目次
注意
このブログでは、何かの研究をしているのではありません。
またこのブログでは、哲学をしているように見えるかもしれませんが、実際には哲学をしているのではありません。
この点、ご銘記の上、以下をお読みいただければと思います。注意終わり
二回ほど前に、Russell と Frege のドイツ語の書簡を読んでみました。Russell が Frege に Russell Paradox の発見を伝えた書簡と、Frege によるその返信の一部です。
今日は、Russell Paradox 発見の一報を受けて Frege が書いた、Grundgesetze の後書きの最初と最後の部分を読んでみましょう。
そしてそこで Frege が Russell Paradox にどんな反応を示しているのか、何を主張しているのか、それを軽く見てみましょう。
その後書きの最初と最後を次から引用します。
・ Gottlob Frege Grundgesetze der Arithmetik I/II, mit Ergänzungen zum Nachdruck von Christian Thiel, Georg Olms, 1998.
そして試訳/私訳を付けます。この後書きの訳は既にちゃんとした邦訳が刊行されているので *1 、ここでは直訳調で訳してみます。直訳のほうが意訳よりもよい、というわけでは必ずしもありません。ドイツ語原文に間近に迫ってみるためです。以下の引用文中における [...] の前が後書きの初めの部分、そのあとが後書きの終わりの部分です。
後書きの初めと終わり 原文・和訳
「よし! これで仕事が一段落した。どうだ、やっぱり算術は論理学じゃないか。研究者の諸君、見てみたまえ。そしてぜひ算術が論理学であることを納得してくれたまえ!」と Frege が口に出しかけた瞬間、Russell からの一報で、「えっ、矛盾? どこ? どこよ? ほんと? ほんとだ! 参ったなこれは (冷汗)」とびっくり仰天し、Frege は腰を抜かした (bestürzt) みたいですが、それでもすぐさま態勢を立て直し、問題点を再検討し、修繕案をまとめ、この後書きに記しました。
後書きの初めと終わりで Frege が最も大事にしていること
技術的な点は別として、この後書きの最初と最後で、Frege が最も大事にしている考えが表に出てきていると思います。それは次の二点だろうと私は感じます。
このうち (A) は、後書きの最初と最後の両方に出てくるので、Frege が最も重視していた事柄だと考えられます。そしてこの (A) を達成するためには (B) がぜひとも必要だと考えていることが、後書きの最初のほうからわかります。
しかし、これら (A), (B) をどのように理解すればよいのでしょうか? これらについて Frege は、ひょっとして以下のような感じのことを考えていたのではないでしょうか? その推測をごくごく簡潔に記してみましょう。推測の内容を裏付ける論証は一切省きます。そして Frege のプログラムの大綱をわかりやすく記した彼の Grundlagen も一部参考にします。
なお、この推測は次の文献に全面的に負っています *7 。
・ Marco Ruffino ''Why Frege Would Not Be a Neo-Fregean?'' in: Mind, vol. 112, no. 445, 2003, 邦訳、マルコ・ルフィーノ、「フレーゲはなぜ新フレーゲ主義者ではなかったか?」、須長一幸訳、岡本賢吾、金子洋之編、『フレーゲ哲学の最新像』、勁草書房、2007年。
その最も大事にしていることの背景
こんな感じでしょうか? う~む、どうなんでしょうね。
まず、1. では「論理学が扱うのは概念だ」と述べられているようですが、これはどうなんでしょう? そう言われればそうかもしれませんが、ずいぶん昔の論理学の話みたいに聞こえます。
だいぶ前の論理学の教科書では、いわゆる記号論理学、形式論理学、数理論理学は扱わず、定言命題がどうした、仮言命題がこうした、Hegel の弁証法論理がどうのこうのと説明している本がよくありましたが、そのような本で「論理学が扱うのは概念だ」と書かれていれば、「ふむふむ、なるほど、そうだろうな」と素直に納得していたでしょう。古い論理学の本では、概念を表わす名辞を「(すべての/或る) 主語+繋辞+述語」の順に、繋辞をはさんで組み合わせることで文を作り、そのような文を並べて三段論法の論証を作るなどなどと説明されているのが普通ですから。しかし現代において「論理学が扱うのは概念だ」と言われても、「?」という感じではないでしょうか *22 。
それに、太郎やポチ、富士山や太陽のような、五官によって経験できる対象と類比的に、「論理的対象」と呼ばれるものが 6. や 9. において取り上げられ、このようなものがあって、このようなものを論ぜねばならないと主張されているようですが、なぜそのような対象とかいうものを持ち出してこなければならないのか、今一つ説得力を感じないところがあります。そのようなものにまったく言及せずに済ますこともできそうな気がするのですが、そうでもないのでしょうか? (Grundlagen の Frege からすれば、数はどうしたって対象でなければならず、どうしたって概念の外延という対象でなければならなかったのでしょうが。)
だいたい、数学的対象とか物理的な対象などという言い方は哲学でも割としますが、論理的対象という言い方はあまりしませんよね。それはたぶん現代では論理学はあらゆる話題に関わる学問として、話題中立的 (topic-neutral) なものと見なされているからだろうと思われます。論理学は、論理的であろうがなかろうが、特定の対象を扱うのではなく、すべての対象を扱うと考えられているからだろうと思われます。だからことさら論理的対象なるものを、哲学でも論理学でも持ち出してこない、というわけなのだろうと感じます。
現代ではむしろ、何をもって論理的対象とするか、という問いよりも、何をもって論理とするか、古典一階述語論理は the Logic か、という問いのほうがまだ切実な感じがします。とはいえ、今では「古典一階述語論理だけが論理で、あとは一切認めん!」と断言する研究者は少ないと思いますが。それでも二階の論理は論理か、という問いなら、もう少し切実な感じはするかもしれません。このあたりが現代と Frege の違いかもしれません。現代では何が論理かを問うことが多く、何が論理的対象かを問うことは少ないのに対し、Frege にとっては前者の問いを問うことは少なく (というか、たぶん全然問うことはなく)、後者の問いを問うことのほうが切実だったようですね。
ここらでもう、おしゃべりはやめましょう。間違ったことを言ってましたらすみません。思い付きをしゃべっただけですので、あまり真に受けないようにお願い致します。
語学的付記
私は、Frege の「後書き」冒頭近くの次のドイツ語を、
以下のように訳しました。
このドイツ語とその訳について、少しだけ語学的なことを述べておきますと、一つ目の、 dass es の es が mein Grundgesetz (V) を指すことはすぐわかります。そして二つ目の、wie es の es ですが、これも同じく mein Grundgesetz (V) を指すものと一瞬思えます。そのように解するとその部分「es eigentlich von einem logischen Gesetze verlangt werden muss」は「基本法則 (V) は本来論理法則に要求されねばならない」と訳され、これは一見正しい訳のようにも見えます。しかし、受動態のこの訳文を能動態に直してみると「基本法則 (V) を本来論理法則に要求せねばならない」となって、明らかに変だということがわかります。ある論理法則 A を、ある論理法則 B に要求する、というのは意味不明です。
このことから、二つ目の es は mein Grundgesetz (V) を指しているのではないとわかります。そこで気を取り直して、この es が前の「einlauchtend ist (明白である)」を指していると解すると筋が通ります。その場合、次のような訳になります。「明白であることが本来論理法則に要求されねばならない」。これを能動態に直すと「明白であることを本来論理法則に要求せねばならない」となって、能動態でも意味のわかる訳になります。
ちなみに、Geach and Black 両先生と Furth 先生の英訳は、今述べたような感じで訳しておられます *23 。それぞれ英訳を提示しておきます。
既存の勁草書房版邦訳は、問題の二つ目の es が一見「基本法則 (V)」のことであるかのように訳されていますが、訳文全体の内容をよく読むと、実質的には私の試訳や、Geach and Black 先生、Furth 先生の英訳と同じことを言っているとわかります。邦訳を引きます。
そして最新の Oxford 版の英訳もありますので、そちらを見ますと次のようになっています。
この文の中の nor 以下をあえて補ってみれば、たぶんこうなると思います。
ここでは nor の直後に「it is」を、must の直前に「it」を加えています。これらどちらの it も the Basic Law (V) を指していると思われます。
その場合、「it must properly be required of a logical law」は、「must properly」を便宜上無視して訳すと「基本法則 (V) が論理法則に要求される」、あるいは「論理法則には基本法則 (V) が必要である」となると思います。というのも、英語の構文「A is required of B」は、受動態のまま訳すと「A が B に要求される」という意味であり、これを能動態に直すと「B は A を必要とする」となるからです。
けれどもこれは何だか変です。「基本法則 (V) が論理法則に要求される」とか「論理法則は基本法則 (V) を必要とする」というのは、意味がよくわからない話です。このような奇妙な結果になるのは、おそらくドイツ語原文二つ目の es, つまり wie es eigentlich の es が mein Grundgesetz (V) を指すものと Oxford 版英訳は考えているからだろうと思われます。
私による以上の Oxford 版英訳の分析が間違っていなければ、この英訳には何だかおかしなところがあるように感じられます。ただ、気分としてはこの英訳も、勁草書房版の邦訳と同じような内容を伝えたいと思っているのかもしれません。私の分析が大筋間違っておらず、かつその場合、英訳を文字どおりに解釈すると奇妙な話になると思うのですが、気持ちとしては基本法則 (V) が他の法則ほど明白でなく、また多少明白なところがあっても、それは論理法則に必要とされるほどには明白ではないと、この英訳も言いたいのかもしれません。
とはいえ、語学力のない私のことですから、Oxford 版の英訳を誤解・誤読しているのかもしれません。それは大いにあり得ます。もしも私が間違っているようでしたら大変すみません。謝ります。ごめんなさい。
PS なお別件として、wie es の wie を 「~のように」、「~ほどに」ではなく、daß 「~であること」と解することも不可能ではないと思いますが、それはちょっと深読みしすぎだろうと思いますし、いささか不自然な気もしますので、そのような解釈は採っておりません。
これで終わります。いろいろと私の訳が間違っていましたらすみません。大変申し訳なく思います。ドイツ語や英語が未熟な私の考えたことですから、間違っている可能性は非常に高いです。何か見落としているのかもしれません。間違っていたらごめんなさい。訳者の先生方にもお詫び申し上げます。どうかお許しください。ドイツ語、英語の勉強に精進致します。
*1:G. フレーゲ、『算術の基本法則』、野本和幸編、フレーゲ著作集 3, 勁草書房、2000年。試訳/私訳を作る際に、大変参考にさせていただき、助かりました。誠にありがとうございます。
*2:Grundgesetze, Band II, S. 253.
*3:Grundgesetze, Band II, S. 265.
*4:この和訳に対するドイツ語原文の簡単な語学的註釈を、本文末尾の「語学的付記」で記しています。
*5:私はラテン語がわかりませんので、ラテン語からのこの和訳は、既刊の邦訳からそのまま拝借させていただきました。ありがとうございます。『基本法則』、403ページ。なお、この和訳に付された訳注3によると (427ページ)、このセリフは Spinoza の Ethica, 第4部、定理57の備考に諺として出てくるそうで、以下の岩波文庫で確認を取ってみました。スピノザ、『エチカ (下) 』、畠中尚志訳、1951年。この本の82ページに問題のセリフが出てきます。こうなっています。「不幸な者にとって不幸な仲間を持ったことが慰安である」。私はこの諺は肯定的な意味を持っているものとばかり思っていました。つまり、不幸に陥った者も、同じ境遇にある者同士、手に手を取り合えば、そのような逆境も乗り越えられる、というような感じの意味を持ったセリフだと思っていたのですが、この備考における Spinoza の説明によれば、この諺は、まったく逆に、否定的な意味を持っているようです。すなわち、不幸に陥った者は、やはり不幸に陥った他人を見て、特に自分よりもっと不幸な他人を見て、安堵したりほくそえんだりするものだ、という内容を持っているようです。ドイツ語で言う Shadenfreude に当たるみたいです。もしも Frege がこの後書きを書いたころでも、多くの場合、このセリフが否定的な意味を持って読まれたとするならば、かなり誤解を招きかねないことだったろうと思われます。もしかしたら Frege は肯定的な意味合いでこのセリフを書いたのかもしれませんが。
*6:「下件」という言葉は、既刊の邦訳から拝借させていただきました。ありがとうございます。『基本法則』、424ページ。
*7:この文献に全面的に負っているということは、この文献の内容が大概間違っているようならば、私の以下の推測も大概間違っている、ということです。
*8:Ruffino, pp. 69-70, ルフィーノ、196-197ページ。固有名の出てこない、一般名だけが出てくる三段論法を思い出してください。たとえば「人間はみな死ぬ。ギリシャ人は人間である。故にギリシャ人はみな死ぬ」。人間である、死ぬ、ギリシャ人である、これらはすべて概念です。論理学は三段論法を扱うものであり、三段論法が概念間の関係を扱っているのなら、論理学は概念間の関係を扱うものだと言えます。
*9:Ruffino, pp. 69-70, and fn. 19 at p. 70, ルフィーノ、196-197ページ、211-212ページ、註19. Frege によると、概念は何か論理的なものとされていますが、その概念は論理学には直接関係していないと思われる概念も論理的なものと見なされているようです。ただ、その概念に何かが当てはまるか否かが明確でありさえすれば、その概念は論理的なものだ、とされているのです。たとえば Frege によると、丸い四角という概念は論理的なものです。なぜならこの概念に何かが当てはまるか否かは完全に明確だからです。実際この概念にはどんなものも当てはまりません。この意味で、丸い四角という概念は明確であり、よって論理的なものだとされるのです。つまりどんな概念でも、それに何かが当てはまるか否かが明確でありさえすれば、それは論理的だということです。
*10:Grundgesetze, Band I, §9, S. 14. この第九節の第一段落冒頭と第二段落冒頭の話では、任意の関数同士について、それらが一般的に同値であるならば、このことはそれらの値域が同一であることへと、捉え返すことができなければならないと言われています (wir können die Allgemeinheit einer Gleichheit in eine Werthverlaufsgleichheit umsetzen und umgekehrt. 「我々は [関数の] 同一性の一般性を値域の同一性へ変換でき、かつその逆も変換可能である」。Die Umwandlung der Allgemeinheit einer Gleichheit in eine Werthverlaufsgleichheit muss auch in unsern Zeichen ausfürbar sein. 「[関数の] 同一性の一般性を値域の同一性へ変換することが、我々の記号でも実行可能でなけれならない」)。これは結局どの概念も、その外延を伴なっていることを述べていることになります。たとえば今、基本法則 (V) を現代風に 'xFx = 'yGy ⇔. ∀z(Fz ⇔ Gz) と表わせば、これを 'xFx = 'yFy ⇔. ∀z(Fz ⇔ Fz) とすることができ、右辺は真なので、その左辺 'xFx = 'yFy が真として帰結し、この等式の一方を存在汎化すれば、∃z(z = 'yFy) となって、これは「任意の関数 (概念) F について、その値域 (外延) となっているもの z が存在する」と読めます。また、Ruffino, p. 70, ルフィーノ、197ページ。ただしもちろん、概念はどれも必ずその外延を伴うということは、少なくとも1902年以前の話です。
*11:Ruffino, pp. 56-57, 70, and fn. 8 at p. 57, ルフィーノ、178-179, 197ページ、205ページ、註8. Frege にとって、概念の外延は、それを伴なっている概念が明確であるならば、何であれ、論理的なものです。つまり概念の外延は、それを伴なっている概念に何かが当てはまるか否かがはっきりしているならば、どんな外延も論理的なものだと言えます。たとえば、その外延を伴なっている概念が「椅子である」のような、直接には論理学に関係のない、いわゆる経験的な概念であっても、その外延は論理的なものです。PS 邦訳、205ページ、註8 では、「しかし彼 [Frege] は諸概念が論理的であることについていかなる制約も課していないように見える」となっているところがありますが、これに対応する原文は (p. 57, fn. 8) 「But it appears that he places no restriction on the logicality of extensions」であり、「諸概念が論理的である」のではなく「諸外延が論理的である」となっていなければなりませんので、この部分を邦訳だけを頼りに読む際は注意が必要です。
*12:Ruffino, pp. 56-57, 70, and fn. 8 at p. 57, ルフィーノ、178-179, 197ページ、205ページ、註8. および Grundgesetze, Band I, §§2-3. Grundlagen, §68 で、数は概念の外延の一種として定義されています。その際、「概念の外延」という表現には定冠詞が付けられています。つまり「der Umfang des Begriffes」のようにです。定冠詞の付いている表現は、Frege によると、対象を指します。Grundlagen, §§57, 66, Anm. 1. したがって、概念の外延は対象です。
*13:Ruffino, pp. 56-57, 70, and fn. 8 at p. 57, ルフィーノ、178-179, 197ページ、205ページ、註8. 再度確認すれば、Frege にとって、概念の外延は、いずれも論理的な対象です。「椅子である」のような経験的な概念の外延も、論理的対象です。
*14:Grundgesetze, Band I, §2, Grundlagen, §57.
*15:Grundlagen, §68, Grundgesetze, Band I, §9.
*16:Grundlagen, §68, Grundgesetze, Band I, §9.
*19:今回の「後書き」冒頭部。
*20:今回の「後書き」冒頭部。
*22:Frege の主著の一つである論理学書『概念記法 (Begriffsschrift)』が「概念 (Begriff)」という言葉を含んでいるのは、「論理学の本なのだから当然概念が話の中心になる」と Frege が思っていたということも、ひょっとしてあったかもしれませんね。
*23:M. Beaney ed., The Frege Reader, Blackwell, 1997 にも、本日引用している後書きの英訳が収められていますが、それは以下の Geach and Black 訳の転載ですので、ここからの引用は控えます。ちなみに The Frege Reader の pp. 279-280 です。
*24:G. Frege, Translations from the Philosophical Writings of Gottlob Frege, ed. by P. Geach and M. Black, 2nd ed., Basil Blackwell, 1960, p. 234.
*25:G. Frege, The Basic Law of Arithmetic, tr. and ed. by M. Furth, University of California Press, 1964/1967, p. 127.
*26:『基本法則』、403ページ。ここで引用した既刊邦訳原文には、ひらがなに関し、明らかな誤字が含まれていましたが、こちらのほうで訂正して引用しました。
*27:G. Frege, Basic Laws of Arithmetic, tr. and ed. by P. Ebert and M. Rossberg, Oxford University Press, 2013, p. 253.