On Titles I Was Impressed by Last Year

今月は次の文献を購入し、拝見させていただきました。

・  『みすず』、読書アンケート特集、みすず書房、2020年1・2月合併号。

ここでは各界の著名な先生方が2019年に読んだ書物で、印象に残ったものを取り上げ、寸評を加えておられます。私の知らない本が多数上げられていて、とても参考になりました。ありがとうございます。

私は先生方の足元にも及びませんが、私自身のほうで2019年に手にし、印象深かった文献をここに記してみます。

私はここ数年、心身ともに不調であり、文献の収集をほとんどしていませんが、2019年に手に取ったわずかばかりの文献のうち、特に興味を感じた本は二つありました。一つずつ上げて、その印象を軽く述べてみたいと思います。

 

まず一つ目です。

・ 飯田隆  『日本語と論理  哲学者、その謎に挑む』、NHK 出版新書、NHK 出版、2019年。

この本では、次のようなことが論じられています。

 

たとえば、自然の中の現象を物理学の理論を使って説明することがあります。同様に日本語の文の意味を、論理学の理論を使って説明することがあります。

ごくありきたりの日本語の文

  (1) 田中さんが笑った。

の意味を論理学の理論で説明するというようなことです。

しかし本当に論理学の理論を使って日本語の文の意味が説明できるのか、疑問があるので、飯田先生は実際説明できるかどうかを本書で追究されています。

現在、論理学の理論で最も標準的とされているのは「(古典一階) 述語論理」と呼ばれるものです *1 。この理論は (1)「田中さんが笑った」のような文の主語「田中さん」が一つのもの (一人の人) を指し、かつその文の述語「〜が笑った」が一つのもの (一人の人) について言えることを前提としています。

実際、文 (1) の「田中さん」は一人の人物を指すことが想定されており、その文の述語「〜が笑った」も一人の人物について言われることが想定されているので、この (1) の文に述語論理を適用してその意味を分析することは可能です。

しかし日本語には次のように、主語が一つのものではなく複数のものを指している文もあります。

  (2) さっちゃんとみっちゃんとまあちゃんが笑った。

このような文は述語論理で分析できるのかというと、幸い、以下のように (2) を言い直すことで分析できます。

  (3) さっちゃんが笑い、みっちゃんが笑い、まあちゃんが笑った。

けれども、次のようなありふれた日本語の文はどうでしょうか?

  (4) さっちゃんとみっちゃんとまあちゃんが集まった。

これを

  (5) さっちゃんが集まり、みっちゃんが集まり、まあちゃんが集まった。

と言い換えられるかというと、言い換えられません。あるいは言い換えてみたところで、(5) は意味をなしません。「集まる」というのは複数のものや人がある地点に大体同時に寄って来ることを言うのであって、一つのものがある地点に寄って来ることを言うのではないからです。

この場合、(5) の「集まる」ということばは必ず複数のものを指す主語を取らなければならない、ということです。しかし現在標準となっている述語論理は、必ず複数のものを指さなければならないような主語を扱うことはできませんので、(4) のようなありふれた文を分析できません。

そこで、複数のものを指す主語でも扱うことのできる論理学の理論があれば、(4) のような文でも分析できるだろう、と考えられます。実際そのような論理学の理論はあって、非標準的な理論ですが、「複数論理 (plural logic)」と呼ばれています。飯田先生は、この論理を使えば日本語の文の意味をうまく説明できるのではないか、とお考えです *2

日本語の文の意味が、どのようなメカニズムで成り立っているのか、この点に興味を持っている方は、飯田先生の本書を読んでみるといいかもしれません。

おおよそですが、このような感じで先生の本の話は進んで行きます。私は論理をめぐる哲学的議論に興味があり、しかも日本語を母語としている人間ですので、飯田先生による以上のような話にはとても興味を感じます。

果たして日本語の文の意味を分析するのに最もふさわしいのは、複数論理なのでしょうか? 日本語のなかで働いている論理は複数論理なのでしょうか? 今の私にはまだわかりません。先生の今後の研究に期待し、私も機会があれば、自分なりにぶつぶつと考えてみることができればと思っています。先生ほど深く考えることはできませんし、先生のやさしい話を理解するのもままならない状態ですが。

 

ここまでの私の記述を読まれた方は、今回話題にしている問題が、哲学的問題に対して一般にイメージされているものとは大きく違って、特に難解でもなく、特に深遠でもないとお感じになったのではないでしょうか? 本書での先生の話はもう少し細かくて込み入っていますが、基本的に以上のような平易な論述になっています。哲学書に時として見受けられる「何が何だかわけがわからない」文章にはなっていません。ほとんど普通の文章から成っています。

この本を拝読させてもらっている間、私がしばしば思ったのは、「ここには飯田先生の先生である大森荘蔵先生に見られる散文で哲学する精神が流れているのだろうな」ということでした。大森先生による散文で哲学する精神とは、

・ 大森荘蔵  「哲学的知見の性格」、『大森荘蔵セレクション』、飯田隆他編、平凡社ライブラリー平凡社、2011年、初出1963年、80-81ページ、

に出てきます。引用してみましょう。

音楽的哲学、あるいは祈祷的哲学を志ざすのでないかぎり、哲学は一つの知見、何ごとかについての知見である筈である。この哲学的知見の中には、啓示によって、あるいは知的膠着によって、終身不動の信念を伴なうものもあるだろう。それらは他人にとって、貴重にして無縁なものである。だが一方、より不安定な、ということはつまり、動くことができそして動く用意のある散文的知見がある。この散文的知見にはいつも若干の懐疑といくばくの不信が伴ない、訂正におびえながら訂正をうける覚悟のある知見である。この種の哲学的知見があることによって、哲学は黙示と啓示の秘儀にとどまることなく、広場で対話され街頭で流通できるものとなる。この散文的知見によって、哲学は、理解するために感動する必要のないものになる。*3

神秘的でもなければ秘教的でもない、地に足のついたことば、自分に身についていることばで、扱う事柄に没入してしまうことなく、距離を取って淡々と哲学することが好ましいと私自身も感じます。

飯田先生の書かれるものは、今回取り上げている本に限らず、落ち着いた余裕のある叙述になっています。

それに対して、ある種の哲学は、新造語を盛んに繰り出し、破格の文体を使って、難解で深遠で秘教的な哲学を展開することで多くの人の心を捉えています。

なぜそこまで新造語を繰り出して、非常に難解な文章を書く必要があるのかというと、その理由としては、既成の常識を揺るがすためであると、よく言われることがあると思います。しかしそのような文章は、既成の常識を揺るがす前に、その文章自身の信頼性を揺るがしていると、私自身は思います。そのような文章は、既成の常識を揺るがす前に、読者によって「このような文章は信頼ならないな」と、自らの信頼性を揺るがされる結果になっていると感じます。

また、新造語を繰り出して、既存の文法から外れた文体で難解な文章を書く理由として、既成の単語や文体では新しい思想を表現するのに用をなさないから、と言われることもあると思います。しかしそのような文章は、新しい思想を表現するという用をなす前に、既存の単語や文法に翻訳してからでないと、まるで用をなさないと思います。そのような文章は、新たな思想と称されるものと既存の考えとを橋渡しする単語と文法を前もって用意してくれないと、用をなさないと感じます。

さらに、新造語を並べる難解で深遠な文章は、読者に不毛な興奮や陶酔をもたらし、作者との距離感を見失わせ、作者の虜 (とりこ) となって、その文章に間違っていると思われることが書いてあっても、「間違っていると思っている自分のほうが間違っている」と思い込むようになり、正直にストレートに「間違っている」と言えなくなるところがあると思います。つまり難解で深遠で権威を持った哲学に対しては、往々にして批判の刃 (やいば) がなまくらになってしまう、ということです。「哲学者を尊敬するのはいいが、心酔してはならない」。これは重要な警句だと思います。

ただし、難解で深遠で秘教的な哲学があってもいいと私は思います。哲学のすべてが散文的でなければならない、とは私は考えません。難解で深遠で秘教的な哲学も、人によっては、また時によっては、必要だと思います。私自身もそういう哲学に興味を持つこともあります。哲学は多くの人が多様な形で営んでいるものですし、そのような多様性は確保されていなければならないと考えます。

それに、散文的な哲学だけが真理を独占しており、それ以外の哲学は一切真理を語っていない、と証明されたわけでもないでしょう。そして今後もこのようなことは証明されないでしょう。にもかかわらず、散文的な哲学だけが、いつも誰にとっても正しくかつ有用な哲学であり、それ以外の哲学は、いつも誰にとっても正しくなくかつ有用でない哲学だ、と主張するならば、それは間違った主張でしょうし、まったく傲慢な主張でもあるでしょう。

とはいえ、私自身は概して散文的な哲学のほうを好み、難解で深遠で秘教的な哲学は敬して遠ざけておきたいと思ってしまいます。

ここまでの記述で、何か誤解や勘違い、無理解などを示しておりましたらすみません。

 

次に、2019年に読んだ本で印象に残ったタイトルの二つ目です。この本については、これまでと語り口を変えて記したいと思います。この二つ目の本は哲学の本ではありません。ジャズの演奏家の伝記です。

・ ドナルド・L・マギン  『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』、村上春樹訳、新潮社、2019年。

私はスタン・ゲッツの演奏をよく聴く。ほとんど毎日聴いているのではないかと思う。ただし、私はスタンのアルバムをいくつも持っているというわけではない。私は本については哲学関係の新刊が出ればいろいろなものを次々買って拾い読むたちだが、音楽についてはジャズやボサ・ノヴァのアルバムをたまにしか購入せず、そのアルバムを気に入れば、しつこくしつこく繰り返し繰り返し、聴くタイプである。所有しているスタンのアルバムは数少ないが、自分にしっくりくるアルバムのなかには、それこそ数え切れない回数を聴いたものもある。

今回の伝記は2019年8月のお盆過ぎに刊行され、刊行直後に購入し、毎日夏の昼下がりにカフェでボサ・ノヴァを聴きながら、少しずつ読んでいた。もちろん聞こえてくるボサ・ノヴァの演奏の中にはスタンのものもある。本人のすてきな演奏を聴きながら、当人のみっちりとした伝記を読むのは、とても豊かな時間だった。

私はスタンの演奏には心魅かれるが、人柄には魅かれない。会ったこともないし、見かけたこともないのだが ... 。いずれにせよ、人柄にはあまりいい印象はない。彼がろくでもない男であることは、かなり有名だろう。これについては、たとえば数年前に出たゲイリー・バートンの自伝がよく物語っている *4 。だから彼という人物に心を許すとか、心を開くということもなく、私は本書を読み進めていた。

だが、読みながらだんだんと「人柄はどうあれ、スタンの人生にもいろいろあったんだな」という感慨が、私の心の中にわいてきた。彼が晩年に病魔に襲われたことは周知の事実であり、そのことはわかっていたのだが、本書でその話に差しかかり、とうとう亡くなって葬儀となり、仲たがいして長年会うこともなくなっていたスタンの娘から、花輪とともに父親のスタンに対して「あなたを赦します」というメッセージが送られてきたシーンを読んだとき、さすがに私も胸が熱くなった。そして「まぁ、私も彼のことを赦していいかもしれないな」という気持ちが思いがけなくわき上がってきた。私自身が彼から何か迷惑を受けたわけではないのだけれど。

しかし、どうしてスタンにしろチェットにしろ、こんなにろくでもない男たちから、あんなにすばらしいメロディーが流れ出てくるのか? いつもいつも不思議に思う。この本を読んでもその謎は解けない。けれどもこの本を読むことで、やはりスタンはろくでもない奴だな、という思いは強まり、やはりスタンの演奏は実にすばらしいものだな、という思いを新たにすることになった。

今、この文章を書きながら、私の頭の中では Getz/Gilberto の O Grande Amor の演奏が鳴っている。いつまでもいつまでも聴いていたい演奏だ。私にはこの演奏が挽歌のように聞こえる。夜の闇の奥から聞こえてくる挽歌のようだ。

夏の日々、昼下がりの午後、ボサ・ノヴァを聴きながら私がこの本を読んでいたカフェは、冬の冷たい風の吹くこの街に、今はもうない。

 

*1:近年では、この論理の地位もかなり脅かされてきており、だんだん標準的ではなくなってきているかもしれません。

*2:ここまでの話は、飯田先生のご高著『日本語と論理』の54-62ページを参考にして記しました。

*3:引用者註: 引用文中の「祈祷的哲学」の「祷」は、原文では示偏に旁が壽ですが、便宜上、「祷」を使っています。

*4:ゲイリー・バートン、『ゲイリー・バートン自伝』、熊木信太郎訳、論創社、2017年、128-197ページ、つまり「第九章 オン・ザ・ジョブ・トレーニング その二」から「第十二章 訣別」を参照。スタンのいい面も悪い面も活き活きと描き出されている。