Could the Greatest Logician in the World Have Made a Terrible Blunder in Deducing a Simple Theorem?

目次

 

1. A Valid Proof?

「西欧の論理学史上、最も偉大な論理学者だと思われる人物の名を、一人だけ挙げてください」と尋ねられたら、誰の名前を挙げるでしょうか?

Leibniz だ」と言う人もあれば、「Gödel だ」と言う人もあるかもしれません。「いや、Peirce だ」と言う人もいるかもしれませんし、「Boole だ」、「Frege だ」などなど、いろいろと名前が挙がるかもしれませんが、おそらく大部分の人は「Aristotle 以外に一体誰がいると言うのか?」と答えるのではないでしょうか? 私も取りあえず Aristotle 先生の名前を挙げます。他を圧倒して Aristotle 先生が一番ではないでしょうか?

ところがそんな Aristotle 大先生が、簡単な定理の証明の際に、つまらないミスを犯しているとしたらどうでしょう? 「そんな馬鹿な!?」という感じがしますね。

それでは大先生がミスを犯している可能性のある一節を引用しますので、はたしてミスを犯してしまっているのかどうか、これをお読みになっている方が、自ら確認してみてください。『分析論前書』の一部から和訳で引きます。引用文中の 〔P〕, 〔Q〕 などは訳者によるもの、(15), (16) は訳注、[1], [2] などは引用者によるものです。それではどうぞ。

 

 その理由は次のことにある。すなわち、[1] 二つのものが、その一方 〔P〕 が成り立つならば必ず他方 〔Q〕 も成り立つような仕方で相互に連関している場合には、後者 〔Q〕 が成り立たない場合には前者 〔P〕 も成り立たないだろうが、後者 〔Q〕 が成り立つからといって前者 〔P〕 が必ず成り立たなければならない、ということはない (15)。また、[2] 同じもの 〔P〕 が成り立っていてもいなくてもそれによって同じもの 〔Q〕 が必ず成り立つ、ということは不可能である。私がここで不可能だと言っているのは、たとえば、[3] もし A が白ければ必ず B は大きく、[4] A が白くなくても必ず B は大きい、といった場合のことである。

 というのも、[5] もし A が白ければ B は必ず大きく、もし B が大きければ C が白くはないような場合には、もし A が白ければ、必ず C は白くはないことになるからである。ここで、[6] 二つあるうちの一方 〔P〕 が成立しているならば必ず他方 〔Q〕 が成立するような場合には、後者 〔Q〕 が成立していないならば第一のもの 〔P〕 も成立していないのが必然である。[7] つまり、B が大きくないならば A が白いことはありえない。そこで、[8] A が白くなくても B が必ず大きければ、[9] B が大きくない場合には B それ自体が必ず大きいことになるが、これは不可能である。というのも、[10] B が大きくなければ、A が白くないことは必然だろうからである。ここで、[11] A が白くなくても B が大きいのであれば、[12] 先ほどの三項 〔ABC〕 を通じた場合にそうであったように、[13] B が大きくなければそれ自体がまた大きいということが帰結することになってしまうだろう (16)。 *1

(15) 「P ならば Q」が成り立つ場合に、Q が偽ならば P が真であることはありえないが、Q が真であるからといって P が真であるとは必ずしも言えない。

(16) 「B が大きくなければ A は白くなく、A が白くなくても B は大きい」ことを認めると、B が大きくなければ、B が大きいことが帰結してしまう。 *2

 

2. The Proof Analyzed

引用文で Aristotle 先生が証明されていると思われることは、次のことです。

対偶と推移律が正しいことを前提として、A が白ければ B は大きく、かつ A が白くなければ B は大きい、という二つの仮定がともに成り立つとすると、おかしなことが帰結するので、今の二つの仮定がともに成り立つということはない、より一般的には、対偶と推移律が正しい時、ある同じこと p が成り立ち、かつ成り立たないならば、ある同じこと q が成り立つ、ということは不可能である。

今記したことを、先生の証明の中に見てみましょう。

まず先生は、[1] の前半「二つのものが、~ も成り立たないだろうが」により、対偶 (p ならば q ならば、q でないならば p でない) が成り立つと述べています。

次に [5] で、推移律 (仮言三段論法、[[p ならば q] で、[q ならば r]] ならば、p ならば r) が成り立つと述べています *3

そして、仮定 「[3] A が白ければ B は大きい、かつ [4] A が白くないならば B は大きい」の二つがともに正しいとすると、「[9] B が大きくないならば B は大きい」という奇妙な帰結が生じるので、対偶と推移律が正しいとする限り、この今の仮定は否定されねばならず、よって「[2] 同じもの 〔A が白い〕 が成り立っていてもいなくてもそれによって同じもの 〔B は大きい〕 が必ず成り立つ、ということは不可能である」と、結論されています。

 

どうして、対偶 [1]、推移律 [5]、仮定 [3]、[4] から 今の [9] が出て、[2] となるのか、先生の証明から確認してみます。以下の記述は、ゆっくり一歩一歩、追ってみてください。

最初に [3] かつ [4] を仮定します。すると (trivial に) [3] です。[3] の対偶 ([1] の前半 = [6]) を取ると [7] です。

再び仮定 [3] かつ [4] から (trivial に) [4] です。[7] と [4] (= [8]) とで推移律 [5] により、[9] です。しかしこれは奇妙な帰結です。

ここで、先生の証明に沿って繰り返しますが、[10] は [3] の対偶 (= [7]) です。[11] は [4] です。

そこで、[10] (= [7]) と [11] (= [4]) に推移律 [5] (= [12]) を適用すると、[13] (= [9]) です。しかしこれは奇妙な帰結です。

故に (対偶と推移律が正しいとする限り) 仮定 [3] かつ [4] が否定されねばならず、「([3] かつ [4]) ではない」、すなわち一般的に言って [2] が結論されます。

以上で証明終了です。

 

3. The Fallacy in the Proof Pinned Down?

上に掲げた証明は要するに、はしょって言うと、[3] の「A が白ければ B は大きい」の対偶を取って、[4] の「A が白くないならば B は大きい」に接続すれば、「[9] B が大きくないならば B は大きい」という奇妙な帰結が生じて、これは不可能だ、という話です。

「なるほどね!」と思いますが、一つ問題があります。問題というのは Aristotle 先生は間違いを犯してしまっているようだ、ということです。少なくとも、現代の通常の論理学的観点からは。

間違っていると思われるのは、最後の

 ・ 「[9] B が大きくないならば B は大きい」という奇妙な帰結が生じて、これは不可能だ。

という主張です。しかし、これは不可能ではなくて、まったく可能だと考えられます。この [9] は奇妙に感じられるだけで、実際には奇妙でも何でもない可能なことと思われます。

[9] は、一般的には条件文「p でないならば、p」という形をしています。この p には任意の平叙文が入ります。ところで条件文「p ならば q」は、通常の論理学的観点からは、選言文「p でないか、または q」のことに他なりません *4

したがって、条件文「p でないならば、p」は、選言文「p でないことはないか、または p」のことです。この時、もしも p が成り立っていることならば、今の選言文全体も成り立ちます。成り立つならば可能です。可能ならば不可能ではありません。

先生の例を使って確認しますと、条件文「[9] B が大きくないならば B は大きい」は、通常、選言文「B が大きくないことはないか、または B は大きい」ということです。この B に「オリンポス山」を入れれば、「オリンポス山は大きくないことはないか、またはオリンポス山は大きい」となります。これは冗長ですが、要するに「オリンポス山は大きい」と言っているだけです。そして現にオリンポス山は大きいです。ということは、オリンポス山は大きいということは成り立っていて可能なことです。可能ならば不可能ではありません。

 

現代の通常の論理学的観点から見て、この「Aristotle 先生は間違っている」という話は、既にずいぶん前に指摘されていることです。それは以下で指摘されています。

・ Jan Lukasiewicz  Aristotle's Syllogistic: From the Standpoint of Modern Formal Logic, Oxford University Press, 1st ed. 1951, 2nd ed. Enlarged, 1958, p. 50.

上の私の説明は、Lukasiewicz 先生の指摘を私なりに補足したものです。

 

4. Why Did Aristotle Judge the Sentence in Question to be Impossible? I

どうして「[9] B が大きくないならば B は大きい」が奇妙に感じられるのか、それを推測してみると、たぶんですが、さしあたり二つ、理由を考えることができます。

一つ目の理由は、この [9] を

 ・ B が大きくないということは、B は大きいということと、同じことである。

と取り違えているのだろう、ということです。

あるいは [9] を

 ・ B が大きくないならば B は大きく、かつ B が大きいならば B は大きくない。

つまり、

 ・ B が大きくないことの必要十分条件は、B は大きいことである。

もしくは、

 ・ B が大きくないということと、B は大きいということとは同値である。

と混同してしまっているのだろうと思います。

ざくっと言えば、B でないものが B になる、B でないものが B と同一である、と思ってしまっているのかもしれません。

しかしこの取り違え、混同は、あまりに初歩的なミスであり、私ならばやらかしてしまうところですが、Aristotle 大先生がこんな平凡なミスを犯しているとはちょっと信じられません。

 

5. Why Did Aristotle Judge the Sentence in Question to be Impossible? II

そこで [9] が奇妙で不可能だとする二つ目の理由として考えられるのは、Aristotle 先生は単に勘違いされているのではなく、本気で [9] を不可能だと考えており、その場合、「p ならば q」の「ならば」という条件法を、先生は私たちとは違ったように理解されているか、かつ/または「~でない」という否定をやはり私たちとは違ったように理解されているのだろう、と推測されます。

たとえば、もしかしてもしかすると、Aristotle 先生は条件文「p ならば q」を、p の意味が q の意味を含んでいる (contain) 時、かつその時に限り正しい、と考えているのかもしれません。少なくとも「意味」という言葉の何らかの意味で。

たとえば、条件文「人間は理性的動物であるならば、人間は動物である」は正しいですが、それはこの条件文の前件「人間は理性的動物である」の意味が、後件「人間は動物である」の意味を含んでいるからだ、というように。(条件文の正しさに関するこの説を「containment theory」と呼んでおくことにします。)

また、ひょっとすると Aristotle 先生は否定を cancellation, deletion のようなものだと考えているのかもしれません。

たとえば、黒板にある文を書いてから「いや、これは間違いだ」と言って、その文の上から取り消しの二重線を書き加えたり、あるいはその文を黒板消しで消してしまうことがありますが、否定とはこのような操作をいうのだと先生は考えているのかもしれません。(否定に関するこのような説を「negation as cancellation」と呼んでおくことにします。)

そうすると、条件文「p でないならば、p である」が正しいとすれば、その時、この条件文の前件はキャンセルされており、消されて何もないことになっていますが、それが後件の何かあるものに含まれている、ということになって、これは何だか奇妙な話です。何もないのにそれが在る/有るものに含まれている、というのは理解に苦しみます。そこで Aristotle 先生は「p でないならば、p である」というような文は不可能である、つまり [9] は不可能だ、と考えているのかもしれません。

こうして、ひょっとすると、Aristotle 先生は、containment theory, negation as cancellation のような考えを内に持っていて、これをもとに「p でないならば、p である」というような条件文は一般に不可能だ、と主張しているのかもしれません。

 

以上の containment theory, negation as cancellation に関する idea は、以下の本に見られます。

・ Richard Routley et al.  Relevant Logics and Their Rivals, Part I, Ridgeview Publishing, 1982.

Containment theory については、この本を執筆されている先生方、つまり relevant logicians の皆さんが、この本とともに、常に追究されている考えであり、negation as cancellation については、この本の88-93ページに出ています *5

なお、上の私による containment theory, negation as cancellation の説明は、極めて、極めて、大まかなものです。Routley 先生方も、たとえば negation as cancellation/deletion model は欠点を持っているので (pp. 89, 92)、数学の負数、引き算を念頭に置いた negation as subtraction model へと upgrade させる必要があることを述べておられます (pp. 89, 92-93)。

Negation as subtraction model とは、やはり大まかに言えば、否定を負数になぞらえるものです。たとえば矛盾「p かつ p でない」を、数2なら数2について、「2 + (-2)」のように見なす考え方を言います。通常の論理学では、矛盾からはあらゆる文が結論できますが *6 、矛盾を「2 + (-2)」のように考えれば、「2 + (-2) = 0」であって、矛盾には内容がなく (= 0)、したがってそこからは何も出てこない、何も結論できない、と言うことができ、よってこの subtraction model を使えば、矛盾からは何でも結論できるという、人によっては直観にそぐわないともに見える通常の論理学の考え *7 を拒否できる利点を持ちます。

ただし、subtraction model でも、まだまだ大まかすぎて支持できない、という意見もあります *8 、こう見てくると、たとえば否定については cancellation, deletion, subtraction などの model で、今私たちが問題にしている Aristotle 先生を救い出せるのか、不安になってきますが、仮に先の三つの model のいずれによっても先生を救い出せないとしても、次の百科事典のような本をひも解けば、否定に関し、救済策が一つぐらいは見つかるかもしれません。

・ ローレンス R. ホーン  『否定の博物誌』、河本誓作監訳、濱本秀樹他訳、ひつじ書房、2018年 *9

 

6. 終わりに

最後に、軽く感想を述べるだけで話を締めさせてください。

さて、結局 Aristotle 先生は間違っていたのでしょうか? 簡単には答えられない問題ですね。この問題については、最終的に、上の話を読まれた方の判断にお任せしたいところですが、現代の通常の論理学、つまり古典論理 (classical logic) が正しく、かつそれだけが正しいと見なすならば、たぶん Aristotle 先生は間違っていることになると思われます。

ただし、そのように言えるためには、古典論理が何らかの意味で、唯一正しい論理であること、および、先生からの、考えられる反論を精査し、それらをすべて論破できなければならないと思われます。これはなかなか大変な作業になりそうです。

たとえば、Aristotle 先生の論理学とは違い、古典論理なら「すべてのかくかくが、すべてのしかじかを、どうする」というような、多重量化と呼ばれるような事柄を、自然に、自由自在に扱うことができる、と言われますが *10 、この点で、古典論理のほうが Aristotle 先生の論理学よりも優れていると主張しても、先生は先生で、自分の論理学のほうが、古典論理では扱うことのできない条件法や否定の概念を、上で示唆したように、扱うことができるのであり、この点で自分の論理学のほうが古典論理よりも優れているのだ、という反論がありうるでしょう。

このようなやり取りから引き出されるポイントは、論理学をどう見るか、論理学は何のためにあるのか、ということを押さておく必要がありそうだ、ということです。

そこで、もしも論理学を、Aristotle 先生の論理学的著作に名づけられた「道具 (Organon)」のようなものと考えるなら *11古典論理が正しいとか、先生の論理学は間違っているだとか、そのように言うことは、問題ではなくなってくるかもしれません。その論理学 = 道具が何のために作られているのか、何に役立てようとしているか、その目的によって論理学の有用度が計られるだけになってくると思われるからです。

そうすると、古典論理も先生の論理も、どちらもあっていい、どちらも併存していて、目的に応じて使い分けて行けばいい、ということになりそうです。

実際、Aristotle 先生による [9]「B が大きくないならば B は大きい」は不可能だ、という見解を活かして、この見解を基にした論理学も現在展開されているようです (connexive logic) *12

ある目的を達成するためなら、その目的のための論理学があっていいという論理の道具観が多くの人に共有されて来ているからこそ、現代のような古典論理以外の、いわゆる非古典論理の繁栄がもたらされているのかもしれません。

Aristotle 先生の証明に間違いがあるにせよ、ないによせ、どちらにせよ、先生の論理学的著作に対して名付けられたことに由来する道具としての論理学観は、今もしっかり生きているようですね。

 

これで終わります。以上は単なる思い付きに基づく感想です。言うまでもなく、ごく一部の問題の上っ面を引っかいただけで、あらゆる問題を精査したわけではございません。ですから、この感想をあまり真剣、深刻に捉えないでもらえればと思います。特に、Aristotle 先生が間違っていたのかどうかについては、慎重な検討が必要です。よく調べず、よく考えずに、軽々しく「先生は間違っていた」と即断することは、よくないと思います。あわてて判断なさらないようにお願い申し上げます。

なお、本日の私の話に間違いが含まれていましたら、大変すみません。誤解していたり、無知であったり、書き損じているようなところがありましたら謝ります。Aristotle 先生にもお詫び致します。どうかお許しください。

*1:アリストテレス、「分析論前書」、今井知正、河谷淳訳、『アリストテレス全集 2』、岩波書店、2014年、第2巻、第4章、228ページ、ベッカー版対応ページ数・欄・行 57b1-16.

*2:訳注 (15), (16) はともに、「分析論前書」、2014年、229ページ。

*3:アリストテレス、「分析論前書」、井上忠訳、『アリストテレス全集 1』、岩波書店、1971年、523ページ、訳注20.

*4:論理学の入門書で、条件文、条件法の項目を見ていただければ、この種の説明が大抵出てくると思います。

*5:現代において、否定に関し、この種の idea を主張した人物に P. F. Strawson さんがいるようです。Richard Routley et al., Relevant Logics ... , p. 89, n. 1. 否定について、この種の idea を述べている文を Strawson さんの本から引用してみます。「'ない' の標準的で本来的な用法は、特に撞着 [contradiction] したことを言ったり、訂正したりするためのもの、つまり自分自身や他人の提案を取り消すためのものである」。「自己撞着 [self-contradiction] したことを言うのは何かを書きしるした後で、それを消去するのに似ている。撞着した発言は、それ自身を取り消し、後に何も残さない」。P. F. ストローソン、『論理の基礎 〔上〕』、常俊宗三郎他訳、法律文化社、1974年。前者の引用文はこの本の13ページ、後者は5ページです。なお、引用文内の [contradiction], [self-contradiction] は、P. F. ストローソン、『論理の基礎 〔下〕』、常俊宗三郎他訳、法律文化社、1976年の、索引に付された原語から引っ張ってきて、引用者の手により挿入したものです。

*6:Ex Falso Quodlibet/Ex Contradictione Quodlibet, 略して EFQ/ECQ と呼ばれる推論規則によって、矛盾や偽である文から、あらゆる文が結論できます。この規則については、当ブログ、2019年2月10日、題名「Can Frege Accept Ex Falso Quodlibet as a Rule of Inference?」を参照ください。

*7:この考えとは、つまり推論規則 EFQ/ECQ は正しいとする考えのことです。

*8:See H. Wansing, and D. Skurt, Negation as Cancellation, Connexive logic, and qLPm, in: Australasian Journal of Logic, vol. 15, no. 2, 2018, pp. 477-480, in particular, pp. 479-480.

*9:原題 A Natural History of Negation. 訳書は、原書の 1st and 2nd ed. を翻訳し、かつ日本語版へ終章を追加した第三版。vii ページ参照。なお、この本では、86-87ページに negation as cancellation の話が少しだけ出てくることがわかります。しかし、あまりに分厚い本で、あまりに多様な否定に関する考えが提示されていますので、その他のページで cancellation, deletion, subtraction などの考えが述べられているのか、私は通読していないので、よくわかりません。また、大変残念ながら、本書の索引は網羅的ではなく、不十分に見えます。非常に惜しいです。

*10:飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、18-35ページ。よりやさしい説明としては、野矢茂樹、『論理学』、東京大学出版会、1994年、84-89ページ、特に86-89ページ。

*11:Aristotle 先生自身は自分の論理学を「道具」とは呼んでいないようです。ギリシャ語であれラテン語であれ、先生の論理学的著作を「道具」と呼ぶようになったのは、先生より後代になってからのようです。この点について、ごく簡単には次を参照ください。William Kneale and Martha Kneale, The Development of Logic, Oxford University Press, 1962, paperback edition 1984, p. 23. もう少し説明のある文献は次です。中畑正志、「アリストテレス」、内山勝利編、『哲学の歴史 第1巻 哲学誕生 【古代 I】』、中央公論新社、2008年、547-550ページ。

*12:Heinrich Wansing, ''Connexive Logic,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2006/2014, <https://plato.stanford.edu/entries/logic-connexive/>.