Clarification of Dependence Between Philosophical Claims by Axiomatic Methods of Logic

目次

 

お知らせ

今まで毎月一回、だいたい月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

私の身辺が流動的になってきており、このまま定期的に更新できるか不明です。

もしかすると従来どおりあまり変わらないペースで更新できるかもしれませんし、ひょっとすると長期的に更新が止まるかもしれません。

いずれにせよ、できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。

とにかく状況が流動的であることをお伝え致します。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

新型コロナウイルスの流行が収まりを見せず、非常に不安定な日々が続いています。

ウィルスには感染していないものの、私は肉体的、精神的にとても不安定な状況にいます。

心配事が頭のなかに渦巻き、潮が引かず、起きている時は、四六時中、不安な気持ちに飲み込まれたままで、本当に息が詰まった状態にいます。毎晩睡眠時間も短く、悪夢にうなされて、朝早くに目が覚め、もう一度寝ようとしても、うまく寝られません。

昼間には、まれに哲学について、何でもいいから考えることができる瞬間があり、その時だけ、不安が心の底に沈潜し、正気を保っていられるような感じです。

何かと本当に苦しいですね。コロナの流行と同様に、私の苦しみも、まだまだ続きそうです。それどころか、もっと悪化しそうです。

でも、以下に記す私の話を読んで、ほんの少しのあいだだけでも気がまぎれる人がいたならば、私の話も無駄ではなかったと感じられます。

 

では始めましょう。本日は備忘録のような感じの話になります。大した話ではありませんが、哲学における明瞭化について述べます。気になるかたは読んでみてください。

 

1. 哲学の議論を、論理学による推論パターンを使って明晰化すること

以前このブログで、哲学に関する不明瞭な議論を明瞭にする方法について触れました *1 。そこでは、論理学を使えば議論が明瞭にできる場合がある、と言いました *2

私たちは論理学の知識を十分持っているならば、ある程度、明晰に議論をすることができ、また議論を明晰に評価することができます。

議論を明晰に評価する事例を一つ提示してみましょう。

たとえば、魚は陸に上げると死んでしまいます。今、魚を陸に一匹上げるとします。するとその魚は死んでしまうでしょう。ところで、魚が一匹陸で死んでいたとします。そこで「その魚は陸に上げたから死んだのだ」と推論したとします。この推論は正しいでしょうか? 一瞬、「正しい」と答えてしまいそうになりますが、ちょっと考えれば必ずしも正しいとは限らないことがわかります。陸で魚が死んでいても、それは陸に上げたから死んだのではなく、もともと水中で死に、それから陸に打ち上げられた可能性もあるからです。そのため、陸で魚が死んでいても、ただちに何の留保もなく、「それは陸に上げたからだ」と論ずることは間違っていると正しく明晰に議論を評価できます。

一般的に、何らかの平叙文 p, q について、p ならば q で、かつ p である時、q が論理的に帰結しますが、p ならば q で、かつ q の時には、通常 p は論理的には帰結しません。p ならば q で、かつ q の時に、p が論理的に帰結すると誤解してしまうことを、論理学では「後件肯定の虚偽」と言いますが、このような知識を持っているならば、魚が陸で死んでいても、「陸に上げたから死んだのだ」とは即断しません。

言い換えると、「p ならば q で、かつ p である」という論証パターンがあれば、q が論理的に帰結するのですが、「p ならば q で、かつ q である」という論証パターンがある場合には、p は論理的には帰結しないので、後者の論証パターンがある場合には p が論理的には出てこないことが明瞭にわかる、ということです。にもかかわらず、後者の論証パターンがある場合に p が論理的に出てくると考えてしまうならば、それは間違いだと明瞭にわかる、ということです。

このように、論理を使いこなすことができたり、論理学の知識を十分持ち合わせているならば、哲学の議論も、多くの場合、明晰に行うことができ、明晰に評価することができると考えられます。

論理学が哲学にもたらす明瞭化には以上のようなものがありますが、これとはもう少し違った明瞭化も論理学は哲学にもたらすことができるようです。

 

次のとても短い文献を拝読して、そのことを教えられました。

・ Jan Łukasiewicz  ''De la méthode en philosophie,'' in Écrits logiques et philosophiques, tr. par S. Richard et al., Vrin, 2013.

それがどのような明瞭化なのか、この文献から一部引用しつつ、確認してみたいと思います。

引用の前に、Jan Łukasiewicz 先生の略歴を記しておきます。

Jan Łukasiewicz 先生は、1878年生まれ、1956年死去。ポーランドの論理学者で、ワルシャワ大学教授。第二次大戦の時からアイルランドのダブリンに居住。1917年に初めて多値論理を創出。括弧を使わない、いわゆるポーランド記法を開発。古代、中世の論理学者の著作を現代の論理学的観点から初めて考察し、それらの著作が大変興味深いことを明らかにする。そしてそれらの著作に対する従来の論理学史での取り扱いに問題があることを示す。この結果、ストア派は事実上、現代の命題論理の先駆であることを発見する。新たな分野を開拓してみせた彼の著作『アリストテレスの三段論法』、第2版、1957年では、アリストテレスの三段論法が整合的で完全な公理系であり、そこでは論証としての三段論法が文としての定理の形で出てくることが明示されている *3

 

2. Łukasiewicz ''De la méthode en philosophie'' 抜粋・抄訳

さて、''De la méthode en philosophie (哲学における方法について)'' の冒頭では、次のように言われています *4 。フランス語原文を掲げ、私と同じくフランス語を修業中のかたのために文法事項を簡単に記し、そのあと私訳/試訳を載せます。私はフランス語の先生ではありませんし、フランス語が得意なわけでもありません。もしも誤訳しているようでしたら大変すみません。

 

Les philosophes, même les plus grands, ne se servent pas d'une méthode scientifique dans la création de leurs systèmes. Les concepts qu'ils utilisent sont majoritairement abscons et ambigus, leurs thèses le plus souvent incompréhensibles et non justifiées, leurs raisonnements presque constamment erronés. *5

se servent pas d': se servir de 名詞、「(名詞) を使う」。

le plus souvent: 大抵の場合。

哲学者たちは、その最も偉大な者たちでさえ、彼らの学説的体系を創造する際に科学的方法を用いてはいません。彼らの使っている概念は、大多数が晦渋で曖昧であり、彼らの主張は大抵理解しがたく正当な根拠も与えられておらず、彼らのなす推論はほとんど常に間違っています。

このあと、ここで言われていることの証拠として、以下のような哲学の教説を思い出してみれば十分だとされています。すなわち、Descartes による神の存在証明と実体の定義、Spinoza の (おそらく) Ethica, Leibnizモナドと予定調和説、Kant純粋理性批判ドイツ観念論の提起した問題。

そして、これらの教説の体系は、美的、倫理的価値を有してはいるものの、

ils ne possèdent aucune valeur scientifique. C'est pour cette raison que la philosophie, contrairement à d'autres sciences, n'est non seulement pas arrivée à des vérités établies et universellement reconnues, mais elle n'est même pas parvenue à formuler ses problèmes de manière précise. *6

contrairement à d'autres sciences: contrairement à 名詞、「名詞に反して」。

non seulement ~ mais ― : 「 ~ だけでなく、― も」。

arrivée à des vérités: arriver à 名詞、「(名詞) に到達する」。

parvenue à formuler: parvenir à 不定詞、「首尾よく ~ しとげる」。

de manière précise: de manière 形容詞、「(形容詞) の仕方で」。「d'une manière 形容詞」に同じ。

それらの体系は「科学的」価値を何ら持っていません。このような理由により、哲学は他の科学に反して、証明がなされ普遍的に承認された真理に到達しなかったのみならず、哲学の問題を正確に定式化することにさえ至らなかったのです。

と言われています。

ここまで、「科学的」であるとはいかなることなのか、明らかにされていません。以降でもはっきりとは示されていませんが、「科学的」であるとは、論理学的、学問的、学術的、自然科学的ということであることが、このあとにぼんやりと感じられます。いずれにしても、続きの発言を見てみましょう。

Une des raisons du caractère non scientifique de la philosophie semble être la négligence de la logique par les philosophes modernes. Au lieu de perfectionner cette science héritée de l'antiquité, et si subtilement pratiquée au Moyen âge, les philosophes modernes, à l'exception de Leibniz, ont focalisé leur attention sur des questions obscures et stériles, telles que ladite «théorie de la connaissance». *7

semble être: sembler 不定詞、「~ するように思われる」。

Au lieu de perfectionner: au lieu de 不定詞、「~ する代わりに」。

à l'exception de Leibniz: à l'exception de 名詞、「(名詞) を除いて」。

ont focalisé leur attention sur des questions: focaliser l'attention sur 名詞、「(名詞) に注意を集中する」。

telles que: tel que 名詞、「(名詞) のような」。

ladite: ledit の女性形。男 ledit, 女 ladite, 男複 lesdits, 女複 lesdites. 「前記の、当該の」。私訳では意訳し、その意味するところを文脈中に散らして訳しています。

哲学が非科学的な特徴を持っている理由の一つは、近代の哲学者たちが論理学を軽視してきたことにあると思われます。古代から受け継がれ、中世においてとても事細かに用いられたこの科学を改良することもなく、近代の哲学者たちは、ライプニッツを除いて、「認識論」と呼ばれるような漠然とした不毛な問題に注意を集中してきました。

「この科学」という言葉で論理学のことが述べられています。

Mais cette négligence de la logique cause deux préjudices à la philosophie : tout d'abord, à cause de leur méconnaissance de la logique, les philosophes ne respectent pas la précision scientifique dans leurs démonstrations, ils ne sont tout simplement pas capables de penser logiquement ; ensuite, comme en témoigne l'exemple de Kant, ils basent souvent leurs idées philosophiques sur des théories logiques erronées. *8

tout d'abord: まず最初に。後出の ensuite (次に) と呼応しています。

à cause de leur méconnaissance: à cause de 名詞、「(名詞) が原因で」。

ne sont tout simplement pas: tout simplement で、「ただ単に」。ne ~ seulement pas のように、否定語 pas の前にある副詞が pas を強調して、「~ さえしない」を意味することがありますが、ここでの tout simplement は、そのあとの pas を強調しているわけではないものと思われます。なお、ne ~ seulement pas は副詞 seulement が前から後ろの pas を強調して「~ さえしない」ですが、ne ~ pas seulement は否定語 pas が前から後ろの seulement を限定して「~ だけというわけではない」を意味します。副詞と pas の前後関係については、朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目「pas」、I. の5番「副詞 + pas / pas + 副詞」の丸1「意味が異なる場合」、369-370ページ。および、伊吹武彦編、『フランス語解釈法』、白水社、2006年、「8.4-2a 否定副詞と他の副詞の前後関係」、181-183ページ。なお、「ここでの tout simplement は、そのあとの pas を強調しているわけではない」と述べましたが、このことについては、私には少し自信がありません。間違っていたらすみません。もしかしたら tout simplement は pas を強調していて、「まったく~ない、とにかく~ない」のように否定を強調しているのかもしれません。この点について気になるかたは、お手数ですが、ご自分で調べいただければ幸いです。

ils ... sont ... capables de penser: S être capable de 不定詞、「S は ~ することができる」。

comme en témoigne l'exemple de Kant: この節は主語が倒置しています。quand や comme などの時や比較を表わす接続詞に導かれた節中で倒置が生じることについては、朝倉、『新フランス文法事典』、項目「sujet 主語」、II. 従属節における倒置、3番「時・比較などの接続詞」、516-517ページを参照ください。そこで comme 以下を元に戻して正置にしてみると、comme l'exemple de Kant en témoigne となります。一般的に en は de + 名詞の代理であり、témoigner は de + 名詞を要求する動詞なので、en を de + 名詞に「ばらして」みると、正置した節は comme l'exemple de Kant témoigne de 名詞となり、この場合「Kant の例が (名詞) を示しているように」を意味しますが、しかしここでの en は実際のところ de + 名詞を代理しているのではなく、むしろ後続の主節 ils basent ... erronées (彼らはしばしば自らの哲学的な考えを間違った論理学の上に基礎付けている) を代理していると考えられます。そうすると comme en témoigne l'exemple de Kant は「カントの例が (そのことを) 示しているように」と訳され、この訳中の「そのこと」とは主節の「彼らはしばしば~の上に基礎付けている」を指しているものと思われます。ここでは en が後出の節を表わしていると考えられますが、前出の節を表わすことができるという解説なら次にあります。朝倉、『新フランス文法事典』、項目「en2 人称代名詞」、II. 不定詞・節の代理、1番「前の節の不定詞 (+ 補語)、節全体の代理」の中の例文 Cela m'était ..., 194ページを参照ください。なお、comme en témoigne l'exemple de Kant の en が後出の節を表わしているということについては、「絶対に正しい」と断言できるまでの自信が私にはありません。間違っていたら謝ります。ごめんなさい。心配な方はお手間おかけいたしますが、独自に調べていただけますと助かります。

ils basent ... leurs idées ... sur des théories: S baser A sur B, 「S は A の基礎を B に置く、S は A を B という基礎の上に置く」。

しかしこのように論理学を軽視するならば、哲学に二つの弊害が生じます。まず第一に、論理学がよくわかっていないせいで、哲学者たちは論証の際、科学的な正確さを尊重しなくなり、論理的に考えることがただ単にできなくなる、ということです。続いて、カントの例が示しているように、哲学者たちは自分たちの哲学的な考えの根拠を、誤った論理学的理論にしばしば置いてしまうことになる、ということです。

論理学がわかっていないと論理的に考えられなくなる、また、現在では通常論理学とは見なされない Kant の言う彼の独特な、誤った論理学に哲学の諸説が依拠してしまう、と主張されています。

これに対し、

La logique créée par les mathématiciens, laquelle établit un nouveau standard de précision sientifique de loin supérieur à tous les standards de précision en usage jusqu'a présent, nous a ouvert les yeux sur le néant de la spéculation philosophique. D'où le besoin d'une réforme de la philosophie comme au temps de Kant. *9

laquelle: lequel の女性単数形。前方の女性単数名詞 La logique を指しています。

de loin: 文字どおりには「遠くから、早くから」。ここでは程度を表わして「はるかに」。

supérieur à tous les standards: supérieur à 名詞、「(名詞) より大きい、(名詞) より優れた」。

en usage: 現在使われている、現用の。

jusqu'a présent: 現在まで。

a ouvert les yeux sur le néant: S ouvrir les yeux sur 名詞、「(名詞) について、S が目を開く」、「(名詞) について、S の蒙を啓く」。

D'où le besoin: D'où 名詞、「以上が (名詞) の原因である、以上の結果、(名詞) になる」。

数学者たちによって作り出された論理学は科学的な正確さについて新たな基準を確立しましたが、これは今までに使われてきた正確さの基準すべてと比べてはるかに優れたものであり、この論理学により、私たちは蒙を啓かれ、哲学的思弁は無に等しいことを教えられたのでした。その結果、カントの時代におけるのと同様に、哲学の改革が求められたのです。

引用文中の「科学的な正確さ」の「科学的」とは、学問的、学術的というほどの意味を持っているものと思われます。

ところでこの改革は Kant の批判主義 (criticisme) や認識論一般に基付いてなされるべきではなく、

mais au nom de la science et dans l'esprit de la logique mathématique. La philosophie scientifique à venir doit commencer sa propre construction depuis le début, depuis les fondements. Et commencer depuis les fondements signifie d'abord faire un compte-rendu des problèmes philosophiques et sélectionner parmi ceux-ci seulement ceux qui peuvent être formulés d'une manière compréhensible et rejeter tous les autres. [...] Ensuite, la tâche serait d'essayer de résoudre les problèmes philosophiques qui peuvent être formulés d'une manière compréhensible. *10

au nom de la science: au nom de 名詞、「(名詞) の名において」。

à venir: 来るべき、将来の。

sa propre construction: 所有形容詞 + propre + 名詞、「(所有形容詞) 自身の (名詞)」。

Et commencer depuis ... signifie: 不定詞句 commencer ... が signifie の主語になっています。

d'abord: 最初に。あとに出てくる Ensuite (続いて) と呼応しています。

signifie ... faire un compte-rendu: 不定詞句 faire ... が signifie の目的語になっています。

faire un compte-rendu des problèmes: faire un compte-rendu de 名詞、「(名詞) について報告する」。なお、compte の発音は「コンプト」ではなく「コント」です。-p- は発音しません。

parmi ceux-ci: ceux-ci は celui-ci の男性複数形。前出の problèmes を指しています。parmi ceux-ci で「これら (の問題) のうち」。

ceux qui ~: ceux も celui の男性複数形。やはり前出の problèmes の代わりをしています。ceux qui ~ で、「~であるようなそれ (問題)」。

d'une manière compréhensible: d'une manière 形容詞で、「(形容詞) の仕方で」。「de manière 形容詞」に同じ。

la tâche serait d'essayer: de + 不定詞が主語 la tâche の属詞になっています。serait は être の条件法現在三人称単数で、ここでは推測または語気緩和を意味します。S serait de + 不定詞で、「S は~することであろう」。

essayer de résoudre: essayer de 不定詞で、「~しようと試みる」。

むしろ科学の名の下に数学的論理学の精神に基付いて行われるべきなのです。来るべき科学的な哲学は、最初から、基礎から、自分自身を建設し始めねばなりません。基礎から始めるというのは、まず最初に哲学の問題を説明し、これらの問題のなかから理解できるように定式化しうる問題だけを選び出し、その他すべては捨て去る、ということを意味します。[...] 続いてなされるべきことは、理解可能な形で定式化しうる哲学的問題を解決しようと試みることでしょう。

この試みを目的とした場合、それに最もふさわしい方法は何かと言うと、それは数理論理学であり、その論理学に典型的に見られる公理的方法だということが、次の発言からわかります。

La méthode la plus appropriée, qu'il faudrait appliquer dans ce but, semble à nouveau être la méthode de la logique mathématique, la méthode déductive, axiomatique. Il faut se baser sur des propositions qui sont aussi claires et certaines que possible du point de vue intuitif et adopter ces propositions à titre d'axiomes. À titre de concepts primitifs, c'est-à-dire indéfinis, il convient de sélectionner des expressions dont le sens peut être expliqué à tous les points de vue par des exemples. Il faut tenter de réduire au maximum le nombre d'axiomes et de concepts primitifs et les compter tous avec soin. Tous les autres concepts doivent être définis de manière inconditionnée sur la base des concepts primitifs, et toutes les autres thèses doivent être prouvées de manière inconditionnée sur la base des axiomes et à l'aide des règles d'inférence adoptées en logique. *11

qu'il faudrait: 関係節中のこの faudrait は、falloir (~ する必要がある) の非人称構文 il faut の条件法現在ですが、なぜ条件法現在になっているのでしょうか? おそらくですが、そうなっているのは仮定を表わすためだと思われます。関係節の中で条件法が使われている時、仮定を表わすことがあります。朝倉、『新フランス文法事典』、項目「conditionnel 条件法」、140ページ、左コラム、3番の丸3「条件法を用いた関係節も同じ [く仮定的な性質を先行詞に与える]」。および、伊吹編、『フランス語解釈法』、「5.9-0 関係節に条件法が用いられて仮定を表わす場合」、127-128ページ。そうすると、qu'il faudrait appliquer dans ce but は、「この目的にそれを適用する必要があるならば」となります。なお、ここで述べたことについても、やはり少し自信がありません。間違っていましたらごめんなさい。お時間あるかたは、お手間おかけいたしますが、ご自分で調べてもらえればと存じます。

à nouveau: 再び。

se baser sur ~: ~ に基付く。

aussi claires et certaines que possible: aussi + 形容詞 + que possible, 「できるだけ (形容詞) な」。

du point de vue intuitif: du point de vue 形容詞、「(形容詞) の観点から、(形容詞) 的観点から」。

adopter ces propositions: adopter ces propositions は 前方の Il faut につながっています。すなわち、Il faut adopter ces propositions. なお、adopter ces propositions の adpoter が adoptent なら、前方の des propositions qui につながります。つまり、des propositions qui adoptent ces propositions.

à titre d'axiomes: à titre de 無冠詞名詞、「(無冠詞名詞) の資格で、(無冠詞名詞) の名目で」。

il convient de sélectionner: il convient de 不定詞、非人称構文で「~ するのがふさわしい、~ するのが望ましい、~ すべきである」。

expressions dont le sens: dont は des expressions のこと。つまり、le sens des expressions.

à tous les points de vue: à tous [les] points de vue で、「あらゆる点から見て」。

tenter de réduire: tenter de 不定詞、「~ しようと試みる、努める」。

au maximum: 最大限に。なお、maximum の発音は「マクシムム」ではなく「マクシモム」のように、-mum が「-ムム」ではなく「-モム」となります。

les compter tous: les は axiomes と concepts を指します。compter は前方の Il faut につながっています。tous はこの les と同格である代名詞 tout の複数形です。したがって les compter tous の意味は「それらすべてを数える (必要がある)」となります。なお、compter の発音は「コンプテ」ではなく「コンテ」 (-p- は発音しません)、代名詞 tous の発音は「トゥ」ではなく「トゥス」です。この tous のあとに母音字を持つ avec が来ていますが、ここでは「トゥス」のままで「トゥズ」とはならないと思われます。tout とその変化形が、どの品詞に属する時、いかなる発音をするのか、リエゾンするのか否かについては、次の本の該当ページに簡潔にまとめられています。石野好一、『中級フランス語文法』、駿河台出版社、2017年、146-148ページ。

avec soin: 入念に、丁寧に、きちんと。

à l'aide des règles: à l'aide de 名詞で、「(名詞) を使って、用いて」。

このような目的に適用する必要がある場合には、その最もふさわしい方法は、再び数学的論理学の方法、演繹的、公理的方法だと思われます。できるだけ直観的に明晰で確実な命題に基付かねばならず、これらの命題を公理として採用せねばなりません。原始的、すなわち無定義な概念としては、その意味があらゆる点で実例により説明できるような表現を選択すべきです。公理と原始的概念の数はできる限り減らし、それらすべてを入念に数え上げるよう努めねばなりません。その他の概念はすべて、原始的概念以外を前提せずに定義されねばならず、その他の命題はすべて、公理に基付くことと、論理学において採用されている推論規則を使うこと以外には何も前提せずに証明されねばなりません。

こうして得られた結果は、私たちの持っている直観と経験、それにその他の自然科学の知見によってチェックを受けなければならないと言われています。

そうやってチェックしたところ、もしも直観や経験、自然科学の知見と

En cas de désaccord, le système doit être amélioré en formulant de nouveaux axiomes et en choisissant de nouveaux concepts primitifs. *12

En cas de désaccord: en cas de 無冠詞名詞で、「(無冠詞名詞) の場合には」。

en formulant: 「en + 現在分詞」でジェロンディフ。ここでは手段「~によって」を表わします。後出の en choisissant も同じです。

不一致がある場合には、新たな公理を定式化し、新たな原始的概念を選択することにより、その体系は改善されねばなりません。

 

3. 哲学の議論を、論理学による公理的方法を使って明晰化すること

以上では、たとえば Newton の力学が、運動の三法則を立て、力の概念などを精緻化し、整備していくことで、近代の物理学が成立したように、哲学も論理学を使って公理を立て、基本的で原始的な概念を整備していくことで、現代的で科学的な哲学が成り立ちうるのだ、と Łukasiewicz 先生はおっしゃりたいのかもしれません。

 

それはさておき、ここでは論理学を使って哲学の何がどのように明瞭になると言われているのでしょうか? Euclid 幾何学にも見られますが、とりわけ論理学において典型的かつシンプルな形で見られる公理的方法を使うことにより、文と文との依存関係と、概念と概念との依存関係が明瞭になる、と言われているように思われます。

つまり、公理的な論理学体系を使うならば、哲学に関し、何を基本的な原始的概念とし、何をその原始的概念から定義される派生的な概念とするのか、これら概念間の依存関係が明瞭になることと、原始的概念を含んだどんな文が公理として立てられ、推論規則を使って公理から定理が引き出されてくることで、どの文がどの文に依存しているのか、これらが明瞭になる、ということです。

また、そのような概念間と文同士の間の関係が論理学的な公理体系として一旦定式化されたなら、そこからさらにどんな文、どんな主張が結論できるかということも、明瞭にできるでしょう。

 

今回の話の最初に魚の例を上げましたが、そこでは「p ならば q で、かつ p である」という論証のパターンがあれば、q が論理的に帰結するのですが、「p ならば q で、かつ q である」という論証のパターンがある時には、通常 p は論理的には帰結しないので、後者の論証パターンがある時には p が出てこないことが明瞭にわかる、と述べていたのでした。これは個々の推論において、あることを前提した時、論理学の正しい論証パターンによって、次に何が結論できるのか、何が結論できないのかが明瞭にわかる、という話です。推論の個々のプロセスを明瞭に把握できるということ、言い換えると、長い推論のつながりの中の一部をミクロに明瞭化できる、ということです。

これに対し、Łukasiewicz 先生の指摘からわかるのは、公理系としての論理学を使えば、ある一つの学問分野全体の文や主張の依存関係が明瞭にわかる、ということです *13 。その分野で何が基本的な真理で何が派生的な真理か、ということが明瞭にされる、ということです。ある学問分野でこのことが明らかにされれば、その分野全体の中で何が一番大切な、一番根本的な真理なのか、どれが枝葉に属する真理なのかが明瞭になる、ということです。つまり、諸真理全体の中の相互依存関係がマクロに明瞭化できる、ということです。

ただ単に漫然と哲学的教説をだらだら述べ続けるのではなく、公理的な論理学を使えば、哲学的教説の各主張を体系的かつ一望のもとに総覧できる、とも言えるでしょう。何が何だかわからない哲学の話を、何が何だかわからないまま読まされるより、公理的に体系化された哲学を、一瞥するだけで把握できるように提示されるほうが確かに望ましいと考えられます。

 

4. まとめ

手短に今日の話を取りまとめてみましょう。

哲学において、論理学を使えば議論が明瞭になる場合がありますが、それは一つには、

 (I) 論理学の推論規則、推論パターンを使えば議論を明瞭に進めることができ、その議論を明瞭に評価できる

ということであり、もう一つは、今回 Łukasiewicz 先生が述べておられるように、

 (II) 論理学に見られる公理的方法を用いれば、哲学上の命題や文の間の依存関係が明瞭になる

ということです。この (II) は、論理学の公理的方法を使えば、何が基本的な文で、何が派生的な文なのか、何が根本的な真理で、何が派生的な真理なのか、それらがはっきりとする、ということでもあります。

「論理学を使えば哲学の議論が明瞭になる」ということには、このように、少なくとも二つの意味合いがあるのですね。個人的に勉強になりました。

 

5. 追記 Łukasiewicz and Modernism

最後に。もう一つだけ、Łukasiewicz 先生の話を読んで思ったことを記します。

私が先生の文を読んで強く思ったことは、そこにいわゆる modernism の典型的特徴 (の一部) が現われているのではないか、ということでした。1920年代前後のヨーロッパの、建築や文学や芸術における modernism の考え方が、そこにはくっきりと現われているようだ、ということです。

私は modernism を専門的に勉強しているわけではないので、それがどのような主義なのか、正確には知りませんし、詳しく述べることもできませんが、おおよそ、次のような特徴を持っているのではないかと、個人的に、かつ主観的に感じます。その特徴を、雑然とではありますが、並べてみましょう。

モダニズムの特徴 (と個人的に感じられるもの)

  (1) 伝統的スタイルを峻拒する。
  (2) 事柄を理詰めで合理的に説明し、ものを統一的、効率的に産出しようとする。
  (3) 普遍性、国際性を目指し、地域的文脈を越えようとする。
  (4) 有用であること、機能的であることをよしとする。
  (5) 新しいものほどよいとし、進歩を信じる。
  (6) 方法に自覚的であり、実験や試行錯誤を繰り返す。
  (7) 社会改革を志向し、啓蒙的性格を帯びる。

これは正確でもなければ、必要にして十分でもなく、説明のひどく足りない箇条書きであって、明らかに専門家から文句がつくでしょうが、今、私は modernism について、きちんと確認している時間も余力もないので、上の特徴付けでどうか許してください。

仮に、modernism という運動の考え方が、上記の特徴付けで、大体のところ、捉えられているとするならば、Łukasiewicz 先生の今回の話には、この modernism の特徴が現われているように思われました。

というのも先生のお話は、過去の重要と思われている伝統的な哲学、すなわち「Descartes による神の存在証明と実体の定義、Spinoza の (おそらく) Ethica, Leibnizモナドと予定調和説、Kant純粋理性批判ドイツ観念論の提起した問題」を、一刀両断に「間違っている」として拒絶し (1)、合理的で (2)、普遍的で (3)、有用で (4)、機能的な (4)、新しい (5) 数理論理学を、科学的な方法として自覚的に哲学へ導入し (6)、哲学者を新たに啓蒙して (7)、哲学の改革を目指している (7) からであり、先生の以下の文章なども、伝統をあからさまに、あるいは露骨に拒否する姿勢が明白です。

先生は、哲学において、数理論理学を援用しつつ、経験諸科学との整合性を図る研究 (travail) を推奨されていますが *14

Dans ce travail, nous devrions nous comporter comme si rien n'avait été fait en philosophie. Tout retour à Aristote, à Leibniz ou à Kant ne nous sera d'aucune utilité ; ce serait plutôt un inconvénient, car nous succomberions à la suggestion de ces grands noms et acquerrions de mauvaises habitudes mentales. *15

nous devrions nous comporter: se comporter + 様態を表わす語句、「~のように振る舞う」。

comme si rien n'avait été fait: comme si + 直説法半過去、「まるで~であるかのように」、comme si + 直説法大過去、「まるで~であったかのように」。ここでは後者。

Tout retour à Aristote: tout + 無冠詞名詞、「どんな (無冠詞名詞) も、いずれの (無冠詞名詞) も」。

ne nous sera d'aucune utilité: être の単純未来である sera は、ここでは推測「~だろう」を表わし、n'être d'aucune utilité は「まったく役に立たない」を意味します。d' は属詞において性質の帰属、所有を表わす de です。例文: La question est de grande importance. 「その問題は極めて重要だ」。そのため、d' は des + 形容詞 + 複数名詞における des の代わりではありません。そもそも utilité は複数形ではないので。また、その d' は否定文中における他動詞の直接目的語に付いた不定冠詞、部分冠詞に代わる de でもありません。être は他動詞ではなく、utilité も目的語ではありませんので。

ce serait plutôt: serait は être の条件法現在で、語気緩和「~だろう」を表わします。後続の succomberions と acquerrions も条件法現在で語気緩和です。

succomberions à la suggestion: succomber à + 名詞、「(名詞) に抗し切れなくなる、(名詞) に屈する」。なお、suggestion の発音は「シュジェスシオン」ではなく「シュグジェスシオン」。つまり、-gg- は g 二文字で「ジュ」ではなく、一文字目の g が「グ」、二文字目の g が「ジュ」で、合せて「グジュ」となります。

このような研究において私たちは、あたかも哲学では何もなされてこなかったかのように振る舞わなければなりません。アリストテレスライプニッツ、カントのいずれに帰ることも、私たちにとっては何ら役に立たないでしょう。それはむしろ差し障りがあることでしょう。というのも、私たちはこれら偉大な人々の提案に抗し切れず、[権威におもねり、盲目になるという] 精神的に悪い習慣を身に付けてしまうだろうからです。

「過去をすべて捨てて、数理論理学だけを頼りに、一から出直すべきだ」というわけです。これは大胆にして勇敢な行為だ、とも言える一方で、傲慢不遜で無謀な行為だ、とも言えるかもしれません。

かつて Hilary Putnam 先生は、分析哲学という哲学上の運動を、modernism の一環として捉えるとよい、と述べておられましたが *16 、Łukasiewicz 先生たちに率いられた Lvov-Warsaw School も、あるいは modernism の一環を成していたかもしれませんね。

しかし、Łukasiewicz 先生の1927年における野心的な modernism の高唱も、1931年までの運命だったのかもしれません。その年、Kurt Gödel 先生が有名な第一不完全性定理の証明を発表されましたから *17

 

これで終わります。例によって、誤解や無理解や、誤字、脱字、誤訳、悪訳、勘違いに無知な点等がありましたら謝ります。すみません。気を付けます。どうかお許しください。

 

*1:2020年10月25日の当ブログ。

*2:同上のブログのセクション「その三 論理学的明瞭さ」。

*3:この略歴は 次の辞典に出てくる項目名 'Łukasiewicz' の大まかな和訳です。T. Mautner ed., The Penguin Dictionary of Philosophy, 2nd ed., Penguin Books, 2005, p. 363. なお、Aristotle の三段論法は、Łukasiewicz 先生が言うように文としての定理ではなく、やはり論証の形をしている、という反論も研究者の間ではあります。Corcoran 先生のお仕事を参照ください。John Corcoran, ''Aristotelian Syllogisms: Valid Arguments or True Universalized Conditionals?'' in hg. von A. Menne und N. Öffenberger, Über den Folgerungsbegriff in der aristotelischen Logik, Olms, 1995. This paper was originally published in Mind, vol. 83, 1974. John Corcoran, ''Aristotle's Natural Deduction System,'' in his ed., Ancient Logic and its Modern Interpretations, D. Reidel, 1974, pp. 94-97. 現在の研究者の間では、Corcoran 説が定説のようです。今井知正、「『分析論前書』解説」、アリストテレス、『分析論前書 分析論後書』、今井知正、河谷淳、高橋久一郎訳、アリストテレス全集 2, 岩波書店、2014、539ページ、P. Simons, ''Jan Łukasiewicz,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2014, 6.2 Aristotle, <https://plato.stanford.edu/entries/lukasiewicz/#Ari>.

*4:この論文は、もともと1927年の第2回ポーランド哲学大会の際に、Łukasiewicz 先生が行なった講演に由来しており、それは「O metodę w filozofii」という題名でジャーナル Przegląd Filozoficzny、第30巻 (第31巻?)、1928年に発表されたものなので、訳文は「です、ます」調で記します。由来については ''De la méthode en philosophie'' の291ページにおける脚注を参照ください。なお、この講演原稿は Łukasiewicz 先生の英訳著作選集、Selected Works, L. Borkowski ed., North-Holland, 1970 では英訳されていません。

*5:''De la méthode ..., '' p. 289.

*6:Ibid.

*7:Ibid.

*8:Ibid., p. 289-290.

*9:Ibid., p. 290.

*10:Ibid.

*11:Ibid.

*12:Ibid., p. 290-291.

*13:ただし、このことを最初に指摘したのが Łukasiewicz 先生だ、と言いたいわけではありません。先生の前には少なくとも Gottlob Frege 先生が指摘しています。Frege, Die Grundlagen der Arithmetik, hg., Ch. Thiel, Felix Meiner, 1884/1988, §2. おそらくこの指摘は古代にまで、さかのぼるかもしれません。

*14:''De la méthode ..., '' p. 290-291.

*15:Ibid., p. 291.

*16:ヒラリー・パトナム、「規約」、『実在論と理性』、飯田隆他訳、勁草書房、1992年、214ページ。

*17:とはいえ「第一不完全性定理の証明によって、Łukasiewicz 先生の公理的手法に基付く哲学的な試みがとどめを刺されたのだ」と、ここで断言しているわけではございません。「第一不完全性定理により、ひょってしてひょっとすると、Łukasiewicz 先生の試みに、とどめを刺されたように感じた人も、なかにはいたかもしれないな」というぐらいのことを示唆しようとしているだけです。不完全性定理の哲学的含意を語ることは極めて危険なことですし、第二不完全性定理の哲学的含意を語るよりも、第一不完全性定理の哲学的含意を語る方が誤解が生まれる可能性は少ないと言われているようですが、それでもそもそも私はその定理やその定理の哲学的含意を語る能力はありませんので、Łukasiewicz 先生の試みと第一不完全性定理とが、何か交錯する可能性があるかもしれないことを、ここでは暗示するだけにとどめておきたいと思います。第一不完全性定理よりも第二不完全性定理の哲学的含意を語る方が誤解を生みやすいという指摘は、次をご覧ください。江田勝哉、「「ゲーデルの第2不完全性定理」はわからない」、『数学セミナー』、2012年11月号、44ページ。