What Did Quine Think of Leśniewski's Singular Inclusion ε ?

たぶん大抵の人が興味を持たないことを今日は記します。(「今日も記します」と言うべきかもしれない…。) 以下の話題に含まれる keywords は、Quine, Leśniewski, the singular inclusion ε, the standard of ontological commitment, individuals as unit classes, predicate functor logic などです。これらの keywords に珍しくも興味をお持ちになられたら、続けてお読みください。ただし、面白い話かどうかは、保証できませんが…。また、私は Quine の専門家でもありませんし、Leśniewski の専門家でもありません。そのため、このあとに記す私の話は間違っているかもしれません。その可能性が極めて高いので、漫然とお読みになられますと、足をすくわれるかもしれませんから、十分にご注意ください。


Quine が Leśniewski の有名な無定義語 'ε' に関して*1、どのように考えていたのかがわかる文を先日見かけました。Quine が Leśniewski の 'ε' を、どのように見ているのか、ちょっと興味を感じましたので、Quine の文を引用してみます。そしてうまくない和訳を記し、ごくごく簡単な註を付けます。私の和訳はかなり堅苦しくなっています。和訳のなかの '[1]' などは、訳者による註の番号です。なお、和訳には誤訳が含まれているでしょうから、そのまま信用してしまうことのないようにお願い致します。訳文中や、訳文以外の箇所で、私のなしたすべての誤りに対し、ここで前もってお詫び申し上げます。


問題の文は、次にあります。

  • W. V. Quine  ''[Review of] Kazimierz Ajdukiewicz, On the Notion of Existence. Some Remarks Connected with the Problem of Idealism. Studia Philosophica (Poznań), vol. 4 (for 1949-1950, pub. 1951), pp. 7–22.,'' in: The Journal of Symbolic Logic, vol. 17, no. 2, 1952.

該当部分を引用し、訳を付けてみます。

 Leśniewski's version […] of the membership connective 'ε' is basic to this paper. It seems desirable to explain that notion critically here, before treating of the paper itself. One way of viewing Leśniewski's logic of 'ε' (which he called ''ontology'') would seem to be this: the variables stand in places appropriate to general terms, the notion of general term being construed broadly enough to include terms which are true of fewer than two objects as well as terms which are true of two or more. Then, where 'a' and 'b' are thought of as general terms, 'a ε b' is construed as true if, and only if, 'a' is true of one and only one object and 'b' is true of that object. Leśniewski, and others who have found this part of his logic useful (Kotarbiński, Ajdukiewicz), have entertained an amiable distaste for abstract entities and hence have liked to appeal to general terms, more or less as above, rather than to classes. Too little significance, however, has been attached to the fact that the variables which have been said to stand in places appropriate to general terms are subjected in Leśniewski's theory to quantification. Such quantification surely commits Leśniewski to a realm of values of his variables of quantification; and all his would-be general terms must be viewed as naming these values singly. If quantification as Leśniewski used it did not commit him squarely to a theory of classes as abstract entities, then the present reviewer is at a loss to imagine wherein such commitment even on the part of a professing Platonist can consist. […] Reviewed in this light, Leśniewski's version of 'ε' coincides with classical membership confined within a universe of individuals and classes of individuals (provided that we identify individuals with their unit classes […]).*2


成員関係結合子 'ε' の Leśniewski によるもの [1] が、この論文にとって不可欠となっている。この論文自身を扱う前に、ここでその結合子に対する考え方について批判的観点から説明しておくのが望ましいだろう。'ε' の Leśniewski による論理学 (これを彼は「存在論」と呼んだ) に対する一つの見方は、次のようなものだろうと思われる。['ε' の両辺の] 変項が位置するところは [2]、一般名辞にふさわしい場所とされる。一般名辞という観念は十分広く取られ、それには次のような名辞も含まれる。つまり、二つかそれ以上の対象について真であるような名辞が含まれるのと同様に [3]、二つより少ない対象について真であるような名辞も含まれる [4]。そうすると、'a' と 'b' が一般名辞と見なされる場合に、'a ε b' が真と解されるのは、次の時、かつその時に限る、すなわち、'a' が一つの、かつ一つだけの対象について真であり [5]、しかも 'b' がその対象について真である [6]。Leśniewski と、彼の論理学の成員関係結合子を扱った部分 [7] が有用であるとする他の人々 (Kotarbiński, Ajdukiewicz) は、抽象的存在者に対し、はばかることなく嫌悪感を抱いてきた [8]。それ故、クラスよりも、多かれ少なかれ上記のような一般名辞に訴えることを好んできた [9]。しかし、次の事実に重要性があまりにも与えられてきていない。その事実とは、つまり、一般名辞にふさわしいところに置かれると言われてきた変項は [10]、Leśniewski の論理学理論において、量化に服するのだ [11]、ということである。そのような量化により、確かに Leśniewski は、量化の、一般名辞の位置にくると彼が言う変項の、その値からなる領域にコミットしているのである [12]。ということから、Leśniewski が一般名辞としているつもりのものはすべて、一つ一つそれぞれの値を名指していると見なさねばならないのである [13]。Leśniewski が行っていたような量化によって、彼が抽象的存在者としてのクラスの理論に直接コミットしていなかったとするのなら [14]、プラトニストを公言する者の側にとってさえ、どこでクラスのような抽象的対象にコミットできるのか、評者は想像もできずに途方に暮れる [15]。この点から評するに [16]、'ε' の Leśniewski によるバージョンは、(個体を、それからなる単位クラスと同一視するならば [17]) 個体と、個体のクラスからなる宇宙 [18] の中で成り立つよう限定された、古典的な成員関係 [19] と一致するのである [20]。


訳註・事項註

[1] 集合論における成員関係を表わす記号 '∈' に対応する Leśniewski の記号 'ε' が、以下で検討されます。
[2] 'x ε y' の 'x', 'y' の位置のこと。
[3] つまり、複数のものに当てはまる名辞であるということであり、通常の一般名辞のことが言われています。
[4] 「二つより少ない対象について真である」とは、要するに、一つの対象について真であるということで、実質的に単称名辞ということです。
[5] この 'a' は、実質的に単称名辞です。
[6] この 'b' はいわゆる一般名辞でもよいし、いわゆる単称名辞でもよいです。
[7] ここで言われている「部分」とは、'ε' が重要な役割を演ずる Leśniewski の論理学 Ontology のこと。
[8] 特に Kotarbiński は、いわゆる唯名論者としてよく知られています。
[9] Class を避けるのは、それが抽象的対象と一般に見なされるから。一方、一般名辞を好むのは、それを有意味に使う際、必ずしも class のような抽象的な対象を想定しなくとも問題なく使用できると考えられているため。次を参照ください。W. V. Quine, ''On What There Is,'' in his From a Logical Point of View, Second Edition Revised, Harvard UP, 1953/1980, pp. 10-12, 邦訳、「なにがあるのかについて」、『論理的観点から』、飯田隆訳、勁草書房、1992年、15-18ページ、または、「何が存在するかについて」、『論理学的観点から』、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1972年、24-26ページ。
[10] 'x ε y' の 'x', 'y' のこと。
[11] 量化子によって束縛されるのだ、ということ。
[12] 量化の変項の値からなる論議領域 (the universe of discourse) にコミットしているということ。ここでの Quine の発言は、「存在するとは、量化子によって束縛されている変項の値であるということだ ('To be is to be the value of a bound variable') 」という彼の考えに沿ったもの。この種の発言が出てくる箇所を一つだけ上げておきます。Quine, ''On What There Is,'' pp. 12-13, 邦訳、勁草版、18-19ページ、岩波版、26-27ページ。(ここの訳はかなり硬いですね。こなれた訳にしてもよいですが、硬めのままにしておきます。お許しください。)
[13] 一般名辞の置かれる 'x ε y' の 'x', 'y' は、量化子によって束縛される変項なのだから、その位置にくる言語表現は実質的に、意味 (meaning) するだけで名指さない述語ではなく、名指し (naming) を行う名前なのであって、それ故、その名前は指示対象としての値を各々名指しているのだ、ということ。Quine による意味と名指しの区別については、''On What There Is,'' p. 9, 邦訳、勁草版、13ページ、岩波版、22-23ページ。
[14] ここの Quine の発言を敷衍すると、次のような感じになるかもしれない。「'x ε y' の 'x', 'y' の位置は、量化子によって束縛を受ける位置である。そしてそこには一般名辞がくる。すると、そこにくる名辞は名前の役割を演じていることになる。したがって実際にはその名辞は名前として対象を名指している。ならば名指されている対象は、抽象的対象としての class のはずである。だから Leśniewski は抽象的存在者としての class の理論にコミットしていないはずはない。もしもコミットしていないと言い張るのなら、以下のようになる…。」
[15] 個人が行う話・語り・談話 (discourse) や、個人とは独立にある理論 (theory) が正しい場合、それらの話や理論のどこに注目すれば、それらの話や理論が存在すると想定しているものを特定できるのか、この疑問に対し、Quine は、個人の談話や個人から独立している理論にとって、「存在するとは、束縛変項の値であることだ」と答えますが、この立場からすると、Leśniewski の 'x ε y' における 'x' と 'y' は束縛変項になるのだから、ここにくる名前が名指す対象、今の場合では抽象的対象としての class が存在するものと見なされねばなりません。Platonists でさえ、存在するとは束縛変項の値であるということを認めた上で、class のような抽象的対象の存在を容認しているのに、Leśniewski のように、'x ε y' の 'x', 'y' が束縛変項になることを認めないと、個人が行う談話や、個人から独立した理論のどの点に注目すれば、その話や理論が正しいとされる時に、存在すると想定されるものを見定めたらよいのか、見当がつかず、途方に暮れる、ということ。
[16] 「この点から評するに」と言っている際の「この点」とは、どの点でしょうか。それは 'x ε y' の 'x' と 'y' が量化子によって束縛されるものであり、それ故、それら変項の値は存在すると見なされるべきものなのだ、という点です。このような点が正しいものとして、Leśniewski の ε を評すると、ということが、「この点から評するに」と言っている際のいみです。このように解するならば、これ以降の本文の内容が理解可能となります。
[17] 個体を a とし、この個体だけからなる単位 class を { a } とすれば、「個体を、それからなる単位クラスと同一視する」とは、a = { a } とすること。そして実際に Quine は「個体を、それからなる単位クラスと同一視」しています。そのように同一視することを積極的に支持しています。Leśniewski も、mereological whole ではなく class の存在を正当なものとして仮定した場合には、個体を単位クラスと同一視することにやぶさかではありませんが、Quine とはまったく異なる理由から、そうしています。Leśniewski が個体をその個体だけから成る単位クラスと同一視する詳しい理由については、当日記 2014年10月5日、項目 ''For Leśniewski, Why Is a Singleton Identical with Its Only Element?'' を参照ください。Quine が個体をその個体だけから成る単位クラスと同一視する詳細な理由については、当日記 2014年10月13日、項目 ''Why and How Does Quine Identify Individuals with Their Unit Classes?'' を参照ください。
[18] the universe of discourse
[19] the membership relation of the classical naive set theory, i.e., '∈'.
[20]  Quine の言葉「'ε' の Leśniewski によるバージョンは、(個体を、それからなる単位クラスと同一視するならば) 個体と、個体のクラスからなる宇宙の中で成り立つよう限定された、古典的な成員関係と一致するのである」によって、Quine が言わんとしていることとは、何でしょうか。私には詳しいことはよくわからないのですが、おそらく次のようなことを一部、言いたいのだろうと推測します。今、'A', 'B' をともに何らかの個体の名前であるとします(Leśniewski は alphabet の大文字を単称名、小文字を一般名に使います)。この時、Leśniewski の Ontology では 'A ε B' は well-formed です。このように Ontology では 'ε' の右辺に個体の名が来ることがしばしばあります。例えば、'A ε A' という式は、Ontology でたびたび見かける式です。さてここで先ほどの式 'A ε B' の 'ε' を集合論の '∈' に置き換えるならば、'A ∈ B' となりますが、この式の 'B' はクラスの名前ではなく、個体の名前ですので、一般には今の式は ill-formed になってしまいます。私たちが素朴集合論を学ぶ際、'∈' という記号の右辺には一般にクラスの名前が来るものとされているからです。しかし「個体を、それからなる単位クラスと同一視するならば」、個体の名前である 'B' は、その個体だけを含んだ単位クラスの名前に変じますので、'A ∈ B' は well-formed となります。'A ∈ B' の 'B' が個体 a の名前ならば、この 'B' が記号 '∈' の右辺に来ているので、'B' は個体の名前であることから、その個体のみを含んだ単位クラスの名前に変わりますので、A ∈ B は A ∈ {a} のことだ、ということになります。この時、'A ∈ {a}' の真理条件は、次になります。

   'A ∈ {a}' が真である。 ⇔ A = a.

したがって、'A ∈ B' の 'B' が個体の名前である時の真理条件は、次です。

   'A ∈ B' が真である。 ⇔ A = B.

素朴集合論では上記 '∈' の右辺である 'B' に個体の名前が来ることは、通常ありません。しかし、Leśniewski の Ontology では、'ε' の右辺に個体の名前が来ても構いません。そこで Ontology を素朴集合論に引き写すために、'ε' を持った式で、'ε' の右辺に個体名が来ている場合、その 'ε' を集合論の '∈' に書き換えてみるということを行います。しかしそのままでは書き換えられた式は、ill-formed になり無意味となります。そこで書き換えられた式を well-formed で有意味な式にしようとして考えられたのが、上記の真理条件です。'ε' の右辺に個体名が来ていて、その 'ε' を '∈' に書き換え、それでもその書き換えられた式が well-formed となり、いみを持つようにするためには、上のような真理条件をその式に与えてやればよいと Quine は言うのです。'A ∈ B' の 'B' に個体名が来た時は、この式の '∈' を '=' と読み換えるよう約束し、その結果、当該の式の真理条件は、上記のようなものとなると Quine は考えるのです。このようにすれば 'ε' を持った式を、'∈' を持った式に一致させることができる、と Quine は考えているようです。Quine が引用文末尾で言いたかったことの一部は、以上のようなことだろうと推測します。思います。なお、'A ∈ B' の 'B' に個体の名が来た時、この式の '∈' を '=' と読み換えようという Quine の規約については、註の [17] でも言及した当日記の 2014年10月13日の項目 ''Why and How Does Quine Identify Individuals with Their Unit Classes?'' で詳しく説明しています。


以上の引用文に関して、私の感じたことを、ごく短く2点、記します。なお、以下ではただ感じたことを記すだけであって、何か original な主張を展開するというものではございません。


(1)
上記引用文中の Quine は、ontological commitment の基準として、彼の有名な dictum 'To be is to be the value of a bound variable' (あるとは、束縛変項の値であることである) を採用しているものと思います。そしてこの基準から、Leśniewski を批判しているのだろうと思います。しかし、そもそも彼の dictum を ontological commitment の基準として採用すべきかどうかは、あるいはもしかすると疑問とされるかもしれません。ひょっとすると、現在では多くの人々が、Quine の dictum を ontological commitment の基準として採用しているのかもしれませんが、その dictum を採用することに、ためらいを見せる人もいるかもしれません。Quine が彼の dictum を採用するのは、当然のことながら、ある諸前提からその dictum を採用すべきだと考えているからですが、その諸前提に私は個人的に疑問を感じています。「疑問を感じている」というのは、文字通り、素朴に「これはどういうことなのだろう? 自分にはよくわからない」ということです。「A は B か? 否、A は B なんかではない!」という修辞的な疑問、反語的な疑問ではありません。素朴にわからず、問いを抱えたままでいる、ということです。Quine が自身の dictum の前提としていることに、個人的に確信が持てないことがあるので疑問を感じているのです。Quine の 'On What There Is' を読めばわかることですが、問題のその諸前提とは、次のようなことです。

Quine によると固有名 (proper names) は、どんな場合も確定記述句 (definite descriptions) に書き換え可能です。そして確定記述句は、Russell の記述の理論により、量化の装置 (a quantificational device), つまり量化子と束縛変項と命題結合子、および述語の類い (とカッコ) から構成されたものに書き換え可能だと、Quine は言います。このことにより、Quine にとっては、固有名はなしですますことができ、確定記述句さえあれば十分です。また、今述べた通り、確定記述句もなしですますことができ、量化の装置さえあれば十分です。結局、固有名も確定記述句も、論理的には不要であるということになります。ここまでは Quine 先生も同意されるでしょう。そしてここからが推測ですが、以上からすると、Quine にとって、固有名と確定記述句とは基本的に異なるものではない、異なる category に属する表現ではない、ということになりそうな気がします。つまり、固有名も確定記述句も、理論的な観点からは、意味論的に結局同じ機能を持った表現だろう、ということです*3。固有名と確定記述句とが、大差ない表現だということをもっとあからさまな言い方で表現すれば、Quine にとって固有名とは、偽装された確定記述句 (definite descriptions in disguise) に他ならない、ということだと推測されます。そしてこの確定記述句は偽装された量化の装置 (a quantificational device in disguise) に他らない、ということだと推定されます。こうして、個人の談話なり、個人から独立した理論なりが、何らかの存在者に commit するのは、真である文の固有名において、その指示対象に、存在するものとして commit するのではなく、真な文の固有名を確定記述句に書き換え、さらにその記述句を量化の装置に書き換え、そうして出てきた束縛変項に関し、その値として存在するものに commit するのだ、ということになります。

しかし本当に以上のように言ってよいのかどうかは、個人的に疑問を感じており、確信が持てないでいます。Quine によると、束縛変項の値に私たちが commit できるのは、少なくとも、固有名が確定記述句に他ならないからだろうと思います。けれども本当に固有名は確定記述句に他ならないと言ってよいのかどうかは Kripke 以降の言語哲学上の大問題です。固有名は、これすなわち確定記述句なのだろうから、かつ確定記述句は量化の装置に書き換えられるのだから、その結果、私たちは量化子によって束縛される変項の値に commit していると言えるのだ、ということが、Quine の支持する ontological commitment の基準です。しかしそもそも固有名は確定記述句に他ならないと見なし得るような主張を無条件になしてよいのか、という問題が、Kripke 以降、今もおそらく私たちの前に大きく立ちはだかっているだろうと思います。この問題に正しく答えられない限り、私たちにとって存在しているものとは束縛変項の値であるものだ、とも言えないように思われます。つまり、私たちのよく知っている Quine の ontological commitment の基準は、基準として採用し得ないのではないか、別の基準を採用すべきではなかろうか、これらが私の個人的な疑問です。ここまでこの (1) で述べてきたことによると、Quine は固有名を確定記述句に解消する立場に立っていると言えそうですが、しかし「実際には、そのような立場に彼が立っているということはない、固有名が確定記述句の省略形であるかどうかについては、彼は neutral な立場にいる」と主張する方々もおられます*4。私としては本当に Quine は neutral な立場にいるのか、疑問に思っているのですが、ただ漠然とそう思っているだけなので、これ以上何も言えることを今は持ち合わせていませんから、ここまでで取りあえず (1) に関しては、話を打ち切ります。


打ち切る前にもう一言、二言。Quine による ontological commitment の基準は、束縛される変項を持った話や談話や理論において想定されるものです。しかし、例えば英語にしても日本語にしても、通常、それらの自然言語には束縛されるような変項がそのまま出てくるということはありません。つまりそれらの自然言語は x や y のような束縛変項は持っていません。少なくとも数学や論理学や哲学などの学術的な話題を語っている時以外の普段の文脈では、変項のない言葉で私たちは話をし、ものを書いています。したがって、Quine による ontological commitment の基準は、変項のない言語には、少なくともそのままでは、適用できないと考えられます*5。ただし、Quine によると、自然言語にも変項に類似した品詞があるということで、その品詞とは代名詞であると述べています*6。もしもこれが大筋であれ正しいとするならば*7、ここまで話をしてきた Quine の ontological commitment の基準については、自然言語に対しその基準を明らかにしようとする場合は、代名詞に着目し、その上でここまでの (1) の話を調整してやる必要があるでしょう。そうすると、変項ではなく、代名詞に着眼して Quine の採用する ontological commitment の基準を言い直せば、「あるとは、代名詞の指示対象であることである」、あるいは「あるとは、代名詞によって指示されるものであることである」という感じになるのでしょうか。

自然言語とはまた別に、理論の一つ、論理学を見てみると、私たちが学校で教わる論理学には、束縛される変項が出てくるような論理学が教えられていますが、束縛変項がないような論理学もあり得ます(e.g., combinatory logic)。Quine 自身もそのような論理学を自ら考え出しています。Quine が採用する ontological commitment の基準は、束縛される変項を持った理論に対して立てられる基準ですが、そもそも束縛変項がない論理学に対しては、彼はどのような基準を採用するのでしょうか。

Quine 自身が考え出した束縛変項のない論理学は、'Predicate Functor Logic' と呼ばれています。この論理学に対し、Quine はどのような ontological commitment の基準を立てているのかを、ほんの少しだけ記しておきます。まず、私たちのよく知っている古典一階述語論理から、変項を削除してしまったような、変項なしの論理学など、なかなか想像できないような気がしますが、論理学から変項を追放してしまう基本的なアイデアは、ごくごく簡単だと考えられます。というか、とても身近にあるアイデアであると言えます。と言うのも、そもそも私たちは日本語で話したり書いたりしている時、x や y のような変項をまったく使わずに、当たり前のように何事かを論証できているからです。例えば、「人間はみんな死ぬ。太郎も人間だ。だからしぶとい太郎だっていつかは死ぬのだ」と、憎しみを抱きながら思うことがあるかもしれません。今の論証を見ると、変項はまったく出てきませんが、それでもちゃんと妥当な論証が展開できています。変項がなくても恐れる必要はありません。元々なくても、普通は困らないのです。それに対し、細かい話をしようとした場合、変項のないまま展開している論証を、私たちが学校で習うような述語論理 (または非古典論理) を使って形式化し、そうやって形式化した論証を分析して評価を施すということがあります。この時には通常、x や y などの変項が形式化された論証に現れています。このことを逆に見ると、変項のない論証を、変項のある論証に書き換えることができるなら、変項のある論証を、変項のない論証に書き換えることもできるでしょう。日本語の論証から、述語論理の論証に書き直すことができるなら、元に戻すように変項を持った述語論理の論証から、変項のない日本語の論証に書き直すことも可能です。ですから、変項を持っている述語論理も、何かうまいやり方を使えば、変項を持っていない論理に書き換えることができるだろう、と思われます。これが変項のない論理学を生み出すごくごく基本的なアイデアだと思います。ただし、Quine 自身は今のようなことはたぶん述べていないようですが…。

実際に、変項のない Predicate Functor Logic が、具体的にどのような姿をしているのかを、詳しくかつ正確に説明する能力を私は欠いていますので、ここではその説明は致しません。Quine はいくつかの箇所で、Predicate Functor Logic を説明し、論じています。私はそれらの箇所をすべて読んだわけではないのですが、たぶん一番わかりやすい説明がなされているのは、W.V. Quine, Methods of Logic, 4th ed., Harvard University Press, 1982, Section 45, Elimination of Variables だろうと思います。しかし、もっとわかりやすいと感じたのは、Quine 本人による説明ではなく、次の文献です。Mats Dahllöf, ''An Introduction to Predicate-Functor Logic,'' 1997, <http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/summary?doi=10.1.1.55.5673>. 特にこの論考の '3.3 How the Functors Work' をご覧ください。ここでは、述語論理に近似的な、変項を持った式が、変項のない Predicate Functor Logic の式に、どのようにして一歩一歩書き換えられるのか、その実例が二つ記されています。述語論理の初歩的な知識を持っていれば、Predicate Functor Logic の詳細な知識を持ち合わせていなくても、今言及した実例を見ることで、Predicate Functor Logic とは大体どういうものか、どのようにやっているのか、一目で雰囲気がつかめると思います。

さて、変項のない、この Predicate Functor Logic においては、Quine が採用する ontological commitment の基準 'To be is to be the value of a bound variable' (あるとは、束縛変項の値であることである) は、どうなるのでしょうか。Quine 本人から直接、核心をなす言葉を聞いてみましょう。うまくない訳も付けます。誤訳しておりましたら、大変すみません。

 But now, absent the variable, what of reification? We have not lost it. In a predicate-functor culture, to be is to be denoted by a one-place predicate. This phrasing fits our home usage too, since any value of a variable is denoted by some predicate or other - indeed by 'xɜ(x = x)' [i.e., 'x such that x is identical with x'] - and vice versa.*8


 さて、変項がないとすると、物化/実体化は、どうなるのだろうか?[21] 物化/実体化が失われることはない。[22] 述語関手の文化のもとでは、あるとは、一座の述語によって表示される [23] ことなのである。この言い方は、私たちの元々の言葉遣いにも合っている。と言うのも、変項の値は何であれ、何らかの述語によって表示されるからである。実際に、どの値も「xɜ(x = x)」[24] という述語によって表示されるのであり、かつ逆も真である。

この引用文に、若干訳注を付します。

[21] ここの文を、要するに、という感じで言い直すと、次のような感じになると思います。「変項がないのなら、どのようにして私たちは何かを存在するものとして見なしていると言えるのだろうか?」 なお、'reification' を「物化」と訳すのは、飯田先生の例に倣っています。勁草版の『論理的観点から』、第4論文を参照。また、'reification' を「実体化」と訳すのは、伊藤春樹先生、清塚邦彦先生の例に倣っています。W. V. クワイン、『真理を追って』、伊藤春樹、清塚邦彦訳、産業図書、1999年、158ページ、訳註9, 参照。

[22] ここも、要するに、という感じで、その内容を明らかにしながら言い直すと、「変項がない場合でも、私たちが何を存在していると見なしているのか、そのことを特定することは可能である」というようにでもなるでしょうか。

[23] ここでは「述語によって表示される (denoted)」という言葉が使われています。一般に、denote するのは名前の類いですので、ここでは述語が、名前と同様に/名前として、何かを denote しているように解してしまうかもしれません。つまり、述語は名前の一種であり、しかるがゆえにそれは何かを denote しているのだ、と捉えてしまうかもしれません。しかしそのように解するべきではないでしょう。というのも、Quine は述語を、属性の名前であることはもとより、集合の名前でもない、と述べており*9、彼にとって述語は名前ではないのだから、述語が名前と同じく何かを denote することもないはずだからです。もしも述語が名前の一種で、名前として何かを denote しているのならば、Quine は述語を、または述語に対応している属性を、または述語が位置する argument を、量化することでしょう。量化することを許すでしょう。しかし、周知の通り、Quine は今挙げた述語などを量化しません*10。彼はそれを許しはしません。したがって、述語が名前として何かを denote しているということもありません。この引用文中での denote とは、言語表現が何かを designate したり、name したりすることを言っているのではなく、日本語で言えば「当てはまる」ということを言っていると考えられます。英語で言えば 'is true of' ということです*11。繰り返しますと、ここでの引用文中で、述語が何かを denote するとは、述語が何かに当てはまる、ということだろうと思われます。

[24] 「xɜ(x = x)」を日本語に翻訳するならば、「自分自身に等しいようなもの x 」という感じになるでしょう。「xɜ(x = x)」の「ɜ」は英語で言えば 'such that' に相当するもので、class abstraction に対する、predicate abstraction operator とでも言えるものに当たります。*12


さて、直前の引用文を読んで、Quine が採用する ontological commitment の基準「あるとは、束縛変項の値であることである」は、どうなっていると考えられるでしょうか。Predicate Functor Logic では変項がなく、例えば 'F' と 'G' を述語とし、'x' と 'y' を変項とし、'∧' を連言記号とすれば、'Fx ∧ Gy' のような通常の述語論理の表現は、Predicate Functor Logic では 'FG' と表され、この logic の世界は、述語を中心とし、述語を優先 (the primacy of general terms) した世界となっています*13。この世界では述語が何かに作用することが、この logic の働きの中心をなしますので、上記引用文にある通り、ontological commitment の基準としては、'to be is to be denoted by a one-place predicate' が採用されるということです。この基準を平たく言えば、要するに、「あるとは、述語によって当てはまる、ということである」ということになります。あるいは、この logic において存在しているものは何であるかと言うと、すなわち「存在しているものとは、述語によって当てはまっているもののことである」ということになります。この logic におけるあることと、あるものとを例を上げて言えば、「~ は日本人である」という述語なら、この述語が当てはまっていることが、あるということであり、この述語が当てはまることがあれば、その当てはまっているものが存在しているもののことなのだ、ということになります。

それにしても思うに、ontological commitment の基準として「存在するとは、束縛変項の値であることである」と言われれば、何だか若干大仰で、すごそうで、少しばかりありがたみを感じさせるものがありますが、今の基準を変項のない、述語優先の logic の中で言い直してやると、「あるとは、述語によって当てはまることである」となって、何だか拍子抜けがすると言うか、当たり前のような雰囲気をたたえているというか、凄味がまるで消え失せてしまいますね。ということは、結局、Quine が採用する元々の基準「存在するとは、束縛変項の値であることである」も、本当のところは、表面の雰囲気とは異なり、それほど大したことのない dictum なのでしょうか。どうなんだろう。


追記 2014年11月22日

Predicate Functor Logic について、批判的な論文に次のものがあります。

  • Peter van Inwagen  ''Can Variables Be Explained Away?,'' in: Facta Philosophica: International Journal for Contemporary Philosophy, vol. 4, no. 1, 2002.

この論文は持っているものの、まだ読んではいません。Predicate Functor Logic をよく検討してみるためには、この論文を読んでおくことが望ましいかもしれません。追記終り。


(2)
上記の Quine の引用文に関して、私が感じた二つ目の事柄は、引用文の末尾の文に見られる事柄です。それは Quine が Leśniewski の 'ε' についての理論を、集合論と同一視しようとしている、ということです。私には、この同一視が、非常に強引に感じられます。そもそも Leśniewski は Cantor の集合論であれ、Zermelo らの公理的集合論であれ、それらの集合論とは異なる理論を打ち立てようと腐心していたことはよく知られていることです。Quine はそのことを知ってか知らずか、Leśniewski の意図を一切無視して、個体を、それからなる単位クラスと同一視すれば、Leśniewski の 'ε' は古典的な集合論の成員関係 '∈' と一致し、結局 Leśniewski の理論は古典的な集合論と一致する、と言っているように見えます。しかし、そもそも Leśniewski は class の理論を不合理なものとして認めていないと思います。一方、Quine の支持する集合論は、class の理論です (set と class を、さしあたり区別しなければ)。このように、おそらく両立しないものを無理に同化しようとしているように Leśniewski には感じられるでしょう。少なくとも Leśniewski としては、彼の Ontology なり Mereology を class の理論である集合論と同一視されることは、まったく不本意であり、少し一方的すぎる解釈だと感じられるでしょう。ここで、若き Kripke が Quine に向けて本人を目の前にしながら、たしなめるような言葉を述べていたことが思い出されます。ある会議/座談会の場で、Kripke は Quine に言います。

MR. KRIPKE: Yes, but you have to allow the writer what she herself says, you see, rather than arguing from the point of your own interpretation of the quantifiers.*14

'the writer' と 'she herself' は Ruth Barcan Marcus さんを指すのですが、ここでは Leśniewski のことと解し、'she herself' を 'he himself' と読み直してください。そして引用文末尾の 'the quantifiers' を 'the singular inclusion ε' と読み換えてみてください。私には「Kripke さんの言うことも、もっともだな」と感じます。


このあたりでもうやめておきます。ここまで、よく読み直しておりませんので、間違いがありましたら大変すみません。用語の不統一や、誤字、脱字などもあると思います。何卒お許しください。そして本日の日記後半の (1), (2) の部分は、単なる個人的感想にすぎませんので、絶対に真に受けないようにしてください。どうかよろしくお願い申し上げます。

*1:'a ε b' について、簡単にその真理条件を述べると、以下の通り。'a ε b' (a is b) が真となるのは、次の時、かつその時に限る。すなわち、'a' が単称名 (singular name) であり、かつ 'b' も単称名か、または 'b' は一般名 (general name) である時、かつ 'a' も 'b' も架空名 (fictitious name) でない時、である。つまり、a ε b iff ( 'a' は単称名である ∧ ('b' は単称名である ∨ 'b' は一般名である) ∧ 'a' も 'b' も架空名でない).

*2:Quine, ''[Review of] Ajdukiewicz,'' pp. 141-142.

*3:理論的な観点と違って、実際的な観点からは、通常、固有名の方が発音した場合も書いた場合も短くすむでしょうから、固有名の方が記述句より簡便であるという点で、両者は異なります。

*4:See Saul A. Kripke, Naming and Necessity, Blackwell, 1980, p. 29, fn. 5, 邦訳、ソール A. クリプキ、『名指しと必然性 様相の形而上学と心身問題』、八木沢敬、野家啓一訳、産業図書、1985年、207ページ、註(5), John P. Burgess, ''On a Derivation of the Necessity of Identity,'' in: Synthese, vol. 191, no. 7, 2014, p. 1581, fn. 23.

*5:Quine 自身、同様のことを述べています。See W. V. Quine, From Stimulus to Science, Harvard University Press, 1995, p. 33.

*6:See Quine, ''On What There Is,'' p. 13, 勁草版、19ページ、岩波版、27ページ。

*7:「大筋でさえ正しくない」という意見もあります。つまり、自然言語の一つ、日本語では代名詞が束縛変項の役割を果たしているなどということはない、と反論する正面切った批判もあります。次をご覧ください。土屋俊、「変項と代名詞」、『現代思想』、特集 クワイン 世界についての知識はいかにしてえられるか、青土社、1988年、7月号。また同論文は次に再録されています。土屋俊、『真の包括的な言語の科学』、土屋俊 言語・哲学コレクション、第1巻、くろしお出版、2008年。

*8:Quine, From Stimulus to Science, p. 35.

*9:W. V. Quine, Philosophy of Logic, 2nd ed., Harvard University Press, 1968, p. 67, 邦訳、ウィラード V. クワイン、『論理学の哲学』、山下正男訳、哲学の世界 13, 培風館、1972年、103ページ。なお、邦訳は原書初版からの訳。

*10:Quine, Philosophy of Logic, pp. 66-68, section 'Set theory in sheep's clothing,' 邦訳、100-104ページ、セクション「羊の皮を着た集合論」。

*11:W. V. Quine, Methods of Logic, 4th ed., Harvard University Press, 1982, p. 94, 原書第3版からの邦訳では、W. V. O. クワイン、『論理学の方法』、原書第3版、中村秀吉、大森荘蔵、藤村龍雄訳、岩波書店、1978年、85ページ。改訂版からの邦訳では、W. v. O. クワイン、『論理学の方法』、中村秀吉、大森荘蔵訳、岩波書店、1961年、68ページ。

*12:Quine, From Stimulus to Science, p. 31.

*13:'the primacy of general terms' という表現は、固有名を確定記述句に変えることがいつでも可能であるという文脈においてですが、次の Quine の文献に出てきます。Quine, Methods of Logic, 4th ed., p. 276, 原書第3版邦訳、246ページ、改訂版邦訳、216ページ。束縛変項に注目した Quine による ontological commitment の基準を採用すべきだとする主張の前提には、固有名を確定記述句に書き換えることができ、続いて確定記述句を量化の装置に書き換えることができるという見解が控えていますが、この見解は固有名よりも述語を優先する立場の実践を表わしており、さらにこの立場は Predicate Functor Logic の開発、援用へとつながっているということがわかります。

*14:''Discussion on the Paper of Ruth B. Marcus,'' in: Synthese, vol. 14, nos. 2-3, 1962, p. 143, and reprinted in Ruth Barcan Marcus, Modalities: Philosophical Essays, Oxford University Press, 1993, p. 34.