For Quine, Why a Bound Variable is Existentially Committing?

Quine にとって、存在するとは、束縛変項の値であることであり (To be is to be the value of a variable)、変項の値となっていることが在ることとされていますが、ではなぜ変項の値となっていることが存在に関与する (existentially committing) ことになるのでしょうか。この答えを Quine の論文 ''Designation and Existence'' を主として例に取り、確認したいと思います。この論文は 'To be is to be the value of a variable' というセリフが述べられたおそらくほとんど初出の論文だと思われます*1。そしてその答えを確認したあと、その答えに見られる問題点に軽く触れてみたいと思います。

(なお、Quine の論文 ''On What There Is'' など、彼の From a Logical Point of View に載っている論文は、前回の日記と同様、今回も便宜上、除外して考えます。本来は ''On What There Is'' をまず第一に分析する必要がありますが、この論文は大変有名で、私自身も何度か読み返しており、また読み直すのも新鮮味に欠けるので、まだ読んだことのなかった ''Designation and Existence'' を今回中心にして若干検討を加えることにします。)


さて、今日取り上げる論文

  • Willard V. Quine  ''Designation and Existence,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 36, no. 26, 1939

において、Quine は次のように言っています。'appendicitis (虫垂炎/盲腸炎)' という言葉を例に取って、

 Here, then, are five ways of saying the same thing: ''There is such a thing as appendicitis''; ''The word 'appendicitis' designates''; ''The word 'appendicitis' is a name''; ''The word 'appendicitis' is a substituend for a variable''; ''The disease appendicitis is a value of a variable.''*2

と述べています。

ここに上げられている5つの文に番号を付けて並べてみましょう。

1. There is such a thing as appendicitis.
2. The word 'appendicitis' designates.
3. The word 'appendicitis' is a name.
4. The word 'appendicitis' is a substituend for a variable.
5. The disease appendicitis is a value of a variable.

Quine によると、これらは結局みな同じことを述べているということです。ここでは 'appendicitis' という言葉が用いられていますが、'appendicitis' 以外の単語でも上のことが成り立つと考えられています。


また Quine は同じ論文で次のように述べています。

語の指示と存在汎化の同値性

A word W designates if and only if existential generalization with respect to W is a valid form of inference.*3

上記5つの文の 2. と 3. により、指示している (designate) 語は名前と言えますから、今の引用文「語の指示と存在汎化の同値性」における左辺の 'a word W' は、'a name W' と言えます。


すると上の「語の指示と存在汎化の同値性」は、次のように「名前の指示と存在汎化の同値性」として書き換えることができます。

名前の指示と存在汎化の同値性

A name W designates if and only if existential generalization with respect to W is a valid form of inference.


ところで上記 2., 3. により、名前とは何かを指しているものですが、その時、Quine によると上記 1. により、指されているものがある (在る) ということになります。つまり、今先ほどの「名前の指示と存在汎化の同値性」の左辺が成り立てば、そこで指されているものが存在する、ということになります。すなわち、名前が何かを指していれば、その指されているものが存在する、というわけです。

現に名前が何かを指していれば、その時、指されているものが存在する、ということは、おそらく大方の支持を得るものと思われます。私もそれを支持します。さてそうすると、ある文やある談話、ある理論やある人が、何をあると言っているのかを知りたければ、一つの手としては、その人によってどの表現が名前として使われているのかを見ればよい、ということになります。文や理論の中で名前として使われている言語表現があれば、それが指しているものがある、とその文や理論は言っているものと思われます。こうして、名前を探せば、それに伴って何があると言っているのかがわかりそうです。

しかし、Quine によると、名前はすべて確定記述句に書き換えることができる、との話です*4。彼によると名前はどれも trivial に量化子や変項や述語や命題結合子を使って文脈的に書き換えることができ、そうすることで名前という syntactical な単位を消去できる、ということです。そうだとすると、名前を全部記述句に書き換えて除去してしまえば、文や理論から名前はなくなるので、名前を探すことで何があると言っているのかを突き止めようとしてもできません。その時、'Names are besides [sic] the point'*5 です。

では、名前を量化子や変項などを使って書き換えて消去してしまった後、文や理論のどこを見れば、その文や理論が何をあると言っているのかが、わかるのでしょうか。上記の「名前の指示と存在汎化の同値性」の左辺に出てくる「名前」に注目することで、何があると言っているのかを突き止めようとしたものの、ちょうど今、名前を消されて困ってしまったところですが、「名前の指示と存在汎化の同値性」の右辺を見ると存在汎化について語られています。そこでもしも名前を量化子や変項などで書き換えたのならば、そうやって書き換えられた、右辺における量化子や変項に注目し、存在汎化則適用後の量化表現に着目すればよいと考えられます。

そこで着目すべき典型的な量化表現は、次の形をしています*6

典型的な量化表現

  • (∃x)( ... x ... )

存在量化子が先頭に来ていますが、普遍量化子が先頭に来ている量化表現でも構いません。どちらでもいいですが、Quine が通例しているように、存在量化子が先頭に来ている場合のみを今回考えます。


さて、名前が量化表現等によって消されてしまったあとには上のような、典型的には存在量化子が先頭に来ている量化表現に注目すれば、その文や理論が何をあると言っているのかがわかると考えられるのですが、上の量化表現のどこに注目すればよいのでしょうか。Quine は、今私たちが取り上げている論文で、次のように言っています。

変項とその値

A variable ''x'' is ordinarily thought of as associated with a realm of entities, the so-called range of values of the variables.*7

これと、最初に掲げた5つの文章の中の 1. と 5. により、変項に着目すればよいことがわかります。つまり、存在量化されている典型的な量化表現の、束縛されている変項を見ればよく、その変項の値が存在しているものとして、その文なり理論なりにおいて考えられている、ということです。故に、文なり談話なり理論なりにおいて、存在すると見なされているのは、量化表現の束縛変項の値であるもの、ということになります。すなわち、'To be is to be the value of a variable.'*8

しかし、なぜ存在量化子の束縛変項の値となっていることが、存在することと見なされるのでしょうか。以前に「現に名前が何かを指していれば、その指されているものは存在する」ということを述べました。そしてこれはおそらく大方の支持を得るものと考えました。確かに名前がその時、何かを指していれば、その指しているものがある、ということは認めます。ですから、文中や理論中に、本当に名前があれば、それが本物の名前であれば、それは何かを指しているはずですので、それが指しているはずのものは存在します。しかし、存在量化子によって束縛されている変項の値が存在するとは、何によって保証されるのでしょうか。何を根拠に存在量化子の束縛変項の値となっているものがあると言えるのでしょうか。

その答えは以下に多数引用する Quine の発言からわかります。答えを前もって述べておくと、なぜ存在量化子の束縛変項の値となっていることが、存在することと見なされるのか、と言うと、まず論理学の存在量化子は、日常の言い回し「ある (在る)」、「存在する」を copy して作られていると Quine は言います。その場合、「〜がある (在る)」、「〜が存在する」という日常の言葉において、「〜」の部分に入る語が指しているものは存在するものと主張されているでしょう。すると、そのような日常の言葉を copy して作った論理学の存在量化子も、同様の役割を果たしており、同じようにして存在することを主張している、ということになるでしょう。そのようにして普段の言葉を引き写して作られた存在量化子の、束縛している変項の、いわば指しているものは、同じく存在しているのだ、とされるわけです。もう一度言い直すと、存在量化子の束縛変項の値であるものがある (在る) とされているのですが、この存在量化子は普段の言葉「ある (在る)」、「存在する」の copy であり、それら普段の言葉が存在に関与しているならば、それらの言葉の copy である存在量化子も存在に関与しているだろう、ところで論理学の存在量化子は普段の言葉「ある」、「存在する」の copy である、したがって存在量化子は存在に関与し、かつこの量化子によって束縛されている変項も存在に関与する、だからこの変項の値も存在に関与しているのだ、その値であるものは存在しているのだ、ということです。矢印を使って、この流れを表にしておきます。

「ある (在る)」は存在に関与  →copy→  存在量化子も存在に関与  →束縛→  変項も存在に関与  →取る (take)→  値であるものが存在する。


では、論理学の存在量化子が、普段の言葉「ある (在る)」、「存在する」の copy であることを述べている Quine の言葉を見てみましょう。和訳は引用者によります。下線部に特に注意してください。以下、下線はすべて引用者によります。誤訳しているところがあるかもしれませんので、和訳はあくまで参考程度にしておいてください。(これらの引用文はすべて既に、2017年5月28日と2017年6月8日の当日記で引用したものです。)

Some may protest, however, that the quantifier '(∃x)' [...] says nothing of entities nor of existence; that the meaning of so-called existential quantification is completely described merely by the logical rules which govern it. Now I grant that the meaning of quantification is covered by the logical rules; but the meaning which those rules determine is still that which ordinary usage accords to the idioms 'there is an entity such that', 'an entity exists such that', etc. Such conformity was the logistician's objective when he codified quantification; existential quantification was designed for the role of those common idioms.*9


しかしながら、[...] 量化子「(∃x)」は、存在者についても存在についても何も言っていない、と言って異議を唱える人がいるかもしれない。つまり、いわゆる存在量化と呼ばれるものの意味は、それを統制する論理規則によってのみ、完全に記述されるのだ、と言うのである。よろしい、量化の意味は論理規則によってカバーされることを、私は認めることにしよう。しかしその規則が規定する意味とは依然として、日常の語法によって語句「であるような存在者がある」、「であるような存在者が存在する」などに与えているもののことなのである。このように [論理規則の意味と日常の語句の意味を] 合致させることを、論理学者は量化を制定した際に、目指していたのである。存在量化とは、今述べた日常の語句の役割を果たすために作られたのである。

 An expression ''a'' may occur in a theory, we saw, with or without purporting to name an object. What clinches matters is rather the quantification ''(∃x)( x = a ).'' It is the existential quantifier, not the ''a'' itself, that carries existential import. This is just what existential quantification is for, of course. It is a logically regimented rendering of the ''there is'' idiom.*10


 見たように、表現「a」が理論に現われることができる場合、その表現が対象を名指しているつもりの場合もあれば、そうでない場合もある。問題となっている事柄に対して決定的に重要なのは、むしろ量化「(∃x)( x = a )」である。存在の含意を担っているのは、存在量化子であって、「a」自身ではない。[存在の含意を担うという] このことのために存在量化はまさしくあるのだ、言うまでもない。それ [存在量化] は「ある (在る)」という言い回しを論理的に統制して表したものなのだ。

[O]bjectual existential quantification was devised outright for ''there is.''*11


対象に直接かかわる読み方のもとでの存在量化は、まったくもって「ある (在る)」という言葉のために考え出されたのだ。

The existential quantifier ''(∃x)'' is the distilled essence of existential talk. All imputations of existence can be put as existential quantifications.*12


 我々には量化の現代的な論理学がある。そのおかげで変項に存在関与の力があることが、明らかにされている。存在量化子「(∃x)」は、存在についての語り口から抽出してきたエッセンスなのである。 存在に関して帰せられることのすべては、存在量化として言い表すことができるのだ。

[T]he quantifier ''(∃x)'' is meant to mean precisely ''there is something x such that.''*13


量化子「(∃x)」は、まさに「〜というような、何らかの x がある」を意味するものとされているのである。

以上からして Quine にとって、なぜ存在量化子の束縛変項の値が存在するものとして保証されると言えるのでしょうか。それは最終的に論理学の存在量化子が日常の「存在する」という言葉を単に copy したものだからだ、と言えそうです。「存在する」という言葉が何かの存在を主張しており、存在量化子が論理学でこれと同じ役割を果たしているので、その束縛変項の値は存在するものと見なされるのだ、と言えそうです。ずいぶんあけすけで simple な話ですが…。


さて、上の Quine の話によると、名前は全部記述句に書き換えることができて、そうした場合、名前ではなく、存在量化子の束縛変項の値に注目すれば、何が存在していると言っているのかがわかる、なぜなら存在量化子は「存在する」という普段の言葉の論理学版だからだ、ということでした。

これには少なくとも2点、疑問点を付すことができると思います。

まず疑問点の一つ目は、既に多くの人が指摘していることだろうと思いますが、名前をすべて記述句に書き換えることは正当か、という疑念がわいてきます。Quine の言うように、名前を技術的に trivial に確定記述句に書き換えてしまうことは可能でしょう。ところでそのように書き換えてもよいのは、名前のいみが記述であるからなのでしょうか。名前のいみは記述であるから、記述を表す確定記述句に名前を書きかえることは正当であると Quine は考えているのでしょうか。彼が名前のいみを記述であると見なしている可能性を感じさせる文章があります。次がそれです。下線は引用者によります。

The noun ''Pegasus'' is meaningful. If asked its meaning, we could reply with a translation into other words: ''the winged horse captured by Bellerophon.''*14

もしも名前のいみは記述であるから、名前を全部確定記述句に書き換えることは正当であると Quine が考えていたのならば、Naming and Necessity の Kripke に対して、名前のいみが記述であることを立証してみせねばなりません。しかしおそらくそれは簡単なことではないはずです。もしもそれが立証できない場合、名前をすべて記述句に書き換えることができるからといって、名前をすべて記述句に書き換えてもよい、とは言えないと思われます。それが可能だからといって、それがよいこととは限りません。赤信号で物理的に渡ることができそうな状況だからといって、渡ってもよい、ということにはなりません。Kripke の Naming and Necessity 以降、名前のいみを記述と考えることはかなり困難なことだと思われます。ただし、名前を確定記述句に書き換えることの正当性を、名前のいみが記述であるということに求める必要はないかもしれません。しかし名前のいみが記述であるということに、名前を記述句に書き換えることの正当性を求めないならば、名前を全部記述句に書き換えるという戦略は、ad hoc とまでは言わないものの、説得力の下がる結果となると思われます。もちろん、名前をすべて記述句に書き換えて名前という syntactical な単位を消去し、名前が指しているものを巡る存在論上の論争を、束縛変項の値の集合に移し替えることによって、論争の混乱を鎮め、理論を単純化できるという Quine のこの手立ては斬新であり、私にはとても思い付けない idea だとは思います。しかし、Kripke 以降の現在から振り返ってみるならば、この idea はいささか説得力が下がっており、魅力を減じているものと思われます。

何があると言っているのかという問題については、名前をすべて記述句に書き換え、そうして名前を消去し、そのあと存在量化子の束縛変項の値に着目することによって、その問題は解くことができると Quine は主張していましたが、これに対する二つ目の疑問は、次のとおりです。それは今回、上で記したことにかかわるのですが、なぜ束縛変項の値を存在するものと見なすのか、というと、その変項を束縛している存在量化子が、もともと普段の言葉「存在する」を引き写して作られているからだ、というのが Quine の話でした。上のほうで言及しました「変項とその値」という引用文をもう一度引いてみますと、

A variable ''x'' is ordinarily thought of as associated with a realm of entities, the so-called range of values of the variables.*15

とありますが、ここで 'ordinarily' と言っていますものの、確かに通常そうしていますが、通常みんなそうしているからと言って、そうすることが正しいとは限りません。「みんな赤信号を渡っているから、赤信号を渡るのは正しい」とは言えません。それに存在量化子 '(∃x)' を通常「x は存在する」と読みますが、通常みんなそうしているからといって、そう読むのが正しい、とは限りません。大体、存在量化子が日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を引き写すようにして作られた、というのは、必ずしも事実に適っているとは言えません。Quine も評価する、現代量化理論の創始者のうちの一人 Frege は、そもそも存在量化子に相当するものを考え出した時*16、日常の言葉「ある (在る)」や「存在する」に合わせてそれを作っていたのではありません。このことは Frege を勉強している人ならみんな知っていることだと思います。

存在量化子は日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して作ったという Quine の主張は、Frege の例からもわかるとおり、反証されていると思います*17。したがって、日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」に存在関与があるのだから、存在量化子にもそれはあるという、Quine が保持していると思われるこの教説は必ずしも成立しないと思います。よって、存在量化子を存在に関与するように読まねばならないという Quine の主張は根拠を、少なくともその限りは失うと思います。そうであるならば、存在量化子を存在に関与するようなものとして必ずしも読む必要はない、と考えることも可能かもしれません。存在量化子を「存在する」と読まねばならない必然性はないかもしれません。そして存在量化子を存在に関与しないような形で読むこともできるかもしれません。その可能性は開かれていると思われます。

あるいはたとえ Quine の考えるとおり、存在量化子は日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して作ったのだとしても、日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」は一義的*18ではなく、多義的な可能性があります*19。 もしそうであるならば、「ある (在る)」、「存在する」の多義的な語義のうちからどれか一つを取って、それにふさわしい存在量化子を複数考えるということもできるかもしれません。仮に「ある (在る)」、「存在する」に語義が三つあるとし、そのそれぞれを、a, b, c とするならば、a を copy した a-存在量化子を作り、この他にも b を copy した b-存在量化子、そして c を copy した c-存在量化子を作って運用することも可能かもしれません。

それにしても、Quine にとって、存在量化子は日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して作られているとすることから、最終的に the slogan 'To be is to be the value of a variable' が言えるのだとすると、Quine のこの有名な slogan は、私たちの日常的な「ある (在る)」、「存在する」という言葉の含みに依存しているということになり、確かに名前をすべて記述句に変えて消去するという idea は斬新ですが、結局はその slogan も、存在に関する私たちのありふれた日常感覚に依拠しているという点で、ありきたりで斬新ではないと思われます。つまり理論や文が何を存在するものとしているのかを見るのに、名前ではなく変項を見よ、と言うだけで (それはそれで重要ですが)、そのあとの存在に関する私たちの受け止め方は、以前のまま、変わらず保持し、存在に対する視点の変換までも求めてはいない、ということになります。例の slogan は深いことを述べているように見えますが、そして私は何となくそう感じていたのですが、存在概念そのものについては、例の slogan は常識に依存しているだけのようです。しかし常識に依存しているからこそ、その slogan は人口に膾炙したのかもしれませんが…。とはいえ、常識に依拠しているならば、その常識を再検討してみる必要があるでしょうし、その結果、その常識は通用しないとわかったならば、例の slogan の改訂も必要となってくるかもしれませんね。

今回、Quine の論文 ''Designation and Existence'' を読み終わってすぐに感じた疑問は、とりあえず以上の2点です。これら以外にも以前から Quine の存在に対する捉え方に関しては、存在量化子の substitutional interpretation との関連や、free logic との関連が気になっておりましたし、Quine が syntax と semantics の関係をどのように考えているのかも、気になっておりました。今回読んだ ''Designation and Existence'' から得られる Quine の考え方と、存在量化子の substitutional interpretation, free logic, syntax/semantics との関連は、今後私自身の検討すべき課題として残しておきたいと思います。(今回 pass した論文 ''On What There Is'' の再読も必要となると思います。)


私は Quine 先生に大変影響を受けている人間です。先生の哲学から多くを学んできました。今回、私は師匠の胸を借りてけいこを付けてもらったつもりです。私の話には間違っていることも多々あると思います。それらが明らかになりましたら訂正させていただきます。Quine 先生のお考えについて、色々と否定的なことを書きましたが、他意はありませんのでお許しください。誤字、脱字などにもお詫び申し上げます。

*1:同時期に出版された次の論文にも件のセリフが出てきます。W. V. Quine, ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' in his The Ways of Paradox and Other Essays, Revised and Enlarged Edition, Harvard University Press, 1976, the paper was first published in 1939. この ''A Logistical Approach to ...'' は ''Designation and Existence'' の長めの abstract です。当日記では2017年5月28日に ''A Logistical Approach to ...'' を論じています。

*2:''Designation and Existence,'' p. 708. この論文については、以下 'DE' と略記します。

*3:DE, p. 706.

*4:この話は、彼の ''On What There Is'' や Methods of Logic の諸版の後半部分で、しばしば語られている有名な話ですので、その内容の説明や出典情報は省きます。

*5:Willard V. O. Quine, ''Existence,'' in W. Yourgrau, A. D. Breck eds., Physics, Logic, and History, Plenum Press, 1970, p. 90.

*6:DE, pp. 706-707.

*7:DE, p. 707.

*8:DE, p. 708.

*9:Quine, ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' pp. 197-199.

*10:W. V. Quine, ''Existence and Quantification,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, 1969, p. 94.

*11:Quine, ''Existence and Quantification,'' p. 108.

*12:Quine, ''Existence,'' p. 90.

*13:Quine, ''Existence,'' pp. 91-92.

*14:DE, p. 703.

*15:DE, p. 707.

*16:Frege に存在量化子を表す単一の記号がなかったのはよく知られていると思います。彼は普遍量化子に当たるものと否定記号の組み合わせで、存在量化子に相当する記号を考えていました。Begriffsschrift をご覧ください。

*17:Quine が大きく影響を受けている Russell や Carnap の論理学では、日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して存在量化子を作っていたのかもしれません。このことについて私は未確認です。しかしそれでも Frege はそうではなかったという反例があることに変わりはありません。

*18:当日記、2017年6月8日の、次の文章「なお Quine はここで、存在することを変項の値であることと同一視し」から始まる段落を参照ください。

*19:当日記、2017年5月24日、項目 'Why Everything Exists' を参照。