Is the Number One a Number?

目次

 

私はこのブログで時事的な話題には、基本的に触れないようにしているのですが、今回は少しだけ最初に触れたいと思います。

現在、新型コロナウイルスの感染が再び急速に拡大しています。

このため、心や体に負担がかかり、きつい思いをされている方も増えていると思います。

私は感染しておりませんが、自分自身、危機感を覚えます。

つらい思いをされている方がおられましたら、無理をせずに可能な限り休息を取ってください。

私は急がなければならない案件を抱えているのですが、その一方で、あわてて不安を募らせ、混乱に陥るといけませんので、ペースを落とさなければならないとも感じています。

このバランスが難しいのですが、つらい方は、最低限やらなければならないことをやりつつも、どうか休み休み進んでください。

今日の以下の話は、ごく簡単な、のんびりしたものです。これを大変な思いをされている方に読んでいただき、少しの間だけでもリラックスしてもらえればいいなと思っています。

 

はじめに

今日は備忘録のような形で、つい最近まで私が知らなかったことを記します。

ただし、その知らなかったこととは私が知らなかっただけで、専門家の方は皆さん知っておられたことだと思います。ですので、珍しい話、目新しい話ではありません。

とはいえ、私は知りませんでしたし、知ってちょっと驚きましたので、興味を感じました。

これを今読まれている方のなかにも、もしかするとその話をご存じではない方がおられるかもしれません。

ひょっとするとそのような方には興味を覚えていただける話かもしれません。

その話とは、数にまつわる話です。

私はドイツの Gottlob Frege という論理学者、数学者、哲学者の考えていたことをとおして、論理に関する哲学的な問題を少しばかり掘り下げてみたい思っています。

その Frege は、たとえば『算術の基礎 (Die Grundlagen der Arithmetik)』という本の中で、数とは何かという問題に取り組んでいます。

そのため、私もちょっと数について関心があります。

というようなわけで、数にまつわる話に関し、ある書物を開いてみたら、「あれっ、そうなんだ」というようなことが書かれていましたので、ここでその話を記してみましょう。

 

問題

ところで問題です。

   数 1 は数でしょうか?

もちろん「数 1」と言っている限りは 1 は数だと思います。

ではもう一度問います。

   1 は数でしょうか?

数だと思いますけれど。数でないはずはないと思います。

ならば、最後にもう一回だけ問います。

   1 は、古代ギリシャ、中世ヨーロッパにおいて、数でしたでしょうか?

えっ、数じゃなかったのかな? 数でしょ。0 が数であるとかないとかいう話はよく聞きますけれど、1 はもとから数だと思いますが ... 。

 

と、このように私は感じたのですが、1 は古代ギリシャ、中世ヨーロッパでは数とは見なされていなかったらしいです。これは私は知りませんでした。ちょっとびっくりしました。

 

「1 は数ではない」

最近、次の文献を拝読させていただきました。

・ 三浦伸夫  「「1 は数ではない」」、日本数学史学会編、『数学史事典』、丸善出版、2020年、110-111ページ *1

加えて、この文献の末尾で、参考文献として上げられている以下の文章も拝見させてもらいました。

・ 三浦伸夫  「シェイクスピアと数学」、連載 歴史から見る数学 数学史から見る歴史 第21回、『現代数学』、2017年1月号、72-77ページ。

三浦先生によると、古代ギリシャ、中世ヨーロッパにおいて、1 は数ではなかったそうです。当時はこれが常識だったみたいです。詳しく言えば、実際の生活では 1 は数として扱われていたのですが、学問上は 1 は数ではなかったそうなのです。

これは私は知りませんでした。0 や負数、虚数が数であるとかないとか、議論を呼んでいたことは私も聞いておりましたが、1 が当時、数でないことで意見が一致していたとは知りませんでした。ちょっと意外です。

 

Aristotle

三浦先生は、古代ギリシャで 1 が数とは考えられていなかったことがわかる文献として、アリストテレス、『形而上学』、1088a, 6 を上げておられます。

そこで、その 1088a, 6 前後を引用してみましょう。次から引きます。

・ アリストテレス、『形而上学 (下)』、出隆訳、岩波文庫岩波書店、1961年、第十四巻、第一章、1087b34 - 1088a5.

 しかし、(1) 一が尺度を意味することは、明白である。そして、いかなる事物の場合にもそれぞれ異なる或る特定のものがその基に置かれている, たとえば音階には四分音程が、大きさには指または足 〔脚尺〕 またはそのようななにものかが、韻律 (リトモス) には拍子または音節が、同様にまた重さには或る規定された重りが, そして、あらゆる場合に、この同じ仕方で、すなわち性質の場合には或る一定の性質が、量の場合には或る一定の量が (そしてその尺度は、性質の場合にはその種において不可分割的であり、量の場合には感覚に対して不可分割的である)、そしてこのことは、一がそれ自体ではいかなる事物の実体でもないということを指し示している。そしてこれには正当な理由がある, というのは、一は或る多さを測る尺度 〔単位〕 を意味し、数は 〔この尺度で〕 測られた多さ、またはその尺度ども 〔単位ども〕 の多さ (16) を意味するからである (この理由からしても、一が数でないということは当然である, なぜなら、尺度は尺度どもではなく、かえって尺度も一も原理 〔測る出発点〕 なのだから)。尺度は常にこれで測られるあらゆる事物に当てがわれうる或る自己同一的なものでなくてはならない, たとえば、そうした事物が馬どもであるなら、その尺度は「馬」であり、人間どもであるなら「人間」である。そして、もしそうした事物が人間と馬と神とであるなら、これらの尺度はおそらく「生きもの」であろう、そしてこれらの数はこれらの生きものども 〔の多さ、すなわち三〕 であろう。しかし、そうした事物が人間と白いものと歩行者とであるような場合には、これらすべてが数的に一つであるところの同一のものに属するがゆえにこれらにはほとんど全く数は存しない、あるいは、存するとしても、これらの数はこれらの類どもの数またはそのような 〔他の呼称をもつ〕 なにものかの数であろう。*2

(16) 測られるもの (たとえば六尺の人の身長) にそれを測る一定の尺度 (たとえば一尺の物指し) を幾回 (頭から足までに) あてがっていったかのその回数 (このたとえでは六回)。*3

引用文中の「(1)」、「〔...〕」 は訳者の出先生の挿入、「(リトモス)」は、「韻律」に振られていたルビ「リトモス」を、引用者が丸括弧でくくって本文内に移したもの、「(そしてその尺度は ~ 不可分割的である)」、「(この理由からしても ~ なのだから)」の丸括弧は、文意を明瞭にするためにくくられているだけで、丸括弧内の文言は訳者、引用者が任意に加えたものではありません。そして「(16)」は訳者出先生による訳者注です。ここでは (16) 以外にも訳注が付されているのですが、それらは今回の話とは直接関係しないイデア論に関する事項註か、別の箇所へと参照を促す参照先を記した注なので、それらは省いています。最後に、出先生の邦訳『形而上学』では、黒塗りの普通の読点「、」の他に、その読点を白抜きにした白点という特殊な読点も使われています。これについてはコンマ「, 」で代用しました。

 

また、訳者の出先生は別の箇所に付された訳注で、以下のように述べておられます。

 一は、アリストテレスによると、数ではなくて、諸〻の数がそれから始まりそれで測られ (数えられ) るところの数の出発点とし尺度 (単位) としての原理である。[...] *4

[...] 要するに「数」すなわち 'arithmos' というのは、今日の我々のいう数の概念とはちがって、アリストテレスにかぎらず一般にギリシャ人が 'arithmos' というときに考えているところのものは、幾つかの単位の集合であり、単位または一がどれだけ多くあるか、幾つあるか、を表わすもの、たとえば五という数、または百という数は、それぞれ、単位が五つだけある、または単位百個を含んでいる、ということを表わすものである。そして、数をどれだけかの (幾つかの) 多さと考えるので、一は数ではないと考えられ、とくにアリストテレスでは、一は諸〻の数 (単位の多さ) を測る尺度・単位であり、数の原理・出発点であって、それ自らは数ではなく、第一の (最初の) 数は二であると解されている。[...] *5

ここまでの Aristotle の話は、大体のところ、その言わんとしていることはわかると思います。

数とは一よりも多いもののことだ、ということです。

また、たとえば砂糖がスプーン何杯分あるかを知りたくて、砂糖の量を計る時、計るものとしてのスプーンと計られるものとしての砂糖とは別物であり、両者を混同することもなければ、混同すべきでもないように、数を計る単位としての一は、計られる数とは別物であり、混同すべきではない、ということなのだろうと思います。

 

Euclid

三浦先生はさらに、古代ギリシャにおいて、1 が数とは見られていなかった根拠として、『原論』、7巻冒頭を上げておられます。

そこで、その冒頭部分を引用してみましょう。次から引きます。

・ 『ユークリッド原論 [追補版]』、中村幸四郎他訳解説、共立出版、2011年、149ページ。

第7巻

定義

1. 単位とは存在するもののおのおのがそれによって 1 とよばれるものである。

2. 数とは単位から成る多である。

 

次も見てみましょう。

・ 『エウクレイデス全集 第2巻 原論 VII-X』、斎藤憲訳・解説、東京大学出版会、2015年。

定 義

1. 単位とは存在するものの各々がそれによって「一」と言われるものである。

2. また数とは単位を合わせた多である。*6

 

この定義について、訳者の斎藤先生は次のような解説を付けておられます。(先生による脚注は省いて引きます。「[...]」は引用者によるものです。)

2.1 定義と基本概念

2.1.1 単位と数

 『原論』の整数論諸巻 [arithmetical books] において「数」は「単位を合わせた多」 (VII. 定義 2) と定義される。この定義は、これに先行する「単位」の定義 (VII. 定義 1) [...] とともに、古代から多くの哲学的思索と注釈の対象となってきた。しかしこれらの定義は数学的には何ら具体的な議論や探求の方法を示唆するわけでなく、この定義が後の議論に及ぼす効果は、要するに我々が「自然数」と呼ぶものを議論の対象とすることを読者に了解させること、1 は「単位」と呼ばれ、「数」という呼び名は 2 以上の自然数のみを指すことの 2 点に尽きるであろう。

 なお、1 (単位) を「数」に含めないことは、実際の証明の議論の場面では必要以上に煩雑な場合分けの原因となることもあれば (しかし、証明の中で「単位」と「数」との区別が厳密に守られていない箇所もないわけではない)、逆に「数」というだけで数 1 を除外することができて便利な場合もあるので、この術語が、数学的には不便であるにもかかわらず哲学的要請によって使われていると断定するわけにはいかない。*7

一言注記しておくと、斎藤先生は、Euclid が一を「数」と呼ばず「単位」と呼んでいるという形式的区別に人々がこだわるあまり、一や単位の在り方について哲学的思索をたくましくする傾向が従来からあるが、それよりも、実際の証明の中で一がどのように扱われているのかを分析することは手薄だったので、この後者のほうの分析を重視したい、という趣旨のことを述べておられます *8 。そうですね、哲学的分析と数学的分析のバランスを取ることが大事でしょうね。

 

『原論』の和訳を見てみたので、今度は英語ではどうなっているのか、念のために見てみましょう。次の文献が手元にありますので、それを開いてみます。

・ Ian Mueller  Philosophy of Mathematics and Deductive Structure in Euclid's Elements, Dover Pub., 2006, (MIT Press, 1981).

(Book) VII

(Definitions)

(1) A unit is that with respect to which each existing thing is called one [...].

(2) A number is a multitude composed of units [...]. *9

 

また、Mueller 先生のご高著の本文では、次のような文言が見られます。

Euclid's only arithmeitc first principles are the 23 definitions at the beginning of book VII. The first of these defines the unit in a mathematically useless way; the second defines a number as a ''multitude composed of unitis'' [...]. An obvious consequence of these two definitions is that a unit is not a number. Nor is there for Euclid such a thing as a multitude composed of a single unit. [...] *10

In Greek arithmetic there are indefinitely many units and indefinitely many ways of combining them into multitudes. Clearly then, there is no unique 2 or 3; any pair of units is a 2, for example. [...] *11

ギリシャ人にとって単元クラス (unit class) なんてものはないんですね。

それにギリシャ人にとっては複数個の 2 があったんですね。これは Frege の見解とは違いますね。Frege にとっては、2 なら 2 は、一つしかないものでしたから (Grundlagen)。一方、Bertrand Russell なら、複数個の 2 はあり得るでしょうね (the theory of type)。ギリシャ人の数に対する見方と、Russell の数に対する見方には、何か通じるところがあるのかもしれません。もちろん、違いもいろいろあるでしょうが。

 

少しだけ Stevin

さて、三浦先生によると、以上のように古代ギリシャ、そして中世ヨーロッパでは 1 が数としては捉えられていなかったということです。これに対し、16世紀オランダの数学者シモン・ステヴィン (Simon Stevin, 1548 - ca.1620) が、1585年のフランス語の本『算術』で、ヨーロッパで初めて単位、すなわち 1 は、理論上、数であると主張したそうです。ただし、すぐにはこの見解は定着しなかったようです。

 

Moxon

実際に、イギリスのジョセフ・モクソン (Joseph Moxon, 1627-1691) という数学者が Stevin のあと、約100年後に英語では初の数学用語辞典 (1679年刊) を著わしていて、このなかで Moxon は 1 が数だとは、まだはっきりとは認めておらず、しかしだからと言って 1 が数でないとも断言していなかったとの三浦先生の話です。

そこで、ちょっと私のほうで調べてみると、Moxon による英語初の数学用語辞典のタイトルは

Mathematicks made easy, or, A mathematical dictionary explaining the terms of art and difficult phrases used in arithmetick, geometry, astronomy, astrology, and other mathematical sciences [...] *12

というようで、この辞典の項目 'Number' のなかで 1 について記述されています。

この本はインターネット上の次のホームページで、誰でも無料で読めるようになっています。

   Early English Books Online-TCP

これは the University of Michigan Library などなどによって始められた、古い英語文献の全文テキスト・コーパスです。

Moxon の数学用語辞典のURL は以下のとおりです。

   https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A51541.0001.001/1:5?rgn=div1;view=fulltext

項目 'Number' は、そんなに長い記述ではないので、すべて引用してみましょう。改行か何かを表わす縦棒「∣ 」が本文にいくつか含まれているのですが、それは省いて引用します。そして三浦先生が上げておられる和訳を付けてみましょう *13

Number,

Is commonly defined to be, A Collection of Units, or Multitude composed of Units; so that One cannot be properly termed a Number, but the begining of Number: Yet I confess this (though generally received) to some seems questionable, for against it thus one might argue: A Part is of the same matter of which is its Whole; An Unit is part of a multitude of Units; Therefore an Unit is of the same matter with a multitude of Units: But the matter and substance of Units is Number; Therefore the matter of an Unit is Number. Or thus, A Number being given, If from the same we substract o, (no Number) the Number given doth remain: Let 3 be the Number given, and from the same be taken 1, or an Unit, (which, as these will say, is no Number) then the Number given doth remain, that is to say, 3, which to say, is absurd. But this by the by, and with submission to better Judgments. *14

数は単位の集まり、単位から構成された多であると普通は定義されている。したがって一は厳密には数とは言えず、数の始まりなのである。とはいうものの、このことは (一般的に認められてはいるが) 疑問であると考える者がいることも私は認める。部分は全体と同一物質からなる。単位は複数の単位の一部である。したがって単位は複数の単位と同一物質から成立する。しかし諸単位の物質や中身は数である。あるいはこうして数が与えられ、同じものから o (数ではない) *15 を引くと、与えられた数が残る。与えられた数を 3 とし、そこから 1 つまり単位 (これは言われているように数ではない) が取られるとしよう。すると与えられた数、すなわち 3 が残ることになるが、これは矛盾する。しかしこのことはやがてよりよい判断に至るであろう。*16

この引用文では、全体が部分から成るのであれば、全体を成しているものは部分も成しているはずなので、数という全体が 1 という部分から成るのであれば、全体の部分である 1 もまた数であると言えるという意見、および、1 が数でないならば、3 から 0 を引いても 1 を引いても同じく 3 のままというのは不合理だとする意見に言及されています。

 

Moxonian Pseudo-Paradox

ここで、3 から 0 や 1 を引くと不合理な帰結を得るという例を、3 に 0 や 1 を足す例で少し詳しく説明してみましょう。

まず前提として、(1) 計算をする時、数に足されるのは数であることを確認しましょう。たとえば 3 に何かを足して計算する時、足されるのは数です。たとえば 5 や 18 などの数を 3 に足します。数でないものを足したりはしません。太郎や新幹線を 3 に足したりはしません。そういうことを無理矢理しようとしても、3 は 3 のままでしょう。

もう一つ前提として、(2) 1 は数でないとします。それは数ではないものです。

 

さて、

   3 + 0 = 3

です。また、

   3 + 1 = 3

です。なぜなら、前提の (2) により、1 は数ではありませんし、前提の (1) により、3 に数ではないものを足しても 3 のままだからです。すると、

   3 + 0 = 3 + 1

です。この両辺からそれぞれ 3 を引くと、

   0 = 1

です。これは不合理です。

よって、前提の (1) か (2) のどちらかが間違っています。(1) ではないでしょうね。(2) が間違いなはずです。故に (2) は否定されねばならず、したがって 1 は数ではない、ということはなく、1 は数です。以上です。

この論証は簡単で、しかもなかなか面白いですね。

なお、このセクションの名称 'Moxonian Pseudo-Paradox' は、私が勝手に作ったものです。あしからず。

 

本日はこれで終わります。数をどう捉えるかは時代によって異なっていたんですね。

今日書き留めたことで、誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字などがありましたらすみません。気を付けます。どうかお許しください。

 

*1:念のために記しておきますと、「「1 は数ではない」」は「1 は数ではない」の間違いではありません。三浦先生の執筆された項目には鉤括弧が元から付いているのです。そのためその項目名を引用したため、二重の鉤括弧になっているというわけです。

*2:形而上学 (下)』、223-234ページ。

*3:形而上学 (下)』、345ページ。

*4:形而上学 (下)』、266ページ、訳注 (10)。

*5:形而上学 (下)』、267ページ、訳注 (16)。

*6:『エウクレイデス全集 第2巻』、第VII巻、128ページ。

*7:『エウクレイデス全集 第2巻』、第2章 数論諸巻解説、14-15ページ。

*8:『エウクレイデス全集 第2巻』、第2章 数論諸巻解説、14ページ。

*9:Mueller, p. 337. この英訳は Mueller 先生の手になるものです。「(...)」は英語原文にある括弧です。「[...]」の部分にはギリシャ語をラテン文字で転写した言葉が書かれているのですが、それは省きました。

*10:Mueller, p. 58.

*11:Mueller, p. 59.

*12:タイトルはもっともっと長いです。ものすごく長いので省略しました。この頃のイギリスの本の題名って、ひどく長かったですよね。『ロビンソン・クルーソー (Robinson Crusoe)』も、本当のタイトルはすごく長かったと思います。

*13:ただし、和訳の際に三浦先生が底本とされた文献は、今 URL を記した文献そのものではないかもしれません。インターネットに上がっている文献とは違って、ハードコピーに基付いて翻訳されている可能性があります。以下に上げる英文とまったく同じ英文を見て先生が和訳されているのかどうか不明ですので、この点ご注意ください。

*14:Mathematicks made easy, ..., p. 97.

*15:引用者註: 今、算用数字の「0」ではなくアルファベットの「o」を記しましたが、これは間違いではありません。三浦先生によると、17世紀頃までは数字の 0 の代わりにアルファベットの o が使われていたとのことです。三浦、「シェイクスピアと数学」、75ページ。

*16:三浦、「シェイクスピアと数学」、74ページ。