目次
- Frege's Begriffsschrift (1)
- Frege's Begriffsschrift (2)
- Frege's Grundlagen, Einleitung, §§60, 106
- Frege's Grundlagen, §62
- Frege's Begriffsscrift and Grundlagen
- Russell's On Denoting
- 付記
注意
このブログでは、研究や研究の類いや研究の一端のようなものをやっているのではありません。研究とはまったく関係ありません。
またこのブログでは、哲学をしているのではありません。哲学について述べているかもしれませんが、哲学はしていません。
これらの点につき、ご銘記の上、以下をお読みいただければ幸いです。注意終わり
前回は、Russell が Frege に出した書簡を取り上げました。いわゆる Russell Paradox 発見を伝える書簡です。その中で Russell は、Frege の Begriffsschrift の §9 に言及していました。
そこで改めてそのセクションを読み返してみたところ、「おやっ?」と思う一文に出会いました。それはちょっと意外な一文であり、自分としても今までに気が付いてもよさそうな文なのですが、私は見落としておりました。
そのようなわけで、今日はその一文について記してみます。ただしこの意外とも思える文については、既に研究者によって指摘されていることですので、目新しいことではありません。そのため、ここで私は何かオリジナルなことを記そうというつもりではありませんので、その点ご承知おきください。
Frege's Begriffsschrift (1)
さて、以下に問題のセクションから、その一部を引用してみます。典拠先は次です。
・ Gottlob Frege Begriffsschrift und andere Aufsätze, 2. Aufl., hg., I. Angelelli, Georg Olms, 1964/1993.
ここからまず §9 の前半を引き、直訳調の試訳/私訳を付けます。直訳にするのは原文に近い雰囲気を読んでいただく方に味わってもらうことと、ドイツ語の不得意な私が誤訳したり不正確な訳に陥ることを防ぐためです。意訳がよくないというわけではありません。そして既に刊行されている邦訳は参考にさせてもらいました *1 。ありがとうございます。試訳/私訳を掲げることについては特に他意はございませんので、どうかご了承ください。
引用する前にお知らせしておきますと、Frege はこの §9 の前半で、大体ながら、次のようなことを述べています。
以下のような文がある時、
水素ガスは炭酸ガスより軽い。
この文の「水素ガス」を「酸素ガス」や「窒素ガス」に変えることができます。そのようにすると今の文は、たとえば
酸素ガスは炭酸ガスより軽い。
という文になります。この時、「水素ガス」、「酸素ガス」、「窒素ガス」などを Frege は「アーギュメント」と呼び、アーギュメントの出入りする位置以外の部分「~は炭酸ガスより軽い」を「関数」と呼びます。
また、上の二つの例文では「水素ガス」、「酸素ガス」をアーギュメントとし、残りの部分を関数と見なしましたが、その例文の「炭酸ガス」をアーギュメントとし、残りの部分を関数と見なすことも可能だ、というような趣旨の話も Frege はこの前半でしています。
それではその §9 の前半を読んでみてください。
なおここでは、ドイツ語で Sinn, Bedeutung, bedeuten と出てきた場合、それらはすべて「いみ」、「いみする」と和訳しています。この時期はまだ Frege は有名な Sinn と Bedeutung の区別をしていないことと、慣例のごとく、Sinn を「意義」、Bedeutung を「意味」と訳すと、日本語の語感として少々座りが悪い文があるからです。
Frege's Begriffsschrift (2)
さて、この種の話をもう少し続けたあと、Frege は読者に対し、陥りやすいある間違いについて注意を与えています。それは次のような間違いです。
今、以下のような文があるとします。
(1) 数20は、四つの平方数の和として表わすことができる。
平方数とは、ある自然数にその数自身を掛けてできる数で、x2 と書くことができます。たとえば 32 すなわち 9 がそうです。そして (1) はそのような平方数を四つ足すと20になる、と言っていることになります。この (1) に対し、よく似た文 (2) を考えてみます。
(2) どの正の整数も、四つの平方数の和として表わすことができる。
この (2) は (1) の「数20」を「どの正の整数も」に変えただけで、(1), (2) とも、よく似た文です。
そこで (1) の「数20」と (2) の「どの正の整数も」をアーギュメントとし、残りを関数と見なすことができそうです。しかしこれは間違いだから注意せよ、と Frege は警告を与えます。
なぜ間違っているのかを推測してみると、おそらくですが、次のようなことが Frege の念頭にあるのかもしれません。たとえば、
(1') 太郎は天才である。
(2') 誰もが天才である。
これら二つの文に関し、(1') では太郎一人について、天才であると言われているのに対し、(2') では「太郎は天才である」、「次郎は天才である」、「花子は天才である」などなどと、複数のことが言われていると考えられます。
あるいは (1') も (2') も人間についての文ですから、(2') は「何であれ、それが人間であるならば、それは天才である」と言っているのだろうと思われます。
いずれにしても、(2') は (1') と異なり、いわば、より深い複雑な背景なり構造なりを内に含んでいると考えられます。
同様に、(1) と (2) も、その背景・構造に重要な相異があると考えられます。この点を無視して (1) の「数20」と (2) の「どの正の整数も」とを同じ機能を持ったアーギュメントだと見なすのは間違いだ、と Frege は言っているものと思われます。
では §9 の中盤の一部を引用します。ここに問題の「おやっ?」と感じさせる文が出てきます。
この引用文の最後の一文に、何か見覚えはないでしょうか? そうです。文脈原理です。Frege の文脈原理は1884年の Grundlagen に出てきますが、それ以前には出てこないはずのものです。しかし上の引用文最後の一文は、1879年刊行の Begriffsschrift の中の文です。既にこの時期に Frege はもう文脈原理を思い付き、駆使していたのでしょうか? そもそも上の問題の一文は、文脈原理を表明したものなのでしょうか?
Frege's Grundlagen, Einleitung, §§60, 106
この問いに答えるには、文脈原理がどのようなものであったのかを確認してみる必要があります。それではそれが表明されている Grundlagen を見てみましょう。参照する文献は次です。
・ Gottlob Frege Die Grundlagen der Arithmetik, hg., Ch. Thiel, Felix Meiner, Philosophische Bibliothek, 366, 1884/1988.
Frege はこの本の中で、少なくとも四回、文脈原理の話をしています。それは、序論、第60, 62, 106節の四個所です。それぞれの個所を引用して、内容を軽く確認してみましょう。和訳は私による直訳調の試訳/私訳です。こちらも既刊の邦訳を参考にさせてもらいました *5 。ありがとうございます。
引用する前に一つ述べておきます。
Frege は一般に言葉のいみ *6 を、個人の心の中のイメージや観念や表象のようなものとは考えません。たとえば「赤い」という言葉のいみを、自分の心の中に浮かんでくる赤色のイメージのようなものとしては捉えようとしません。言葉のいみを心の中の表象のようなものだとすると、いろいろ不都合な問題が生じるので、そうは考えないわけです。どんな不都合が生じるのかを説明し出すと話が脱線して行くので省略させてもらいますが、ともかく Frege は言葉のいみを心の中の表象とは考えません。言葉のいみを心の中の表象のようなものだとする立場を「言葉のいみの心理主義」と呼ぶとすれば、Frege は言葉のいみの心理主義を回避しようとしているということです。このことを踏まえた上で、それではまず、文脈原理が最初に出てくる Grundlagen の序論の個所を読んでみましょう。
なおここでは、ドイツ語で Sinn, Bedeutung, bedeuten と出てきた場合、それらは先ほどと違い、Sinn を「意義」、Bedeutung を「意味」、bedeuten を「意味する」と和訳しています。この時期においてもまだ Frege は Sinn と Bedeutung の区別をしていませんが、慣例のごとく訳しても、日本語の語感として不自然な訳にはならず、割とすんなりと読めますので、あえて以上のように訳しています。しかし当人はまだ、厳密には Sinn, Bedeutung, bedeuten を相互に区別していませんので、この点ご注意ください。
この二番目の基本原則が文脈原理です。この引用文を読むと、文脈原理が言葉いみの心理主義を回避する手立てとして立てられていることがわかりますね。
次に§60を見てみましょう。
引用文後半に文脈原理が出てきます。これも言葉のいみの心理主義を回避するために立てられています。
次に、§62 を飛ばして、§106 を見てみましょう。
これも言葉のいみの心理主義回避のために、文脈原理が使われているとわかります。
Frege's Grundlagen, §62
今度は最後に残った §62 を見てみましょう。
このセクションは今までと少し様子が違います。注目したいのは次のことです。
ここではまず、数詞を見て、そこから必ずしも数の表象が心に浮かぶわけではないという事実が仮にではあれ、確認されています。そしてそうであるのならば、いったいいかにして我々に数は与えられるのか、と Frege は問い、そのあとに文脈原理が持ち出される、という話の流れになっています。つまり、言葉のいみの心理主義を回避し終えたあとで、文脈原理が「お役御免」とばかりに袖に引き下がるのではなく、逆に心理主義回避後に、なおもその原理が舞台の中央に踊り出てくる、ということです *11 。
ということは、ここでの文脈原理は、言葉のいみの心理主義を回避する手段とは異なった、別の役割を持ったものとして使われている、ということです。その別の役割とは、数が私たちに与えられるのを保証する手段、およびそうして数が存在することを保証された場合に、数について知ることを保証する手段、これら二つの手段として文脈原理はこの §62 に現われているということです *12 。結局ここでの文脈原理は、存在論的な原理であるとともに、認識論的な原理としても登場してきている、ということです *13 。
序論、§§60, 106 での文脈原理は、言葉のいみの心理主義を回避するためのものでした。「回避する」、「避ける」という言葉のニュアンスから、ここでの文脈原理は「消極的な」文脈原理と呼ぶことができます。一方、§62 の文脈原理は、数の存在を打ち立てて、それを知ることを保証する原理ですので、こちらの文脈原理は「積極的な」文脈原理と呼ぶことができるでしょう *14 。
どちらの文脈原理も、そのままでは支持できないと思われます。特に積極的な文脈原理は物議を醸し、問題含みの原理ですが、もしもそれが支持可能、擁護可能ならば、裨益するところ極めて大である原理です。果たして擁護可能なのかどうか、その帰趨を追跡してみたいところですが、話がどこまでも脱線して行きますし、そもそもその用意が私にはありませんので、事の結末を見届けることはやめにしておきましょう。
Frege's Begriffsscrift and Grundlagen
いずれにしても、Grundlagen の文脈原理は、消極、積極、二様の役割を持っていることがわかりました。ここで本題に戻りましょう。私たちの問いは、Begriffsschrift の §9 に出てくる例の一文が文脈原理なのかどうか、というものでした。そこでその一文を振り返り、それが文脈原理の消極的役割か、積極的役割のどちらか一方だけでも持っていたかどうかを考えてみますと、どうもどちらの役割も持っていないように見えます。これはちょっと残念ですね。例の一文は Grundlagen の文脈原理と同じものではない、と言えそうです。
しかし、それでも Begriffsschrift の §9 の一文は、それはそれで一種の文脈原理なのだと、あえて主張することも、ひょっとしたら可能かもしれません。ただしその場合は、もちろんそれなりに説得力のある根拠を提示する必要がありますが。
Begriffsschrift の §9 の例の一文に対するおそらく一番穏当な判断あるいは予想は、以下のようなものかもしれません。つまり、例の一文は文脈原理ではないものの、Grundlagen の文脈原理を思い付くきっかけになった文であり、その原理の発想の源となった文であって、「どの正の整数も」の「どの~も」という普遍性を表わす表現は、「太郎」のような単純な名前とは異なる複雑さを持っていて、その複雑さはその表現が文という脈絡に置かれることによって分析されるのだと Frege が気付いたことから、のちのちの文脈原理が出てきたのかもしれない、ということです。「かもしれない」ということで、これはまったくの推測です。私はこの推測を裏付ける証拠を示していませんので、今の話はただの推測です。しかし、ありそうなことではありますが。
さて、どうなんでしょうね。よかったら考えてみてください。
Russell's On Denoting
最後に。
例の一文が Bertrand Russell の記述の理論の源泉になった可能性は、かなりあるのではないでしょうか? Russell は Frege へ Russell Paradox の発見を伝える有名な1902年の書簡で、ここで引用した Begriffsschrift の §9 に言及していました *15 。記述の理論がはっきり出現するのは、1905年の Russell による論文 ''On Denoting'' です。そこでこの論文から、記述の理論の核心部分を説明する中で出てくる、例の一文に酷似した文を参考までに引用して、本日のブログを終わりにします。次から引用します。
・ Bertrand Russell ''On Denoting,'' in: Mind, New Series, vol. 14, no. 56, 1905, reprinted in R. Marsh ed., Logic and Knowledge, Routledge, 1956 *16 ,
・ バートランド・ラッセル 「指示について」、清水義夫訳、『現代哲学基本論文集 I 』坂本百大編、勁草書房、1986年 *17 。
引用文後半に、例の一文に似た文、似た話が出てきます。
Frege の Begriffsschrift の §9 における例の一文と、これによく似た上記引用文中の文を並べてみましょう。
Der Ausdruck „jede positive ganze Zahl‟ giebt nicht wie „die Zahl 20‟ für sich allein eine selbständige Vorstellung, sondern bekommt erst durch den Zusammenhang des Satzes einen Sinn. (表現「どの正の整数も」は、数20のように、それ自身だけで一つの独立した表象を与えることはなく、むしろ文という脈絡を通じて初めていみを得るものなのである。)
Everything, [...] [is] not assumed to have any meaning in isolation, but a meaning is assigned to every proposition in which they occur. (あらゆるもの [...] は、それだけで孤立してはいかなる意味をも持つとは考えられない。意味は、それらが現われてくる命題の各々に対して付与されているのである。)
どうでしょうか? 割と似た感じがしますね。「jede positive ganze Zahl (どの正の整数も)」の「jede (= jeder)」は、英語では「every」に当たります。何だかわざと合わせたかのように細かい点も、一部ですが符合していますね。深読みしすぎですかね?
しかも今の上げた文こそが Russell にとり、表示の理論の中心原理になっているということです。表示の理論、記述の理論の中心原理が、Frege の文脈原理の前身らしきものと酷似しているというのは非常に興味深いですね。
とはいえ、Russell の哲学については、Frege の哲学についてと同様、私はよく知りませんので、これを本当のところ、どう判断したらいいのか、私にははっきりわかりません。Russell の研究者ならば、既に答えは出ているのでしょうね。
PS 本日のブログ冒頭で、Frege の Begriffsschrift の §9 に、「おやっ?」と感じる一文があって、この意外な一文については既に研究者によって指摘されています、と述べました。これを指摘しているのは、Thiel 先生、野本先生、M. Beaney 先生です *22 。
付記
今回 Begriffsschrift から引用した文の中には、ちょっと何のことかよくわからない文がありました。次がそれです。
そもそもこのドイツ語文を私が最初に訳してみた時、言っていることがよくわからず、訳にも自信がなかったので誤訳しているのではないかと思い、念のため、複数の和訳、英訳、仏訳に当ってみました。参照させていただいたのは以下です。各国語を刊行年順に上げます。
・ ゴットロープ・フレーゲ 「概念文字」、石本新訳、『論理思想の革命』、石本新編、東海大学出版会、1972年、47ページ、
・ G. フレーゲ 『概念記法』、藤村龍雄編訳、フレーゲ著作集 1, 勁草書房、1999年、31ページ、
・ G. Frege ''Begriffsschrift,'' in P. Geach and M. Black eds., Translations from the Philosophical Writings of Gottlob Frege, 2nd ed., Basil Blackwell, 1960, p. 14,
・ G. Frege ''Begriffsschrift,'' in J. van Heijenoort ed., From Frege to Gödel, Harvard University Press, 1967, pp. 22-23,
・ G. Frege ''Conceptual Notation,'' in T. W. Bynum tr. and ed., Conceptual Notation and Related Articles, Oxford University Press, 1972, p. 128,
・ G. Frege ''Begriffsschrift,'' in M. Beaney ed., The Frege Reader, Blackwell, 1997, p. 67,
・ G. Frege Idéographie, tr. par C. Besson, Vrin, 1999, p. 31.
すると案の定、私は誤訳していることがわかりました。上に掲げた和訳は誤訳を正したものです。
そして上の独文/和訳は何を言っているのかについてですが、参照させていただいた訳のうち、Beaney 先生の訳を読むと、何のことかわかりました。というのも先生は、ちょうど今、私たちが問題にしている文に訳注を付けて説明してくれているからです (p. 67, fn. 30)。そこでその内容を私の方で少し敷衍しつつ簡単に記してみましょう。
上の文中で、引用符で括られた表現があります („jede positive ganze Zahl‟, 「どの正の整数も」)。これを引用符で括っているのは、それが概念を表わすからです。このことは今問題にしている文の直前の文で、概念を引用符で括って表わしていることからわかります。一方、上の文中の「Zahl 20 (数20)」については引用符に括られていないので概念を表わしているのではありません。
後年の Frege なら「数20」は対象を表わす (意味する) と言うでしょう。彼にとり、対象と概念はずいぶん在り方を異にしています。Begriffsschrift の段階ではまだ Frege は対象と概念を明確には区別していませんでしたが、ここで彼は両者を漠然としてではあれ区別しているのだろうと思われます。そうだとすると、上の文中の、対象である数20について言われることを、対象について言ういみで、概念である「どの正の整数も」について言うことはできない、ということになります。しかし場合によっては、概念「どの正の整数も」ということを、対象であるこの正の整数も、あの正の整数も、その正の整数も、... というように言い換えて考えることもあるでしょう。その場合には、数20について言われることを、これと同じいみで、どの正の整数も、について言うこともできる、ということになります。
これで上の問題の文が何を言わんとしているのか、少なくともその気持ち、気分はわかっていただけるものと思います。
これで終わります。いつものように誤解や無理解や勘違い、誤字や脱字があると思います。ドイツ語を誤訳しているという可能性はかなりあります。これらに対し、お詫び申し上げます。すみません。
*1:邦訳、G. フレーゲ、『概念記法』、藤村龍雄編訳、フレーゲ著作集 1, 勁草書房、1999年、29-31ページ。
*2:Begriffsschrift, SS. 15-16.
*3:Begriffsschrift, S. 17.
*4:訳注: この文は直訳すると意味不明になるので幾分意訳しています。それでもこの文が何を言おうとしているのか、わかりにくいと思います。何がここで言われているのか、気になる方は、本文の一番最後に「付記」という名で説明を与えてあります。関心のある方はご覧ください。
*5:邦訳、G. フレーゲ、「算術の基礎」、三平正明、土屋俊、野本和幸訳、『算術の基礎』、フレーゲ著作集 2, 勁草書房、2001年、43, 119-121, 171ページ。
*6:この「いみ」という言葉は、前理論的に、素朴に使っています。専門用語、学術用語のつもりではありません。
*7:Grundlagen, S. X, S. 10. この二つのページ数のうち、前者は初版 (Erstdruck) のページ数、後者はいわゆる哲学文庫版のページ数です。以下同様です。
*8:Grundlagen, S. 71, SS. 69-70.
*9:Grundlagen, S. 116, S. 105.
*10:Grundlagen, S. 73, S. 71.
*11:このことは、次の文献該当ページをヒントにしています。C. Thiel, Sense and Reference in Frege's Logic, tr. by T. J. Blakeley, Humanities Press, 1968, p. 123.
*12:M. Dummett, ''The Context Principle: Centre of Frege's Philosophy,'' in hg., I. Max und W. Stelzner, Logik und Mathematik: Frege-Kolloquium Jena 1993, Walter de Gruyter, 1995, SS. 4, 9-10, 邦訳、M・ダメット、「文脈原理 フレーゲ哲学の中心」、岩本敦訳、『フレーゲ哲学の最新像』、岡本賢吾、金子洋之編、勁草書房、2007年、2-3, 11-12ページ。
*13:Dummett, a. a. O., ダメット、同上。
*14:文脈原理について、その消極的側面と積極的側面を区別して論じている文献に、次があります。野本和幸、『フレーゲの言語哲学』、勁草書房、1986年、15, 44ページ。特に15ページを参照ください。
*15:この点については、前回のブログをご覧ください。
*16:Marsh 版から引用しています。引用個所を Mind オリジナル版と読み比べてみましたが、両者には本質的に違いはありません。引用符の印が違っていたり、コンマのあるなしなどの違いはありますが。Marsh 版から引用したことに深い意味はありません。たまたまです。また、そこに付けられた註は省いて引用しています。
*17:訳者の清水先生は、'denoting', 'denoting phrase' の訳語として「指示」、「指示句」という言葉を採用されていますが、引用に際しては、現在標準的となっている「表示」、「表示句」に改めて引用させてもらいました。そして他に一個所だけ、訳を修正させてもらったところがあります。どうかお許しください。また、邦訳中で傍点を付されている表現は下線で表わしています。原註、訳註はとも省いて引用しています。なお、''On Denoting'' には、次の邦訳も刊行されています。ラッセル、「表示について」、松阪陽一訳、『言語哲学重要論文集』、松阪陽一編、春秋社、2013年。この邦訳の61-62, 76ページに以下の原文の和訳が載っています。清水先生と松坂先生の訳を併記するとくどくなるので、一つだけ掲載させてもらいました。何卒ご了承ください。
*18:Mind, p. 480, Marsch, pp. 42-43.
*19:Mind, p. 488, Marsh, p. 51.
*22:Thiel, Sense and Reference in Frege's Logic, pp. 123-124, 野本、『フレーゲの言語哲学』、44ページ、M. Beaney ed., The Frege Reader, Blackwell, 1997, p. 67, fn. 31.