Wittgenstein on Heidegger

目次

 

お知らせ

今まで毎月一回、だいたい月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

私の身辺が流動的になってきており、このまま定期的に更新できるか不明です。

もしかすると従来どおりあまり変わらないペースで更新できるかもしれませんし、ひょっとすると長期的に更新が止まるかもしれません。

いずれにせよ、できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。

とにかく状況が流動的であることをお伝え致します。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

新型コロナウイルス蔓延のため、先日再び緊急事態宣言が出されました。

私自身もそうですが、きつい思いをされている方も多いと思います。

どうか無理をなさらないでください。希望がないと感じられることがあると思います。私もそう感じることがあります。

しかし「すべての望みは絶たれた」と思ってしまうと、あとには引き返せません。もう戻ってはこれません。

そうならないためにも希望のかけらをたぐり寄せるよう努めてみてください。私もそうします。

 

はじめに

本日は Ludwig Wittgenstein が Martin Heidegger に言及した有名な一節をドイツ語原文で読んでみます。それは次に出てくる文章です。

・ Friedrich Waismann  Wittgenstein und der Wiener Kreis, hg., B. F. McGuinness, Basil Blackwell, 1967,
・ 邦訳、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』、黒崎宏、杖下隆英訳、ウィトゲンシュタイン全集 第5巻、大修館書店、1976年。

この邦訳書には「ウィトゲンシュタインウィーン学団」と「倫理学講話」という二つの資料が収録されており、前者の訳者は黒崎先生、後者の訳者は杖下先生です。

 

以下に掲げるドイツ語の文章はウィーン学団の一員であった Waismann が学団創立者の Moritz Schlick とともに、Wittgenstein と交わした会話を Waismann が書き留めたものです。それは速記法で記録されており *1ラテン文字に起こして出版されました。

まず最初に原文を引用します。次に、私と同様、ドイツ語の修業をしている方のために、文法事項の説明を行ないます。それから私訳/試訳を掲げます。そして黒崎先生の邦訳を引用します。そのあと私自身による拙い感想を述べ、最後に付録として Waismann の略歴を記しておきます。

その拙い感想は、Wittgenstein の文に対するもので、Heidegger の哲学については触れません。私は Heidegger の哲学をまったく知りませんので。それに Wittgenstein の哲学もよく知りませんので、Wittgenstein の文に対して深い内容の感想を記すということもできません。どうかご承知おきください。

また、言うまでもありませんが、私はドイツ語の先生ではありませんし、ドイツ語も得意ではありませんので、文法事項の説明に間違いが絶対に含まれていない、とは断言致しません。私訳に誤訳がないとは言い切れません。誤りがないように見直しましたが、ひょっとしたら間違いが入っているかもしれません。私は時に、ドイツ語に関し、誤解や勘違いをしたり、無理解を示すことがありますので。いずれにせよ、誤りがありましたら大変すみません。勉強し直します。ごめんなさい。

私訳は直訳調で訳しています。どのようにしてドイツ語から日本語に訳し移されているのか、ドイツ語を修業されている方がよくわかるようにするためです。また、既に黒崎先生のちゃんとした邦訳が出版されているので、この既訳との違いを付けるためでもあります。

私訳の訳出に当たっては、まず黒崎先生の訳を見ずに訳しました。それから先生の訳を見て、答え合わせをしました。その結果、原文終わり辺りにある 'Aber die Tendenz' の 'Aber' を私は訳し落としているのに気が付き、それを追加して訂正しました。黒崎先生の訳に助けられました。誠にありがとうございます。それ以外は私訳に修正は加えていません。

当たり前ですが、私訳はドイツ語原文に対する唯一の正解である、というのではありません。もしもドイツ語を修業中の方がいらっしゃれば、自分なりの訳文を作ってみてください。勉強になると思います。

 

原文

Montag, 30. Dezember 1929 (bei Schlick)

ZU HEIDEGGER

Ich kann mir wohl denken, was Heidegger mit Sein und Angst meint.17 Der Mensch hat den Trieb, gegen die Grenzen der Sprache anzurennen. Denken Sie z. B. an das Erstaunen, daß etwas existiert. Das Erstaunen kann nicht in Form einer Frage ausgedrückt werden, und es gibt auch gar keine Antwort. Alles, was wir sagen mögen, kann a priori nur Unsinn sein. Trotzdem rennen wir gegen die Grenze der Sprache an. [I] Dieses Anrennen hat auch Kierkegaard gesehen und es sogar ganz ähnlich (als Anrennen gegen das Paradoxon) bezeichnet.18 Dieses Anrennen gegen die Grenze der Sprache ist die Ethik. Ich halte es für sicher wichtig, daß man all dem Geschwätz über Ethik ― ob es eine Erkenntnis gebe, ob es Werte gebe, ob sich das Gute definieren lasse etc. ― ein Ende macht. In der Ethik macht man immer den Versuch, etwas zu sagen, was das Wesen der Sache nicht betrifft und nie betreffen kann. Es ist a priori gewiß: Was immer man für eine Definition zum Guten geben mag ― es ist immer nur ein Mißverständnis, das Eigentliche, was man in Wirklichkeit meint, entspreche sich im Ausdruck (Moore).19 Aber die Tendenz, das Anrennen, deutet auf etwas hin. Das hat schon der heilige Augustin gewußt, wenn er sagt20: Was, du Mistviech, du willst keinen Unsinn reden? Rede nur einen Unsinn, es macht nichts!

[I] Das Mystiche ist das Gefühl der Welt als begrenztes Ganzes17a. »Mir kann nichts geschehen«, d. h.: Was immer geschehen kann, es ist für mich ohne Bedeutung17b.

17 M. Heidegger, »Sein und Zeit« in Jahrbuch für Philosophie und phänomenologische Forschung, VIII, 1927, S. 186-187 »Das Wovor der Angst ist das In-der-Welt-Sein als solches. Wie unterscheidet sich phänomenal das, wovor die Angst sich ängstigt, von dem, wovor die Furcht sich fürchtet? Das Wovor der Angst ist kein innerweltliches Seiendes. ... Das Wovor der Angst ist die Welt als solche

17a Vgl. TLP [Tractatus Logico-Philosophicus] 6,45.

17b Vgl. LE [''Lecture on Ethics''], S. 8.

18 Vgl. z. B. S. Kierkegaard, Philosophische Brocken, Kap. III (Werke Bd. VI, Jena, 1925, S. 36 u. 41): »Was ist nun aber dieses Unbekannte, gegen das der Verstand in seiner paradoxen Leidenschaft anstößt ...? Es ist das Unbekannte. ... Es ist die Grenze, zu der man beständig kommt.«

19 Die Kurzschrift in diesem Satz ist besonders schwer zu lesen, obwohl der allgemeine Sinn nicht in Zweifel steht. Ein Wort (»reinen« »int〈rinsischen〉«?) ist vollständig unleserlich bevor »Guten«. »das Eigentliche« kann natürlich »daß eigentlich« sein. Der Hinweis bezieht sich zweifellos auf Moores Diskussion über die Undefinierbarkeit der Güte in den Principia Ethica, Cambridge, 1903, §§ 5-14.

20 Weismann fügte das Zitat scheinbar später hinzu. Ich konnte keine solche Stelle in St. Augustinus finden. Es erinnert ein wenig an Confess. I. iv »et vae tacentibus de te, quoniam loquaces muti sunt.« (Für diesen Hinweis danke ich P. R. L. Brown).

 

文法事項

(以下の文法事項を記述しているなかで、ところどころ文法書に言及していることがありますが、網羅的に言及しようとしたものではありません。)

 

bei Schlick: bei は「~のもとで」が転じて、時に比喩的に「~に対して」と訳されることがありますが、今の場合は通常の「~のもとで、~のところで」の意味。というのも、ここに記録されている Wittgenstein との会話は、実際に Schlick の家 (Haus) で行われたものなので。Wittgenstein und der Wiener Kreis, S. 19, 邦訳、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』、「編集者のまえがき」、24ページ。

ZU HEIDEGGER: zu は原義の「~に対して」が「~について」に転じたもの。

mir, was ... denken: sich3 + 4格 denken, 「4格を思い浮かべる、想像する」。sich3 はいわゆる関心の3格で、ことさら訳出するには及びません。関口存男藤田学、『関口新ドイツ語大講座 中巻』、三修社、1978年、114ページ参照。

gegen + 4格 anrennen: 「4格に向かって突進する」。

anzurennen: zu 不定詞の形容詞的用法。名詞 Trieb にかかっています。

Denken Sie ... : 不定詞 + 2人称敬称の Sie ... で命令形。または接続法第1式 + Sie ... で要求を表わします。どちらの場合も Deneken のように動詞の語尾が -en となって同形になります。

an + 4格 denken: 「4格を思う、考える」。

das Erstaunen, daß ... : daß は das Erstaunen と同格で、Erstaunen の内容を説明しています。

in Form einer: in Form 2格、または in Form von 3格で、「~の形で、~の形を取って」。

und es: この und は前文からの帰結を示しています。「それで、だから」。

es gibt: es gibt + 4格で「4格がある、存在する」。

Alles, was ... : was は Alles を先行詞とする関係代名詞。この was 文が Alles の内容を説明しています。または mögen を伴っているこの was 文は、その mögen が認容を表わす認容文とも解されます。邦訳者黒崎先生は後者と解しておられます。一方、奥雅博、「「ウィトゲンシュタインハイデッガー」論序説」、『ウィトゲンシュタインの夢』、勁草書房、1982年、208-209ページには、今回の Wittgenstein による Heidegger 評の、奥先生による邦訳が一部掲載されていてそれを見ると、奥先生は問題の was 文を認容文ではなく、Alles を先行詞とする関係文として解釈しておられます。

Dieses Anrennen ... Kierkegaard: Dieses Anrennen は中性1格でも4格でもあり得ますが、ここの文の内容から言って Dieses Anrennen は4格で、Kierkegaard が1格の主語。

es ... als ... bezeichnet: 4格 als ... bezeichnen. 「4格を ... と呼ぶ」。4格の es は Dieses Anrennen を指します。

Ich halte ... für ... : 4格 für ... halten, 「4格を ... と思う」。

es ..., daß: es は daß 文を指します。

all dem Geschwätz: all は冠詞の前では、dieser 型の変化か、無語尾か、無意味な -e を付けるかの、3パターンのいずれかを取ります。ここでは無語尾パターン。

― ... ―: この横棒は Gedankenstrich と呼ばれ、挿入句を作ります。ここでは Geschwätz の具体例を列挙するために使われています。

ob ... ob ... ob ... : ob A, ob B, ob C, とあれば「A であれ、B であれ、C であれ」の意味のこともありますが、ここでは普通に「A かどうか、B かどうか、C かどうか」の意味。

es ... gebe, es ... gebe,: ここは間接文なので geben が接続法第1式の gebe になっています。

sich das Gute definieren lasse: das Gute は中性1格または4格ですが、ここでは1格で主語。sich4 + 他動詞 + lassen で「~されうる、~できる」。少しだけ詳しく言うと、sich4 と他動詞 definieren の間には、次の関係が隠されています。つまり、sich4 = das Gute で、das Gute ist definiert 「善は定義される」と受身になっています。そしてこれに (すべての場合ではないものの) 多くの場合、可能性を加味して「善は定義されうる」と訳すとよいです。また lassen がここで lasse と接続法第1式になっているのは、この文が間接文だから。

all dem Geschwätz ... ein Ende macht: 3格 + ein Ende machen, 「3格を終わらせる」。

etwas zu sagen: 名詞 Versuch にかかる zu 不定詞の形容詞的用法。

etwas ..., was das Wesen ... betrifft: was は関係代名詞1格。先行詞は etwas で、das Wesen が4格。

betreffen kann: kann に対する1格は was das Wesen ... の was で、betreffen に対する4格は、その das Wesen ... 。

Es ist ... : Was ... : Es は Was 以下を指します。

Was immer ... mag: 認容文。mag は認容を表わす mögen で、immer はことさら訳出する必要はありません。この種の認容文の詳細は、関口存男、『接続法の詳細』、三修社、2000年、209ページ以下、「『無關心』なる容認及び疑問從屬文を伴う構造」参照。

es ist ..., das Eigentliche,: es は das Eigentliche, 以下を指します。

das Eigentliche, was man ... : was は関係代名詞で、先行詞は中性名詞化した元形容詞の das Eigentliche. was は形の上から1格または4格ですが、直後の man は必ず1格なので、この was は1格ではなく4格。

entspreche sich im Ausdruck: entspreche の主語は das Eigentliche. ここの文は間接文なので、直説法の entspricht ではなく接続法第1式の entspreche になっています。sich は3格で、im Ausdruck の in は、ある形を取ったり、衣服を着たりする際の in.

Das ... der heilige Augustin: Das は1格でも4格でもあり得ますが、der heilige Augustin の方は明らかに1格なので、Das は1格ではなく4格。

Was,: この was は warum のこと。

Mistviech: Mistvieh に同じ。Mist (糞尿) + Vieh (けだもの、野郎) = 下劣なやつ。

willst: 傾向を表わす wollen. 否定文で「どうしても~しようとしない」。

es macht nichts!: 成句 Das macht nichts! 「気にしないでください、大したことありません」に類似した表現。

Das Mystiche ist das Gefühl der Welt ... : これを私訳では「神秘的なのは、世界を ... 感じることである」と訳しました。一方黒崎先生は「... 世界に対する感情は、神秘的なるものである」と訳されています。これら二つの訳では主述が逆転しています。文法上、どちらでも間違いではありません。ただ、ここのドイツ語原文には『論理哲学論考』の6.45を参照するよう指示が与えられており、6.45にはここのドイツ語原文とよく似た文が書かれていて、しかもその文は das Gefühl を主語とし、das Mystiche (das mystiche) を述語としています (Das Gefühl der Welt als begrenztes Ganzes ist das mystische. Tractatus, Ogden 版、Routledge, 1922/1981, p. 186. 試訳: 世界を限界のある全体として感じることは神秘的なことである)。黒崎先生はこの6.45を考慮して、訳出されたのだと思われます。特に考慮しなければ私訳のような訳になります。

das Gefühl der Welt: der はいわゆる目的語的2格。Gefühl に対し、Welt が目的格になっています。「世界を感じること」。

das Gefühl der Welt als begrenztes Ganzes: der Welt は、前の das Gefühl にかかっている2格の名詞句。そのため als begrenztes Ganzes の begrenztes Ganzes も同格の2格になっています。begrenztes Ganzes の Ganzes は形容詞 ganz が中性名詞化したもの。そしてそれに形容詞 begrenzt が付加されています。このように、中性名詞化形容詞に付加語的形容詞が付いて修飾している場合、両者の語尾変化は同一となります。実際、als begrenztes Ganzes における begrenzt- の前に冠詞類はないので、begrenzt- は強変化し、2格の語尾を取って begrenztes となり、修飾されている中性名詞化形容詞も同一の語尾変化となるのだから、形容詞 ganz- も Ganzes のように強変化2格語尾となります。別の言葉で言うならば、複数個ある形容詞が一つの名詞を (前方から) 修飾している場合、それら形容詞は同一の語尾変化を取るという一般原則があるから、begrenzt- の前に冠詞類がないことにより、begrenzt- も ganz- も同一の強変化語尾を取って、今の場合、2格となるから、begrenztes ganzes という形になります。そして ganzes を名詞化すれば、als begrenztes Ganzes の begrenztes Ganzes が得られます。中性名詞化形容詞に付加語的形容詞が付いている時の両者の語尾変化については、次を参照。浜崎長寿、橋本政義、『名詞・代名詞・形容詞』、ドイツ語文法シリーズ 2, 大学書林、2004年、144ページ、牧野紀之編著、『関口ドイツ文法』、未知谷、2013年、510-511ページ。

Was immer ... kann,: 認容文「たとえ~だとしても」。この認容文を表わす時の動詞は、多くの場合接続法第1式ですが、mögen の直説法を使ったり、mögen 以外の動詞の直説法を使うこともあります。関口、『接続法の詳細』、212ページ参照。なお、ここの文 Was immer geschehen kann, es ist für mich ohne Bedeutung の前半を私訳では「たとえ何が起ころうとも」と訳しましたが、黒崎先生は「常に起こり得るもの」と訳しておられます。それは、ここの文に Wittgenstein の「倫理学講話」を参照するよう指示が与えられており、黒崎先生は「講話」の指示された箇所を検討・考慮して、先生のような訳を作られたのだろうと思われます。考慮すれば先生の訳がふさわしく、特に考慮しなければ私訳のような訳になると考えられます。ちなみに、「たとえ何が起ころうとも、それは私にとっては大したことではない」という発言は、Wittgenstein が21才の頃、Wien で見た芝居のセリフに由来しているようです。今の発言とよく似たセリフをその芝居で聞き、Wittgenstein は宗教的回心を経験したらしいです。この点については次を参照。N. マルコム、『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』、板坂元訳、平凡社ライブラリー平凡社、1998年、99-100ページ。

Wie ... ?: この疑問文の主語は指示代名詞 das で、直後の関係副詞 wovor を受けています。この das に対する動詞は unterscheidet であり、sich4 + von 3格 unterscheiden で「3格から区別される」の意。この疑問文全体の骨格を示すと、Wie unterscheidet sich das von dem? 「それ (das) はそれ (dem) から、いかにして区別されるのか?」 疑問文中の phänomenal は形容詞の副詞的用法で「現象的に」。関係文 wovor die Angst sich ängstigt の主語は die Angst. 動詞に関しては sich4 + vor 3格 ängstigen, 「3格を不安に思う」という用法があるから、この関係文は「不安が不安に思うもの」と訳されます。また、疑問文中の von dem の dem は指示代名詞で、直後の関係副詞 wovor を受けています。関係文 wovor die Furcht sich fürchtet の主語は die Furcht. 動詞に関してはやはり sich4 + vor 3格 fürchten, 「3格を恐れる」という用法があるので、この関係文は「恐れが恐れるもの」と訳されます。

ist ... zu lesen: zu 不定詞 + sein は、一般に (1) 受動的可能「~されうる」、または (2) 受動的必然「~されねばならない」を表わします。今の場合は (1).

bevor »Guten«: bevor は接続詞なので、このあとに動詞が来なければならないのですが見当たりません。»Guten« の後ろに動詞 steht か何かが省略されているのかもしれません。なお、bevor は通常、時間的に前のことを言うと思われるので、ここでは bevor よりも、主として位置の点で前を意味する前置詞の vor を使った方がいいのではないかと考えられます。

»das Eigentliche« ... »daß eigentlich«: 本文中の das Eigentliche を daß eigentlich と解すると、entspreche の主語は das Eigentliche ではなく was ... meint になります。すると訳は「実際に本来言わんとしていることが」から「本来/そもそも、実際に言わんとしていることが」に変わり、「本来/そもそも」は entspreche にかかることになります。そして entspreche は、この副文末に置き直されることになります。

Bezieht sich ... auf ... : sich4 + auf 4格 beziehen, 「4格に関係する」。

scheinbar: 「どうやら~のようである」。ただし、scheinbar をこの意味で使うのは厳密には誤用です。正しくは anscheinend を使わなければなりません。とはいえ、この誤用は広く行き渡っているようですが。岩﨑英二郎、小野寺和夫編、『ドイツ語不変化詞辞典 新装版』、白水社、2008年、項目 'scheinbar,' 2 の備考参照。

 

私訳/試訳

1929年12月30日月曜日 (Schlick の家で)

Heidegger について

私は Heidegger が存在と不安でもって何を言いたいのか、十分想像できる17。人は言語の限界に向かって突進しようとする衝動を持っている。たとえば何かが存在しているという驚きについて考えてみてほしい [(何もないのではなく) 何かがあるというのは驚きだ、ということについて考えてみてほしい]。そのような驚きは問いの形では表現され得ない。だから答えもまったくない。[この時] 私たちの言いたいことはすべて、ア・プリオリにナンセンスでしかあり得ない。それにもかかわらず私たちは言語の限界に向かって突進するのである。このような突進を Kierkegaard もまた見たのであり、しかもそれどころか、それをまったく同じように (逆説に向かっての突進と) 呼んでいるのである18。言語の限界に向かってのこの突進 [の先にあるの] は倫理である *2 。倫理についてのすべてのおしゃべりを、つまり認識はあるのかどうか [倫理的なことは認識できるのかどうか]、価値はあるのかどうか [倫理的なことに価値はあるのかどうか]、善は定義され得るのかどうかなど [というおしゃべり] を、終わらせるのは確かに重要だと私は思う。倫理においては、事の本質に関係しておらず、かつ決して関係することのあり得ないことを述べようとする試みがいつもなされる。次のことはア・プリオリに確かなことである。すなわち、善に対し定義として何を与えようとも [善をどのように定義しようとも]、実際に本来言わんとしていることが、表現をまとった自身に一致する [その表現にぴったり合う] (Moore) というのは、常に誤解でしかないのである19。しかしこの傾向、この突進は、何かを示唆している。それを既に聖 Augustinus は、次のように彼が言う時、わかっていたのである20。汝、下劣漢よ、お前はなぜナンセンスを語ろうとしないのか? [このろくでなしよ、お前はなぜ黙ろうとしないのか?] ナンセンスだけを語れ [何も話すな]、それは大したことではない [のだから]!

[I] 神秘的なのは、世界を限界のある全体として感じることである17a。「私には何も起こり得ない」 つまり、たとえ何が起こり得るとしても [たとえ何が起ころうとも]、それは私にとっては大したことではないのである17b*3

17 M. Heidegger, 『存在と時間』、『哲学と現象学研究のための年報』、第8巻、1927年に所収、186-187ページ。「不安が不安に感じるものは世界内存在それ自体である。不安が不安に思うものは、恐れが恐れるものから、いかにして現象的に区別されるのか? 不安が不安に感じるものは世界内的な存在者ではない。 ... 不安が不安に感じるものは世界それ自体である。」

17a 『論理哲学論考』、6.45 参照。

17b 『倫理学講話』、8ページ参照 *4

18 たとえば次を参照。S. Kierkegaard, 『哲学的断編』、第3章 (『著作集』 第6巻、Jena, 1925年、36および41ページ) 「しかし悟性 [知性] がその逆説的な情熱でもって突進しようとするこの未知なるものとは一体何であろうか ... ? それは未知なるものである。... それは我々が絶えず到り着く限界である」。

19 この文における速記は、その大体の意味は疑問に感じるところはないのだが、とりわけ難しく読み取られうる [読み取るのがとりわけ難しい]。「善」の前の一語 (「まったき」 「内〈在的〉」?) は完全に判読不能である [ドイツ語原文の zum と Guten の間に速記では一語「まったき」か「内在的」と思われる言葉が書かれているのだが、完全に判読不能である]。「本来のこと (das Eigentliche)」は「本来は (daß eigentlich)」とするのが自然かもしれない *5 。[(Moore) という表現による] その指示は、『倫理学原論』、Cambridge, 1903年、5-14節における善さというものの定義不可能性に関する Moore の議論に、疑いもなく関係している。

20 Weismann は [以下の] 引用文を、どうやらあとで付け加えたようである。私はそのような [文が出ている] 箇所を聖 Augustinus [の著作] に見つけることができなかった。それは『告白』、第1巻、第4章 「et vae tacentibus de te, quoniam loquaces muti sunt. (しかもあなたについて語らないものはわざわいである。あなたについては、能弁なものも啞者に等しいからである。)」*6 をいくらか思い出させる。(この指摘に対し、私は P. R. L. Brown に感謝する。) *7

 

既訳

(邦訳、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』、黒崎宏訳、97-99ページから引用します。なお、既訳では、註を示すのにアステリスク (*) が使われていますが、便宜上、アラビア数字に変えて引きます。また、傍点は下線で代用します。)

一九二九年十二月三十日 月曜日 (シュリック宅にて)

   ハイデッガーについて

 私は、ハイデッガーが存在と不安について考えていることを、十分考えることが出来る1。人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。例えば、或るものが存在する、という驚きについて考えてみよ。この驚きは、問の形では表現され得ない。そして、答は全く存在しないのである。我々がたとえ何かを言ったとしても、それは全てアプリオリにただ無意味でありうるだけなのである。それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。〔1〕 キルケゴールもまたこの突進を見ていた。そして彼はそれを全く似たように (パラドックスに対する突進として) 言い表しているのである2。言語の限界に対するこの突進が倫理学である。私の思うに、倫理に対する無駄口 ― 倫理的認識は存在するか、価値は存在するか、善は定義されるであろうか、等々 ― のすべてを終らせるという事は、ほんとに重要なことである。倫理学においては、人は常に、事柄の本質が関係しないもの、そして決して関係できないもの、を語ろうとする試みを行うものである。人が善の定義として何を与えようと、その表現が人が実際に思っているものにほんとに対応していると考えることは、常に誤解である (ムーア)3。このことはアプリオリに確かである。しかし、この突進という傾向は或るものを暗示している。それはすでに聖アウグスチヌスが、「なんだと、この不潔な奴め、お前は無意味なことは語ろうとしないというのか。お前みたいな奴は無意味なことだけを語れ。そうすれば害はないから!」と言ったとき4、知っていたものであった。

 〔1〕 限界づけられた全体としての世界に対する感情は、神秘的なるものである5。「私には何事も起こり得ない。」 即ち、常に起こり得るもの、それは私には意味を有しないのである6

1 M・ハイデッガー、'Sein und Zeit', in Jahrbuch für Philosophie und phänomenologische Forschung, VIII, 1927, 186頁-187頁。「不安がそれに臨んで不安を覚えるところのものは、世界=内=存在そのものなのである。不安がそれに臨んで不安になるところのものは、怖れがそれに臨んで怖れを抱くところのものと、現象的にみてどのようにことなっているのであろうか。不安が臨んでいるところのものは、いかなる内世界的存在者でもない。... 不安が臨んでいるものは世界そのものである」 (『存在と時間』上、細谷、亀井、舟橋共訳 (理想社) による。) (#)

2 S・キルケゴールPhilosophische Brocken, Kap. III (Werke Bd. VI, Jena, 1925, 36頁と41頁)。「さてしからば、それに対して悟性がその逆説的情熱をもって突き当たるところの、知られざるものとは ... 何か。それは、知られざるものである。... それは、人が絶えず突き当たっている限界である。」

3 ここの文章の速記は、たしかにその一般的な意味に疑念はないけれども、特に読み難い。「善」の前の一語 (「reinen, 純粋な」であろうか「int〈rinsischen〉、本来的な」であろうか) は、完全に解読不能である。「das Eigentliche」はもちろん「daß eigentlich」であり得る。ムーアへの言及は疑いもなく、Principia Ethica, Cambridge, 1903, §§ 5-14 においてムーアが行ったところの、善は定義不可能であるという事についての議論に関するものである。

4 ヴァイスマンはこの引用文を後からつけ加えたと思われる。私は聖アウグスチヌスの著作の中に、そのような文章を見つけることが出来なかった。しかしこの引用文は幾らか Confess. I. iv の中の 'et vae tacentibus de te, quoniam loquaces muti sunt.' を思い起こさせる。(この指摘に関して、私は P・R・L・ブラウン氏に感謝する。)

5 『論理哲学論考』 六・四五を参照せよ。

6 『倫理学講話』の三八九頁を参照せよ。

(#) 引用者註: 現今の岩波文庫からも引いておきます。傍点は下線で代用します。「不安の〈なにをまえに〉は世界内存在そのものなのである。それをまえに不安が不安がるものは、どのようにして、それに対して恐れが怖ろしがるものから現象的に区別されるのだろうか。不安の〈なにをまえに〉は、世界内部的な存在者ではまったくない。... 不安の〈なにをまえに〉は世界そのものである」。ハイデガー、『存在と時間 (二)』、熊野純彦訳、岩波文庫岩波書店、2013年、362, 365ページ。ここでは、Das Wovor der Angst (不安を覚えるもの、不安に感じられるもの、不安を引き起こすもの、不安の原因) を熊野先生は「不安の〈なにをまえに〉」と訳しておられます。このように訳しておられるのは、Wovor の wo が「何 (was, what)」、vor が「前に (in front of, before)」を意味するので、先生はこの Wovor という語の成り立ちを積極的に訳語に反映させようと努力された結果です。「不安が不安がる、恐れが恐れる」という言い方は、「無が無化する」という表現を思い出させますね。

 

感想

Wittgenstein の考えを述べているとされるこの短い文章には、多くの人が疑問に感じる点がいくつかあると思われます。そのうちの二つ、三つについて、言及してみましょう。

一つ目は、「言語の限界に向かって突進する」とは、どのようなことを言うのだろうか、というものです。そもそも言語の限界とは何でしょうか? 私の英語運用能力の限界と言えば、それは私にもよくわかります。ペラペラでもスラスラでもありませんので。しかし端的に「言語の限界」と言われても、私を含めた多くの人にはわかったようなわからないような言い回しです。

二つ目は、「何かが存在しているという驚きについて」、「そのような驚きは問いの形では表現され得ない」と言われていますが、どうしてそれは問いの形では表現できないのでしょうか。できそうにも思えるのですが。

三つ目は、明言はされていないものの、問題の文章では「倫理については語ることができない、あるいは有意味に語ることはできない」と言われているように見えることです。もしくは「倫理について表現されている文、倫理的判断を下している文に真偽は問えない」と言われているのかもしれません。しかしそれはなぜなのでしょうか。私にはこの三つ目の問いが一番重要であると思われます。実際に倫理について有意味に、もしくは真偽を問えるものとして語ることができないならば、その結果の影響は甚大だと思います。

 

さて、これらの問いに答えるのに有用な文献があります。それは今までにも何度か触れてきた Wittgenstein の「倫理学講話」という有名な講演です。これは既に述べたように、大修館のウィトゲンシュタイン全集第5巻、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』に邦訳が載っています。これを読むと以上の三つの問いに、暫定的ではあれ、答えが与えられると思います。

特に二つ目の問いの答えを「倫理学講話」に従って与えるならば、自動的に一つ目の問いにも答えが与えられます。そこで二つ目の問いの答えを「倫理学講話」に求めてみましょう。それから一つ目の問いに答えます。なお、三つ目の問いは非常に大きな問題であり、この問いに対する答えが書いてあると思われる「倫理学講話」の終盤3ページ分を読んでも、私には難しくてまだよく理解できていないので、この問いに対する答えはここで与えることはできません。与えるためには、おそらく数本の論文か、あるいは少なくとも1冊分の単行本が必要になってくると思います。

 

では二つ目の問いの答えですが、ごく簡単に記します。未熟な私が与えている答えですから、鵜呑みにせず批判的にお読みください。以下、「(123)」のような数字があれば、それは邦訳「倫理学講話」のページ数のことです。

まず、二つ目の問題においては「何かが存在しているという驚きについて」、「そのような驚きは問いの形では表現され得ない」と言われていました。このように言われていましたが、実はこの驚きについて、とりあえず問いの形にすることはできます。実際 Wittgenstein は次のように問いの形で表現しています。つまり「何かが存在するとはどんなに異常なことであるか」、「この世界が存在するとはどんなに異常なことであるか」というようにです (388)。これらの文は疑問文ではなく、感嘆文と言うべきものかもしれませんが、一応疑問文の形式を持っています。ですので件の驚きは、形の上では疑問文にできるのです。問題は、この疑問文における「存在」だとか「驚く」という表現が、Wittgenstein によると無意味であり、言葉の誤用だということです (389-390)。なので、たとえ件の驚きを疑問文にできるとしても、その文は無意味であり誤用に基付くものなので、問いとしての体をなさない、ということなのです。

ではなぜ「世界の存在に私は驚く」というような文は無意味であり誤用であると言えるのでしょうか。Wittgenstein によると、「なぜならば、私にはそれが存在していないことを想像することはできないから」 (389-390) だそうです *8 。マンモスほども大きい柴犬を見た時、私たちは驚くでしょう。それはマンモスほども大きい柴犬は普通いないのであり、マンモスほど大きくない (普段見かけるサイズの) 柴犬を私たちは想像できるからです (389) *9 。もしもマンモスほど大きくない (普段見かけるサイズの) 柴犬を想像できないならば、マンモスほどの大きい柴犬を見ても驚きはしないでしょう。

同様に、Wittgenstein によると、世界が存在していないことを想像することはできないので、世界の存在に驚くということはなく、驚きようもない、ということです。それは、たとえば「素数3を食べろ」と命じられても食べようがなく、そのような命令は無意味であり、そんな命令文の使用は誤用であるように、驚きようもないものに驚くのは無意味であり、そのような驚きを述べる文も誤用に基付いている、ということです。

しかし、この答えには容易に反論が考えられます。たとえ世界が存在しないことを Wittgenstein が想像できないとしても、近所の太郎君は見事に正確詳細に想像できてしまったならば、Wittgenstein の主張は簡単に論破されます。とはいえ、ここは Wittgenstein の主張を好意的に取って、想像できるかどうかには、こだわらないようにしましょう。

ここで少し考察の角度を変えてみます。私たちは何かがないと言う時、何らかの背景や場を前提として、それがないと言います。たとえば「今この教室にはカバはいない」と言うことがありますが *10 、この発言は、ある教室を背景として、もしくはある教室を場として、カバはいない、と言われています。またたとえば「2以外に偶数である素数はない」と言う時、自然数や正の整数を背景として、そのように言われます。何かがないと言う時は、おそらくほとんどすべて、このような背景を伴っていると思われます。そのような背景を前提に、何かがない、と普通言われるのです。

これに対し、「世界が存在しない」とはどのようなことを言うのでしょうか。世界が丸ごと存在しないと言いたいのならば、その時、そう言われる際の背景や場も存在しない、と言っているのだと思います。何もかもひっくるめて存在しない、というわけです。しかしこれは理解可能なことでしょうか。これは意味のある主張なのでしょうか。

何かがないと言うには、その背景や場があることが必ず前提されねばならないとするならば、背景や場も含めて何もかも世界全部が存在しない、と言うことは理解不能であり、意味不明なことかもしれません。「「世界の存在に私は驚く」というような文は無意味であり誤用である」と言う Wittgenstein の主張を擁護するには、一つには以上のような考察がひょっとすると有効かもしれません。世界の存在に驚くというような文を問いとして表現することができないというのは、その疑問文が意味を持つのは「世界が存在しない」という平叙文が理解可能で、まっとうな意味を持つ場合なのですが、「世界が存在しない」という平叙文は理解不能で意味不明なため、ひるがえって世界の存在に驚くというような文を問いとして表現することも理解不能で無意味なのだ、ということになると思います。これが、大まかですが、二つ目の問いの考えられうる答えの一つです。

 

次に一つ目の問いの答えを簡単に与えてみましょう。これも未熟な私による答えなので、真に受けず批判的観点から読んでみてください。

一つ目の問いとは、言語の限界とは何であり、それに向かって突進するとはどういうことか、というものでした。

二つ目の問いの答えからわかることは、言葉にはそれを使って有意味に表現できることもあれば、表現したとしても無意味にしかならない表現がある、ということです。Wittgenstein によると、世界が存在しないことはまともに考えることはできないので、「世界の存在に驚く」と言うこともまた無意味になるのでした。

この観点から、言語表現が無意味になる、もっとわかりやすい別の例を上げれば、「部屋にいればバスに轢かれることはないので安全である」という表現にまつわるものがあります (390)。今のバスの文を言うことは意味があり、まともなことですが、一方「何があっても安全である」と言うことは、文字どおりに何があっても安全ならば、「安全だ」と言うことに意味はありません。何かが安全なのは、それが危険な場合もありうるからです。どうしたって危険ではあり得ないことについては、そもそもわざわざ「安全だ」とは言いません。にもかかわらず、そう言うとしたら、その表現は Wittgenstein のいう意味で、無意味になります。

Wittgenstein は上げていませんが、こちらで別の例をもう一つ出すならば、「何があってもいつまでも生きているもの」は、通常、「生きている」とは言いません。どうしたっていつまでたっても死なないものについて、「生きている」とは言いません。そういうものは、通常、「生きている」とか「死んでいる」などと言いません。にもかかわらず「何があってもいつまでも生きているもの」という表現を使うとすると、それは一見意味があるように見えながら、Wittgenstein のいう意味で、無意味になります。

こうして Wittgenstein による Heidegger についての論評や上記の「倫理学講話」の話からわかるのは、Wittgenstein の言う「言語の限界」とは、上に述べたような有意味な言語表現と無意味な言語表現を分けた時、これら二つの言語表現のグループの間にできる境界のことなのだろう、ということです。有意味な言語表現を使って言うことのできることと、それを使って言うと無意味になることがあり、言語表現をこれら二つのグループに分けるといわば境界線が引かれることになりますが、Wittgenstein はこの境界線を「言語の限界」と言っているのだろう、と思われます *11

ところで私たちは、たまに「なぜまた何もないのではなく、こんなふうに世界はあるのだろうか」と思うことがあります。つまり世界の存在に驚くことがあります。そんなふうに思わないし驚きもしない、という人もいるでしょうが、世界がこうしてあることに不思議な感覚を抱く人もいます。しかし Wittgenstein によると、「なぜまた何もないのではなく、こんなふうに世界はあるのだろうか」という言語表現を使って世界の存在に驚くことは、無意味なことだと言います *12 。その表現は有意味な言語表現のグループには属さず、このグループの境界線を越えた、向こう側の無意味な言語表現のグループに含まれており、有意味な言語表現の限界を超えているものなのですが、それでも思わず知らず私たちは無意味な言語表現である文「なぜまた何もないのではなく、こんなふうに世界はあるのだろうか」を使って驚嘆の念をついつい吐露してしまうことがあります。このような無意味な文を使って衝動的についつい驚嘆の念を表明すること、これが言語の限界に向かって突進してしまうことなのだろうと考えられます。以上が一つ目の問いの答えと思われるものです。

 

いかがでしたでしょうか? 異論や反論が多数あると思います。第一、私は Wittgenstein の哲学について、専門的に勉強しているわけではないので、私の考えには無知な点が多すぎることにより、皆さんは反論のしようがない、手の施しようがない、と思うかもしれません。なんにせよ、どうか私の話を鵜呑みにせず、批判的に私の考えを眺めていただければと思います。

 

それにしても、私にとって何よりも重要なのは、三つ目の問題「倫理について表現されている文は、なぜ真偽を問えないのか」というものです。もしも本当に真偽を問えないならば、たとえば「人生の意味とは何か」とか「生きることに何の価値があるのか」という問いに対する答えも、真偽を問えないことになると思われます。「力の限りを尽くして生きることに意味はあるのだ」とか「世のため人のために生きることにより、人生に価値が生まれてくるのだ」と言うことは、私には正しいことだと思われるのですが、真でも偽でもない、ということになりますし、おそらく Wittgenstein のいう意味では、真偽不定どころか無意味な文ということになると考えられます。

これは受け入れがたい結論だとも思われるのですが、あるいはそれにもかかわらず、その無意味な文を高く掲げながら自分の信念を自らの人生に賭けることが、人生に対し逆説的に意味を生むことになるのかもしれません。「倫理学講話」の最終盤を読むと「不合理ゆえにわれ信ず」(Tertullianus) というセリフを思い出します。倫理的信念を表明した文は実のところ無意味であるからどうでもいい、というのでは決してありません。真偽が問える事実を述べた文ではなく、その点で無意味だとしても、それは何かを賭けたり約束したりする文と似て、よりよいものへと向かうことを自分や社会や、信仰を持つ人なら神に対して誓う行為として意味を生むのかもしれません。このような行為がどうでもいいはずはありません。とても人間らしく、とても熱い心を表わしていると思います。はたして倫理について表現されている文は本当に無意味なのか、これは主として20世紀後半の英米系の倫理学で検討されてきた問題だと思いますが *13 、私は私で今後 Wittgenstein さんの文章を読んで自分なりにその点を考えてみたいと思います。

 

付録 Waismann 略歴

次の本

・ Friedrich Stadler  The Vienna Circle: Studies in the Origins, Development, and Influence of Logical Empiricism, Springer, 2001,

の744-745ページに Waismann の略歴が記されていますので *14 、そのページをざくっと翻訳させていただき、皆さんの参考に供することと致します。コンパクトで有益な情報をもたらしてくださいました Stadler 先生に感謝申し上げます。

なお、私は Vienna Circle について詳しくないので、何か誤訳していましたらすみません。逐語訳ではなく、意訳気味に訳します。また、Stadler 先生による Waismann についての記述事項がそれぞれ本当に正しいかどうか、裏を取らずにそのまま訳します。

 

Friedrich Waismann (1896-1959)

1896年、オーストリア人の母、ロシア人の父の間にウィーンで生まれる。十代の学校教育をウィーンで終え、ウィーン大学で Hans Hahn のもと、数学を勉強。それとともに物理学も勉強する。主として Moritz Schlick のもと、1922年から哲学の勉強を始め、既に発表していた同一性と確率概念についての二つの論文で Ph.D. を取得し、1936年、正式に学業を終える。第一次世界大戦後、ウィーン成人教育研究所 (Viennese adult education institutes) で生活のために哲学と数学を教え始め、1924年からは師の Schlick のため、哲学学校で (at the School of Philosophy for his mentor Schlick) 助手、司書をつとめる。ウィーン学団の会合に毎回出席し、会を世話していた。1936年に学団解消後、亡命するまで、Schlick の教え子たちと議論を交わし合うグループの中心人物となる。このグループがあることで、教え子たちにはまとまりができていた。1926年から1933年まで、Schlick とともに Wittgenstein と議論を交わし、その記録を取って当初から Wittgenstein の哲学のわかりやすい解説を提供しようと試みた (が、Wittgenstein の反対にあい、頓挫する)。Schlick が殺される直前、司書を解雇される。表向きには人件費削減のためとされているが、おそらく「人種的」な理由のためである。既に1937年にニュージーランドへ亡命していた Karl Popper の仲介により、イギリスのケンブリッジに亡命することができ、そこで1937年から1939年まで講師 (lecturer) として働いた。しかしそこでは、Wittgenstein とはまったく会わずじまいだった。Wittgenstein が、かつて追随して来た者と連絡を取ることを避けたためである。1939年、不本意ながら亡命し苦労していた Waismann は Oxford の教員 (Oxford Faculty) の一人となり、そこで哲学の助教授 (reader)、その後、科学哲学の助教授となった。1955年、ブリティッシュ・アカデミーのフェローとなるが、それと同時に孤立感を深めて行った。そのようになった一端は、妻と息子が自死したことにある。1959年11月4日、イギリス、オックスフォードにて死去。

 

Waismann は「Wittgenstein とはまったく会わずじまいだった。Wittgenstein が、かつて追随して来た者と連絡を取ることを避けたためである」と書いてありますが、なぜ Wittgenstein が Waismann に会うのを避けたのかというと、Wittgenstein は Waismann が自分のアイデア剽窃して論文にし、刊行したからだ、と考えていたためと思われます。このことについて、

・ N. マルコム  『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』、板坂元訳、平凡社ライブラリー平凡社、1998年、77ページ、

から引用してみましょう。傍点は下線で代用します。

 剽窃

 ウィトゲンシュタイン剽窃ということについても、つよい反感を持っていた。彼は、ある人物との関係について説明してくれたことがある。この事件には、あれこれいろいろな噂が流れていた。モーリッツ・シュリックと、その男と彼 [Wittgenstein] の三人が、一緒に哲学上の議論をやったことがあったが、その席でウィトゲンシュタインは自分のアイデアをいくつか出し、彼等はノートをとった。しばらくたってウィトゲンシュタインが、学界誌 [ママ] に受けつけられたこの男の論文を読んだところ、この論文はウィトゲンシュタインのアイデアはおろか、その席でウィトゲンシュタインの使った例までも使っていた。ウィトゲンシュタインに対する感謝の言葉が出てはいるが、それは筆者が、ウィトゲンシュタインとの対談から得たものがある程度あるけれども、研究の大部分は、もちろん自分自身のものである、ということを匂わすような言い廻しだった。ウィトゲンシュタインは非常に憤慨した。それで、このことをシュリックに持ち込んだ。シュリックという人は折り目正しい人物だったが、何らかの処置をするとウィトゲンシュタインに約束した、という。けれども、この直後にシュリックが暗殺に倒れるという事件がおこり、この論文は、ウィトゲンシュタインに対してちゃんとした謝辞をつけないままに公刊されてしまった。

モーリッツ・シュリックと、その男と彼」のうちの「その男」とは、おそらく Waismann でしょうね。ただ、Waismann が本当に剽窃したのかどうかは、調べていないので私にはわかりません。いずれにせよ、Wasimann の言い分も聞いてみる必要があるでしょうね *15

 

これで終わります。いつものように、誤解・無理解・誤字・脱字、誤訳や悪訳がありましたらすみません。また勉強し直します。そして私が「感想」で述べたことは疑ってかかって読んでください。真に受けないようにお願い致します。

*1:Wittgenstein und der Wiener Kreis, S. 27, 邦訳、36ページ。

*2:ここでは「この突進は倫理/倫理学である」とせず、「この突進の先にあるのは倫理である」というように、少し踏み込んだ訳をしています。Wittgenstein によると、倫理は語れないものであり、にもかかわらず、ここでは語れない倫理について語ろうと無理に倫理に向かって突進しようとする人間の衝動を表わしていると解して踏み込んだ訳を採用しました。踏み込み過ぎない訳を採用してもよかったかもしれません。

*3:「[I]」という印のある文は、Waismann が Wittgenstein の言葉として書き加えたものです。

*4:邦訳、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』には「倫理学講話」の訳も収められていますが、黒崎先生の参照指示によると、この本の389ページをひも解くようにと書かれています。そこを見ると関連する言葉として、以下のような表現が出てきます。(傍点は下線で代用) 「絶対に安全であると感じる経験 [...]」、「「私は安全であり、何が起ろうとも何ものも私を傷つけることはできない」、というような精神状態 [...]」。

*5:この文は黒崎先生の邦訳のように「もちろん~であり得る」としたほうがよいかもしれません。

*6:私はラテン語を解しないので、ここに引いた和訳は、次の文献の該当箇所から取ってきました。聖アウグスティヌス、『告白 (上)』、服部英次郎訳、岩波文庫岩波書店、改訳1976年、11ページ。服部先生の訳注は省いて引用しています。(なお、この和訳引用文は、差別的意図をもって引用したのではございません。どうかご理解いただければ幸いです。) ところで今のラテン語は、羅和辞典を引いてみると、大体次のように訳されるのではないかと思います。「et しかも、te あなた、de について、tacentibus 語らないものは、vae わざわいである。(あなたについては) loquaces 能弁なものも、muti 啞者に、sunt 等しい、quoniam からである。」 間違っていましたらすみません。

*7:国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている以下の本をインターネットで見ると、『聖アウグスティヌス懺悔録』、中山昌樹訳、新生堂、1924年、URL=<https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981931>, 先のラテン語文の和訳に註解が付されており (6ページ)、それを読むと少し参考になることが書かれています。388ページの註解 12 から、一部旧字体新字体に改めて引用します。「ユダヤ教の一人のラビあり、日毎の祈禱のうちに稱へらるゝ「大にして強く恐るべき神」と云ふ言葉を以つて足れりとせずして、更に幾個かの形容詞を加へたり。これを見て他の一人のラビ叫んで「なんぢ神を讃美し盡し得べしと思ふや。汝の讃美は冒瀆なり。汝は寧ろ沈黙するに如かず」と云へりと (タルムツド)。「倫理についてのおしゃべりはやめろ! 黙れ!」という Wittgenstein の声が聞こえてきそうですね。

*8:倫理学講話」の話をもとにすれば、この他の理由としてあと二つ、考えられるかもしれません。(1) 私たちは世界がどうなっていても驚くことがあり得るのであり、極端な場合は世界がまったくなくても、そのことに驚くことがあり得るのだから、つまり何をどうしたって驚くことがあり得るのだから、驚くことに意味はない、というものです (390)。ただしこれには簡単に反論が考えられるように思われます。何を見ても笑い転げる笑いじょうごな人がいたとしましょう。箸が転んでも本当に笑う人がいればちょっと不審にも思いますが、当人がそれによって幸せに暮らせているのならば、笑うことにも意味があり、何も問題はありません。笑ってばかりいるからといってその笑顔が無意味だとは指弾できないでしょう。同様に何を見ても驚くからといって、無意味だと指弾し、切って捨てることはできないと思われます。(2) もう一つの理由について、これは「倫理学講話」の終わりの部分393-394ページに書かれているのですが、この理由は私には難しくてまだ理解できていません。奇蹟と言語についての考えをからめて世界の存在に驚くことの無意味さが、その最終盤部分で述べられているように見えるのですが、事柄が圧縮して述べられている感があり、私にはうまく把握できないでいます。ですから、申し訳ありませんが、このもう一つの理由は何も説明しないでおきます。どうかお許しください。

*9:なお、ここで「マンモスほども大きい柴犬」と私は言っていますが、Wittegenstein は「マンモス」とか「柴犬」とは言わず、以前に見たことのあるどのような犬よりも大きい犬を例に出して話をしています。念のために言い添えておきます。

*10:実際にありました。Russell が Wittgenstein に向かって言った言葉です。B. Russell, ''Ludwig Wittgenstein,'' in: Mind, no. 239, vol. 60, 1951, p. 297, 邦訳、バートランド・ラッセル、「ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン」、N. マーコム他、『放浪 回想のヴィトゲンシュタイン』、藤本隆志訳、法政大学出版局、1971年、172ページ。

*11:ただし、Wittegenstein が「言語の限界」と言う時、いつでもこのことを意味していたとは限りません。Wittgenstein が言う「言語の限界」ということで最も有名なのは、Tractatus の5.6でしょう。'D i e G r e n z e n m e i n e r S p r a c h e bedeuten die Grenzen meiner Welt (私訳: 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する).' Ogden 版、p. 148. このセリフはすぐあとの5.62にある独我論との関係で理解される必要があると私は思うのですが、今回の Heidegger に対する論評や「倫理学講話」の話における「言語の限界」は、さしあたり、独我論とは無関係に理解されるものだと思われます。このような点から言って、Wittegenstein が「言語の限界」と言う時、常に同じことを念頭に置いて発言していたとは限らないと推測されます。

*12:おそらくより正確には、そのように驚く行為は無意味ではないが、その際発言される「なぜまた何もないのではなく、こんなふうに世界はあるのだろうか」という文は無意味である、ということだろうと思います。

*13:この点に関し、極めて短い論説ながら、とても有益な文献に次があります。大庭健、「科学の世紀の倫理学」、『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語』、飯田隆編、中央公論新社、2007年。この論説では「善い」という言葉を含んだ文は有意味か否か、真偽を問い得るか否かという問題について、20世紀初頭の G. E. Moore の仕事に始まり、C. L. Stevenson, A. J. Ayer, R. M. Hare を経て、S. Blackburn, A. Gibbard へと至る論争の流れが大変簡潔に描かれています。

*14:他に、Waismann の肖像写真、著作名、当人が Wien で教えていたころの講義名、若干の二次文献名、Waismann Papers の所在地名が、744-748ページに記されています。

*15:精神医学の専門家の意見によると、Wittgenstein は他人の心を読むことが苦手な人だったようです。相手の気持ちがなかなかくみ取れない人、いわゆるその場の「空気」がしばしば読めない人だったみたいです。そのため、「剽窃だ!」と訴える Wittgenstein にあわてて同意するでもなく、Waismann の言い分にむやみに同情を示すのでもなく、両者に距離を取って事態を見極めなければならないと感じられます。精神医学の専門家による Wittgenstein の心理についての考察は、次を参照ください。福本修、「「心の理論」仮説と『哲学探究』 アスペルガー症候群 [から/を] 見たウィトゲンシュタイン」、『imago (イマーゴ)』、青土社、第7巻、第11号、1996年。この論文の特に第III節をご覧ください。また、福本先生の意見だけでなく、精神医学に関する他の専門家の意見も聞いてみる必要があると思われます。なお、「空気」が読めるか否かの判定はたぶんかなり主観的なところがあるでしょうから、本当に「空気」が読めるか否かは簡単に判断できる問題ではないと考えられます。それに仮に「空気」を読むのがうまくない人がいたとしても、それがいけないことだ、というわけでもありません。「空気」が読める人からすれば、読めない人がいけないかのように感じられますが、読めない人からすれば、読める人のほうが神経質すぎてよくない、とも言えるでしょう。ですから Wittgenstein さんが仮に「空気」の読めない人だったとしても、それだから彼はよくない人だ、と私は言っているわけではありません。いずれにせよ、Wittgenstein さんの心を傷つけてしまったとしたら謝ります。すみません。ごめんなさい。