Why Quine Takes Existential Quantification to be Existentially Committing.

意外に思ったことで、なおかつ私には残念に思ってしまったことを記します。

先日、次の本

  • Graham Priest  Towards Non-Being, Second Edition, Oxford University Press, 2016

を拾い読みしていましたら、Priest 先生がこの本の Chapter 18: How the Particular Quantifier Became Existentially Loaded Behind our Backs, Section 18.3.5: Quine の中で、Quine は彼の論文 ''On What There Is'' (1948) において、existential quantifier が existentially committing である理由をまったく論証していない、と言って批判しておられました。そのように述べておられる部分を引用してみます。先生による註は省いて引きます。試訳も付けておきます。誤訳しておりましたらお許しください。

Quine argues that the use of names and predicates is not existentially committing; but there is absolutely no argument given as to why quantification is existentially committing. Quine simply assumes that the domain of quantification comprises existent objects − or what comes to the same thing, that the particular quantifier [the existential quantifier] is to be read as 'there is (exists)'. So if neither names, nor predicates, nor quantifiers are ontologically committing, what is? To say that something exists, of course! Quine, one might say, is one of those philosophers who have united in ruining the good old word 'exist'. At any rate, If Russell used bad arguments for the view [that the existential quantifier is existentially committing], Quine uses none at all.*1


名前と述語を使うことでは存在に関与しないと Quine は主張している。しかしなぜ量化が存在に関与するのかについての論証は、まったく与えられていない。量化の領域は存在する対象から成ると Quine は単に想定しているだけなのである。− あるいは同じことになるが、特称量化子 [存在量化子] は「在る (存在する)」と読まれるべきだと想定しているにすぎないのである。そうだとすると、名前も述語も量化子も存在論的に関与しないのならば、何によってならば関与するのだろう? もちろん、何かが存在すると言うことによってだ! Quine は、古き良き語「存在する」をみんなで結束して駄目にしようとしてきた哲学者たちのうちの一人であると、人は言うことだろう。いずれにせよ、Russell は [存在量化子が存在に関与しているという] 件の見解を擁護する、まずい論証を利用してみせたとしても、Quine はその種の論証をそもそもまったくしてみせてもいないのだ。

もしかすると Priest 先生のおっしゃるとおり、''On What There Is'' では existential quantifier が existentially committing である根拠が論証されていないのかもしれません。そのことを確認する余裕が今の私にはないので、先生のおっしゃるとおりだとしてみましょう。ただ、そうだとしても、Quine が件の論証を生涯で一度もしていないとは言い切れないかもしれません。

たとえば、''On What There Is'' が書かれた後では Lejewski, Marcus さんたちと Quine は ontological commitment/substitutional quantification の議論をしていたことが思い出されます。これはよく知られた話だと思います*2。その際に件の論証を展開していた可能性はないではありません。

''On What There Is'' が書かれる前では Lesniewski と Quine が ontological commitment, あるいは substitutional quantification らしき事柄について議論していたことが思い出されます。これはそれほど知られてはいないかもしれません*3

本当に Lesniewski, Lejewski, Marcus さんたちに Quine が existential quantifier について、それが existentially committing である根拠を論証していたのかどうか、これも確認する余裕が今の私にはありませんので、その確認は今後の課題にします。

ともあれ Priest 先生は、Quine が ''On What There Is'' で、existential quantifier について、それが existentially committing である根拠を論証していないと言って批判しておられ、さらには、私の印象では、生涯に一度もその論証を Quine は展開していないかのように先生は述べておられるように見受けられます (少なくとも今回取り上げている先生の本の Chapter 18 を全部読んでみたかぎりではそう見受けられます)。しかし、先日たまたまのことだったのですが、''On What There Is'' が書かれる前に Quine が問題の論証らしきものを展開しているように見える文献を見かけましたので、ここで紹介しておきたいと思います。

ただし、私が見かけたその文献では、私の読んだ感じからすると、問題の論証が十分展開されているというほどではなく、実際にはその件に関し軽く触れられている程度です。十分な論証とは言えないかもしれません。しかもその論証らしきものを提示している際の Quine による根拠は、Priest 先生に利するものであり、Quine にとって不利なものとなっているように思われます。

いずれにしても、existential quantifier が existentially committing である根拠を Quine が、通りすがりではあれ、明示的に言及している個所として、以下に紹介する文章は大変興味深いと思います。私は読んでみて、実は言うと、結構意外に思いました。そしてかなりがっかりしてしまいました。以前から「なぜ Quine は existential quantifier を existentially committing であると強固に見なしていたのか? その根拠は一体何だったのか?」という疑問を感じておりました。以下にその答えが手短に書いてあります。

  • W. V. Quine  ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' in his The Ways of Paradox and Other Essays, Revised and Enlarged Edition, Harvard University Press, 1976, the paper was first published in 1939.*4

長くなりますがとても興味深い文章なので引用してみます。そして試訳を付けてみます。誤訳しておりましたらお許しください。註は引用者によるものです。そして下線を引いた部分が問題の答えです。下線も引用者によります。

A Logistical Approach to the Ontological Problem


What does it mean to ask, e.g., whether there is such an entity as roundness? Note that we can use the word 'roundness' without acknowledging any such entity. We can maintain that the word is syncategorematic, like prepositions, conjunctions, articles, commas etc.: that though it occurs as an essential part of various meaningful sentences it is not a name of anything. To ask whether there is such an entity as roundness is thus not to question the meaningfulness of 'roundness'; it amounts rather to asking whether this word is a name or a syncategorematic expression.
Ontological questions can be transformed, in this superficial way, into linguistic questions regarding the boundary between names and syncategorematic expressions. Now where, in fact, does this boundary fall? The answer is to be found, I think, by turning our attention to variables. If in the statement:


(1) Pebbles have roundness


the word 'roundness' is regarded as a merely syncategorematic fragment of its context, like 'have' or indeed 'bles' or 'ness', then the truth of (1) does not entitle us to infer:


Pebbles have something,


i.e.:


(2) (∃x)(pebbles have x).


Where 'have' is understood as in the context 'have roundness', and 'roundness' is understood syncategorematically, the use of the variable 'x' after 'have' as in (2) would be simply ungrammatical - like its use after 'peb' in:


(∃x)(pebx have roundness).


 Variables are pronouns, and make sense only in positions which are available to names. Thus it would seem that admission of the inference of (2) from (1) is tantamount to recognizing 'roundness' as a name rather than a syncategorematic expression; tantamount, in other words, to recognizing an entity roundness.
 The same conclusion can be reached through less explicitly syntactical channels. (2) says that there is an entity which pebbles ''have''; hence, if we allow ourselves to infer (2) from (1), we have countenanced an entity roundness and construed (1) as saying that pebbles ''have'' it. Some may protest, however, that the quantifier '(∃x)' in (2) says nothing of entities nor of existence; that the meaning of so-called existential quantification is completely described merely by the logical rules which govern it. Now I grant that the meaning of quantification is covered by the logical rules; but the meaning which those rules determine is still that which ordinary usage accords to the idioms 'there is an entity such that', 'an entity exists such that', etc. Such conformity was the logistician's objective when he codified quantification; existential quantification was designed for the role of those common idioms. It is in just this usual sense of 'there is' that we mean to inquire whether there is such an entity as roundness; and it [is] in just this sense that an affirmative answer is implicit in the inference of (2) from (1).
 We seem to have found a formal basis for distinguishing names from syncategorematic expression. To say that 'roundness' is a name, i.e., that there is such an entity as roundness, is to say that from a context '... roundness ...' we may infer '(∃x)( ... x ... )'. But if such inferences are valid, then in particular from a negative context '~( ... roundness ... )' it will be valid to infer '(∃x)~( ... x ... )', i.e., '~(x)( ... x ... )'; wherefore, by contraposition, it will be valid conversely to infer '... roundness ...' from '(x)( ... x ... )'. The law whereby the existential statement follows from the singular is indeed equivalent to the law whereby the singular follows from the universal.
 It thus appears suitable to describe names simply as those constant expressions which replace variables and are replaced by variables according to the usual laws of quantification. Other meaningful expressions (other expressions capable of occurring in statements) are syncategorematic. It is to names, in this sense, that the words 'There is such an entity as' may truthfully be prefixed. Elliptically stated: We may be said to countenance such and such an entity if and only if we regard the range of our variables as including such an entity. To be is to be a value of a variable.*5


存在論的問題に対する論理学的アプローチ


たとえば丸さのような存在者*6があるのかどうかを尋ねることは、何を意味しているのだろうか? 注意すべきは、語「丸さ」は、何らそのような存在者を認めずとも使うことができる、ということである。私たちはその語を共義的*7であると主張できる。それは、前置詞、接続詞、冠詞、コンマなどのようにである。つまりそれは意味を持った様々な文の不可欠な一部として現れるが、何の名前でもない、ということである。こうして、丸さのようなものがあるのかどうかを尋ねることは、「丸さ」が意味を持っているのかを問うことではないのである。むしろ、それはこの語が名前であるのか、または共義的表現であるのかどうかを尋ねることに当たるのである。
 このように外面から見るならば、存在論的問題を、名前と共義的表現との間の境界線に関する言語の問題に変形することができる。では実際に、その境界線はどこに引かれるのだろうか? 私が思うに、その答えは変項に注意を向ければ見つかるのである。もしも言明


(1) 小石は丸さを持っている


において、語「丸さ」をその文脈の単なる共義的断片と見なすならば、それは「持っている」や、それどころか「小」、「さ」のようになのだが*8、そのときには、(1) が真理だとしても、


小石は何かを持っている


すなわち、


(2) (∃x)(小石は x を持っている)


を推論する資格は私たちにはない。「持っている」を文脈「丸さを持っている」のなかにあるものとして理解し、「丸さ」を共義的に理解する場合には、(2) におけるような「持っている」の前で変項「x」を使うことは、単に非文法的なことだろう。それは、


(∃x)( x 石は丸さを持っている)


において、「石」の前でそれを使うようにである。
 変項は代名詞であり、名前が利用される位置においてのみ理解される。こうして (1) から (2) への推論を承認することは、「丸さ」を共義的表現であるよりも、名前として認めることに相当するのであり、言いかえると、存在者丸さを認めることに相当するのである。
 同じ結論には、あまり明示的ではない統語論的経路を通って到達することもできる。(2) は小石が「持っている」存在者があることを言っている。それ故、もしも (1) から (2) へ推論することが許されるならば、私たちは存在者丸さを是認しているのであり、(1) は小石がそれを「持っている」と言っているものとして解しているのである。しかしながら、(2) における量化子「(∃x)」は、存在者についても存在についても何も言っていない、と言って異議を唱える人がいるかもしれない。つまり、いわゆる存在量化と呼ばれるものの意味は、それを統制する論理規則によってのみ、完全に記述されるのだ、と言うのである。よろしい、量化の意味は論理規則によってカバーされることを、私は認めることにしよう。しかしその規則が規定する意味とは依然として、日常の語法によって語句「であるような存在者がある」、「であるような存在者が存在する」などに与えているもののことなのである。このように [論理規則の意味と日常の語句の意味を] 合致させることを、論理学者は量化を制定した際に、目指していたのである。存在量化とは、今述べた日常の語句の役割を果たすために作られたのである。「ある [在る]」についてのまさにこの普段の意味で、丸さのような存在者があるのかどうかを私たちは探究しようとしているのであり、まさにこの意味で、肯定的な答えが (1) から (2) への推論のなかに、暗に含まれているのである。
 私たちは名前を共義的表現から区別する形式的な基礎を見つけたようである。「丸さ」は名前であると言うことは、すなわち丸さのような存在者があると言うことは、文脈「... 丸さ ...」から「(∃x)( ... x ... )」を推論してよいと言うことである。しかしもしそのような推論が妥当なら、そのときにはとりわけ否定的文脈「〜( ... 丸さ ... )」から「(∃x)〜( ... x ... )」を、すなわち「〜(x)( ... x ... )」を推論することは妥当となるだろう。それ故、対偶を取れば、逆に「(x)( ... x ... )」から「... 丸さ ...」を推論することは妥当となるだろう*9。単称言明から存在言明が出てくるという法則は、普遍言明から単称言明が出てくるという法則に、実際同値なのである。
 こうして、量化の通常の法則に従って変項に取って代わり、かつ取って代わられる単なる定項表現として、名前を記述するのがちょうどいいだろう。意味を持っている他の表現 (言明に現れることのできる他の表現) は共義的である。この意味で、名前に対し、語句「のような存在者がある」を、真理を問うことのできる形で後置できるのである。手短に言えば、私たちがしかじかの存在者を是認していると言われてよいのは、私たちの変項の範囲に、そのような存在者を私たちが含めると見なすとき、かつそのときに限る、ということである。つまり、あるとは、変項の値であることなのである。


ここからは、Quine の文章に対する私の感想を述べてみます。

さて、なぜ Quine は existential quantifier を existentially committing であると見なしたのでしょうか? その根拠は何だったのでしょうか? この答えとなっている部分をもう一度引用してみます。

Some may protest, however, that the quantifier '(∃x)' in (2) says nothing of entities nor of existence; that the meaning of so-called existential quantification is completely described merely by the logical rules which govern it. Now I grant that the meaning of quantification is covered by the logical rules; but the meaning which those rules determine is still that which ordinary usage accords to the idioms 'there is an entity such that', 'an entity exists such that', etc. Such conformity was the logistician's objective when he codified quantification; existential quantification was designed for the role of those common idioms.


しかしながら、(2) における量化子「(∃x)」は、存在者についても存在についても何も言っていない、と言って異議を唱える人がいるかもしれない。つまり、いわゆる存在量化と呼ばれるものの意味は、それを統制する論理規則によってのみ、完全に記述されるのだ、と言うのである。よろしい、量化の意味は論理規則によってカバーされることを、私は認めることにしよう。しかしその規則が規定する意味とは依然として、日常の語法によって語句「であるような存在者がある」、「であるような存在者が存在する」などに与えているもののことなのである。このように [論理規則の意味と日常の語句の意味を] 合致させることを、論理学者は量化を制定した際に、目指していたのである。存在量化とは、今述べた日常の語句の役割を果たすために作られたのである。

Quine はなぜ existential quantifier を existentially committing であると見なしたのかと言うと、existential quantifier を日常の語句である 'there is an entity such that', 'an entity exists such that' という言葉のために作った (was designed for) からだ、あるいはそれらの言葉に合わせて/それらの言葉に向けて/それらの言葉用に作ったからだ、ということです。

つまり、Quine にとって existential quantifier は、日本語で言えば「ある (在る)」、「存在する」という普段の言葉のいわば copy というわけです。「ある (在る)」、「存在する」という日常の言葉は存在への commitment を持っており、かつその日常の言葉の copy である existential quantifier は存在への commitment をそのまま引き継いでいるというわけです。どおりで existential quantifier が存在に commit するわけです。Quine にとって、なぜ論理学の記号の一つである existential quantifier が existentially committing なのかと言うと、それは「ある (在る)」、「存在する」という日常の言葉を論理学の人工的な記号で単に表しているから、というわけです。すごく simple ですね。もっと深いいみがあるのかと思っていましたが、そうではないようです。意外です。そしてちょっと残念に思いました。あまりに simple すぎるように感じられるからです。単に日常の言葉に合わせて作ったから existential quantifier は existential import を持つのだ、ということのようです。

以上のとおりだとすると、疑問がわいてきます。次がそれです。

Quine にとって、'there is an entity such that', 'an entity exists such that' という日常の言葉がまずあり、これらの言葉のいみを彼がくみ取って existential quantifier を作っているのだとするならば、それらの言葉のいみを彼は正確にくみ取れているのか、十分にくみ取れているのか、くみ取ったいみをつつがなく existential quantifier として定式化できているのか、例の言葉から彼がくみ取ったいみは誰にでもうなずくことのできるものなのか、彼がくみ取らず捨象してしまったいみのうちにも existential quantifier の rule として反映させるべきものがあったのではないのか。もしそうならば、既存の existential quantifier 以外に類似の quantifier が必要ではないのか。たとえば material implication 以外に strict implication や relevance/relevant implication があるように、existential quantifier にも、似ているがしかし違った特徴を持った quantifier を設定する必要はないのか*10。もしも設定する必要があるならば、strict implication から modal logic が生まれたように、あるいは relevance/relevant implication から relevance/relevant logic が生まれたように、新たな quantifier によって新たな logic を創出する必要はないのか。

これらの疑問がすぐに心に浮かびます。ですが、その答えはすぐには心に浮かんでこないので、またはただちに浮かんでくる答えでも、それが正しい答えだとは、すぐには判断が付かないので、上の疑問文を疑問文のまま置いておきます。

この日記の冒頭で、Priest 先生は述べておられました。すなわち、Quine が existential quantification を existentially committing としているのは、彼がただそう想定しているだけのことであり、Quine が existential quantifier を 'there is (exists)' と読むのは、彼がただそうすべきだと言っているだけのことであって、existential quantification を existentially committing とすることにも、existential quantifier を 'there is (exists)' と読むことにも Quine は根拠を上げて論証していない、と。これに対する Quine からの反論としては、日常語 'there is an entity such that' を copy するようにして existential quantifier を作っているのだから、そうなるのが当然だ、というものが考えられます。確かに、これは一つの根拠だろうと思います。しかし、Priest 先生は再反論を加えて「それでは実質的にただ想定しているだけであるのと変わりがない」と述べられるかもしれません。私もそう思います。

Quine によると、existential quantifier は日常語 'there is an entity such that', 'an entity exists such that' を copy するようにして作った (was designed for) のだそうです。Quine にとって existential quantifier が existentially committing なのは、もっと深くて複雑な理由がそこには隠されているのだろうと私は思い込んできましたが、どうやらそうではないようで、意外です。少なくとも Quine の論文 ''A Logistical Approach ... '' に関するかぎりでは、全然事情は深くもなく複雑でもないと思われます。生涯に渡ってこのような simple な理由を Quine は堅持し続けたのか、あるいはこれ以外に深くて複雑な理由があったのか、それは私にとって今後明らかにして行くべき課題ですが、existential quantifier が existentially committing なのは、以上のようなごく simple な理由しかない場合には、理論や談話にとって、存在するということを、その理論や談話の束縛変項の値と見なすという Quine による基準は、再考が必要であるように私には感じられました。

以上です。誤解しているなど、至らない点がありましたらお許しください。よく読み返していないので、英単語の誤字、誤記があるかもしれません。その場合もお許しください。

*1:Priest, p. 340.

*2:どこで議論していたかはお調べいただければ、たぶんすぐにそれに関する彼ら/彼女らの文献が見つかると思いますので、ここではその文献名を上げることは控えます。

*3:一応、文献情報を記しておきます。W. V. Quine, The Time of My Life: An Autobiography, The MIT Press, 1985, p. 104. ''With Leśniewski I would argue far into the night, trying to convince him that his system of logic did not avoid, as he supposed, the assuming of abstract objects. Ontology was much on my mind.'' なおここで言う 'Ontology' とは Lesniewski の開発した三つの体系である Protothetic, Ontology, Mereology の Ontology のことではたぶんなく、単に存在に関する学問のことを言っているものと思われます。夜遅くまで行われた彼らの議論は1933年5月の Warsaw でのことでした。および次の文献も参照。W. V. Quine, ''Existence and Quantification,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, 1969, pp. 105-106, and P. 106, n. 9.

*4:この論文は、Quine の次の論文の長めの abstract です。Willard V. Quine, ''Designation and Existence,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 36, no. 26, 1939. ''Designation and Existence'' も読んでみましたが、同じテーマを扱っているものの、''A Logistical Approach to the Ontological Problem'' とはかなり印象を異にします。Quine にとってなぜ existential quantifier が existentially committing であるのかについては、''A Logistical Approach ...'' のほうが直截、かつ簡明にその理由が述べられているように思われます。そのため、''Designation and Existence'' については今回その内容には触れません。

*5:Quine, ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' pp. 197-199.

*6:'entity' を「存在者」と訳しました。Quine はここでは存在しているもののことを 'entity' と言っているので、'entity' を「対象」、「もの」と訳すよりも「存在者」と訳したほうがよいと判断しました。

*7:「共義的 (syncategorematic)」は「共義語 (syncategorematic word/term, syncategoremata)」という言葉でも使われます。西欧中世の論理学者が主に関心を持っていた定言命題の典型は、二語からなる文で、そのうちの一つが主語、もう一つが述語でした。たとえば英語で言えば 'Socrates runs' です。もっぱら主語で使われるか、または述語で使われる語はどれも自義語/独義語 (categorematic word) として分類され、それ以外の語はすべて共義語に分類されました。この共義語は、定言命題であれ仮言命題であれ、一つの命題に現われる語で、正しく組み合わされた自義語の組の中に出てきます。たとえば英語で言えば 'Socrates runs slowly' の 'slowly' がそうです。語はどれも自義語か共義語に分類され、どちらにも分類されないというような語はないとされていたようです。品詞上、自義語に分類されていたのは、一般名詞、固有名詞、形容詞、人称代名詞、指示代名詞、助動詞を除いた動詞でした。共義語はそれら以外のすべてでした。たとえば、接続詞、副詞、前置詞です。ここまでの自義語、共義語の説明は、次に出てくる文章を大体そのまま翻訳したものです。Norman Kretzmann, ''Syncategoremata, Exponibilia, Sophismata,'' in Norman Kretzmann et al. eds., The Cambridge History of Later Medieval Philosophy, Cambridge University Press, 1982, pp. 211-212. 自義語の典型である名詞は何かを指しているように見えます。共義語の典型である前置詞は何も指していないように見えます。たとえば 'the hut of Mary' では、'Mary' が Mary を指しているようであり、彼女とあいさつして握手したりすることができますが、'of' は何も指していないように見え、もちろんあいさつしたり触ったりはできません。しかしそのような 'of' でも、何ら意味がなく不要な語かと言えばそうではなく、ちゃんと意味があって先の語句では不可欠の要素です。このように 'of' のような共義語は、それが指している存在者はないようですが、それでもちゃんと意味があって問題なく使うことができている語です。語「丸さ」が共義語だとすると、この語が指している存在者がなくても、問題なく使うことができる語だ、と Quine はここで言っているようです。

*8:語「小石」は「小」と「石」が不可分にひとまとまりになった語だとし、分離すると各部分「小」、「石」は意味をなさないとすると、「小石」のうちの「小」も「石」も共義的断片です。同様に語「丸さ」の部分である「丸」も「さ」もそれぞれ共義的断片です。語「持っている」が共義的断片だというのは、たぶんですがこの語は何かを指しているように見えますが、小石が丸さなるものを手に取って握るようにして持っているなどということはありえませんので、「持っている」という語は実際には何も指しておらず、そのため自義語のように見えながら実のところ共義語に分類され得ると思われます。このようなわけで語「持っている」は共義的断片と言われているのではないかと思われます。誤解しておりましたらすみません。

*9:文脈「... 丸さ ...」から「(∃x)( ... x ... )」への推論は一般に妥当です。とりわけ否定的文脈「〜( ... 丸さ ... )」から「(∃x)〜( ... x ... )」への推論は妥当です。すると「(∃x)〜( ... x ... )」は「〜(x)( ... x ... )」と同値ですから、「(∃x)〜( ... x ... )」から「〜(x)( ... x ... )」を推論することは妥当です。こうして否定的文脈「〜( ... 丸さ ... )」ならば「〜(x)( ... x ... )」です。そこでこの対偶を取れば、「〜〜(x)( ... x ... )」ならば「〜〜( ... 丸さ ... )」です。この条件文の前件と後件の二重否定を除去すれば「(x)( ... x ... )」ならば「... 丸さ ...」です。

*10:Priest 先生の the particular quantifier が、そうした新たな quantifier の候補と考えられます。