2016年読書アンケート

時機を失していますが、昨年2016年に読んだ哲学、論理学関係の文献で、私の印象に最も残った文献の名前を以下に記します。一番印象に残ったのは次の短い論文でした。

  • Peter Schroeder-Heister  ''Paradoxes and Structural Rules,'' in Catarina Dutilh Novaes and Ole Thomassen Hjortland, eds., Insolubles and Consequences: Essays in Honour of Stephen Read, College Publications, Tributes Series, 18, 2012.

Russell Paradox を block するのに structural rules の一つを落としてしまうという strategy を取る試みが、しばらく前から盛んに行われていますが、この論文もそのような試みの一つです*1。ただし stractural rules のどれか一つをまったく完全に落としてしまうのではなく、つまり、例えば contraction をまったく完全に使わないようにしてしまうのではなく、Russell Paradox が出てきてしまうような場面に限って、contraction を使えなくしてしまおうとしているのがこの論文です*2。すなわちこの論文では、 contraction 対し、ある制限をかけることを試みているのですが、ごく簡単な手続きにより、かつ必要な場面に限って、その制限を可能にしようと試みているわけです。大仰で重量級の理論でもって無理矢理ねじ伏せるように contraction を締め付けるのではなく、あっけないぐらい単純な操作で contraction に制限をかけており、それゆえ誰でも理解でき、誰でもその操作を利用し扱うことができるという点で、本論文の試みは特徴的であり、評価できるものとなっています。

Contraction では、例えば、太郎が「明日雨ならば、もう一度言うが、明日雨ならばだ、試合は中止だ」と言った時、次郎が「明日雨だということはわかっている、何度も繰り返さなくてもいいよ、台風がすぐそこまで来ているんだから、そんなことはわかっている」と返答するような場面があると思います*3。Schroeder-Heister 先生の上記の論文では、太郎の発言の中にある、この「明日雨である」という二回出てくる文が、どちらも由来を同じくしているならば、次郎が言うように、一度言うだけで十分だ、と考えるのですが、由来を異にする場合には、次郎のように、一度言うだけで済ますことにはできない、と考えます。言い換えると、

太郎: A 明日雨ならば、もう一度言うが、B 明日雨ならばだ、試合は中止だ。
次郎: つまり、明日雨ならば、試合は中止だ、というわけだ。

が成り立つのは、A を導き出す論証の根拠と、B を導き出す論証の根拠が同じ場合であり、根拠を異にすれば、contraction は成り立たない、という制限を Schroeder-Heister 先生は提案しておられるのです。(とはいえ、この制限だけでは不十分であり、ごく簡単な type の区別も導入する必要があることを、先生は付け加えておられます。)

なお、先生が行なっている contraction への制限が正しいと言えるためには、いわゆる proof-theoretic semantics が、英語や日本語などの自然言語に対し、十分確立できることが前提となっています。つまり、具体的な特定の自然言語に対し、proof-theoretic semantics が実際に有効で妥当であることが立証されることによって初めて、本論文での contraction への制限が妥当であることがと保証されるということです。さもなければ、数学の証明などの、ごく限られた場面においてしか、先生の課している contraction への制限は、正当性を持ち得ません。手短に言えば、proof-theoretic semantics が自然言語に対し、正しい意味論であることが立証されなければ、本論文の contraction への制限も、十分一般的に正しい制限だとは立証されない、ということです。したがって、本論文での興味深い試みが成功しているか否かは、少なくともその成否の試金石の一つとしては、proof-theoretic semantics の成功如何にかかっている、ということです。それ故、proof-theoretic semantics が成功するかどうかについて、今後、注目して行かなければならないということになります。これは先生への批判ではありません。先生ご自身お気付きのことだと思います。上記の先生の論文を読めば、誰でも気が付くことです。


そして上記の論文を読んだ後に、以下の論文を拾い読みしました。これも興味深いものでした。

  • Neil Tennant  ''Proof and Paradox,'' in: Dialectica, vol. 36, nos. 2-3, 1982.

この Tennant 論文の idea の一つは、次の書籍に由来していることはよく知られているようです。そこでこの書籍の該当個所を読みました。

  • Dag Prawitz  Natural Deduction: A Proof-Theoretical Study, Almqvist and Wiksell, Acta Universitatis Stockholmiensis/Stockholm Studies in Philosophy, vol. 3, 1965, p. 95, also Dover Publications Edition, 2006, the same page.

うそつき文や Russell Sentence を意味論的観点から見た場合、それらの文が真であるとするなら偽であり、偽であるとするなら真で、再び真であるとするなら偽で、偽であるとするなら真であり、さらに再び…, という具合に、これらの文では真偽が循環して行くことが昔から誰にでも知られていたことでした。ではこれらの文を証明論的観点から見た場合、何か循環しているような特徴が見られるでしょうか? 「見られる」という答えを手短に与えたのが、上記 Pravitz 先生のご高著該当ページであり、その答えを詳細に説明してみせたのが、上記 Tenannt 先生の論文でした。例えば Russell Paradox により矛盾を引き出す論証中で、いわゆる reduction processes に循環が見られるということを、お二人の先生は明らかにしておられます。とても面白い特徴だと思います。


ところで次の論文の一部を読むと、

  • Peter Schroeder-Heister  ''Proof-Theoretic Semantics, Self-Contradiction, and the Format of Deductive Reasoning,'' in: Topoi, vol. 31, no. 1, 2012, pp. 80-81,

Russell Paradox に見られる矛盾を自然演繹で証明してやった際、その証明図の各式を type として捉えた場合、これら type を持つ lambda terms の application に、これもまた循環が見られることを、すぐ上の Schroeder-Heister 論文では指摘されています。この循環とは、Russell Paradox で矛盾式を引き出した時、その式に対応する lambda term に β-reduction を繰り返し施しても正規形に至らない、ということです。この指摘は、大まかに言えば、計算の過程にも、Russell Paradox には循環が見られる、ということを指摘したものとして読むことができるだろうと思います。これもとても興味深い指摘だと思います。(ここでの Schroeder-Heister 先生の記述を、私は完全に理解した、というわけではございません。先生は programming languages の基礎知識を前提に話をしておられますが、私はその言語の初歩の知識も持っておりませんので、先生の話を十分には理解しておりません。あらかじめお断りしておきます。)

Russell Paradox を意味論的観点から見た時、例の Russell Sentence は、うそつき文同様、真偽が反転し続けるように、Russell Paradox を証明論的観点からみた場合には、証明の reduction processes が循環し続け、Russell Paradox を計算論的観点からみた場合には、矛盾式に対応する lambda term への β-reduction が繰り返し適用され続ける結果となり、三つの観点すべてにおいて、どれも循環という様式が見られます。これはとても興味深いです。全部共通して循環という現象が見られるわけです。このことを簡潔にまとめておきます。

Russell Paradox の特徴

  • 意味論的観点: 真偽の反転
  • 証明論的観点: 還元プロセスの循環
  • 計算論的観点: β-リダクションの反復

では、これらの共通現象を統一的に説明できる一般的理論はあるのでしょうか? わかりません。そのような理論があるとするならば、それは大変な理論になりそうです。私には思いつくこともできません。もしもそのような理論があるならば、あるならばですが、たぶん人間の理性や合理性などについて、非常に深い知見が得られそうな感じがします。私には少しも考えを進めることができそうにない話題です。これで本日の日記を終えたいと思います。間違ったことを書いておりましたらすみません。


PS

Russell Paradox を追究することで、本当に人間の理性や合理性などについて、非常に深い知見が得られるのだろうか? 一般的に言って、Russell Paradox に限らず、論理的な paradox を追究するならば、人間の理性や合理性について、深い知見が得られるのか? 得られるように思われますが、本当に得られることを私はまだ自分自身に説得的に示すことができていません。また勉強します。

*1:Russell Paradox の原因がどこにあり、その Paradox を防ぐには、どうすればいいのかに関して、Frege の Grundgezetze 体系を念頭に置きつつ、非常に大きく言えば、三つの立場、三つの角度、三つの領域があるようです。まず、一つ目は Grundgesetze の subsystem を制限する立場です。もう少し具体的に言えば、基本法則 V を制限する方法、または comprehension principle を制限する方法。続いて二つ目には、Grundgesetze の subsystem にまったく代えて、別の数学的な理論を立てる立場です。これももう少し具体的に言うと、ZF を立てる立場、Russell の type theory を立てる立場、Aczel の Frege Structure を持ち出す立場。最後に三つ目としては、非古典論理を採用する立場です。今回お話しする structural rules のうちの一つを落とすことで Russell Paradox を block しようという方法は、今述べた三つ目の立場のうちの一つと言えそうです。以上の三つの立場があるということについては、以下の文献から学びました。黒川英徳、「書評『野本和幸著 フレーゲ哲学の全貌 勁草書房 2012年』」、『科学基礎論研究』、第42巻、第1号、2014年、46-47ページ。この註での私の説明は、黒川先生の説明を簡略化しています。また、Russell Paradox や Liar Pradox を防止する手立てとして、structural rules のうち、contraction を落とすという手以外に、transitivity (cut rule) を落とすという手と reflexivity を落とすという手があるようです。これらに関し、どのような研究文献があるのかについては、次をご覧ください。Jc Beall, Michael Glanzberg, and David Ripley, ''Liar Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Section 4.2 Substructural Logics, <https://plato.stanford.edu/entries/liar-paradox/#SubsLogi>.

*2:Schroeder-Heister 先生は上記論文冒頭で、contraction をまったく落としてしまうと非常に不都合なことが生じてしまうと述べておられますが、先生が上げておられる理由は十分適切とは思われませんので、先生の上げておられる理由とは別に、contraction を全面的に禁止してしまうと生じてくる不都合については、次の論文の該当個所をご覧ください。Seiki Akama and Sadaaki Miyamoto, ''Curry and Fitch on Paradox,'' in: Logique et Analyse, vol. 51, no. 203, 2008, pp. 280-281. なぜ Schroeder-Heister 先生が上げておられる理由が十分適切ではないのか、および Akama and Miyamoto 論文該当個所の説明は、私の日記、2016年12月11日、'Why Contraction-Free Logics Aren’t Convenient for Most of Us?' で詳しい話を展開しております。

*3:ここでは contraction を、便宜上、条件文と論証とを mix する形で提示しています。