Leśniewski and Chocolate

目次

 

お知らせ

今まで毎月一回、だいたい月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

私の身辺が流動的になってきており、このまま定期的に更新できるか不明です。

もしかすると従来どおりあまり変わらないペースで更新できるかもしれませんし、ひょっとすると長期的に更新が止まるかもしれません。

いずれにせよ、できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。

とにかく状況が流動的であることをお伝え致します。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

東日本大震災から10年が経ちました。

多くのかたが望まぬ死を迎え、残されたかたもその人生が狂い、今もつらい思いを抱えておられる人もいらっしゃると思います。

また現在、コロナウィルスの流行により、たくさんのかたが苦しい状況にあると思います。私も苦しいなかに置かれています。

とてもつらい時、私は Bill Evans のよく知られたアルバム Waltz for Debby の一曲目、'My Foolish Heart' を静かに聴きます。

Evans のピアノの音色がおずおずと流れてくると、目を閉じます。

すると New York の夜景が目の前に広がり、私は上空からゆるゆると摩天楼のあいだをさまよい始めます。

だんだん演奏が盛り上がり出すと、私はそのまま流れに乗って現実から遠く離れていきます。

ビルの淡い光を遠くに見ながら、暗闇のなかをただよい続けます。

そのあいだ、Evans の素敵なピアノのメロディーに身を任せ、Scott LaFaro のベースにからだをゆすられ、Paul Motian のブラッシングに心くすぐられて、すばらしい演奏を味わいます。

そして三人の美しい会話が終わり、静かに目をあけ現実の世界に戻ってくると、汚れた感情が少しだけ洗い流されて行ったように感じるのです。

こころとからだがつぶれそうで仕方がないかたに、Evans の 'My Foolish Heart' を送ります。夜のつらい時にはこの曲を聴くといいかもしれません。心洗われる音楽があると日々の苦痛にちょっとだけ耐えられます。私も何とかこの苦痛を乗り越えたいと思っています。それにしても人生ってしんどいですね。

 

はじめに

以前にも触れたことがあるのですが、論理学者の Leśniewski にまつわる逸話について、今回、追加情報を交えながら話をしたいと思います。Leśniewski さんの論理学や哲学にはほとんどご興味をお持ちでないかもしれませんが、お暇であれば以下の記述をご覧ください。

Stanisław Leśniewski (1886–1939) さんはポーランドの論理学者、哲学者で、Protothetic, Ontology, Mereology という、論理学に関する三つの独特な体系を作り出したことで有名です。簡単に言えば、Protothetic は命題論理学を一般化したもの、Ontology は Aristotle の論理学の現代版、Mereology は集合論に代わる理論です。

これら三つの体系は現代の論理学などでは主流を形成することはありませんでしたが、Leśniewski がこれらの体系を作り出す過程で得た知見の一部は現代の主流的見解として受け入れらています。そのような知見には、たとえば対象言語とメタ言語の区別の必要性、意味論的範疇というタイプ理論に似た理論で、自然言語分析の道具となっているものの開発、定義の満たすべき条件を考察する重要性の喚起などがあります。そして Gottlob Frege の修正された論理体系から矛盾が出てくることを最初に証明してみせたのも Leśniewski でした。

また Leśniewski が Alfred Tarski を教え、Tarski さんが現代の model 理論の礎を築いたことも、間接的に Leśniewski さんの功績と言えるでしょう *1

 

逸話のさわりとその情報源の一部

さて、Leśniewski の Ontology という論理学の公理系では、ただ一つの公理からいろいろな定理が導出されるのですが、そのただ一つの公理を Leśniewski が発見したのは、彼が Warsaw の Saxon Garden (Ogród Saski w Warszawie) で、ベンチに座ってチョコレートをかじっている時だった、というおもしろい話が伝わっています。

この公園は、internet で見ると Warsaw 大学の、通りを隔てたすぐ西にあり、フランス風の結構大きな公園みたいです。

 

この逸話については、たとえば

・ Jan Lukasiewicz  ''Symposium: The Principle of Individuation,'' in: Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volume, vol. 27, 1953,

の section 5. Lesniewski's Ontology において (pp. 77-78)、この種のことが語られています。また、

・ Stanisław Surma  ''On the Work and Influence of Stanisław Leśniewski,'' in R. Grandy and J. Hyland eds., Logic Colloquium 76, North-Holland, 1977,

の193ページでも、いくぶん似た話が出てきます。さらに最近では、

・ Peter Simons  ''Stanisław Leśniewski,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Fall 2020 Edition, *2

の section 3.2 Ontology でも述べられています。

 

これら三つの文献のうち、Lukasiewicz 先生の文献では、先生本人が Leśniewski 当人から聞いた話として語られていますが、残りの二つの文献では、誰から聞いた話なのか、あるいはどこでそのような話を読まれたのか、情報の source が記されていません *3

 

しかしその source は次の書籍に書かれている

・ J. Wolenski  Logic and Philosophy in the Lvov-Warsaw School, Kluwer Academic Pub., 1989,

以下の文献かもしれません (このポーランド語の文献自体は、私は未見です)。

・ T. Kotarbiński  ''Garść wspomnień o Stanisławie Leśniewskim (A handful of memories of Stanisław Leśniewski),'' in: Ruch Filozoficzny, 24, 1958.

 

逸話 その一

上記、Wolenski 先生のご高著の、p. 320, n. 29 に、その逸話の英訳が載っていますから、ここに引用してみましょう。なお、引用文末尾の文章は理解しにくいと思います。

Now it happened that Leśniewski (it was probably just before World War I) undertook to give a lecture on Russell's antinomy .... While preparing himself for this lecture he suddenly realized at a certain moment that his ciriticism of the antinomy included an error, ''lay in ruins'', as he used to say in such cases. He was in a deplorable situation. The lecture was to take place in a matter of hours, and he could easily discredit himself. He concentrated his attention to the utmost an [on?] helping himself by cracking a piece of chocolate. The result was that, as he put it, the chocolate gave birth to mereology. For it is not clear that although someting which is an M is thus an element of the class of M's, yet it is not true that something which is an element of the class of M's must therefore be an M [...].

 

拙訳を掲げてみましょう。誤訳しておりましたらすみません。

さて、Leśniewski は (おそらく第一次世界大戦直前のことだったろうが) Russell の二律背反について、講義を引き受けることになった。... この講義の準備をしていると、ある時、二律背反に対する自分の批判には誤りが含まれていること、このような場合、彼がよく使っていた言葉では「破綻している」ことに突然気が付いた。彼は愕然とした。講義はほんの数時間後に行われることになっており、[このままだと] おそらく信用を失ってしまうことになるだろう。彼はチョコレートの一片を割ってかじり、自分を鼓舞することに注意を最大限集中した。その結果、彼の言葉で言えば、チョコレートが Mereology を生んだのである。というのも、たとえば M であるものが M のクラスの要素だとしても、それだからといって M のクラスの要素であるものが M でなければならないということは真ではない、ということは明らかではないからである [...]。

最後の一文はわかりにくいですね。ポイントだけを説明しましょう。この最後の一文に興味のない方は、このセクションをスキップし、次のセクション「逸話 その二」に進んでいただいて構いません。その後の話の理解に支障は来たしませんので。

 

さしあたり、最後の一文は、次のように考えておけばよいと思います。

今、「M であるもの」を「M 成分」、「M のクラスの要素」を「M 要素」と呼ぶことにします。M 成分や M 要素が何であるかは気にしなくてもいいです。

そうすると、引用文末尾の文

・ M であるものが M のクラスの要素だとしても、それだからといって M のクラスの要素であるものが M でなければならないということは真ではない、ということは明らかではない

は、以下のように表現できます。

・ M 成分が M 要素だとしても、それだからといって M 要素が M 成分でなければならないということは真ではない、ということは明らかではない。

何のことかわからないかもしれませんが、とりあえずこの文の内容は考えなくてもいいです。考えるとややこしくなるので、この文の表面的な構造にだけ注意してください。

さて上の文を少し言い換えると、

・ M 成分が M 要素だとしても、この逆に、M 要素が M 成分であるとは限らない、ということは明らかではない。

となります。これは要するに、

・ M 成分であることと M 要素であることは同じことではないのであって、そのことは一般に明らかではなく、M 成分であることと M 要素であることとは違うものであることが一般には知られていない、

ということです。たとえていえば、

橋と箸は (発音は一致するものの) 同じものではないのであって、日本語を母語としていない日本語初級者には、橋と箸が違うものであることが時として一般には知られていない、

という感じです。

ここで Leśniewski が言っている大切なことは、M 成分と M 要素は違ったものだ、ということです。M 成分と M 要素が何であるかは今私は説明していませんが、なんにしろそれらは違っているのであって、皆そのことに気が付いていない、と Leśniewski は言っているのです。

では、M 成分と M 要素は何かと言うと、とりあえずは「クラス」ないし「集合」の意味のことだと考えられます。つまり「クラス」または「集合」という言葉には二つの意味があって一方が M 成分であり、他方が M 要素だ、ということです。「クラス」という言葉は M 成分と M 要素という二つの異なる意味を持ち、「集合」という言葉も同様に M 成分と M 要素という二つの異なる意味を持つ、ということです *4

つまるところ Leśniewski が言わんとしていることは、あえて彼ののちの考えも考慮して言うならば、次のことです。

Leśniewski 曰く、「クラス」または「集合」という言葉は二義的、両義的なのだ。にもかかわらず、それらの言葉を一義的な、ただ一つの意味しか持たない表現だと考えると Russell のパラドックスが生じるのであり、本当は二義的で両義的だと考えねばならず、そう考えると Russell のパラドックスは生じず、そのパラドックスは雲散霧消するのである。Russell のパラドックスでは矛盾が出てくるのだが、「クラス」または「集合」に関して二つの異なる意味を混同すると矛盾が出てくるのだ。それらの言葉には二つの異なる意味があるのに、矛盾導出のある段階では一方の意味を、別の段階では他方の意味を、無意識に持ち出し入れ換えることで、一義的だと思い込みつつ二義的に意味を使い分けながら矛盾を引き出す結果に陥っているのである。しかし二つの意味をきちんと区別すれば矛盾は出てこなくなり、Russell のパラドックスは幻にすぎなかったことがわかるのだ *5

 

逸話 その二

ところで問題のチョコレートの逸話は、次のフランス語の論文にも少し出てきます。

・J. Woleński  ''Paradoxes logiques et logique en Pologne,'' tr. de l'anglais par M. Rebuschi, in R. Pouivet et M. Resbuschi, dir., La Philosophie en Pologne 1918-1939, Vrin, 2006. *6

その逸話はこの論文の 'Leśniewski' と名付けられたセクションに出てきます (pp. 125-126)。そこでその逸話が出てくる箇所を引用し *7 、私と同様、フランス語の修業中の方の勉強となるよう文法の簡単な解説を付し、私訳/試訳を掲げ、内容の説明やコメントを若干付けてみます。

以下で取り上げる Russell Paradox に代表される論理的なパラドックスというものは、もしかすると人間知性の盲点の現われなのかもしれません。いわばそこに知性の限界が露呈しているのかもしれません。もしもそうであるならば、論理的なパラドックスとはどのようなものであり、どうしたらそれを解決できるのか、このことを分析することは人間の知性の限界を分析することになり、ひいては、人間とは何か、という問いに対する答えの一班を明らかにすることになるかもしれません。

 

それはさておき、仏文とその和訳を掲げる前に一言申し添えておきますと、当たり前ですが、私はフランス語の先生ではありません。フランス語が得意というわけでもありません。そのため、このあとの私訳には誤訳は一切含まれていない、とは言い切れません。ないように努めましたが、ひょっとすると含まれてしまっているかもしれません。そのようでしたら謝ります。ごめんなさい。

私訳は直訳と意訳の中間ぐらいの気持ちで訳しました。直訳しても不自然ではなく、一読して意味が通る場合には直訳、さもなければ意訳気味にしてあります。

 

原文

 Il y a une anecdote amusante sur la manière dont Leśniewski est parvenu à sa propre solution de l'antinomie russellienne 1. Juste avant sa conférence sur le paradoxe de Russell en 1914 (voir plus haut), il (Leśniewski) réalisa, pensant à son exposé sur un banc du parc Saski de Varsovie, que la solution qu'il proposait contenait une erreur (la solution n'est pas connue, mais elle était probablement basée sur la théorie des ensembles traditionnelle). Soudain, en mangeant un morceau de chocolat, il réalisa que l'erreur pouvait être corrigée en changeant le concept d'ensemble. Le morceau de chocolat devint peut-être un modèle du concept méréologique d'ensemble. Quoi qu'il en soit, d'après cette nouvelle explication, le terme «la classe des classes non subordonnées à elles-mêmes» est vide. Par conséquent, les phrases:

   (9) la classe des classes non subordonnées à elles-mêmes est subordonnée à elle-même; *8

   (10) la classe des classes non subordonnées à elles-mêmes n'est pas subordonnée à elle-même;

sont toutes deux fausses, car leur sujet est vide. Donc (9) et (10) ne sont pas les négations l'une de l'autre et le paradoxe disparaît. Ceci constitua la première tentative de solution 2.

 

1. T. Kotarbiński, «Garstka wspomnień o Stanisławie Leśniewskim» (Une Poignée de souvenirs à propos de Stanisław Leśniewski), Ruch Filozoficzny XXII/1-2 1958, p. 155-163. *9

2. E. C. Luschei, The Logical Systems of Leśniewski, Amsterdam, North-Holland Publishing Company, 1962, p. 66-78 et V. F. Sinisi, «Leśniewski's Analysis of Russell's Antinomy», Notre Dame Journal of Formal Logic, XVII 1976, p. 19-34 pour des descriptions concises de tous les travaux de Leśniewski concernant l'antinomie de Russell; voir aussi A. Betti, «Leśniewski, Early Liar, Tarski and Natural Language», in The Provinces of Logic Determined. Essays in the Memory of Alfred Tarski (un numéro spécial des Annals in Pure and Applied Logic 127 2004), édité par Z. Adamowicz, S. Artemov, D. Niwiński, E. Orłowska, A. Romanowska et J. Woleński, p. 267-287 et A. Betti, «Łukasiewicz and Leśniewski on Contradiction» (non publié) pour une reconstruction prudente des premiers travaux de Leśniewski's [sic] et plusieurs remarques historiques et comparatives éclairantes.

 

文法事項

ポイントとなりそうなことだけを取り上げ、ごく簡単な事柄については説明を省きます。

la manière dont: dont は関係代名詞。その内容は一般に「de + 名詞・代名詞」を含でいます。ここでの dont は de la manière のこと。「そのやり方で」。私訳では意訳しています。

sa propre solution: 「所有形容詞 + propre + 名詞」で、「誰それ自身の (名詞)、何々自身の (名詞)」。

pensant à ~: penser à ~, 「~を考える」の現在分詞で、ここでは分詞節、つまり英語の分詞構文のように働いており、後出の Varsovie までをひとくくりにし、挿入句となっています。意味は「~している時」。

la solution qu'il proposait contenait: 従属節中にある proposait と contenait という半過去は時制の一致によるもの。主節 il (Leśniewski) réalisa, ..., que と同じ過去の時点を表わすために半過去形になっています。一般に、主節が過去で、従属節の出来事もそれと同時の過去を表わしたい時は、従属節を半過去にします。したがって和訳する際に「彼 (Leśniewski) は、自分が提案した解決策が~を含んでいたことに気が付いた」と訳すのではなく、「彼 (Leśniewski) は、自分が提案する解決策が~を含んでいることに気が付いた」というように訳す必要があります。

il réalisa que l'erreur pouvait: ここの半過去 pouvait も時制の一致によるもの。

Quoi qu'il en soit: 一種の成句で譲歩節。「いずれにせよ、何であれ」。ここでは soit のように接続法が使われていますが、それはなぜなのでしょうか。接続法は、すべての場合ではないものの多くの場合、あることが事実であるとは断定せず、判断を保留している従属節中で使われます。ところで今回のような文頭の que 節は、これから話をする主題をまず最初に提示するために文頭に出されています。この段階ではまだ que 節中の事柄は事実であるともないとも断定されていません。それがなされるのは、このあとの主節においてです。このようなわけで文頭の que 節では、判断を下す前の事柄が主題を提示するために前に投げ出されているだけなので、接続法が使われているのです。詳しくは、渡邊淳也、『中級フランス語 叙法の謎を解く』、白水社、2018年、68-71ページを参照。

toutes deux: 「tous/toutes + 数詞」で「~ともども、~全部」。

l'une de l'autre: 相互性を表わします。「互いに」。une と女性形になっているのは la phrase を代理しているから。

remarques historiques et comparatives éclairantes: 「歴史研究による注記、および [Tarski, Łukasiewicz と Leśniewski の] 比較に基付くわかりやすい注記」。この場合、historiques, comparatives, éclairantes は、どれも remarques にかかっています。remarques comparatives éclairantes のように二つの形容詞が前の名詞にかかる時は、remarques comparatives et éclairantes のように、それらの形容詞の間に et を置く、と書かれている文法書もありますが、二つの形容詞が性質上、似ていない時は et を間に置かなくてもよいことになっています。今言及した「文法書」とは、目黒士門、『現代フランス広文典 改訂版』、白水社、2015年であり、その77ページを参照ください。「性質上、似ていない時は et を間に置かなくてもよい」と述べているのは、久松健一、『久松健一のフランス語 Q & A 350』、国際語学社、2012年、147ページです。また、もしも原文が remarques historiques et comparatif éclairantes となっていれば「歴史研究による注記、および比較的わかりやすい注記」と訳されます。この場合、comparatif は éclairantes にかかり、éclairantes は remarques にかかります。形容詞が副詞化して別の形容詞にかかる時は、形容詞の前から無変化でかかります。なお、historiques, comparatives, éclairantes が、どれも等しく remarques にかかる時には、普通、remarques historiques, comparatives et éclairantes とするものだと思われますが、そうしていないのは、historiques と comparatives et éclairantes を互いに異質で対照的な性質、別々のまとまりを持ったものと書き手が見なしているからなのかもしれません。

 

私訳/試訳

 Russell の二律背反について、Leśniewski が彼自身の解決策を思い付くに至った様子に関しては、おもしろい逸話がある 1。1914年、Russell のパラドックスについて講演をする直前に (前を参照)、彼 (Leśniewski) はワルシャワのサクソン公園のベンチに座って発表内容のことを考えていると、自分が提案しようとしている解決策が間違いを含んでいることに気が付いた (その解決策は知られていないが、おそらく従来の集合論に基付いたものだったろう)。チョコレートの断片を食べている時に、集合の概念を変えればその間違いは修正できると、突然彼はひらめいた。おそらくチョコレートの断片が Mereology 的な集合概念の具体例となったのだろう。いずれにせよ、この新しい説明によるならば、名辞「自分自身に属さないクラスたちのクラス」は空 (くう) なのである。それ故、文

   (9) 自分自身に属さないクラスたちのクラスは、自分自身に属する。

   (10) 自分自身に属さないクラスたちのクラスは、自分自身に属さない。

は、二つとも偽なのである。というのも、それらの主語は空だからである。したがって (9) と (10) は互いに否定になっているのではないので、パラドックスは消えてなくなるのである。これがパラドックス解決の最初の試みを成しているものである 2

 

1. T. Kotarbiński, «Garstka wspomnień o Stanisławie Leśniewskim» (Stanisław Leśniewski についてのいくつかの思い出), Ruch Filozoficzny XXII/1-2 1958, p. 155-163.

2. Russell の二律背反に関する Leśniewski の研究すべての簡潔な記述としては、E. C. Luschei, The Logical Systems of Leśniewski, Amsterdam, North-Holland Publishing Company, 1962, p. 66-78, および V. F. Sinisi, «Leśniewski's Analysis of Russell's Antinomy», Notre Dame Journal of Formal Logic, XVII 1976, p. 19-34, また、Leśniewski の最初期の研究を慎重に再構成し、歴史研究に基付いて、[Tarski, Łukasiewicz と Leśniewski を] 比較し、わかりやすくいくつもの注記を施している次の文献も参照、A. Betti, «Leśniewski, Early Liar, Tarski and Natural Language», in The Provinces of Logic Determined. Essays in the Memory of Alfred Tarski (Annals in Pure and Applied Logic, 127, 2004 の特別号), Z. Adamowicz, S. Artemov, D. Niwiński, E. Orłowska, A. Romanowska, J. Woleński 編、p. 267-287, および A. Betti, «Łukasiewicz and Leśniewski on Contradiction» (未刊)。

 

一部解説

Leśniewski 先生はチョコレートを「むにゃむにゃ」と食べている時に、「はっ!」と解決案がひらめいたんですね。先生は甘党だったんでしょうか?

それはいいとして、私訳中の「おそらくチョコレートの断片が Mereology 的な集合概念の具体例となったのだろう」というのはどういうことかというと、通常の集合論に見られる抽象的な集合の概念を念頭に置くのではなく、チョコレートのような具体的なもののまとまりを考えるならば、その全体と部分との関係は抽象的な集合の全体と要素の関係とは違ってくるということに Leśniewski は気が付き、この具体的なものの全体と部分の関係に基付いて Russell のパラドックスを考え直すならば、このパラドックスを解決できるはずだ、と Leśniewski は考えた、ということです。

そしてその解決案においては、上記 (9) と (10) の主語は空なので (9) と (10) はどちらも偽となり、互いに矛盾することはない、という理路を取りますが、しかしどうして (9) と (10) の主語が空なのか、私訳だけではわからないと思いますので、その理由をごくごく簡単かつ大まかに説明してみましょう *10

 

Leśniewski によると、どのようなものもそれ自身から成ります。それに部分があるならば、どのようなものも、その部分から成ります。

たとえば、太郎は太郎自身から成ります。また太郎は、その部分である右手や左足などから成ります。

これらを言い換えると、どのようなものもそれ自身を含みます (*)。それ自身に部分があるならば、どのようなものも、その部分を含みます。

たとえば、ちょっと奇妙な言い方ですが、太郎は太郎自身を含みます。また太郎は、その部分である右手や左足などを含みます。

このように、どのようなものもそれ自身を含んでいるのならば、どのようなものもそれ自身を含んでいないものはありません (**)。また、それに部分があるのならば、どのようなものもその部分を含んでいないものはありません。

そうすると、どんなものも自分自身を含んでいるのですから、自分自身を含んでいないような空集合は存在しません。空集合は何も含んでいませんが、何も含んでいないものはないのですから、空集合は存在しないことになります。

 

さて、Russell のパラドックスは、次のような集合があると考えることから生じます。その集合とは (9) と (10) の主語に含まれている「自分自身に属さないクラス」という言葉が指している集合のことです。この集合は言い換えると、「自分自身を含まない集合」と言えます。ところで Leśniewski によると、上で述べたとおり、どのようなものもそれ自身を含んでいるのであり (*)、どのようなものもそれ自身を含んでいないものはないのでした (**)。したがって、Russell のパラドックスのもととなる、自分自身を含まない集合というようなものは存在しません。よって存在しないものを指しているとされる (9) と (10) の主語はどちらも空です。故に文 (9) と (10) はどちらも偽であり、一方が他方の否定にはなっていないので矛盾は生じません。こうして Russell のパラドックスは回避されます。

しかし仮に、自分自身に属さないクラス、自分自身を含まない集合が存在しないとしても、その代わり、それらの名前「自分自身に属さないクラス」、「自分自身を含まない集合」は空集合を指しているとするならば、それらの名前は空ではないと強弁できるかもしれません。しかし上で見たとおり、空集合は存在しないとされていますので、やはり名前「自分自身に属さないクラス」、「自分自身を含まない集合」は空であって、結局 Russell のパラドックスは回避されます。

 

これで Russell のパラドックスという難問は解決されたかのように見えるかもしれませんが、本当にどのようなものもそれ自身を含んでいるのであり (*)、どのようなものもそれ自身を含んでいないものはない (**) のか、よく考えてみる必要がありますので、上記のような Leśniewski の考えで、ちゃんと Russell のパラドックスが回避できているのか、検討の余地がありそうです。

 

それに主語が空だからといって、それでただちにそのような主語を持った文が偽になるとは限らないと思われます。たとえば、

 (#)   一角獣は生き物ではない。

という文があります。この文の主語「一角獣」は通常、空とされます。そうすると、Leśniewski の考えでは文 (#) は偽となるはずです。しかし (#) はほとんどの人が正しいと思うのではないでしょうか? 大抵の人が真だと感じるのではないでしょうか?

以上のように、Leśniewski の上記の考えによって本当に Russell のパラドックスが回避できているのかどうかは慎重に判断される必要があると思われます。

 

今日はこれで終わりましょう。Leśniewski 先生はチョコレートがお好きだったみたいですね。私も甘党なのでチョコレートが好きです。先生も私もチョコレートが好きだとしても、だからといって私は、論理学や哲学に関し、先生のような偉大な人物ではありませんけれども ... 。

それはさておき、今回の話にはいろいろと間違いが含まれているかもしれません。誤訳や悪訳や、不正確な解説があったかもしれません。そのようでしたらごめんなさい。謝ります。また勉強いたします。

 

*1:次の論文では、いわゆる Lvov-Warsaw 学派の論理学上の業績、成果が多数箇条書きにされています。Jacek J. Jadacki, ''On the Sources of Contemporary Polish Logic,'' in: Dialectics and Humanism, vol. 7, no. 4, 1980. この論文から Leśniewski の業績とされているものを抜き出してみましょう (pp. 165-168)。 10個あります。[1] 一つの公理に基付いた、含意記号と同値記号を含む公理系 Protothetic の構築、[2] 公理系 Ontology の構築、[3] 公理系 Mereology の構築、[4] 統語論的カテゴリーの理論の開発、[5] 自然演繹の手法に基付く述語論理の開発、[6] 外延性のより正確な定義の提示、[7] ある論理体系に論理的、意味論的パラドックスが出てくるのは、定義に関する規則に違反した結果であり、異なる統語論的カテゴリーを区別し損ね、対象言語とメタ言語の違いに注意を払っていないとする診断、[8] 論理体系内の推論規則をこの体系自身に適用することは不適切であり、この適用の際には日常言語を使う必要のあることを注意、[9] 定義は規約的な省略記法であるだけでなく、言語選択の手段をもなすことの指摘、[10] 論理体系の定理は公理の選択に依存するだけでなく、推論規則にも依存することの指摘。以上です。なお、Jadacki 先生の記述を私が誤解していたらすみません。

*2:URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2020/entries/lesniewski/>.

*3:加えて記しておけば、問題の逸話について、Lukasiewicz, ''Symposium'' と Simons, ''Stanisław Leśniewski'' では、1920-1921年ごろ、Saxon Garden で Leśniewski はチョコレートを食べていて Ontology の公理を発見した、と記されていますが、Surma, ''On the Work and Influence'' と、以下で取り上げる Wolenski 先生の二つの文献では、1914年ごろ、(Saxon Garden で) Leśniewski はチョコレートを食べていて Mereology を考え出した、と記されています。一方は第一次大戦、Ontology の公理発見の文脈で、他方は第一次大戦、Mereology の創設の文脈でチョコレートを食べていた、となっています。どうしてこのような食い違いが生じているのか、私にはわかりません。ひょっとして Leśniewski はしょっちゅう例の公園でチョコレートをかじっていて、そういう習慣のなかからたびたび重要な発見を得ていたということでしょうか? だとすると、情景的におもしろいですけれど。

*4:なお少し踏み込んで言えば、M 成分とは、クラスまたは集合を Mereological に捉えた時に言われるものであり、M 要素とは、クラスまたは集合を通常の集合論的観点から捉えた時に言われるものです。あるいは、「クラス」または「集合」という言葉の集積的意味 (collective sense) が M 成分であり、「クラス」または「集合」という言葉の離散的意味 (distributive sense) が M 要素です。「集積的」、「離散的」という訳語は、藁谷敏晴先生からお借りいたしました。

*5:この段落で述べたことについて、詳細かつ正確には次の論文該当箇所を参照ください。B. Sobociński, ''L'analyse de l'antinomie russellienne par Leśniewski,'' in: Methodos, vol. 2, nos. 6-7, 1950, Chapitre VI. Analyse du Présupposé A2, pp. 237-245, English translation, ''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' tr. by R. Clay, in J. T. J. Srzednicki et al. eds., Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff, 1984, pp. 29-35.

*6:論文名は「ポーランドにおける論理的パラドックスと論理学」、書籍名は『ポーランドにおける哲学 1918-1939年』。

*7:引用の際、原文中の脚注の番号は、別の数字に付け替えています。

*8:文頭の「(9)」は原文では「9)」となっていて、左丸括弧が欠けていますが、引用の際、その括弧を追加しました。次の「(10)」についても同様に括弧が欠けていましたので、追加して引用しています。

*9:なお、この Kotarbiński 先生による論文のタイトルは、先ほど上げた Wolenski, Logic and Philosophy in the Lvov-Warsaw School に出てくる Kotarbiński 先生の同一と思われる論文 ''Garść wspomnień o Stanisławie Leśniewskim'' と題名が少し違っています。掲載雑誌の巻号情報も前者が22巻なのに対して、後者が24巻となっています。どちらも1958年刊行なのですが、どうしてこれらの違いが出てきているのか、私は今のところ未確認です。

*10:より正確で詳しい解説は、当ブログ、2014年9月21日、項目名 ''How Did the Early Leśniewski Tame Russell's Paradox?'' と、そこで言及している文献をご覧ください。