、明確な形で定式化された何らかの公理上に基礎付けたいと思ったのである。この様な公理に対して、私は型 ''A ε b'' の文中に現われる記号 ''ε'' と ''演繹理論'' 中に現われる論理記号以外には如何なる ''定項'' もその中に現われてはならない、という条件を課したのである。 *3

これら英訳と和訳の間には、単なる修辞上の言い回しの異同を超えたずれがところどころ見られ、なぜそのようなずれが生じているのか、若干気になるところだが、そのことは置いておく。

Lesniewski は上記引用文に見られる決意を表明した後、単称文を規定する唯一の公理を立て、彼独特の体系 Ontology を構築した。今言及した唯一の公理というのは、引用文の前に三つ並べた式のことである。

さて、上記の引用文から、Lesniewski が単称文 'A ε b' について考察していた背景がある程度明らかになっていると思われる。それはいわゆる伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析し、その内実を整合的な形で明瞭にしたい、ということであったと思われる。Lesniewski はこの過程を押し進めて行くことで、単称文を公理系の基礎に据えて、真理を表す諸文の体系立てた、統一的で総合的な理解をもたらそうとしたものと考えられる。

ところで Lesniewski が単称文 'A ε b' について考察した背景は、このようにしてある程度わかりはしたが、私としてはまだよくわからない点がある。少なくとも二点、疑問がわいてくる。一つ目は、そもそもなぜ Lesniewski は伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析しようとしていたのだろうか、ということである。そして二つ目の疑問として、その分析の過程の中で、なぜ彼は単称文を体系の基礎としての公理に据えたのだろうか、ということである。特に、彼はその体系、つまり Ontology に固有の公理として、型 ''A ε b'' の、単称文を規定する公理をただ一つだけ採った。なぜ彼は単称文を規定する公理を立てたのだろうか。他の全称文や特称文に関する公理ではいけなかったのだろうか。

私はこれら二つの疑問に対し、決定的な答えは何も用意していない。そもそも私の方で用意するまでもなく、 Lesniewski はそれらの答えをどこかで明確に述べているのかもしれない。ただ、私が不勉強なだけで、どこでそれが述べられているのか、知らないだけかもしれない。
とにかくその疑問に対する決定的な答えを私は知らない。すぐにわかればよいのだが、すぐには答えはわかりそうもないように思われるので、ここで全く個人的な推測を述べてみたい。繰り返すがこれは全くの推測である。根拠はまるでない。完全に見当違いのことを述べることになるかもしれない。一方に Lesniewski によるきちんとした答えが存在するのに、そのことを知らずに勝手な空想を展開する結果となるかもしれない。多分見当違いな答えとなるのだろうが、取り合えず今感じていることを以下で少し記してみたい。
その際、二つの疑問のうち、一つ目の疑問の解答に多くの記述を割く予定である。二つ目の疑問の解答には、今の私にはあまり多くを述べられる素材を持ち合わせていない。これらの疑問を今一度列挙して、それぞれに対する現時点での私の予想を述べてみる。

    • 疑問1: なぜ Lesniewski は伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析しようとしていたのだろうか?
    • 疑問2: なぜ Lesniewski は Ontology に固有の公理として、型 ''A ε b'' の、単称文を規定する公理をただ一つだけ採ったのだろうか?


まず、

    • 疑問1について。なぜ Lesniewski は伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析しようとしていたのだろうか?

そもそも、この疑問を私が抱くのは、次のような思いを今まで持って来ていたからである。つまり、Lesniewski が生きていた当時において、伝統的論理学について改めて考えねばならないことがあったのであろうか。伝統的論理学は、はっきり言ってしまえば、既にその研究は終わっており、今さら伝統的論理学について何を調べ、何を研究する必要があったというのだろうか。Kant の言をまつまでもなく、伝統的論理学については、Lesniewski 存命の当時台頭し始めて来た数理論理学との比較という研究は別にして、もう調べ尽くされており、やるべきことがまだあったというのだろうか。何を今さら Lesniewski はやろうとしていたのだろうか。伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係というものは、2000年にも渡って大変多くの人によって学ばれ研究されて、もう調べ尽くされていたのではなかったのか。恐らくではあるが、このような私の思いは、私のみの思いではなく、上記の Lesniewski の文を読んだ方ならば、同様に抱く思いではなかろうか。このような疑念を抱くからこそ、「なぜ Lesniewski は伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を (今さらわざわざ) 分析しようとしていたのだろうか?」という疑問1が脳裏に浮かんで来るものと思われる。
さてそこで、この疑問に何がしかの答えを見出すべく、伝統的論理学について、若干ながら調べてみた。そしてわかったことは、Lesniewski 存命のその当時、そしてもしかすると今でも、伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係については、検討してみなければならない課題が残っていたし、残っているかもしれないということである。これは個人的には少し驚きである。伝統的論理学 (の研究) はもう終わっていると思っていた人間にとっては軽い驚きである。「まだあったのか!?」という感じである。これには少なくとも二点、研究課題が残っていたものと考えられる。その二点を以下に順番に説明する。


(1) 伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係に関する残された研究課題: 対当関係の再検討・徹底究明の必要性

伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を検討するということは、伝統的にはいわゆる対当関係 (Oppositio, the Square of Opposition) の考察に当たる。あるいは、上記の諸文をいわゆる三段論法 (syllogism) を構成する文として、その論証の中に置いた時に、いかなる関係が生じるのか、つまりどの文をどこに配置した時にいかなる文が帰結するのか、それぞれの場合の妥当性の成否を見極めることによって、上記諸文の関係を考察するということに相当する。

ところで、対当関係と三段論法とは、いかなる関係にあるのだろうか。このことを詳説できる力は今の私にはないが、次の三点だけ、差し当たりではあるが、指摘しておく。1. Bochenski によると、対当関係は三段論法における推論規則の一つとして利用されているとのことである*4。2. また Lukasiewicz によると、対当関係は三段論法によって証明されるもののようである*5。3. さらに、三段論法の妥当なある形式が、対当関係におけるある諸文の解釈を規定しているということもある*6

対当関係と三段論法の関係如何については詳論できないので、これはここに置いておく。そしてまず対当関係について、Lesniewski 存命の当時、検討課題が残されていなかったか、見てみよう。

最初に 'existential import' という言葉のいみについて確認しておく。 Existential import については、文について言われたり、名辞について言われたりするが、今ここでは文について言われるものとして説明する。

一般的に言うならば、ある文が existential import を持つとは、その文を真とするためには、その文を構成する名辞が空ではあってはならないとすることである。その文を真とする際に、その文を構成する名辞には、必ず何か当てはまるものが存在しなければならないとすることである。あるいはこの対偶を取って、ある文を構成する名辞が空であることにより、その文が偽とされるならば、その文は existential import を持つ。(但し、existential import が言われるのは、特に、いわゆるA型の全称文についてであるのが普通である。)

例えば、

    • すべての unicorn は角を持つ。

という文の真理条件に、この文を構成する言葉 'unicorn', '角を持つ' が空ではあってはならないという付帯条件が付いているならば、この文は existential import を持つ。別言すると、この文を真とするには、何か unicorn が存在しなければならないとするならば、この文は existential import を持つ。あるいはこの文を構成している名辞 'unicorn' が空であることにより、この文が偽であるとされるならば、この文は existential import を持つ。
伝統的論理学においては通常、文「すべての unicorn は角を持つ」は existential import を持っているとされているので、この文を真とするためには、unicorn が存在しなければならない。もしも unicorn が存在しないなら、この文は偽となる。
現代の標準的な論理学では、文「すべての unicorn は角を持つ」は existential import を持たないとされるので、この文を真とするのに unicorn の存在は必要ない。実際に unicorn は存在せず、そして存在しないことにより、現代の標準論理ではこの文は真である。

さて以下では、いわゆる対当方形図 (the Square of Opposition) の知識を前提にして話を進める。できればその図を目の前にして、話を読んでいただきたい。有名な図であるから、探せばお手元の本や net ですぐ見つかるはずである。これら対当関係に関する話は、次の文献にそのほとんどを負っている。

  • Terence Parsons  ''The Traditional Square of Opposition,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, first published in 1997, substantively revised in 2006, http://plato.stanford.edu/entries/square/

これから出てくる論証においては、ある仮定から、対当方形図に従って推論を進めて行き、その仮定の否定を導くことで、対当関係の何かに問題があることを示す。また、前もって論証の流れを対当方形図に沿って述べておくと、まずA型の文から始め、I型の文へと進み、そこからE型の文へと行って、O型の文へと進み、そこで初めの仮定の否定を導いて、対当関係に問題が潜んでいることを明らかにする。それでは論証を始める。

今、

    • すべての unicorn は角を持つ。

について考える。そして unicorn は存在しないとしよう (仮定)。すると unicorn は全くいないのだから、いないものが角など持っている訳がない。だからこの文は偽であるとしよう。そうするとこの場合、この問題の文は existential import を持っていることになる。さてこの時、対当方形図の、いわゆるI型の文

    • ある unicorn は角を持つ。

は偽となる。やはり unicorn は一つもいないからである。そうするとこの文から矛盾対当 (contradictory)

    • どの unicorn も角を持たない。

が帰結する。矛盾対当関係は、真理をいわば反転させるから、今帰結した文は真となる。さらにこの文からその大小対当 (subaltern)

    • ある unicorn は角を持たない。

が帰結する。大小対当関係は、その superaltern が真である時 (今の場合、superaltern とは文「どの unicorn も角を持たない」) 、その subaltern も真であるから (今の場合、subaltern とは文「ある unicorn は角を持たない」)、今帰結した文「ある unicorn は角を持たない」は真である。

ところで以上の推論の端緒となった文「すべての unicorn は角を持つ」は existential import を持っていた。そこからただ論理的に帰結せしめただけの文である最後の文「ある unicorn は角を持たない」も、同様に existential import を持つものと思われる。そうするとこの最後の文は、existential import を持っていてかつ真であるから、unicorn であって角を持たないものがいる、あるいは端的に、角を持たない unicorn がいる、または、角を持たないがとにかく何にしろ unicorn が存在する、ということになる (仮定の否定)。しかしこれは信じがたい、許容しがたいことである。そもそもこの論証の初めで unicorn は一つも存在しないとしたのである。それが最後には存在することになっている。これは対当関係における何かが間違っているのである。

このことに関する一つの解決策は、「すべてのSはPである」、「すべてのSはPでない」という、伝統的論理学のいうA, E型の文は existential import を持ち、「あるSはPである」、「あるSはPでない」というI, O型の文は existential import を持たないと解釈することである。実際にこの解決策は Ockham によって採用されていた*7。そうすると先ほど最後に帰結した文「ある unicorn は角を持たない」は existential import を持たないと解釈することができる。そしてexistential import を持つように解釈されることを防ぐため、先ほど最後に帰結した文を「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」と表記した方がよいだろう。そもそも「ある unicorn は角を持たない」は、先の推論の端緒の文「すべての unicorn は角を持つ」の矛盾対当関係にある文であった。この関係にある文は、一方が全称文ならば他方はその全称文の単なる否定になる。一方が「すべてのSはPである」なら、他方は、否定を '¬' で表すと、「¬(すべてのSはPである)」となる。したがって、existential import を持つように解釈されることを防ぐためには、問題の文を「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」と表記した方がよい*8。これならあからさまに unicorn がいるはずだ、とは一見したところ思わないだろう。そして実のところ、文「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」は、我々の論証の最後に帰結した文「ある unicorn は角を持たない」が真とされたのと同様に、真である。そもそも我々が論証の最初に置いた文「すべての unicorn は角を持つ」は、'unicorn' という名辞が表す具体的事例がないゆえに空であることから、偽であるとされた。この偽であるとされた文の矛盾対当である文「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」は、矛盾対当関係にある文なのだから、真なはずである。論証の最初の文「すべての unicorn は角を持つ」が偽なら、これの単なる否定「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」は真なはずである。そしてこの単なる否定文が我々の論証の最後に帰結した文と見なしうるのであった。したがって「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」が、我々の論証で本来最後に帰結すべき文であり、上に掲げた我々の論証で帰結したものとして最後に書かれた文「ある unicorn は角を持たない」は、本来書かれるべきであった文「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」の単なる言い換え、表現上の一ヴァリアントと見るべきであり、本来の帰結文「すべての unicorn は角を持つ、ということはない」が、そこに含まれる名辞が空であるゆえに、矛盾対当関係を介して真とされているのならば、一ヴァリアントである文「ある unicorn は角を持たない」も、ここに含まれる名辞が空であるがゆえに、真であると見なされるべきなのである。これを一般化すると、O型の文は、ヴァリアント文のように存在を主張しているように見える文でも、そこに含まれる名辞が空ならば、真になる (真になりうる)、ということである。つまりO型の文は existential import を持たないのである。こうして我々の先の論証で出て来たとされる信じがたい結論「角を持たないがとにかく何にしろ unicorn がいる」という結論は拒否しうる。元々が名辞 'unicorn' は空なのであって、O型の文は空な名辞 (empty term) が含まれたまま、existential import を欠くゆえに、真となりうるのである。

いずれにせよ、伝統的論理学の歴史においてはある時期から、A, E型の文は existential import を持ち、I, O型の文は existential import を持たないというような解釈が採られていたようである*9。このためにあからさまな矛盾から逃れることができていたようである。中世においては existential import のあるなしや、empty term を容認するしないに関し、自覚的な哲学者、論理学者もいたが、そのような人物もそのうちいなくなり、19世紀には一部の例外 (De Morgan, Schröder) を除いて、 existential import, empty term に関してはほとんど無自覚になってしまい、漠然と existential import はあるものであって、empty term は容認し得ないと前提されていたようである*10。そしてこのような状態で、つまり、O型の文が empty term を認められず、existential import があるものであるとした場合、対当関係と伝統的にそれに付随してきた諸規則 (contraposition*11, obversion*12 ) とに不整合は来さないのか、という疑問を不問に付したまま、新たな数理論理学の普及する時代に突入して行ったようである。この結果、いかなる事態が招来したのかと推測してみるならば、対当方形図の一部分を残して、新しい数理論理学に人々が乗り換えるということが生じたものと思われる。新しい論理学では全称文は条件法を使って表されるが、この時、existentail import は伴われない。すると対当関係のうち、subalterns は放棄されねばならぬ。対当関係のすべてを維持するということはできない。その関係の一部分だけを残して、事実上、対当方形図は教育目的以外には放棄されてしまったと言えるだろう。

しかし対当関係における existential import, empty term や、対当関係に付随してきた contraposition, obversion を、どの程度保存でき、どの程度保存できないのかは、すぐさまわかるような自明な事柄ではないだろう。対当方形図のどの文のどの語には existential import があって、どの語にはそれがないのだろうか。このあるなしの関係は、対当方形図を構成する諸文の論理的関係にいかなる影響を及ぼすであろうか。また、三段論法を構成するどの文のどの語には existential import があって、どの語にはそれがないのだろうか。やはりこのあるなしが、三段論法の妥当性にいかなる影響を及ぼすであろうか。これらの事柄の全面的な考究は、19世紀の段階においては充分詰められてはいなかったものと思われる。これらの事柄について、単純に新しい論理学に乗り換えて忘却してしまうのではなく、再調査、再検討し追究してみるということは、20世紀に残された課題となったようである。そして実際に20世紀も半ばを過ぎた1952年になってもこの種の問題を追究していた人物がいるという事実がある*13 *14

このように見てくると、なぜ Lesniewski が伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析しようとしていたのか、その理由の一端が明らかになってくるように感じられる。Lesniewski は彼の Ontology を考えている時、Russell Paradox と格闘していたはずである。その際には、Russell Paradox の教訓として、クラス名の中には一見その名の指示する対象が存在するように見えながら、しかし実際には存在しないものがあるかもしれないと考えたであろう。すると、empty term を許容した上で、全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析し、それらの文を含む対当関係と三段論法を詳細に考え直してみなければならないと推論するに至っただろう。伝統的論理学で扱われる全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係は、existential import, empty term の有無を念頭に置いた場合、決して解決済みだった訳ではなく、自明な事柄でもなかった。Russell Set の名前が空名辞だとするならば、空名辞を伴う諸文の論理的相互関係を確定しない間は、Russell Paradox の解決には全く到達しないだろう。Russell Paradox の教訓から、空名辞を伴いうる諸文の相互関係を解明することが、Lesniewski にとって必要と感じられたのかもしれない。彼が生きた当時の状況においては、彼自らの手でその相互関係を解明、確定せねばならなかったのかもしれない。

ここまでで、伝統的論理学に残されていた研究課題の一つ目を説明した。次はその二つ目を説明する。その二つ目の課題とは、


(2) 伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係に関する残された研究課題: Singular Syllogisms の検討の必要性

すなわち、

    • 単称名 (singular term) を主語とする、単称文 (singlular sentence) を含んだ三段論法、つまり単称三段論法 (singular syllogisms) *15 についての理解の必要性

である*16

単称名を主語とする、単称文を含んだ三段論法、つまり単称三段論法についての理解が、不充分だったことについてであるが、まず、Aristotle のいわゆる定言三段論法が、単称三段論法ではない、つまり、その三段論法を構成する文はどれも一般名辞を量化したものだということは、よく知られていると思う。なぜ Aristotle が単称文を三段論法の中に持ち込もうとしなかったのかについては、詳細な検討を要するが*17、いずれにせよ、三段論法は当初、その論証を構成する文はどれも量化された文だった。それが時代を経るごとに変化して、量化子を伴っていないと思われる単称文を含んだ三段論法も、少しずつ利用されるようになっていく。しかし定言三段論法というものは、やはり原則的に量化文から成るものとして理解されてきた。単称文もその見かけに反して、量化文の一種として三段論法に組み込まれて理解されていた。そうすると、単称文はどのような量を持った文として理解するのが最も整合的なのか、という疑問がわいてくる。この疑問に表立って取り組んだ哲学者、論理学者は多くないようである。この問題に取り組んでいた人物には次の人々がいる。12世紀頃の Garlandus, 17世紀から18世紀初頭にかけての Leibniz, 20世紀半ばの Czeżowski, 20世紀後半の Sommers, Copi である*18。 単称文を三段論法に組み込む際の問題を少しだけ言うと、三段論法中の単称文を、量化文として見た場合、その文は全称文なのか、特称文なのか、どちらか一方なのか。それとも全称文かつ特称文なのか。それとも全称文または特称文なのか。単称三段論法においては、今述べた解釈のいずれを採用すれば整合的であり得るのか、これが問題であったようで、1980年代になっても、どの解釈を採るべきかは、完全には定まってはいなかったようである。(今現在は、定まっているのかどうか、不勉強である故、私は知らないでいる。) こうして伝統的論理学における単称三段論法の扱いについては、未確定な研究課題として残されていたのである。以上で、現在まで残されてきた伝統的論理学の二つ目の研究課題について、ごく簡単ながら説明した。

    • 疑問2について。なぜ Lesniewski は Ontology に固有の公理として、型 ''A ε b'' の、単称文を規定する公理をただ一つだけ採ったのだろうか?

それでは、単称三段論法の理解が未確定なものとして残されていた課題だったとして、その課題を Lesniewski が引き受けねばならない必要性でもあったのだろうか。あったと私は推測する。単称三段論法の理解が Lesniewski にとって必要であったことは、次の二つの点に求められるのではないかと考える。但し、これらの点については、現時点で私には詳説できるような素材をほとんど全く持ち合わせていないので、一言、二言、記すだけで済ますことにさせてもらう。

まずその一つ目は、

    • (一) Russell Set の名前は単称名であって、Russell Set の名前が論証中でどのようにふるまうのかを分析する必要性があること、

と述べられる。Lesniewski が当時、解決を目指していた事柄が Russell Paradox にあったとするならば、Rassell Set に言及している文の論理的振る舞いを分析してみる必要が出てきただろうと予想される。もし、Russell Set に言及してる文があったとするならば、Russell Set を表す名辞は単称名として振る舞っているように見えたと思われる。Polish には冠詞はないが、代わりに英語で Russell Set を表す表現をここに記すと、例えば 'the class of classes which are not subordinate to themselves' 等々となるだろう。ここには定冠詞が現れている。この英語表現は definite description と考えられる。ということは、この英語表現は単称名として文中で振る舞うものと見えるだろう。ところで Russell Paradox を受け、Lesniewski がまず考えたのは、何らかのもの/対象の集合/クラスが、再び何らかのもの/対象であるのは、どのようなことなのか、という問題であったようである。この問題の検討の結果、彼が得た結論は、いかなるクラスも自分自身を含む、というものであり、かつ自分自身を含まないようなクラスはない、というものであった。従ってここから次の結論を Lesniewski は得ていたようである。すなわち、自分自身を含まないクラスのクラスというようなものはない、である。こうして、自分自身を含まないクラスのクラスは自分自身を含むとすると、この否定が帰結し、また自分自身を含まないクラスのクラスは自分自身を含まないとすると、やはりこの否定が帰結して、Russell Paradox が生じるとされていたものは、そもそも単称名「自分自身を含まないクラスのクラス」が何も指していないとされることから、単称文「自分自身を含まないクラスのクラスは自分自身を含む」も、単称文「自分自身を含まないクラスのクラスは自分自身を含まない」も、どちらも偽とされて、Russell Paradox も雲散霧消することになる。つまり Russell Paradox を引き出す際の論証の前提に偽な文が含まれるから、偽である前提から不合理が生じたとしても、それは当然であって、間違った前提を立てて論証を行い、真と見えるような結論を引き出そうとすること自体にそもそも間違いがある、という訳である。さて、Lesniewski は現実に Russell の英語の著作 (Principia, Introduction to Math. Phil.) を読んでいた。そこで定冠詞を伴った Russell Set を指示するかに見える definite description に Lesniewski は出会っているはずである*19。そして彼は、Russell Set のようなクラスは認められない、存在しないと考えたことから、Russell Set を指示しているように見える英語表現の definite description は実のところ空であると判断したようである。つまりこの時、Russell Set を指示しているかに見えるが、しかし何も指示していない空な単称名、重大な Russell Set にかかわる空な単称名があると、Lesniewski は判断したようである。とするならば、空な単称名を含む文の論理的諸関係をよくよく確認してみなければならないと Lesniewski が考えたとしてもおかしくはない。そして実際にそう考えて、伝統的論理学の中の対当方形図や定言三段論法を見てみると、単称名を含んだ単称文の扱いが、不明瞭であることにすぐ気が付いたものと想像される。単称三段論法というものを、普段何気なく行ってはいるものの、伝統的論理学という従来の枠組みの中で、それをどのように整合的に位置付けたらよいのかについては、不確定であったのである。このような訳で、単称名が Lesniewski にとって重要な関心事であり、当時は不充分であった単称三段論法の論理的解明の徹底化を図るべく、伝統的論理学の全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を分析していたのではないかと思われる 。また、研究者として初期の頃は、Lesniewski は当時台頭し普及し始めていた数理論理学、記号論理学を嫌悪していたことはよく知られている話だと思う。また、学業の初期から中期段階にかかる時期に考え出された彼の Mereology は多くを日常言語の Polish で考え、書いていた。ここからして推測されることは、自然言語の文に頼って推論を行い、推論を検証し、推論に磨きをかけることに Lesniewski は携わっていたのであり、そうすると、進出してきたばかりの数理論理学ではなく、自然言語による推論に親和的な伝統的論理学を頼りに推論を行い、検証し、磨きをかけるということを Lesniewski はせざるを得なかったものと考えられる。ならば自然と伝統的論理学で使われる諸文の論理的関係やパターンに敏感となっていったであろう。さもなければ自然言語の文による推論の能力を充分発揮することはできず、論証の整合性の確認も充分には行えないことになってしまうだろうからである。こうしたことも、伝統的論理学の諸文の論理的関係に特別な注意を払うことになった理由となるだろう。

そして、単称三段論法の理解が Lesniewski にとって必要であったもう一つの点は

    • (二) Nominalist にとって世界を記述する最も基本的な文は単称文であること、

と述べられるのであり、Lesniewski が radical な nominalist であったというところに、二つ目の理由が求められると推測する。ただ、正直に言うと、今の私は Lesniewski の nominalism については詳しいことを知らない。彼の nominalism は単純ではないようであり、簡単に「それはこうだ」とは言えないものと思われるが、nominalism に関する常識的な観点からするならば、nominalist にとり、存在するものとは、一般者、普遍者ではなく、個物、個体であろう。「一般者」、「普遍者」、「個物」、「個体」で、それぞれ正確なところ何をいみしているのかは、話が終わらなくなるので今は置いておくとして、いずれにせよ一般者、普遍者ではなく、個物、個体こそが在るのであると、Lesniewski は考えていたものと予想する。そして世界に在る個物なり個体なりについて何事か真理を述べる際に最も基本となるのは、単称文であろう。単称文こそが最も基本的で最も根本的な atomic sentence だと考えられる。ところで Lesniewski の Ontology は解釈を欠いた形式的体系ではなく、初めからいみを持った、真理を扱い、真理を記述する体系なのだった。そもそも Ontology は世界の最も一般的な存在構造を取り扱うものとして考えられていたのを思い出し、ここに彼の nominalistic な stance を加えれば、彼自身にとっては世界の存在構造の最基層に個物があって、その個物についての原初的真理を表すものとしては、単称文こそ最もふさわしいと考えたとしても不思議ではなかろう。だからこそ、単称文を一般的に規定し、単称文が含まれる論証 (= 単称三段論法) の論理的構造を正確に摘出する必要があったものと推測されるのである。


さて、今述べた単称三段論法の理解が Lesniewski にとって必要であった二つの理由 (一)、(二) により、上記の疑問2「なぜ Lesniewski は Ontology に固有の公理として、型 ''A ε b'' の、単称文を規定する公理をただ一つだけ採ったのだろうか?」についての答えがいくらかなりとも与えられるのではないかと考えられる。もしも、Lesniewski が論理学的観点のみに基付いて、伝統的論理学の再考から、単称文 'A ε b' を唯一の公理として Ontology を建設したのではなく、単称文 'A ε b' を唯一の公理として立てた理由に、何か哲学的な動機が働いていたとするならば、Russell Paradox を規制し、回避せしめる手立てとなっていて (これには先の (一) がかかわってくる)、かつ彼自身の存在論/存在観に合致したもの (先の (二) ) を公理として立てようとしたのではないかと予想される。とすると、それに合うのが単称文 'A ε b' を規定する公理だったとしても奇異ではないだろう。以上が疑問2の答えである。但し、この答えは単なる予想である。現時点では、予想以上のものでは全くない。


ごく簡単にまとめよう。

なぜ Lesniewski は単称文 'A ε b' について考察していたのだろうか? この疑問の背景には、伝統的論理学における全称文、特称文、存在文、単称文の相互関係を Lesniewski が分析していたことがあった。調べてみると、伝統的論理学におけるこれら諸文相互の論理的関係は、はっきりしていなかった。また、単称三段論法に対する理解も研究者の間で深化、確定していなかった。当初、自然言語の文に依拠しながら伝統的論理学の助けを借りつつ Russell Paradox に向き合っていた Lesniewski には、単称名である Russell Set の名前を含んだ単称文やそれと関連する全称文などとの論理的関係と、単称文を含んだ単称三段論法の理解と整備を進める必要があったものと思われる。以上をおおよそ逆にたどれば、こうなる。Lesniewski は Russell Paradox に向き合っていた。Russell Paradox に出てくる Russell Set の名前は単称名である。すると、Russell Paradox を分析し、その解決を図るためには、単称名を含んだ文、つまり単称文と、その他の量化文との関係を明らかにせねばならず、加えて単称文を含んだ単称三段論法の理解を確定させねばならない。その上で、初めて Russell Paradox の十全な理解が得られ、解決への糸口が見つかるだろうと考えられる。このような理由から、Lesniewski は単称文 'A ε b' について考察していたものと想像される。

また、なぜ Lesniewski は単称文 'A ε b' を唯一の公理として Ontology を構成したのだろうか、という疑問に関しては、今も述べたように、当時 Lesniewski は Russell Paradox と対決していた。Russell Paradox の鍵となる Russell Set の名前は単称名と考えられる。そこで単称名を主語とした単称文の論理的性格を理解し、規定しておく必要があると思われる。そして、そもそも Lesniewski は徹底した nominalist であった。Nominalist にとって、世界を描写する最も基本的な文は、単称文だろう。したがって以上により、単称文を公理とした、存在の一般理論としての Ontology が考えられたのだろう。そして単称文を、それだけを唯一の公理としたのは、当時の Poland 学派に見られるように、理論の簡素化、経済性の追求の結果であると思われる。


これで終わりにします。上記のすべては、単なる予想です。文献上の根拠は全くございません。微塵もありません。そのため、見当はずれな妄想かもしれません。よって、絶対に真に受けないでください。私自身、絶対に正しいとは思っていません。「もしかすると、こうかもしれないな。でも違っているかもしれない」と私は感じています。今後勉強を進めて、以上の予想が当たりか、はずれか、どちらなのか、はっきりさせることができればと考えています。いずれにせよ、ひどい妄想でしたらごめんなさい。上記の文はよく見直していないので、本文中に誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字等がございましたら、お詫び申し上げます。誠にすみません。


追記 2013年9月1日

上記の Leśniewski に関する話について、文献上の直接的な証拠は今のところありませんが、傍証のようなものならあることに気が付きました。詳しくは当日記、2013年9月1日、項目 'Leśniewski on Conversions and Categorical Syllogisms' を参照ください。

*1:一つ目と二つ目の表記については次を参照。Stanisław Leśniewski, ''On the Foundations of Ontology,'' translated by M. P. O'Neil, in S. J. Surma, J. T. Srzednicki, D. I. Barnett ed., with an Annotated Bibliography by V. Frederick Rickey, S. Leśniewski Collected Works, Volume II, PWN-Polish Scientific Publishers and Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44, 1992, p. 609. This paper was first published in 1930. 一つ目の表記は original の表記とは少し違っている。 Original の式を表すための font が一部、当方には欠けているので、ここで掲げた表記は original とは若干ずれがある。大体のところはこのような感じだというぐらいに見ておいていただければと思う。三つ目の英語の表記は次から借りてきている。Peter Simons, ''Stanisław Leśniewski,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, First published in Nov. 2007, http://plato.stanford.edu/entries/lesniewski, Section 3.2 Ontology.

*2:Stanisław Leśniewski, ''On 'Singular' Propositions of the Type 'Aεb','' translated by D. I. Barnett, in S. J. Surma, J. T. Srzednicki, D. I. Barnett ed., with an Annotated Bibliography by V. Frederick Rickey, S. Leśniewski Collected Works, Volume II, PWN-Polish Scientific Publishers and Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44, 1992, pp. 366-67. This paper was first published in 1931.

*3:スタニスワフ・レシニェフスキー、「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、藁谷敏晴訳、『科学哲学』、第13巻、1980年、92-93ページ。

*4:J. M. ボヘンスキー、『古代形式論理学』、岩野秀明訳、論理学古典選集 2, 公論社、1980年、68, 78ページ。

*5:ヤン・ウカシェーヴィチ、『数理論理学原論』、高松鶴吉訳、文化書房博文社、1992年、1929年ワルシャワ大学初版本翻訳、191-96ページ。

*6:最後の点については、このすぐ後に本文中で触れる Terence Parsons の文献の Section 3 The (Ir)relevance of Syllogistic を参照。

*7:Terence Parsons, ''The Traditional Square of Opposition,'' note 6. O型の文が existential import を持たないと明示的に主張しているのは、Ockham だけではない。Buridan もいる。Paul of Venice もそのような主張を事実上認めている。Terence Parsons, ''The Traditional Square of Opposition,'' Section 5 Later Developments を参照。

*8:そして実際に Aristotle はこの言い方を、対当関係を説明している De Interpretatione で approve している。Terence Parsons, ''The Traditional Square of Opposition,'' Section 2 Origin of the Square of Opposition の冒頭で引かれている Aristotle の De Interpretatione の文章を参照。また William Kneale and Martha Kneale, The Development of Logic, Clarendon Press/Oxford University Press, 1962/1984, p. 56. 和訳では「すべての人間が白くあるのではない」となっている。アリストテレス、「命題論」、山本光雄訳、『アリストテレス全集 1 カテゴリー論 命題論 分析論前書 分析論後書』、山本光雄他訳、岩波書店、1971年、92ページ。これは De Interpretatione 7, 17b.18-19 辺りに相当する。

*9:したがって、伝統的論理学の対当関係や三段論法では昔からずっと existential import を持つものだとされ続けてきた、というよく聞く話は、Terence Parsons によると間違いなのである。先ほどからの註でも触れたように、Ockham, Buridan, Paul of Venice は、existential import を持たない解釈を提示していたのである。

*10:Terence Parsons, ''The Traditional Square of Opposition,'' Section 5.2 Modern, Renaissance, and Nineteenth Centuries. Schröder が一部の例外であるということについては、M. Detlefsen, David Charles McCarty and John B. Bacon, Logic from A to Z, Routledge, 1999, p. 43 の entry ''Existential import'' を参照。

*11:E.g., 'Every S is P' is equivalent to 'Every non-P is non-S'

*12:E.g., 'Every S is P' is equivalent to 'No S is non-P'

*13:Terence Parsons, ''The Traditional Square of Opposition,'' Section 6 Strawson's Defense. P. F. Strawson が 1952に刊行した Introduction to Logical Theory で、この課題が追究されている。和訳では、P.F.ストローソン、『論理の基礎(下) 日常言語と形式論理学』、 常俊宗三郎、木村慎哉、薮木栄夫訳、法律文化社、1976年、「第6章 主語、述語、存在」を参照。

*14:Existential import についての現代における研究の変遷については、次を参照。Joseph S. Wu, ''The Problem of Existental Import (From George Boole to P. F. Strawson),'' in: Notre Dame Journal of Formal Logic, vol. 10, no. 4, 1969.

*15:単称三段論法とは、「すべての人間は動物である」というような「すべて」という量化子を含む全称文とは別に、「Socrates は人間である」というような単称名「Socrates」を含んだ文からなる三段論法のこと。

*16:Tadeusz Czeżowski, ''On Certain Peculiarities of Singular Propositions,'' in: Mind, vol. 64, no. 255, 1955. George Englebretsen, ''Singular/General,'' in: Notre Dame Journal of Formal Logic, vol. 27, no. 1, 1986. 藁谷敏晴、「三段論法における単称命題の特殊性に関するライプニッツの要請について」、中川純男、田子山和歌子、金子善彦編  『西洋思想における「個」の概念』、慶應義塾大学出版会、2011年。

*17:See Jan Lukasiewicz, Aristotle's Syllogistic from the Standpoint of Modern Formal Logic, Second Edition Enlarged, Oxford University Press, 1951/1998, pp. 5-7, especially p. 7.

*18:単称三段論法を考えていた Garlandus は、一般に言われているような11世紀における Compotista としての Garlandus ではなく、12世紀の、若い方の Garlandus であると思われる。この点を詳しく考証し、いくつもの理由から、Garlandus the younger こそが、単称三段論法の Garlandus であると、完全に断言している訳ではないものの、ほぼそうであると主張している論文に以下がある。Yukio Iwakuma, '''Vocales' or Early Nominalists,'' in: Traditio, vol. 47, 1992, §§1-3, especially §3.

*19:Lesniewski が Russell の記述の理論に言及している文言も実際に残っている。次を参照。Stanisław Leśniewski, ''On the Foundations of Ontology,'' Collected Works, Volume II, p. 609, n. 10.