When Did the Age of the Linguistic Turn Come to an End?

お知らせ

今まで毎月一回更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

6月から今までと生活がまったく変わり、次回以降、更新できるか不明です。

できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、どうなるかわかりません。

とにかく状況が不安定になっていることをお伝えしておきます。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

今日の話は短いです。備忘録風に記します。

 

いわゆる言語論的転回 (the Linguistic Turn) について、次のように言われることがあります。すなわち、言語論的転回が初めて生じたのは Gottlob Frege の著作 Die Grundlagen der Arithmetik (1884) においてだった *1 、あるいは Ludwig Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus (1921/1922) においてだった *2 、などです。

その後、時代は巡って今はもう言語論的転回の時期は終焉していると思われます。ではいつそれは終焉したのでしょうか。あるいは終焉のきっかけはいつ誰によって引き起こされたのでしょうか。

言語論的転回誘発の核心にあるのは次のような見解でした。つまり、哲学の重要な問題とされるものは大抵、言語の働きを誤解したことによって生み出されたのであり、哲学の重大な問題とされているものは言語の働きをきちんと理解した時にのみ、解決または解消されるのだ、という見解です *3

少し違った角度から言い換えると、言語哲学こそが第一哲学であり、他の哲学は言語哲学に依拠しているのであって、言語哲学以外の哲学における問題を解決するためには言語哲学の知見に基付かねばならないのである、という見解が、言語論的転回誘発の核心にあったということです。

そうすると、これとは反対に、哲学の重要な大抵の問題は言語の働きを誤解することから生まれたのではなく、また言語の働きを理解したところで必ずしもその哲学的問題の解決、解消に至るとは限らないのであって、言葉の働きの理解を通すことなく、直接事柄を検討しなければ問題の解決に達することはない、と大部分の哲学者が意識的に、または無意識的に認めた時、言語論的転回の時期は終焉を迎えたのだろう、終焉へと動き始めたのだろう、と思われます。

やはりこれを言い換えると、言語哲学は第一哲学などではなく、他の哲学は言語哲学に依拠してもいないのであって、言語哲学以外の哲学における問題を解決するためには言語哲学の知見は必ずしも必要ないのである、と多くの哲学者が自覚的に、あるいは無自覚に認めた時、言語論的転回の時代は終わりを迎えたのだろう、ということです。

では、言語哲学は第一哲学ではないと考え、言葉の働きの理解を通すことなく、事柄を直接検討することに大勢の哲学者が向かい始めたのはいつ誰の研究によってなのでしょうか。

 

以下の文献の該当ページを読むと、

・ Scott Soames  ''Analytic Philosophy in America,'' in his Analytic Philosophy in America and Other Historical and Contemporary Essays, Princeton University Press, 2014, pp. 19-21,

そのような情勢の変化をもたらしたのは Saul Kripke, Hilary Putnam, David Kaplan 各先生方の研究によってであり、特に Kripke 先生の Naming and Necessity *4 の役割が大きかったようです。

なかでも Kripke 先生が、必然性、アプリオリ性、分析性をどれも言語的な規約に由来するものとしてすべて同一視するという従来の学説に強力な反論を持ち出し、これら三つの概念が必ずしも言語の働きにその基礎を置いているひとまとまりのものではなくそれぞれ別個の概念であって、これらの概念を巡る哲学的問題に対しては、言語ではなく直接事柄を考察してみなければならないことを人々に自覚せしめ、Quine 先生の反対を押し切って、たくさんの研究者がいわゆる様相の形而上学の探究へと乗り出した時、言語論的転回は一回転して円環を閉じ、終焉を迎えたのだろう、ということです。

 

Soames 先生のこのような指摘が果たして正しいのかどうか、慎重に精査してみる必要があり、即座に先生の言うとおりであるとは断言するのが難しいと思います。たとえば様相の形而上学において、様相の哲学的身分や可能世界のあり方などを考える際、様相に関する言い回しの意味についてしばしば考察が加えられていますが、これは言語の働きを理解しようとする営みの一環を成しています。したがって事柄を直接扱っているのではなく、依然として言葉の働きを通じて哲学の問題に答えようとしているものと思われます。そのため、様相の形而上学に関する探究が言語の働きをまったく無視して成り立つとは考えにくいことです。Kripke 先生以降も言語論的転回の時期は続いているのではないか、との疑念もくすぶったまま残っている可能性があります。

とはいえ、哲学的な問題の解決の前に、言葉の働きを明らかにした意味の包括的な理論が必要なのであり、この理論をまって初めて哲学的な問題を解決することができるのだ、とまでは考えず、上記のように様相に関する言い回しの意味について論じているのは、その言い回しを巡って生じる哲学的問題の状況を明瞭にするためであって、その際も体系的ではなく断片的にいくつかの様相的な文脈の持つ直観的な意味を確認しているだけなのであり、この程度のことはいつの時代のどの哲学でも行われてきたことなのだから、言葉の意味を問うているからといってただちにそれは言語論的転回の渦中にある営みだとは言えないのだ、との反論も考えられるでしょう。

 

今日の短い話をまとめます。

 

問い

言語論的転回の時期はいつ終焉を迎えたのでしょうか、あるいはいつそれは終焉へと向かい始めたのでしょうか。その動きはとりわけ誰によって引き起こされたのでしょうか。

答え

Soames 先生によると、言語論的転回の時期が終焉を迎えたのは、あるいは終焉への胎動が始まったのは1970年代初頭からであり、特に1980年に入った時点でその動きは決定的になった、ということだそうです。この動向に寄与したのが、なかでも Saul Kripke 先生だったろうということです。

 

この答えは正しいでしょうか。興味のあるかたは一度考えてみてください。

 

本日はこれで終わります。私が間違ったことを書いておりましたらすみません。謝ります。ごめんなさい。誤字、脱字、衍字などがありましたら、これについてもお詫び申し上げます。

*1:M. ダメット、『分析哲学の起源』、野本和幸他訳、勁草書房、1998年、6ページ。

*2:たとえば、P. M. S. Hacker  ''The Linguistic Turn in Analytic Philosophy,'' in M. Beaney ed., The Oxford Handbook of the History of Analytic Philosophy, Oxford University Press, 2013 を参照ください。

*3:言語論的転回が引き起こされる要因については、当ブログ、2021年5月30日、「Witnessing a Lingusitic Turn: The Case of Wittgenstein's Tractatus」の「はじめに」をご覧ください。

*4:先生は1970年に同名の講義を行ない、1972年にそれを論文として公表され、1980年にさらにそれを書籍にして刊行されました。そこで、これら三つを合わせて表現するため、ここでは引用符でくくった論文名 ''Naming and Necessity'' として記すのでもなく、イタリックにした書籍名 Naming and Necessity として記すのでもなく、プレーンに Naming and Necessity として記しています。