Where Does the Title of Prior's Famous Paper Come From?

本日も、いつものように、ささいなことを記します。お読みいただける場合は、そのつもりでお願い致します。

目次

 

1. はじめに

Arthur Prior 先生の論文に、次のものがあります。

・ A. N. Prior  ''The Runabout Inference-Ticket,'' in: Analysis, vol. 21, no. 2, 1960.

これはとても有名な論文で、いまだに言及される文献です。ご存じのかたも多いと思います。

今日はこの論文について書きます。が、その内容についてではなく、この論文の title についてです。

というのも、以前から「この論文の title はどういう意味なのだろう? 何かのもじりなのだろうか? だとすると、何をもじっているのだろう?」と思っていたのですが、論文の title の意味を一生懸命考えても、まぁ、あまり哲学にはなりませんし、この title について、調べたり考えたりしたことはありませんでした。

しかし、しばらく前に、この論文の title の由来らしき表現があることに、たまたま気が付きました。「もしかしてもしかすると、この表現を Prior 先生はもじって title にされたのかな?」と思いました。そこで本日は、その由来かもしれない表現をここに記しておきたいと思います。(もしも私のこの指摘が正しかったとしても、既に誰かがどこかでそのことを指摘していることでしょう。もしも私のこの指摘が正しくなかったとしても、既に誰かがそのことをどこかで指摘していることでしょう。故に、もしも私のこの指摘が正しかったにしろ、そうでなかったにしろ、以下に記すことは、既に誰かがどこかで指摘していることでしょう。)

なお、今日記すことは、「かもしれない」ことなので、私の見当違いかもしれません。大間違いかもしれませんので、本日記すことをそのまま信じてしまわないようにしてください。もしもですが、私が以下に記す表現に依拠して Prior 先生が件の論文 title を作られたとするならば、それを裏付けるため、この論文 title に関する先生の発言を確認しなければいけません。それには先生の遺稿をひっくり返す必要があるかもしれません。そしてそのためには Denmark に行く必要も出てくるかもしれませんが、まさかそのために Denmark までは行けませんので *1 、今日記すことは私個人の単なる根拠のない推測です。真に受けないようにお願い致します。あらかじめ、私がなしているかもしれない激しい勘違いに対し、お詫び申し上げます。

さて上記の論文ですが、この論文は、ある接続詞に関する論文です。日本語には、「かつ」だとか「または」などの接続詞がありますが、Prior 先生は上記の文献で、架空の接続詞を考え出されました。それは tonk (トンク) と呼ばれるものです。この接続詞については、その後、多くの人々が色々なことを論じているようです。おそらく tonk に関する一大研究産業ができているのではないか、と思えるぐらい、この接続詞に関する論文が、あれこれ出ているようです。しかし私自身は Prior 先生の上の論文以降の研究の流れをほとんど知りませんので (直後の Belnap 論文を読んだぐらいでしかないです)、先生の論文の内容については何も言うことを持っていません。

とはいえ、tonk とは何か、そしてその接続詞を考案することで、Prior 先生は何をねらっていた (と考えられている) のか、そのことだけでも、まずはごく簡単に述べておこうと思います。

それでは tonk の説明をします。まずは、日本語の接続詞「かつ」と「または」について解説し、その後に tonk の説明をします。Tonk について、既に十分ご存じのかたは、この三つの section を飛ばして、次にお進みください。

 

2. かつ

たとえば、次の文、

 (1) 花子は美人である。

と、次の文、

 (2) 太郎はハンサムである。

とが正しいとするならば、これらから、次の文も正しいものとして結論できます。

 (3) 花子は美人であり、かつ太郎はハンサムである。

この (3) は、(1) と (2) を「かつ」という接続詞で結ぶことにより、できています。この接続詞「かつ」は、「連言」と呼ばれます。

一般に、ある二つの文が正しい時、これらの文を連言「かつ」で結んで一つの文を作ってもよく、こうしてできたその文は正しい、と言えます。この規則を「連言導入則」と言います。最初の二つの文が前提を成し、「かつ」で結んでできた文は結論を成します。前提には連言「かつ」という言葉は含まれていませんが、結論において、その言葉が導入され、含まれることになりますので、「連言導入則」と呼ばれます。

記号を使ってこの規則を記してみましょう。

p, q を任意の文とし、連言を ∧ で表し、前提から結論を導く「故に」という言葉を ⊢ で表せば、連言導入則は、以下のように書かれます。

  p, q ⊢ p ∧ q. ( p, q 故に p ∧ q ).

今度は逆に、先の文 (3) 「花子は美人であり、かつ太郎はハンサムである」が正しいとするならば、そこから

 (1) 花子は美人である。

も正しい文として結論できます。

あるいは、(3) から

 (2) 太郎はハンサムである。

も正しい文として結論できます。

この (3) から (1) への流れ、および (3) から (2) への流れは、(3) に含まれていた「かつ」を消去しつつ、この「かつ」の両側にあった文の一方を引き出す、という操作を行っています。

一般に、二つの文が連言「かつ」によって結ばれていて、この結ばれた文が正しい時、この「かつ」が結んでいるどちらか一方の文を取り出してよく、こうして取り出された文は正しい、と言えます。この規則を「連言除去則」と言います。連言「かつ」によって結ばれていた一つの文は前提を成し、「かつ」によって結ばれていたどちらか一方の文を取り出した時、この取り出された文は結論を成します。前提に含まれていた連言が、結論では除去されていますので、この規則は「連言除去則」と呼ばれます。

この規則を、連言導入則と同様に記号で記せば、以下のようになります。

  p ∧ q ⊢ p. あるいは p ∧ q ⊢ q. ( p ∧ q 故に p. あるいは p ∧ q 故に q ).

 

3. または

次に、たとえば、

 (4) 次郎は次男である。

という文が正しければ、ここから、

 (5) 次郎は次男であるか、または富士山は日本一低い山である。

という文も、一応正しい文として結論できます。

この (5) という文は、(4) の文から、(4) と「富士山は日本一低い山である」という文を、「または」という接続詞で結んで作られています。この接続詞「または」は、「選言」と呼ばれます。

今の富士山に関する文ですが、この文は正しくありませんし、(4) の文と意味内容が関係していませんが、それでも (4) の文が正しい限り、(5) の文も一応正しいものと認められます。 「または」という接続詞から成る文は、この「または」の両側の文のうち、少なくとも一方が正しければ、全体としても正しいものと考えられているからです。

一般に、ある一つの文が正しい時、この文と任意の文とを選言「または」で結んで新たに一つの文を作ってよく、こうしてできあがったその文は正しい、と言えます。この規則は「選言導入則」と呼ばれます。最初の一つの文が前提を構成し、「または」で結んで作られた文は結論を構成します。前提には選言「または」という言葉は入っていませんが、結論でその言葉が導入され、含まれることになりますので、「選言導入則」と言われます。

選言を「∨」という記号で表せば、選言導入則は、以下のように書かれます。

  p ⊢ p ∨ q. ( p 故に p ∨ q ).

ここまで、連言と選言を見てきました。連言には、その導入則と除去則がありました。選言には、その導入則がありました。この選言には実は除去則もあるのですが、選言の除去則は少し複雑で、しかもこの後の話にはまったく関係がありませんので、選言除去則の紹介は控えます。しかし選言にも除去則はあります。こうして連言に導入則と除去則のペアがあるとともに、選言にも導入則と除去則のペアがあります。

 

4. Tonk

さて、Prior 先生は tonk という架空の接続詞を考えました。Tonk にも、その導入則と除去則があります。Tonk の導入則は、選言導入則とそっくりです。Tonk の除去則は、連言除去則とそっくりです。つまり tonk という接続詞は、選言と連言を掛け合わせたような接続詞なのです。このことを具体的に見てみましょう。

まず、tonk 導入則は、ある一つの文 p が正しい時、この文と任意の文 q とを tonk で結んで一つの文を作ってよく、こうしてできた文は正しい、とするものです。記号で書くと、

  p ⊢ p tonk q. ( p 故に p tonk q ),

となります。選言導入則とそっくりであることをご確認ください。

次に、tonk 除去則は、二つの文が tonk で結ばれていて、この結ばれてできた文が正しいとする時、tonk によって結ばれているどちらか一方の文を取り出してよく、こうして取り出された文は正しい、とするものです。記号で書けば、

  p tonk q ⊢ p. あるいは p tonk q ⊢ q. ( p tonk q 故に p. あるいは p tonk q 故に q ).

となります。これも連言除去則にそっくりであることをご確認ください。

今度は、これらの tonk 導入則、除去則を、具体的な事例に当てはめて、その振る舞いを見てみましょう。

たとえば、

 (6) 次郎は次男である。

という文が正しければ、ここから、tonk 導入則により、

 (7) 次郎は次男であり、tonk 富士山は日本一低い山である。

という文を作ることができて、これは正しい文であると結論できます *2 。言い換えると、tonk 導入則により、(6) という正しい前提から、(7) という文を結論することができて、この結論は、正しい前提から正しい規則により引き出されているので、正しい、ということです。

そうして次に、この (7) という文は、今見たように正しい文であり、tonk という接続詞が含まれているので、これに tonk 除去則を適用できます。そのようにしてみましょう。再度 (7) を掲げると、

 (7) 次郎は次男であり、tonk 富士山は日本一低い山である。

これは正しい文で tonk を含んでいるから、tonk 除去則により、tonk の両側の文のどちらか好きな方を取り出すことができて、右側を取るなら、

 (8) 富士山は日本一低い山である。

と言うことができ、この (8) は正しい文であると結論できます。正しい前提 (7) から正しい tonk 除去規則により、(8) という結論が引き出されているので、この結論 (8) は正しい、ということです。

こうして、正しい前提 (6) 「次郎は次男である」から、正しい推論規則である tonk 導入則を使用して、正しい結論である (7) を引き出し、そしてこの (7) にただちに正しい規則である tonk 除去則を連続的に使用して、正しい結論である (8) 「富士山は日本一低い山である」を引き出したわけです。

しかし、(8) という文は明らかに意味内容の点で、正しくありません。実際、富士山は日本一低い山なのではなく、日本一高い山なのです。正しい前提に正しい規則を適用すれば、必ず正しい結論を得られるはずです。なのに、どうしてこのような結果になったのでしょうか?

振り返ってみると、選言導入則でも、tonk 導入則でも、それぞれ選言と tonk という接続詞が導入されるとともに、任意の文も持ち込まれていたことがわかります。たとえば、tonk 導入則では、

  p ⊢ p tonk q. ( p 故に p tonk q ),

について、この式の中の q は任意の文で構いませんでした。任意の文でよいということは、その文が正しいことを述べた文であろうと、間違ったことを述べた文であろうと、どちらでも構わない、ということです。なので、この q として、「富士山は日本一低い山である」だとか「2 + 2 = 5」だとか、何でも好きな文を持ち込める、というわけです。この結果、正しい文を前提にしつつ、そこから tonk 導入則、そして tonk 除去則と、tonk の規則をこの順で連続使用するならば、何でも好きな文を「正しい」文として結論できてしまう、ということです。接続詞 tonk さえあれば、任意の正しい文を前提として、そこから任意の結論へと、好きに移動することができる、というわけです。Tonk があれば、文から文へと自由自在に移動可能、ということです。しかしこれは信じられないことであり、許されないことであって、不合理なことと思われます。

ところで、言葉の根本的なところを問うてみますと、一体言葉の意味はどのように決まるのでしょうか? 「言葉の意味とは、その使用法である」という slogan がありますが *3 、この slogan に見られる idea を利用して、どんな言葉もその意味が使用法によって決まるとは言わないとしても、論証/証明の前提と結論とを仲立ちする「かつ」や「または」のような「論理的」と呼ばれる言葉の意味は、その導入則と除去則を定めてやることによって、使用法が決まるとともに、その言葉の意味も決まるのだ *4 、と考えることが、幾分できるかもしれません。

そうだとするならば、論証の前提と結論の間で、論理的にふるまうことを想定されている任意の言葉に対し、導入則と除去則を指定してやれば、その言葉の意味は完全に定まり、それでその言葉は正当な身分を持つものとして、必要にして十分である、とも考えられるかもしれません。

しかし、Prior 先生の tonk は、きちんと導入則および除去則を指定してやっているのに、何か一つ正しい文がありさえすれば、たとえば 1= 1 という正しい文/式があるだけで、これを前提にあらゆる文が正しい文だとして結論でき、文から文へと free で移動できるという、途方もない不合理を招きます。ということは、「論理的な言葉の意味は、その導入則と除去則を定めてやりさえすればよい」という考えに対し、tonk は一つの反例を示していることになり、それら二つの規則を定めるだけではまったく不十分であることを述べている、と見ることができます *5

では、論理的な言葉の意味を定めるには、導入則、除去則以外に、どんな条件が必要なのでしょうか? その答えは、本日扱っている Prior 論文以降の話になります。そのあたりは私は無知なので話を控えます。今日の話は、Prior 先生の論文 title の話でした。そろそろここでその話に移りましょう。論文 title を構成している各語について、調べてみましょう。

 

5. Runabout

論文 title ''The Runabout Inference-Ticket'' のうち、まず runabout とは何でしょうか?

次の辞書を引いてみますと、

・ 『リーダーズ英和辞典』、第三版、高橋作太郎編集代表、研究社、2012年、

以下のように出ています。

runabout n

1 あちこち移動[うろつく]人, 走りまわる人[子供]; 浮浪者.

2 小型無蓋馬車, 小型の車[オープンカー, モーターボート, 飛行機].

3 ( (スポーツの) ) トレーニング.

 

また、次の辞書によると、

・ 『小学館ランダムハウス英和大辞典』、小学館、1973年、

以下のように書いてあります。

runabout n

1 (1) ロードスター (roadster): 通例屋根のない, 小型の軽自動車. (2) (その他の) 無蓋(がい)の車.

2 (娯楽用の) 小型モーターボート.

3 (ある場所から他の場所へ, あるグループから他のグループへと) 歩きまわる人, うろつきまわる人 (gadabout), 浮浪者 (vagabond), 無宿者 (stray).

4 小型飛行機.

これらから個人的に推測すると、runabout とは、とりあえず、1人乗りや2人乗りの小型車で、Prior 先生の論文の出た1960年前後のイギリスでは、三輪の車について言うと BMW Isetta あたりが runabout に相当するのかな、と想像します。BMW Isetta については、internet で画像検索をしてみてください。いろいろと写真が出てきます。

 

6. Runabout Ticket

しかし、runabout とは車のことかと思いきや、internet で 'runabout ticket' という言葉を打ち込んでみると、Collins English Dictionary からの抜粋と思われる辞書の定義が top に出てきて、それを読むと、どうやら鉄道に関わる言葉のようです。その定義を引用してみます。

Definition of 'runabout ticket'

runabout ticket in British

(ˈrʌnəˌbaʊt ˈtɪkɪt)

noun

railways

a rail ticket that allows unlimited travel within a specified area for a limited period of time (for example one day, a weekend, three days, etc)

Collins English Dictionary. Copyright © HarperCollins Publishers *6

上に 'railways' と出ているのは、'runabout ticket' という言葉が鉄道用語であることを示しているみたいです。

というわけで、Prior 先生の論文の題名 ''The Runabout Inference-Ticket'' は、runabout ticket のうち、inference に関する runabout ticket のことなのかな、と推測します。たぶん車のことではなく、鉄道が乗り放題になり、あちこち好きなところを回れる周遊券のようなものに関わっているのかな、と想像します。

 

7. Inference-ticket

それで次に、inference-ticket という言葉について見てみますと、しばらく前に、私はたまたま気が付いたのですが、この言葉は恐らく以下の書籍に出てくる言葉に由来しているのではないかと思います。

・ Gilbert Ryle  The Concept of Mind, Penguin Books, 1949/1990, ギルバート・ライル、『心の概念』、坂本百大他訳、みすず書房、1987年。

この本の ''Dispositions and Occurrences'' と題された chapter 5 に、inference-ticket という言葉がちょくちょく出てきていることを知りました。ひょっとしてひょっとすると、これが元になっているのではないでしょうか? 該当する個所を一部だけ、引用してみます *7

 Law-statements are true or false but they do not state truths or falsehoods of the same type as those asserted by the statements of fact to which they apply or are supposed to apply. They have different jobs. The crucial difference can be brought out in this way. At least part of the point of trying to establish laws is to find out how to infer from particular matters of fact to other particular matters of fact, how to explain particular matters of fact by reference to other matters of fact, and how to bring out or prevent particular states of affairs. A law is used as, so to speak, an inference-ticket (a season ticket) which licenses its possessors to move from asserting factual statements to asserting other factual statements. It also licenses them to provide explanations of given facts and to bring about desired states of affairs by manipulating what is found existing or happening. *8

 法則言明は真であるか偽であるかのいずれか一方であるが、それは法則言明が実際に適用されたり適用されると考えられたりする事実言明によって主張される真偽と同じタイプの真偽を述べるものではない。両者は互いにまったく異なる種類の作業を行なっているのである。われわれはその決定的な相異を次のようなかたちで明らかにすることができる。法則の確立を試みる目的として次のものが考えられる。すなわちそれは、いかにしてある特定の事実から他の特定の事実を推論するか、いかにしてある特定の事実を他の特定の事実に言及することによって説明するか、そしてまた、いかにしてある特定の事態を惹き起こしたり妨げたりするか、ということを見出すことである。法則はいわば推論のための切符 inference ticket (定期会員切符 season ticket) として使用されるのであって、われわれはその切符をもつことによって初めてある事実言明の主張から他の事実言明の主張へと移行することを許可されるのである。それはまた、ある特定の事実の説明を提供することをわれわれに許可し、そしてまた、存在しあるいは生起していることが知られている事物を操作することによってわれわれにとって望ましい事態を惹き起こすことをわれわれに許可するのである。 *9

ここでは、以下のようなことが述べられているものと思われます。つまり「法則」という名の切符があると、ある事実の主張から、別の事実の主張へと推論を進めることができて、いわば前者から後者へと移動することが許可される、というものです。

少しばかり具体的な例を考えてみましょう。たとえば、社会科学上の法則として、次のようなものがあったとしましょう。つまり、

 ・ どのような社会でも、消費税率が上げられるならば、その直後にその社会は不況に陥る。

そしてこの法則は、今まで経験的に正しかったとしましょう。そこで、今度ある社会で消費税率が上げられることが決まったとします。そうすると、先の法則により、私たちは次のように推論することが許されるでしょう。すなわち、

   どの社会でも、消費税率が上げられるならば、その直後にその社会は不況に陥るとすると、

   ある社会で消費税率が上げられるならば、その直後にその社会は不況に陥る、と言える。

   ところで、今度ある社会で消費税が上げられることが、事実、決まった。

   故に、その社会は消費税が上がった直後、不況に陥るということが、事実、生じるであろう。

この論証を見ればわかるように、

 ・ 今度ある社会で消費税が上げられることが、事実、決まった。

という事実言明から、「推論切符」という名の消費税率に関する法則言明により、次の

 ・ その社会は消費税が上がった直後、不況に陥るということが、事実、生じるであろう。

という事実言明へと移ることができます。

こうして要するに、推論切符 (inference-ticket) とは、一般的な法則言明のことなんですね。

しかし、推論切符は法則言明だけではないようです。Ryle 先生の話を続けて聞いてみましょう。

 

 Dispositional statements about particular things and persons are also like law statements in the fact that we use them in a partly similar way. They apply to, or they are satisfied by, the actions, reactions and states of the object; they are inference-tickets, which license us to predict, retrodict, explain, and modify these actions, reactions, and states. *10

 特定の事物や人物に関してなされた傾向語を含む言明は、その利用の仕方が法則に部分的に類似しているという点においてもまた法則言明との類似性を示す。傾向語を含むこの種の言明はその対象の行為や反応や状態に適用され、またそれらによって満たされる。この種の言明はそのような行為や反応や状態を予測し、遡及的に推測し、説明し、変様 [ママ] させることをわれわれに許可する推論のための切符なのである。 *11

傾向語とは、大まかに言えば、何かができること、何かになりうることを表した語のことを言います。たとえば「可溶性」がそうです *12 。この語は、何かが何かに溶けうる、ということを表しています。そのようなものの例には、砂糖が水に溶ける、ということがあります。このような傾向語を含んだ言明は、法則言明と類似していると Ryle 先生は指摘されておられますが、それは大よそ、次のようなことです。

たとえば、先の消費税率の法則言明は「どのような社会も、かくかくの条件下に置かれるならば、しかじかの状態になる」ということを述べていました。砂糖の可溶性についても、傾向性言明「どのような砂糖も、水の中に置かれるならば、溶けてしまう」ということを言っており、傾向性言明は法則言明に確かに類似しています。したがって、傾向性言明も、法則言明同様、推論切符と理解できます。それは以下のようにです。

・ 傾向性言明: どのような砂糖も、水の中に置かれるならば、溶ける。

・ 傾向性言明の個別例: このサイコロ大の四角い固形物が砂糖だとすると、このサイコロ大の四角い固形物が水の中に置かれるならば、溶ける。

・ 事実言明1: このサイコロ大の四角い固形物は砂糖だ。

・ 事実言明2: このサイコロ大の四角い固形物は水に溶ける。

この論証を見ると、事実言明1から、傾向性言明という推論切符により、事実言明2へと移動できることがわかります。

もう一つ、傾向性言明が推論切符であるという Ryle 先生の話を聞いてみましょう。

 

 It should be noticed that there is no incompatibility in saying that dispositional statements narrate no incidents and allowing the patent fact that dispositional statements can have tenses. 'He was a cigarette-smoker for a year' and ' the rubber began to lose its elasticity last summer' are perfectly legitimate dispositional statements; and if it were never true that an individual might be going to know something, there could exist no teaching profession. There can short-term, long-term, or termless inference-tickets. A rule of cricket might be in force only for an experimental period, and even the climate of a continent might change from epoch to epoch. *13

 一方において傾向語を含む言明はいかなる出来事についても語らないと述べ、他方において傾向語を言明は時制をもちうるという明白な事実を認めるということとの間には何らの矛盾も存在しないということには注意しなければならない。たとえば、「彼は一年間タバコを吸っていた」という言明や「そのゴムは昨年の夏から弾力性を失い始めた」という言明は傾向語を含む言明として完全に正当である。また、各人は知識を得る可能性をもっているということがもし真実でなかった [ママ] とするならば教育という職業は存在しえなかった [ママ] であろう。かくして、推論のための切符には短期用、長期用、無期限のものがあるのである。それは、クリケットのある規則がある試験的期間内でのみ有効であったり、また、大陸の気候でさえも時期に応じて変化するかもしれないことと同様なのである。 *14

ここでは、推論切符に有効期限がありうることが述べられています。

たとえば、「例年本州では、10~11月に最も美しい紅葉を見ることができる」という傾向性言明が、仮に現在正しいとしましょう。すると、この言明から、関東や関西などの紅葉スポットでは、10月か11月に行けば、最も美しい紅葉を見ることができる、という事実言明を引き出すことができるわけです。

しかし地球の温暖化により、紅葉の見ごろが年々遅れてきていますので、半世紀後には10月ではまだ葉が色づかず、11~12月にならないと、最も美しい紅葉が見れなくなるかもしれません。そうすると、上の紅葉に関する傾向性言明は、今のところは有効な推論切符であるものの、しばらく経つと期限切れになりうる推論切符だ、ということです。

ここまで、法則言明と傾向性言明が推論切符の例として上げられました。Ryle 先生によると、少なくとも、もう一つ、推論切符となる言明の種類があるようです。それを見てみましょう。

 

 To bring out the different forces of some of these different uses of 'can' and 'able', it is convenient to make a brief disquisition on the logic of what are sometimes called the 'modal words', such as 'can', 'must', 'may', 'is necessarily', 'is not necessarily', and 'is not necessarily not'. A statement to the effect that something must be, or is necessarily, the case functions as what I have called an 'inference-ticket'; it licenses the inference to the thing's being the case from something else which may or may not be specified in the statement. When the statement is to the effect that something is necessarily not, or cannot be, the case, it functions as a licence to infer to its not being the case. Now sometimes it is required to refuse such a licence to infer that something is not the case, and we commonly word this refusal by saying that it can be the case, or that it is possibly the case. To say that something can be the case does not entail that it is the case, or that it is not the case, or, of course, that it is in suspense between being and not being the case, but only that there is no licence to infer from something else, specified or unspecified, to its not being the case. *15

 「できる」や「能力のある」という語の相異なるこれらの用法がもつ相異なる力 forces を明らかにするためには、「できる」 can, 「ねばならない」 must, 「かもしれない」 may, 「必然的に ... である」 is necessarily, 「必ずしも ... でない」 is not necessarily, 「必ずしも ... でないわけではない」 is not necessarily not などの、時に「様相語」 modal words と呼ばれる語の論理についての簡単な考察をしておくことが有益である。ある事柄が事実でなければならないという趣旨の言明、あるいは、それは必然的に事実であるという趣旨の言明は先に私が「推論のための切符」と呼んだものとして機能する。すなわちそれは、ある事柄 - それはその言明の中で特定化されていることもあるがそうでないこともある - から他のある事柄が事実であるということを推論する許可を与えるのである。その言明が、ある事柄は必然的に事実ではないとか、それは事実ではありえないという趣旨のものである場合には、その言明はそれが事実ではないということを推論するための許可証として機能する。また、時には、あることが事実ではないということを推論するための許可証が存在するということを拒絶することが必要とされることがある。そのような場合には、通常われわれはそれは事実でありうると述べたり、それは事実であるかもしれないと述べたりすることによってその拒絶を表現する。ある事柄が事実でありうると述べることは、それが事実であるということも、またそれが事実ではないということをも意味してはいない。また、改めて言うまでもなく、事実であることと事実でないことの間で宙に浮いた状態にあるということを意味しているわけでもない。たんにそれは、特定化されていると否とにかかわらず、それが事実ではないということをそれ以外のことから推論することを許可する許可証は存在しないということを意味するにすぎないのである。 *16

ここでは必然性や可能性に関わる語を含んだ様相言明が、推論切符の例である、とされています。

たとえば、「人間は誰でも必ず死ぬ」とか、「太郎が明日命を落としてしまうことはあり得る」というような言明は、どちらも様相言明であり、必然性に関する前者の様相言明からは、「太郎は人間である」という事実言明に基づいて、「太郎は死ぬ」という事実言明を引き出すことができ、可能性に関する後者の様相言明からは、「太郎が明日命を落とさないということを立証する証拠はない」という事実言明を引き出すことができる、というわけです。

 

8. 終わりに

Ryle 先生が inference-ticket (推論切符) と呼んでいたのは、法則言明、傾向性言明、様相言明でした。これらの言明があれば、そこからそれぞれに特有の事実言明に基づいて、ある事実言明へ移動できる、ということです *17

ここで tonk について振り返ってみると、正しい言明があれば、これと任意の言明を tonk で結んだ tonk 言明に移動でき、この tonk 言明があれば、それが含む任意の言明に移動できたのでした。つづめて言えば、tonk があれば、正しい言明から任意の言明に移動できるということ、つまり tonk という接続詞があるところでは、正しい言明が一つでもあれば、正しかろうが間違っていようが、任意の言明に移動できる、ということです。

こうして tonk 言明も、一つの inference-ticket (推論切符) であると言うことができます。とりわけ tonk 言明という推論切符は、正しい言明が一つでもあれば、どこへでも移動でき、かつ実際に正しい言明はこの世に一つはありますから (たとえば 1 = 1)、この切符によれば almighty に移動できて、しかもそれは無期限の free pass になっている、ということです。夢のような切符ですね。

さて、tonk 言明を介すれば、正しい言明を前提にすると、任意の言明が結論できるのでした。ところで、間違った言明を前提にすれば、任意の言明を結論できるという推論規則がありました。Ex Falso Quodlibet, 略してEFQ です *18 。前者の tonk 言明に関しては、正しい言明から任意の言明が、後者の EFQ に関しては、間違った言明から任意の言明が帰結する、ということです。両者は何だか似てますね。

EFQ は通常、正しい推論規則だとされています。Tonk の規則も正しいとしてみましょう。さてそうすると、もしも排中律 (どんな平叙文 p についても、p は成り立っているか、または p は成り立たっていない、のどちらかである) が正しいとするならば、どんな文についても、それは成り立っているか成り立っていないかのどちらかであり、成り立っているなら、その文は正しい言明で、この時、tonk 言明を介して任意の言明が帰結しますし、その文が成り立っていないなら、その文は間違った言明で、この時、EFQ により任意の言明が帰結します。故に、どの文についても、それが成り立っているとしても成り立っていないとしても、どちらにせよ、その文から任意の文が帰結します。したがって、どんな文についても、そこから任意の文が帰結するのだから、任意の文から任意の文が帰結する、ということになり、しかも帰結した任意の文は全部正しい、ということになります。Tonk Almighty! いや God Almighty!

 

これで終わります。本日書きましたことに、間違いや勘違いや誤解や無理解がありましたら大変すみません。謝ります。誤字や脱字の類いにも謝ります。すみません。どうかお許しくださいますようお願い申し上げます。Prior 先生の runabout inference-ticket が Ryle 先生の inference-ticket に由来しているかもしれないという私の話は、まったくの個人的推測ですので、ひどい間違いでしたらごめんなさい。

*1:一部は internet を通じ、日本国内からでも見ることができます。 The Nachlass of A. N. Prior, <https://nachlass.prior.aau.dk/>, University of Copenhagen. ただし、この page の検索欄に 'tonk' と打ち込んでみたのですが、何も hit しませんでした。しかし、今後もこの page は充実化が図られて行くと思われますので、そのうち hit するかもしれませんね。

*2:日本語の文に、いきなり英語の単語らしきものが混じっているのは、何だか不思議な感じがしますが、日本語の中に、たまに英語の and や if や love などを、このまま混ぜ込むこともありますので、とりあえず tonk もこの種のものとお考えください。

*3:「我々は、語に意味を与えるのはただその語の特定の用法であることを忘れがちである。ずっと前にあげた、語の用法の例のことを考えよう。或る人が、「五つのリンゴ」という語が書かれている紙切れをもって食料品屋に使いにやられる。その紙片の語の意味は、実際の場面でのその語の使い方である。」 L. ウィトゲンシュタイン、『青色本』、大森荘蔵訳、ちくま学芸文庫筑摩書房、2010年、158-159ページ。「四三 「意味」というコトバを使用する多くの具体的事態において - それを使用するすべての場合ではないにしても - 人はこのコトバを次のように説明することができる。すなわち、語の意味とは、言語の中におけるその用法である、と。」 L. ヴィトゲンシュタイン、「哲学探究」、『論理哲学論考』、藤本隆志訳、法政大学出版局、1968年、256ページ。これら二つの引用文中の下線部は、原文では傍点が施されています。

*4:''Die Einführungen stellen sozusagen die „Definitionen‟ der betreffenden Zeichen dar, und die Beseitigungen sind letzten Endes nur Konsequenzen hiervon, was sich etwa so ausdrücken läßt: Bei der Beseitigung eines Zeichens darf die detreffende Formel, um deren äußerstes Zeichen es sich handelt, nur „als das benutzt werden, was sie auf Grund der Einführung dieses Zeichens bedeutet‟.'', Gerhard Gentzen, ''Untersuchungen über das logische Schließen. I.,'' in: Mathematische Zeitschrift, Band 39, 1935, S. 189, <https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN266833020_0039>. 私訳/試訳を与えてみます。私がどのように訳しているかがわかるよう、および私が誤訳してたらそれがよくわかるよう、できるだけ直訳、逐語訳で記します。とはいえ、このドイツ語文は文字どおり直訳、逐語訳すると、意味不明な日本語になるので、若干原文から離れざるを得ない個所がありましたが。では訳です。「導入則は当該記号のいわゆる「定義」を表わしており、除去則は結局そこからの帰結に過ぎず、このことはおおよそ次のように表わされうる、すなわち、ある記号を除去するに際し、この記号がその最終端記号 [主要記号] となっている当該の式に「利用することが許されるのは、この記号の導入に基づいてその式が意味していること」だけである。」 この訳文中の「すなわち」以下がわかりにくいかもしれませんので、大体どのようなことを言っているのか、例を上げながら手短に説明します。たとえば式「p かつ q」から連言「かつ」を除去して p あるいは q と言うことができるのは、なぜでしょうか? それは「p かつ q」が正しいからです。では「p かつ q」が正しいと言えるのは、なぜでしょうか? それは p も q も正しいからです。このため、連言「かつ」を導入して「p かつ q」と言えるのです。そうすると「p かつ q」から「かつ」を除去して p あるいは q と言えるのは、結局元々p と q がともに正しいということ、このことだけに根拠があることがわかります。そこで「かつ」の除去則を使用するに際しては、「かつ」の導入の際に言えたことだけが、その利用を許される、ということになります。要するに除去則は、導入則でやったこと、言ったことを繰り返しているに過ぎない、ということです。以上、私の訳に誤訳がありましたらすみません。そこで念のため、英訳も記しておきます。''The introductions represent, as it were, the 'definitions' of the symbols concerned, and the eliminations are no more, in the final analysis, than the consequences of these definitions. This fact may be expressed as follows: In eliminating a symbol, we may use the formula with whose terminal symbol we are dealing only 'in the sense afforded it by the introduction of that symbol'.'' in The Collected Papers of Gerhard Gentzen, M. E. Szabo ed., North-Holland, 1969, p. 80. Prawitz 先生による少しくだけた感じのする英訳もありますので、それも記しておきます。'' ''[A]n introduction rule gives, so to say, a definition of the constant in question'', while ''an elimination rule is only a consequence of the corresponding introduction rule, which may be expressed somewhat as follows: at an inference by an elimination rule, we are allowed to 'use' only what the principal sign of the major premiss 'means' according to the introduction rule for this sign''.'' Dag Prawitz, Natural Deduction: A Proof-Theoretical Study, Almqvist and Wiksell, 1965, p. 33, n. 1, Dover Publications, 2006, the same page and footnote.

*5:Roy T. Cook, A Dictionary of Philosophical Logic, Edinburgh University Press, 2009, Entry: Tonk, pp. 288-289.

*6:<https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/runabout-ticket>.

*7:他の個所でもいくつか出てきますが、今回は目ぼしいと感じられる個所を、一部だけ引きます。

*8:The Concept of Mind, pp. 116-117.

*9:『心の概念』、168-169ページ。

*10:The Concept of Mind, p. 119.

*11:『心の概念』、173ページ。

*12:The Concept of Mind, p. 119, 『心の概念』、172ページ。

*13:The Concept of Mind, p. 120.

*14:『心の概念』、174-175ページ。

*15:The Concept of Mind, p. 122.

*16:『心の概念』、177ページ。

*17:可能性に関する様相言明は、先生の説明どおりだとすると、事実言明から事実言明への移動ではなく、可能性言明から事実言明への移動のように見えます。詳細は、詰めて考えてみる必要がありそうです。とりあえず、今は大まかな話で済ましておくことにします。

*18:この EFQ については、当ブログ、2019年2月10日、項目名 ''Can Frege Accept Ex Falso Quodlibet as a Rule of Inference?'' をご覧ください。