Adorno's Dictum about Auschwitz, the Fallacy of Affirming the Consequent, and Günter Grass

最近、次の本を読んでいます。

私は Frankfurt 学派に無知ですから、この本は大変勉強になります。読んでいてとても興味深く感じられ、すごく参考になります。正座して読まずとも寝転びながら読めるぐらいやさしく書かれているので、私は夜、寝床に入りながら少しずつ拝読させていただいております。今、半分を過ぎたあたりを読んでいます。このような本を書いてくださった細見先生に感謝したいです。ただ、その半分を過ぎたあたりで、Adorno の大変有名な Auschwitz に関する警句に関し、引っ掛かりを感じた部分がありました。非常に有名な警句についてのことですので、そのことを今回は記してみたいと思います。少し細かい話を記しますので、ちょっと申し訳なく思います。その内容としては、件の警句に対する先生のお話に、論理的な瑕疵があるのではないか、ということと、その際に言及される人物は、言及されるべき妥当性を書いている可能性がある、というものです。ただし、これらの話には間違いが含まれているかもしれません。間違っているのは、私の方かもしれません。そのようでしたら、謝ります。細見先生にも謝ります。誠にすみません。無知な私が記していることですので、以下の話をそのまま初めから正しいものと思ってしまわずに、読まれる場合は距離を取ってお読みください。


細見先生のご高著の出だしは、次のように書かれています。Adorno の大変有名な Auschwitz に関する警句から、本書は始まります。

アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」 − フランクフルト学派の戦後における代表、アドルノが語ったとても有名な言葉です。みなさんはこの言葉を聞いて、どのような印象をもたれるでしょうか。*1

そして、先生の本の半分を過ぎたあたりで、Adorno のこの有名な言葉に関して、次のように述べられています。

 本書の「はじめに」で紹介したとおり、「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は、戦後ドイツでナチス時代を反省する際に不可欠のものとなりました。この言葉は、それこそ戦後ドイツを代表するアフォリズムといった位置も獲得することになります。とはいえ、元来、アドルノのこの言葉はアフォリズムとして独立して書かれたものではありませんでした。*2

この後、先生は Adorno の有名な言葉を含んだ文章を引用されています。次がそれです。

社会が全体的になればなるほど、精神もまたいっそう物象化され、この物象化から自力で身を振りほどこうとする精神の試みは、いっそう背理的となる。宿命についての極限的な意識さえも、おしゃべりへと変質する危険にたえず曝されている。文化批判が直面しているのは、文化と野蛮の弁証法の最終段階である。すなわち、アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり、そしてこのことが、こんにち詩を書くことがなぜ不可能になったかを語り出す認識をも蝕むのである。物象化は精神の進歩を自らのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。(アドルノ 『プリズメン』) *3

そして先生は、この引用文の内容を解説し、それから次のように続けておられます。

 さらに、右の引用の末尾で、「自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできない」とアドルノが記している点にも注目しておいていいでしょう。逆に積極的に言うと、「自己満足的な観照」というあり方を克服するかぎりでは、「絶対的な物象化」に対して「批判的精神」は立ち向かうことができる、ということにもなります。*4

私はこのすぐ前の引用文を読んで、「何だかおかしいな」と感じました。何がおかしいか、何が変であるか、何が間違っているか、そのことを知るために、まず、次の例で文の論理関係を確認してみましょう。


(1) 台風の場合に限り、野球大会は中止します。


ということは、


(2) 台風でなければ、野球大会は中止しません。


ということです。そうすると、この対偶を取れば、


(3) 野球大会が中止されるとすれば、それは台風の場合です。


となります。これは (1) の文を条件文で表すことができるとした場合、その前件に「限り」という語句が付いていると、(1) の文は (3) の文のように、前件と後件を入れ換えた条件文として表される、ということです。つまり、「p である限り、q である」とは、「q ならば p だ」ということです。ちなみに (3) の逆は、


(4) 台風であれば、野球大会は中止します。


となります。これで、「限り」という語句を前件に含んだ条件文や、文の対偶、逆の関係が確認できたと思います*5


ここで、先に細見先生が引用された Adorno の文、


(5) 自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできない。


この文を、先生は是認されていると思いますが、この (5) を便宜上、ごくごく簡略に


(6) 観照的である限り、物象化に陥る。


と記すことにします。


さて、


(6) 観照的である限り、物象化に陥る。


ということは、上の野球大会の例文で確認したごとく、


(7) 観照的でなければ、物象化に陥らない。


ということです。そうすると、


(8) 物象化に陥るならば、観照的である。


となります。


次に、細見先生は上記の (5) に基づいて、以下の文を主張されています。


(9) 「自己満足的な観照」というあり方を克服するかぎりでは、「絶対的な物象化」に対して「批判的精神」は立ち向かうことができる。


この文を、やはり便宜上、ごくごく簡略に


(10) 観照的でない限り、物象化に陥らない。


と記すことにします。


さて、


(10) 観照的でない限り、物象化に陥らない。


ということは、


(11) 観照的であれば、物象化に陥る。


ということです。

ところで、振り返ってみると、細見先生の推論によるならば、(5) から (8) が出て、さらに (5) から (9) を出すことで、(8) の逆である (11) をも先生は主張されていることになります。しかし、私たちのよく知っている通り、一般に逆は必ずしも真ならず、と言います*6。逆は必ずしも真でないにもかかわらず、逆であるその文が真であるとするならば、それなりの根拠が必要です。ですが、先生は (5) からただちに (9) を主張することで、(8) の逆である (11) を容認される結果となっており、(5) から (9) への移行に対する根拠が示されていないように見えます。根拠らしいものもない状態で、(8) の逆である (11) が成り立つのか、それは疑問だと思われます。

ここで仮に、一歩譲って、逆である (11) が成り立つとしてみましょう。そうすると (8) と (11) は同値となり、観照的であることと、物象化に陥ることとが同じことになります。しかし、観照的であることと物象化に陥ることとは、同じことなのでしょうか。私は観照的であることと物象化に陥ることとが、正確に言って、いかなることなのか、よく知らないのですが、両者が同じことであるとは、にわかには信じられないでいます。同じとするには、やはり (5) から (9) へ移行するに際して、その正当化が必要と思われますが、先生のお話ではその正当化が欠けているように見えます。

こうして、逆は必ずしも真でないにもかかわらず、特に根拠が示されないまま逆を真としたり(後件肯定の虚偽)*7、同値らしからぬものを同値としたりするような不合理を回避するには、そもそもの初めの (5) から (9) への移行が不当であると見るべきであろうと思われます。以上が、細見先生の文章を読んでいて、私が変だと感じたことです。


では (5) から (9) への移行のうち、具体的にはどの点に問題があったのかと言うと、既におわかりの通り、(5) から (9) への移行に際し、「かぎり」という言葉を (9) に対し不用意に挿入してしまっているということです。この誤りを訂正するには、


(9) 「自己満足的な観照」というあり方を克服するかぎりでは、「絶対的な物象化」に対して「批判的精神」は立ち向かうことができる。


という文における「かぎり」という言葉を取り払い、


(12) 「自己満足的な観照」というあり方を克服するならば、「絶対的な物象化」に対して「批判的精神」は立ち向かうことができる。


とすればよい、ということになります。これはつまり、今までの略記によれば、「観照的でなければ、物象化に陥らない」ということであり、これはすなわち (7) に他ならず、そうすれば Adorno の元々の引用文と整合的になります。


ここまで、何だか論理的に細かいことを言いまして、大変すみません。分析系の人間なので、時々細かいことにうるさいのです。ただ、以上の話は Adorno のとても有名な警句についてのことであり、また、ここでは細見先生により私たちの希望が語られているわけで、その希望のありかがどこであるのか、それが間違って指し示されていると思われるため、私たちの希望が行方不明にならないよう、細かいことを言ってしまいました。申し訳ございません。


とはいえ、先生としましても、反論をお持ちかもしれません。最も有望と思われる反論は、「私の言う「かぎり」とあなたの言う「かぎり」のいみは、違うのです」というものであろうと推測します。そうするとここまでの私の疑念を晴らすことができるかもしれませんが、それでも私には先生に分が悪そうに感じられますので、これ以上、この可能性を追究することは控えさせていただきます。


さて、私の抱いた疑念は、実はこれで消え去ることはなく、以上の先生のお話の後でも、さらに「あれ? これはどうなんだろう?」と感じたことがありました。上に見られる引っ掛かりを感じる引用文の後、続けて次のような文が出てきます。原文の傍点は太字で記します。

例の警句に関し、

 アドルノが否定しているのはあくまで抒情詩であって、アウシュヴィッツ以降も叙事詩なら書くことは可能だ、あるいは詩はやめて小説に向かうべきだといった、かなりとんちんかんな理解もありました。とはいえ、アドルノの言葉は本筋では、詩人はもとより、作家、知識人に深刻に受けとめられました。たとえばのちにノーベル文学賞を受賞する作家ギュンター・グラス − 彼は詩も書いています − は、アドルノのこの言葉に接して、アウシュヴィッツ以降の時代に創作しようとする作家はそれまでとは異なった小説を書かねばならない、と強く感じたといいます。そういう受けとめこそが、アドルノの意に沿うものだったでしょう。*8

上の方で述べたような論理的な間違い (と私には思われるもの) を感じ取った後で、直前の引用文を読んだので、この直前の引用文でも引っ掛かりを感じてしまいました。今回の引っ掛かりは論理的なものではなく、内容的、事実的なことに関します。と言うのは、直前の引用文中で Günter Grass の名に言及されていますが、ここで Grass の名を持ってくるのは十分に適当である、とは言えないと思われます。十分にふさわしい、とは言えないと感じられます。むしろ Grass 以外の名前の方がよかったように思われます。なぜなら、よく知られているように、Grass は SS だったわけですから*9。彼が晩年に自分が SS だったことを告白したことはとても勇気のあることで、それは立派だったと思いますが、ここであえて Grass の名を持ってくることは、「アドルノの意に沿うもの」ではなかったろうと感じます*10。わざわざ Grass の名をこの文脈で持ってくるのなら、一言、Grass と SS との関係を述べておく必要があったのではないでしょうか。でないと誤解を与えるように思われます。細見先生が Grass と SS との関係をご存じでないということは想像できないので、あえてこの関係をここで述べておく必要性を何らかの理由で先生はお感じにならなかったのかもしれませんが…。

なお、正直に言いますと、私は Grass についてはよく知りません。彼の作品を一つも読んだことがありません。映画の『ブリキの太鼓』を見たことがあるだけで、その内容も、もう覚えていません。ただ、Grass という作家は偉い作家で、弱い者の味方なんだと感じていたところ、実は元 SS だと知って、びっくりしたことがありました。それは何だかがっくりきました。そして現実って単純ではないな、と思いました。


Grass についてはよく知りませんので、これ以上の話はやめます。誤解していたり、無理解であったり、誤記や脱字などがあると思います。大変すみません。ご寛恕を請う次第です。今後、勉強に精進致します。

*1:細見、i ページ。

*2:細見、137ページ。

*3:細見、137-138ページ。

*4:細見、139ページ。

*5:「限り」という語句を前件に含んだ条件文の解釈については、次を参照ください。清水義夫、『記号論理学』、東京大学出版会1984年、45ページにおける「注意」、あるいは、矢野健太郎、「~のときおよびそのときに限り~である (iff)」、数学セミナー編集部編、『数学の言葉づかい100 数学地方のおもしろ方言』、日本評論社、1999年、32ページ。対偶や逆の関係については、例えば、山下正男、『論理的に考えること』、岩波ジュニア新書 99, 岩波書店、1985年、13-16ページを参照ください。なお、この山下先生のご高著でも、「限り」という語句を含んだ条件文の解釈が説明されておりますが(28-30ページ)、それは標準的な解釈とは思われませんので、「限り」という語句の解釈については、前記清水、矢野両先生の文献への参照をお勧め致します。

*6:「逆は必ずしも真ならず」については、例えば、山下、『論理的に考えること』、13-14ページを参照ください。

*7:後件肯定の虚偽については、例えば、山下、『論理的に考えること』、11-14ページを参照ください。

*8:細見、139-140ページ。

*9:ただし、17歳の少年兵の頃に SS だったようなので、未熟でよくわからぬまま SS になっていたのかもしれず、そうだとすれば、Grass さんのために多少割り引いて考えてあげなければいけないかもしれません。17歳の頃に SS だったという話は、次の本の巻末の追記に書いてあったと思います。依岡隆児、『ギュンター・グラスの世界 その内省的な語りを中心に』、鳥影社/ロゴス企画、2007年。

*10:「では、Adorno の意に沿う名前は誰の名前なのか?」と言われると、無知な私には思い付かないのですが…。