目次
お知らせ
今まで毎月一回、月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になる可能性があります。
再び今月から生活パターンが大きく変りました。
しばらく日々の生活に慣れないため、更新のペースが変化したり、長期に渡って止まるかもしれません。
この点、事前にお伝えしておきます。何卒よろしくお願い申し上げます。
お知らせ終わり
はじめに
今日は Ludwig Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus の前書きをドイツ語原文で読んで、どんな感じのものか、味わってみましょう。僭越なことですが、文法事項の説明も付けておきましたから、それを読んでいただければ、勉強になるという方もおられるのではないかと思います。そうであれば私もうれしく思います。
なお、今日のブログの話は長く、しかも細かいです。お時間がない方は今日の話を読むのはやめたほうがいいです。またドイツ語だけでなくフランス語も読んでみます。「そんなの面倒だ」と感じる方もやはり読むのはやめたほうがいいです。さらに Wittgenstein の哲学について私個人の感想を少し記しますが、「感想文を読むなんてごめんだ」という方もやめたほうがいいです。しかし「それでもまぁいいや、ひまなので」という方は読んでみてもいいかもしれません。満足していただけるかどうかはわかりませんが ... 。
ところで今頃気が付いたのですが、2021年は Tractatus のドイツ語版刊行100周年に当るのですね。すっかり忘れていました。それに合わせたイベントもあったみたいですが、そちらも知りませんでした。なにしろここ数年、私は相当ひどい状態に置かれていて、とてもではないですが、それどころではないものですから、哲学の世界で何が起っているのか全然わからないのです。
それはよいとして、以下では Tractatus のドイツ語原文の他に、仏語訳とその和訳も掲げてみます。(Ogden 先生と Pears and McGuinness 先生の英訳は、すぐにインターネット上で見つかりますので、今回はここには掲げません。)
ちなみに私は Wittgenstein さんの哲学の専門家ではありませんし、その哲学にそれほど興味を持っているわけでもありません。「Tractatus で述べられていることは、まったく正しいに違いない」と真剣に思っているわけでもなく、「正しいことも書かれているかもしれないけれど、大方間違っているんだろうなぁ」というぐらいに思っています。こんなこと言うと Wittgenstein さんは激怒されるかもしれませんね。ごめんなさい。でも「既存の哲学は誤解の産物であり、そのような哲学の問題については、真面目に回答するに値しない」とか「倫理を根拠づけるようなことはできない」というような Tractatus の基本的な主張には魅かれるところがあり、Tractatus を全部否定するつもりではありませんので、Wittgenstein 先生、どうかお許しください。というわけで Tractatus はそんなに深刻な顔をして読む気にはなれないのですが、おもしろそうですので、とりあえず前書きを読んでみましょう。
以下では次の順番で文章を並べます。前書きドイツ語原文、独文文法事項、独文直訳、独文逐語訳、既刊邦訳、仏訳、仏文文法事項、仏文直訳、仏文逐語訳、私による前書き要約、前書きに対する個人的感想文、そして補遺としてフランス語接続法の復習です。独文、仏文の文法事項、直訳、逐語訳、補遺は私によるものです。
これら直訳と逐語訳は、私と同様、ドイツ語の修業中のかたに向けて書かれています。意訳はここに記していませんが、意訳がいけないと言っているわけではありません。独文、仏文を詳しく読解するために、便宜上、直訳、逐語訳を施しているだけです。
なお、私はドイツ語もフランス語も苦手ですので、直訳、逐語訳に誤訳や悪訳がありましたらすみません。
ドイツ語原文に対しては、まず自力で直訳、逐語訳を行ない、その後、容易に入手可能な既刊の邦訳 (岩波文庫、光文社古典新訳文庫) *1 と私の訳を突き合せて誤訳していないかチェックしました。すると案の定、私訳に脱落とひどい誤訳を一ヶ所ずつ見つけました。邦訳訳者の野矢茂樹先生、丘沢静也先生に助けられました。その脱落、誤訳は以下において修正済みです。誠にありがとうございました。
よろしければ、皆さまもご自分で訳してみるといいと思います。これはとても勉強になります。自分の非力を思い知らされますし、上手な既訳を見て非常に参考になります。自分の誤訳に気が付くと「しまったな、そうだったか、これから気を付けねば」と思って、その間違いが記憶に残り、忘れにくくなります。自力で訳すとなると手間がかかるかもしれませんが、それに見合ったものが得られます。時間がないなど、いろいろとお忙しいとは思いますが、もしも可能ならば取り組んでみるといいかもしれません。少しずつですが力が付くと思います。
さて、ドイツ語原文は
・ L. Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus, tr. by C. K. Ogden, Routledge, 1922/1981, pp. 26, 28,
から引用しています。
なお、ドイツ語原文や仏訳、それらの直訳、逐語訳には、各段落の前に [1], [2], ... のような段落番号を入れています。これらは私によるものです。
それでは有名なこの本の前書きを読んで楽しんでみましょう。
ドイツ語原文
独文文法事項
Dieses Buch: ここで Buch は中性1・4格名詞。文頭なので中性1格と想定して読み進みます。すると nur der の der が唐突に単独で出てきます。そこでこれを指示代名詞の男性1格と解し、すぐさま先ほどの Buch は中性4格と捉え直す必要があります。
nur der: この der は指示代名詞男性1格。後出の関係代名詞 der die Gedanken の der の先行詞になっていて、人を表わします。
darin: darin の da- は後続の表現を指すこともありますが、ここでは文頭の Dieses Buch を指しています。
Sein Zweck wäre erreicht, wenn es Einem ~ bereitete: wäre は接続法第二式。また、一見単なる直説法過去形に見えますが、bereitete も接続法第二式。これらは外交的接続法の一種です。詳しくは、単なる辞令としての約束話法/非現実話法です。「単なる辞令としての約束話法」とは、副文と主文からなる文で、それら副文と主文に接続法第二式の動詞が含まれていて、全体として婉曲な表現となっているものです。一方、外交的接続法とは、今の副文と主文のうち、副文が脱落して主文だけで婉曲表現を成しているものです。例を上げましょう。単なる辞令としての約束話法: Wenn es Sie nicht kränkte, so wäre ich anderer Meinung (もしもそれがあなたの気持ちを害さなければ、私としては異なる意見を述べたいのですが ... ). 外交的接続法: Ich wäre anderer Meinung (私としては異なる意見を持っているのですが ... ). いずれにせよ、ここでの wäre と bereitete は事実に反することを述べているのではなく、事柄を婉曲に、遠慮して述べている表現です。単なる辞令としての約束話法と外交的接続法については、関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、1943/2000年、271-274, 305-307, 309-317ページを参照ください。なお、ここで言う「外交的接続法」とは狭義のものであり、ドイツ語のごく初歩の入門書で出てくる「外交的接続法」とは広義のものです。他には次も参照ください。常木実、『接続法 その理論と応用』、郁文堂、1960年、108ページ。
Einem: この Einem は任意の人を表わしますが、大文字で始まっていますので、強調されていると思われます。そのため人は人でも「一人の人」、「ただ一人の人だけ」を表わしていると考えられます。
der es mit Verständnis liest Vergnügen: der は関係代名詞で、枠を作る動詞は liest. そのため正式には liest のすぐあとにコンマ (,) が置かれる必要があるのですが、ここではコンマも何もなく、スムーズに Vergnügen につながっているので、liest までが関係文であり、ここで一旦文の流れが切れていることに注意が必要です。
auf dem Missverständnis ~ beruht: auf (3格) beruhen で「(3格) に基付く、由来する」。
könnte: この接続法第二式の könnte は推量の意味の könnte. 接続法第二式 möchte, dürfte も könnte と同様に推量の意味があります。関口、『接続法の詳細』、327-328ページ。常木、『接続法』、107ページ。
den ganzen Sinn ~ in die Worte fassen: 4格 in Worte fassen で「(4格) を言葉にする、言葉で表現する」。
Was sich überhaupt sagen lässt: sich4 他動詞 lassen の最もよく見られる意味は受動的可能で、「~できる (可能)」、「~される (受動)」、「~されうる (受動的可能)」。ここでは「~されうる」。
wovon: von と関係代名詞の結合したもの。あとに出てくる reden に von ~ reden (~について語る) という言い回しがあり、これとの関係で wovon という言葉が使われています。
darüber: darüber の da- は前方の wovon, または wovon ~ kann を指します。
will: 意志や目的を表わす wollen.
Denn: denn は補足的、追加的に、聞き手にとって未知の理由を表わします。weil は (補足的、追加的にではなく) 聞き手にとって主に未知の理由を、da は聞き手にとって既知の理由を表わします。
müssten wir: müssen の接続法第二式。本来性 (本来なら、~せねばならないはずだが...) を表わします。例文を上げておきます。Der Zug müßte längst hier sein (列車は 〔本来なら〕 とっくに到着しているはずなのだが). 国松孝二他編、『独和大辞典』、第二版、コンパクト版、2000年、項目「müssen」、2 の a). 「〔本来なら〕」は辞典原文にあるもので、引用者によるものではありません。このあとに出てくる wir müssten も同じく本来性を表わす müssen の接続法第二式です。
müssten ~ können: 英語と違い、ドイツ語の助動詞は、その従える動詞の不定形に助動詞自身を取ることができます。英語では I must can know it (私はそれを知ることができねばならない) などとは言えず、I must be able to know it, または I have to be able to know it と言わなければなりませんが、ドイツ語では Ich muss es wissen können のように助動詞を連続的に並べることができます。清野智昭、『中級ドイツ語のしくみ』、白水社、2008年、108-109ページ。
wird also: この wird は推量の werden. このあとの wird einfach の wird も同様。
jenseits der Grenze: jenseits + 2格、または + von 3格で、「(2格/3格) の向こう側に」。
Wieweit ~ zusammenfallen: これは beurteilen の目的語文となっている副文。meine Bestrebungen がその副文の主語。zusammenfallen が自動詞で前置詞句 mit ~ Philosophen を従えています。
mit denen: この denen は指示代名詞で、前方の Bestrebungen の代わり。
will ich: この will は意図を表わす wollen.
macht ~ den Anspruch auf Neuheit: auf 4格 Anspruch machen で、「(4格) を要求する、自負する」。
im Einzelnen: im Einzelnen で、「個々に、詳細に」。
und darum: この darum は、あとに出てくる weil と呼応しています。~ darum ~, weil ― で、darum を含んだ文の理由を weil の文で述べていて、「~なのは、― だからだ」。
es mir: この es は、あとの ob 文を指しています。
das was: das は was を受けています。正式にはこの das のすぐあとにコンマ (,) が必要だと思うのですが、つまり原文 das was のようにではなく、das, was とするのが公式的な表記だと思うのですが、ここではコンマが省かれています。また、この das は後続の動詞 gedacht hat の4格目的語になっています。
ein anderer: この ein anderer は男性1格であることを示しています。そのため、この直後に Mensch か Philosoph が省かれていると考えられます。つまり省略せずに書くと ein anderer Mensch/Philosoph (別の人/哲学者) となります。
besteht er in: er は前方の einen Wert を指しています。また in 3格 bestehen で 「(本質などが) ~にある」。
Erstens: ここで「第一に」と言っていますが、「第二に」は次の段落後半に出てきます。
Erstens darin: Erstens と darin の間に先ほどの besteht er が省略されています。
darin, dass: darin の da- は直後の dass 文を指します。
in ihr Gedanken: この ihr は人称代名詞 (君たちは、彼女に) でしょうか、それとも所有冠詞 (彼女の、彼らの) でしょうか? 文法的にはどう見分ければよいのでしょう? そのコツは次のとおりです。語尾の付いていない ihr が文中に出て来た時、そのあとに男性1格名詞、中性1・4格名詞が来ていれば、その ihr は所有冠詞です。それ以外の名詞があとに来ていれば、その ihr は人称代名詞です。なぜなら所有冠詞が無語尾になるのは男性1格名詞、中性1・4格名詞を従える時だけであり、これら以外の名詞を従える時は、所有冠詞が無語尾になるはずはないからです。さてでは in ihr Gedanken の ihr は人称代名詞でしょうか、所有冠詞でしょうか? ihr のうしろを見ると Gedanken があります。これは男性名詞 Gedanke が変化したものであり、通常、Gedanken のように -n が付いていれば1格ではありません。ということは、この Gedanken は男性1格ではありません *2 。とすると、あとに男性1格も、もちろん中性1・4格も来ていませんから、この ihr は人称代名詞です。ついでに言うと、ここでの dass 文の主語は Gedanken なのですが、もしも問題の ihr が所有冠詞だとすると、in ihr Gedanken が前置詞句を作り、ここの dass 文の主語がなくなってしまいますので、仮に今述べた ihr に関するコツを知らなくても、この ihr は所有冠詞ではなく、人称代名詞だと判断できます。いずれにせよ、問題の ihr は人称代名詞なのですが、ではこの ihr が何を指しているのかというと、それは文頭の diese Arbeit です。
umso grösser sein, je besser: je 比較級 A、umso 比較級 B で、「A すればするほど、ますます B する」。原文では umso 比較級 B、je 比較級 A と、ひっくり返っていますが、たまに見られるパターンです。
Je mehr: 副文 je besser ... に、もう一つ同種の副文 Je mehr ... が追加されています。je besser の文と Je mehr の文はプンクト (.) で断ち切られていますが、正式に訳出する際はこれら二つの副文を一まとめに訳し、それを umso の主文につなげて訳してやるといいと思います。つまり「思考がうまく表現されればされるほど、ますますその価値は高まるだろう。核心を突いていれば突いているほど、そうだろう」と訳すのではなく、「思考がうまく表現されればされるほど、核心を突いていれば突いているほど、ますますその価値は高まるだろう」とするのがよいと思います。上の直訳では、このようにはしていませんが。
der Nagel auf den Kopf getroffen ist: 成句 den Nagel auf den Kopf treffen (核心を突く、急所を突く) を受動態にしたもの。今の成句を文字どおりに訳せば、たぶん「くぎを、その頭で捉える」となるのだろうと思います。
bin ich mir bewusst: sich3 2格 bewusst sein で、「(2格) を意識している、自覚している」。原文中には2格は見当たりませんが、mir のうしろで指示代名詞の2格 dessen が省略されているのだと思います。そしてこの dessen がすぐあとの zu 不定詞 zurückgeblieben zu sein を指しているというわけです。桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、328-329ページ、特に329ページを参照ください。なお、2格の dessen のあとには普通なら名詞が来るはずなのに来ていませんが、それはおかしなことではなく、sich3 2格 bewusst sein という言い回しにおいて、2格が要求されているから指示代名詞の2格が名詞を従えずとも、とりあえず要請されているだけの話で、特に不思議なことではありません。目的語に2格を要求する動詞があることを思い出していただければわかると思います。例: bedürfen, vergessen, あるいはかつての brauchen など。
weit hinter dem Möglichen: weit は hinter にかかっていて、「はるか背後に」。ここを文字どおりに訳せば「その可能性のはるか背後に」。これでは何のことなのかよくわかりませんが、もう少し崩して訳せば「それが実現可能となるはるか手前で」とか、「その実現可能性にははるかに及ばない」とか、もっと崩せば「そんなことはとてもではないができずに」ということになります。そしてここで言う「それ」とか「その実現可能性」とか「そんなこと」とは、本書において「思考をよりうまく、より的確に表現すること」です。
Einfach darum, weil ~: Einfach は darum にかかっていて、「まさにそれというのも、~だから」。「それというのも」の「それ」とは、自分すなわち Wittgenstein が 「思考をよりうまく、より的確に表現すること」に関し、weit hinter dem Möglichen zurückgeblieben zu sein であること、です。つまり自分が本書で思考をよりうまく的確に表現できていないことです。そしてその理由を weil の文で述べています。
zu gering ist: この zu は「あまりにも~しすぎる」の zu です。「遅すぎる」を英語で「too late」と言いますが、その too と同じです。
Mögen: この Mögen は直説法 (3人称複数) のように見えますが、接続法第一式 (3人称複数) です。要望、要求 (~してくれることを望む、~してほしい) を表わします。また、ここの文は定形倒置文ですが、直説法ではなく、接続法第一式であることを聞き手にはっきりと伝えるために、接続法第一式の文においてはしばしば倒置が行なわれ、倒置していることによってその動詞が接続法第一式だとわかるようになっています。常木、『接続法』、24-25ページ。加えて関口、『接続法の詳細』、161ページ、また179-180ページも念のため、参照ください。
andere: 文脈に関係なく、唐突に ander の複数形 andere が出てきたら、それは「他の人々」のことです。
Dagegen: それに対して、それとは反対に。ここでの「それ」とは、前の段落で Wittgenstein が「自分はこの本のなかで思考をよりうまく的確には表現できていなかった」と、自身の能力不足を認めていること。
Ich bin also der Meinung: zu 不定詞/dass 文 + der Meinung sein で、「(zu 不定詞/dass 文) という意見を持っている」。der Meinung は2格で、いわゆる述語的2格のこと。英語で言えば、「主語 is of 名詞」、つまり「(主語) は (名詞) を持っている」に同じ。
im Wesentlichen: 本質的に、基本的に。
Und wenn: Und wenn とくれば、すぐに認容文の強調 (たとえどんなに~であろうとも) だと思ってしまうところですが、この wenn 文内の動詞は接続法第二式ではなく直説法になっているので (irre)、ここでの Und wenn はただの「もし~ならば」を意味する仮定/条件の wenn 文です。(ただし、認容文の強調である Und wenn 文が直説法の動詞を伴っていることもあるので、直説法の Und wenn 文だからといってただちに認容文でないと判断することは危険です。認容文の強調としての Und wenn 文については、関口、『接続法の詳細』、284-291ページ、常木、『接続法』、97-99ページ。認容文の強調である Und wenn 文なのに直説法の動詞を伴っている例については、関口、『接続法の詳細』、290-291ページを参照ください。)
hierin: 「この点に関し」の「この点」とは、本書で述べられている思考が真実であるということ。
sie zeigt, wie wenig damit getan ist: wie ~ ist は疑問文で、zeigt の目的語文です。sie は「その仕事 (Arbeit)」、wenig は名詞化していて「わずかなこと」、damit の da- は後続の dass 文を指します。そこで sie ~ ist を直訳すると、「その仕事は、いかにわずかなことがそのことによってなされているのかを示している」となります。実は私はこの wie の文を既刊邦訳で読み合わせをするまで、てっきり挿入文だとばかり思って誤読、誤訳しておりました。私は次のように誤解していたのです。つまり、wenig を副詞として捉え、damit の da- は Arbeit を指すとし、getan の tun は zeigt の代動詞だと考え、主語として es が省略さており、それは後続の dass 文を指していると見なして、「その仕事により、たとえどんなにわずかにしかそのことが示されていないとしても」というように挿入の認容文だと間違って読んでいました。これがひどい誤読であることを、既刊邦訳訳者野矢先生、丘沢先生に教えられました。感謝申し上げます。
独文直訳
独文逐語訳
既刊邦訳
既刊邦訳からの引用は、最も著名でしばしば言及される次の文献だけからにします。
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、9-11ページ。
訳注を省き、傍点を下線にして引用します。
仏訳
仏訳は次から引用します。
・ Wittgenstein Tractatus logico-philosophicus, tr. par G. G. Granger, Gallimard, 1993, p. 31-32. *7
仏文文法事項
sera: être の単純未来。意味はここでは推量。
aura ~ pensé: 前未来。前未来は通常未来のことを表わしますが、ここでは過去を意味します。つまり「考えた」。まぎらわしいですね。前未来が時として過去を意味することについては、朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目「futur antérieur (前未来)」、II の A の 30、「過去を表わす」、226ページを参照ください。
lui-même: ここでの意味は「~自身、自体」ではなく「自分で」。「自身、自体」なら les pensées と同格の elles-même になるはずですし、それに普通は les pensées の後ろに置かれるはずですが、そうはなっていませんので。
s'y trouvent: se trouver + 場所で、「(場所) にある/いる」。y は dans le livre.
exprimées: exprimées は「se trouver + 場所」における se の属詞。そして se は les pensées のこと。
du moins: いずれにせよ、少なくとも。
Son but serait atteint s'il se trouvait quelqu'un: serait は être の条件法現在、trouvait は trouver の半過去。si ~ 半過去 ~, ― 条件法現在 ― で、英語で言えば典型的な仮定法過去。「もしも~であるならば、― であるだろう」。il se trouvait の il se trouve ~ は、「~がいる、ある」で、il は非人称。
l'ayant lu et compris: avoir の現在分詞 ayant + 過去分詞で、現在分詞複合形。英語で言えば分詞構文。動作の完了を表わします。「~して」。l'ayant の le は ce livre.
en retirait du plaisir: en は du livre (= de le livre). retirer ~ de ― で、「― から ~ を引き出す」。du plaisir の du は部分冠詞。ところで retirer がここでなぜ retirait と半過去になっているのか、私には自信を持った説明ができません。「たぶんこうではないか?」というその理由を一応持ち合わせてはいるのですが確信が持てません。間違っているといけないのでその理由はここでは記しません。retirer が retirait になっている理由は正直に「私にはわかりません」とだけ述べて、説明を保留しておくことに致します。力不足ですみません。また勉強し直します。
à ce que je crois: 「私が思うところでは」。à は順応の à. この à については、朝倉、『新フランス文法事典』、項目「à」の I の 40、「順応」、4ページ。
repose sur: reposer sur ~ で、「~に基付く」。
On pourrait: pourrait は pouvoir の条件法現在。ここで推量または語調緩和の意味。
en quelque sorte: ある意味で。
en ces termes: en は手段の意味。ces は deux-points (:) のあとの言語表現を指しています。
sur ce dont on ne peut parler: dont は (parler) de ce のこと。ne peut parler は ne peut pas parler も可能ですが、文語では pas を省略できます。
tracera: tracer の単純未来。語調緩和のため単純未来になっています。
non pas à l'acte de penser, mais: non pas ~, mais ― で、「~ではなく、― である」。
nous devrions pouvoir: devrions は devoir の条件法現在。事実に反することを意味しています。「~できねばならないだろう (が、実際には~できない)」。このあと出てくる「nous devrions donc」の devrions も同じ意味。
ne se laisse pas penser: se laisser + 他動詞の不定形で、「~される」。
pourra: pouvoir の単純未来。語調緩和のため、単純未来になっています。
au-delà de: au-delà de 名詞で、「(名詞) の向こう側に」。この反対は en deça de 名詞で、「(名詞) のこちら側に」。この言い回しはこのあと第7段落で出てきます。
sera: être の単純未来。これも語調緩和のため。
dépourvu de sens: dépourvu de 名詞で、「(名詞) を欠いている、(名詞) がない」。dépourvu は形容詞。pourvoir (備える) の過去分詞 pourvu (備えた、備わった) を接頭辞 dé- で否定したもの。
mes efforts coïncident avec ceux: A coïncider avec B で、「A が B と一致する」。ceux は efforts の代わり。coïncider の発音に注意。カタカナで書けば「コワンシデ」ではなく「コアンシデ」または「コエンシデ」。
je n'en veux pas juger: en は de cela で cela は前方の従属節 Jusqu'à quel point ... を指し、de cela の de は juger de ~ (~を判断する) の de のこと。
En vérité: 実際。
dans son détail: 詳細に。
absolument: 否定 ne ~ aucun(e) (どれも~でない) の強調。「どれもまったく~でない」。
prétention à la nouveauté: prétention à 名詞で、「(名詞) を自負すること」。
c'est pourquoi: A. C'est pourquoi B. は、「A です。そして A という根拠、理由から、B です」を意味します。B である根拠、理由が c'est pourquoi の前に書かれているわけです (伊吹武彦編、『フランス語解釈法』、白水社、2006年、95ページ)。ところで仏訳では A. C'est pourquoi B, car C. となっています。B, car C となっていれば「B であり、その理由は C です」を意味します (伊吹、『フランス語解釈法』、74ページ)。そうすると A. C'est pourquoi B, car C. の意味は、簡潔に書けば「A という理由から、B であり、B である理由は C です」となります。つまり B である理由を A であると言っておきながら、さらにまた B である理由を C であると言っていて、何だかくどくて変です。そこで当該箇所をドイツ語原文で確認すると、~ darum ~, weil ― . となっています。これは「~であるが、その理由は ― である」とか、同じことですが「~であるというのも、それは ― だからだ」という意味です。~ darum ~ の前にその理由が書かれているのではなく、weil ― にその理由が書かれています。ここからわかるのは、仏訳の c'est pourquoi は不要だ、ということです。にもかかわらず c'est pourquoi という言葉が仏訳に出てくるのは、darum が「それ故に、それだから」という意味をしばしば持ち、そこで仏訳では darum を逐語訳して機械的に c'est pourquoi に置き換えているからだろうと思います。そのようなわけで、読解、訳出の際は c'est pourquoi は無視してしまっていいと思います。
je ne donne pas non plus de sources: ne ~ pas non plus ― で、「― もまた ~ しない」。de sources の de は、不定冠詞 des が否定文の直接目的語に付いているため、de に変ったもの。
il m'est indifférent que: il est indifférent à 人 que 節の接続法で、「(que 節) は人にとってはどうでもいい」。
ce que j'ai pensé, un autre l'ait déjà pensé: この節の ce que j'ai pensé は目的語で、主語は un autre (他の人) であり、l'ait déjà pensé の le が ce que j'ai pensé を指しています。ait ~ pensé と接続法 (過去) になっているのは主節「il m'est indifférent que」の従属節 que 節が接続法を要求するから。主節が直説法現在 (est) であるのに対し、この従属節が接続法過去になっているということは、主節が現在のことを述べているのに対し、従属節では過去のことが述べられているということです。つまりここを訳せば「他の人が、私が考えたことを、私以前に既に考えていたということは、私にはどうでもいいことである」となります。他の人が考えていたということは過去のことであり、私にはどうでもいいという感想は今現在の感想です。なお、時制としての接続法については、今日のブログの末尾に補遺としてまとめてあります。復習をお望みのかたはそちらをご覧ください。
aux oeuvres ... et aux travaux ... je dois, ..., la stimulation: devoir + 直接目的語 + 間接目的語で、「(間・目) に (直・目) を負っている」。
pour une grande part: 大部分。
valeur, elle: elle はこの valeur を指します。
elle consiste en deux choses distinctes: consister en ~ で、「~にある」または「~から成る」。ここでは前者。
Premièrement: 第一に。「次に」に当たる en second lieu は、次の段落の後半に出てきます。
en ceci: この en の前に出てきたばかりの elle consiste が省略されています。
ceci, que: ceci が que 節を伴えば、ceci はその que 節を指します。
des pensées y sont exprimées: この y は dans le travail のこと。あとに出てくる les pensées y sont mieux exprimées の y も同じ。
d'autant plus grande que les pensées y sont mieux exprimées: d'autant plus ~ que ― 比較級 ― で、「― すればするほど、ますます~する」。
D'autant mieux: これは「d'autant mieux que + 直説法」の que が省略されたものだと推測します。そうだとすると、「A d'autant mieux que B」の意味は、「B であるだけに、その分よりいっそうよく A である」となります。ここで B とは「on aura frappé sur la tête du clou」のことであり、A とは「cette valeur sera plus grande」のことです。
aura frappé: 前未来。しかし意味は過去。過去を意味する前未来は第一段落で出てきました。
on aura frappé sur la tête du clou: そのまま和訳すれば「くぎの頭を打った」。フランス語訳はドイツ語原文を文字どおりに直訳しています。原文のドイツ語は「核心を突く、急所を突く」という成句ですが、フランス語でも同じことを「frapper sur la tête du clou (くぎの頭を打つ)」と表現するのか、徹底的にではなく、ちょっとだけ調べてみたのですが、私にはわかりませんでした。
Je suis conscient, ..., d'être: être conscient de + 不定詞で、「(不定詞) であることを自覚している」。
sur ce point: この点について。
être resté: とどまっていた、とどまったままだった。過去を意味することにご注意ください。複合形の助動詞に être を取る動詞はすべての代名動詞と、生まれたり死んだり、出たり入ったり、登ったり降りたり、行ったり来たり、変ったり変らなかったりするような動詞です。そのような動詞の主だったものを上げれば naître, mourir, sortir, entrer, monter, descendre, partir, arriver, aller, venir, devenir, rester などなどです。
bien loin en deçà du possible: bien loin では bien が loin を強調。「はるかに遠く、はるかに離れて」。en deçà de 名詞は、「(名詞) のこちら側に、(名詞) の手前に」。この反対が au-delà de 名詞、「(名詞) の向こう側に」で、この言い回しは第4段落に出てきました。ここの句全体を直訳するならば「その可能性の手前のはるかに離れたところで、その可能性の手前ではるかに離れて」。要するに、そのことは実現からほど遠い、そのことが実現する可能性ははるかに小さい、ということを言っています。
Puissent d'autres venir qui feront mieux.: Puissent は pouvoir の接続法現在。d'autres は「他の人びと」の意味でこの文の主語。ということは、この文は倒置文です。Pouvoir の接続法が文頭に来て倒置している時は願望を表わします。つまり「~でありますように」。関係代名詞 qui の先行詞は d'autres で、先行詞と関係代名詞が離れています。feront は faire の単純未来。
Mon opinion est donc que: この que は属詞の que です。
pour l'essentiel: だいたい、概して、本質的に。
d'une manière décisive: 決定的な仕方で、決定的に。d'une manière + 形容詞で、「(形容詞) な仕方で」。
en cela: それに関して。en は「~に関して、おいて」、cela は前文中の que 節を指しています。
je ne me trompe pas: se tromper で、「間違う」。
en second lieu: 次に、第二に。「第一に」は Premièrement で、直前の段落前半に出てきました。second の発音は、カタカナで書けば「スコン」ではなく「スゴン」であることにご注意ください。
en ceci, qu'il: 先ほども出てきましたが、ceci が que 節を従えれば、その que 節を指します。
il montre combien peu a été fait: il は 前の ce travail を指します。peu は本来は副詞ですが、ここでは名詞として使われています。「わずかなもの、わずかなこと」。
quand ces problèmes: この quand は「~である時」という意味よりも「~であるのに、~であるが」という対立を意味しています。
仏文直訳
仏文逐語訳
前書き要約
語学の話はもう終えて、ここで前書きの各段落を、私なりの素朴な解釈を少しばかり入れつつ要約してみましょう。
[1] 本書の特徴と読者対象 本書では既存の問題が語られている。新しいことが主張されているのではない。また、この既存の問題に深い関心を寄せてきた者だけが本書を理解できるのであり、既存のこの問題に関心がない者は本書の試みを理解することはできないだろう。
[2] 本書での根本的な主張 哲学の問題は、誤解の結果、生じているのである。私たちの日常の言葉に働いている論理を誤解したことから、哲学の問題が引き起こされているのである。言うことのできることは明瞭に言うことができるが、言うことのできないことについては、哲学的言辞を弄しても無駄である。言いようのないことを、誤解の結果、哲学では言おうとしているからである。
[3] 上記の根本的な主張を確立するために本書で行っていること 考えられることと考えられないことを分けること。より正確には、考えられることの表現と考えられないことの表現を分けること。
[4] 上で述べたことの帰結 考えられることと考えられないことを分けるには、それらの言語表現を分けるしかない。考えられないことの言語表現は無意味である。
[5] 本書と先行研究との関係 本書では基本的に先行研究は考慮しない。
[6] 先行研究との関係における例外 本書では基本的に先行研究は考慮しないが、それでも例外的に考慮した研究がある。それはフレーゲとラッセルの研究である。
[7] 本書の価値 その一 もしもうまくいっているとすれば、本書では既存の思想をよりよく表現できていること。
[8] 本書の価値 その二 哲学の問題を解消し、消滅せしめたことにより、結局哲学においては大したことは成し遂げられてこなかったことを本書では明らかにしたこと。
以上の要約からわかるのは、[1] は [1] でひとまとまりをなし、[2], [3], [4] でひとまとまりを、[5], [6] でひとまとまりを、[7], [8] でひとまとまりをなしているということです。また [2] と [8] も互いに強く関連しています。というのも、誤解から哲学的問題が生じていて、その問題を解消した結果、哲学のうちに見られると思われてきた深化、発展は幻想にすぎなかったと述べているようだからです。
この前書きではさしあたり [1], [5], [6] を脇に置いて Wittgenstein の言いたいことを推測すると、次のようになるかもしれません。
私たちの日常の言葉に働いている論理を明らかにするならば [2]、考えられることの言語表現と考えられないことの言語表現を自ずと分けることができ [3]、前者の表現は意味があるが後者の表現は意味がないとわかる [4]。この対比を哲学に適用してみると、従来からの哲学の問題では、考えられないことについて言い表そうとしてきた、と言えるのである [2]。つまり哲学においては無意味な言語表現を振り回してきたのである [2]。しかしこのことが明らかになった今、哲学の問題は雲散霧消する [8]。もはや哲学の問題に悩む必要はない。語りえることは明瞭に語りえるが、哲学的問題に見られるような語りえないことについてはおしゃべりをしても無駄であり、沈黙する他はないのである [2]。
こんなふうに前書きを要約できるかもしれません。
個人的感想
ところで Wittgenstein の Tractatus に対する著名な注釈書に
・ M. Black A Companion to Wittgenstein's 'Tractatus', Cambridge University Press, 1964,
があります。これは Wittgenstein の専門家の先生にとってはもうだいぶ古い文献かもしれません。ただし私のような門外漢にはさしあたり十分であり便利な本ですので、Tractatus の前書きについて何か説明がされていないか見てみました。するとその23ページに 'Wittgenstein's preface' と題して1/2ページか1/3ページだけ、わずかにコメントがありました。
Black 先生は言っています。前書きを読むと、そこでは Tractatus の意義として命題7、いわゆる「語り得ないことについては沈黙する他ない」という文に言及されていて、このことから、語り得ないこと、すなわち無意味なことについては沈黙する他ないことを Tractatus は示す目的を持っていることがわかり、しかもこの目的は無意味なことを述べるのを避け、無意味な発言を否定しようとしているのだから、Tractatus は否定的な目的を持っていると、このように先生は言っています *8 。
ではどのようにして Tractatus はこの否定的な目的を達成しようとしているのでしょうか。次の文献の主張を踏まえながら、
・ S. トゥールミン、A. ジャニク 『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2001年、
私は個人的に、以下のように想像します。下記の話はごく私的な、ごく大まかな、ほとんど根拠のない空想ですから、決して真に受けないようにしてください。間違いなく間違っているはずですので。
さて Tractatus では、言語や論理、世界の有様や自然科学、倫理などについて語られていますが、
(a) 例の目的を達成しようとするためには、同書において無意味な言語表現を括り出さねばなりません。だから同書では言語に関する考察が必要とされているのだと思われます。
(b) また、問題の言語表現を括り出す際の手がかりとして、Tractatus では言語に働いている論理に注目しているのかもしれません。だから同書では論理に関する考察が必要とされているのだと思われます。
(c) また、無意味な表現と意味のある表現の違いは、Tractatus ではその表現が世界の何らかの有様を表わすか否かに存するように解せます。そうだとすると同書では言語表現の意味に対する理解を深めるために、世界の有様に関する考察が必要とされているのだと思われます。
(d) また、Tractatus では、意味を持った言語表現から成る典型的分野は自然科学であり、無意味な言語表現から成る典型的分野は倫理であるように見えます。そこで同書では自然科学と倫理について考察することが必要になっているのだと思われます。
以上を強引にかつ極めて単純化してまとめると、無意味な発言を拒否しようとしている Tractatus では、(a) 言語表現に働いている (b) 論理的な機能を手がかりにして、(c) 世界の有様を表わしている (d) 自然科学の文と世界のそれを表わしていない倫理の文を切り分け、これにより無意味な発言を括り出そうとしているのかもしれません。
ただし Tractatus では、括り出された無意味である倫理の文がくだらないとか重要でないと言われているのではなく、その反対に、おそらくそのような倫理の文を、真偽を問い得る自然科学の文と同一視し、混同することを戒めているのだろうと推測されます。
Tractatus では倫理の文は非常に重要であり、人の生き方に関する問題と深い関わりがあると思われているようで、その文は自然科学的観点からすれば無意味かもしれませんが、人生の問題からすれば大変有意義な、とても大切な表現として特別扱いをされているように感じられます。
Tractatus では、無意味ではあるが大切な倫理の主張を自然科学の奴婢におとしめるのではなく、人生という舞台の上で女王の玉座に付かせ、浅薄な科学的実証主義的研究という辱めから防御することが目指されているのではないかと個人的には想像します。
以上は私の勝手な個人的空想です。Tractatus に対するちゃんとした読解や研究に基付くのではありません。私が理由もなく「こんな感じかなぁ~」と妄想しているだけのことです。間違いなく間違っていることは間違いありませんので、間違っても本気にしないようにしてください。もうここらあたりで私のたわいない話はよすことにしましょう。どうか妄言をお許しください。
補遺 時制としてのフランス語接続法の復習
ここで念のため、フランス語の接続法の時制について簡単に復習しましょう。接続法の時制には、(1) 接続法現在、(2) 接続法半過去、(3) 接続法過去、(4) 接続法大過去があるのでした。例を上げて見てみましょう。regretter que (~であることを残念に思う) の que 節では接続法が要求されます。
(1) Je regrette qu'il soit absent. (私は彼が不在であるのを残念に思う)
(2) Je regrette qu'il ait été absent. (私は彼が不在であったのを残念に思う)
(3) J'ai regretté qu'il fût absent. (私は彼が不在であるのを残念に思った)
(4) J'ai regretté qu'il eût été absent. (私は彼が不在であったのを残念に思った)
(1) では主節も従属節も同時の現在の出来事です。(2) では主節は現在、従属節は過去です。(3) では主節も従属節も同時の過去です。(4) では主節は過去、従属節はその過去より前の過去、手短に言えば過去の過去です。
(1) ~ (4) における四つの接続法の形に注目してみると、(2) と (4) は助動詞と過去分詞を使った複合形をしていますが、(1) と (3) は過去分詞を使わない、いわば単純形になっています。そしてこの単純形を使っている時は、従属節は主節と同時であり、複合形を使っている時は、従属節は主節よりも前の過去のことを言っているのがわかります。ですので、従属節で主節と同時のことを言いたければ単純形の接続法を使えばよく、従属節で主節よりも過去のことを言いたければ複合形の接続法を使えばいいわけです。
あるいは視点を変えて言えば、フランス語の文を読んでいて、(時制としての) 接続法に出会ったなら、従属節でそれが単純形なら主節と同時、複合形なら主節よりも過去のことだと思って読めばいいわけです。
以上、簡単にまとめてみましたが、時制としての接続法が未来や未来完了を表わす場合の詳しい説明は今回省いています。ただ、ごく手短に言えば、従属節で未来のことを言いたければ接続法の単純形を、未来完了のことを言いたければ複合形を使えばよいということです。
これで接続法の復習を終わります。
今日の話はここまでとします。いつものように誤字や脱字、無理解や勘違い、誤解や無知な記述が多数あるかもしれません。誤訳や悪訳もいっぱいあるかもしれません。気を付けたつもりですが見落としもあるかと思いますのでこの場でお詫び申し上げます。すみません。何卒お許しください。
*1:ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、およびヴィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、光文社、2014年。
*2:ただし、語尾に -n の付いた Gedanken が1格である場合もまれにあるようです。ですから、本文中で「通常」と留保を付けさせていただきました。
*3:「思考」は 'Gedanken' の訳語ですが、「思想」という訳語を当てることもあり得ます。ただ、この「前書き」では 'Gedanke(n)' に関係した動詞 'denken' もたびたび出てきており、それら二つの語に統一的で自然な訳語を当てたいと思い、'Gedanke(n)' には「思考」という言葉を、'denken' には「思考する」という言葉を便宜的に割り当てました。特に深い意味はありません。
*4:ドイツ語の Gedankenstrich (―) には、表現を挿入する目印である以外に、特定の意味を持っている場合がいろいろあります。そこで今回の直訳では、単なる挿入の目印でなければ、その Gedankenstrich を特定の意味で訳出してみました。たとえばここの Gedankenstrich を私は「そこからおわかりのように」と訳してみました。しかし、これ以外の訳も考えられるかもしれません。Gedankenstrich の意味は、それが含まれる文脈から類推しなければなりませんので、読者ごとに解釈が割れるところがあります。以下に出てくる Gedankenstrich の訳も、人によっては異論があるかもしれません。その場合は私の訳を参考にして、各自で適訳を考えてみてください。なお、Gedankenstrich が文脈に応じていかなる意味を持つかについては次を参照ください。高坂義之、『規範ドイツ文典』、三修社、1979年、404-406ページ。ここには Gedankenstrich の意味が五つに分けて説明されています。ただし、現実にはこの五つで Gedankenstrich の意味が尽きているとは限らないと思います。実際、今回の「前書き」における様々な Gedankenstrich は、単なる挿入の目印以外の場合、ずっとニュアンスに富んだ意味を持っていると感じられ、具体的な文脈から類推された私なりの意味をそれぞれに割り当てています。この点、どうかお含みおきください。
*5:この文はご承知のとおり、Tractatus 末尾の文とよく似ています。ここの darüber muss man schweigen ですが、この muss を、私は「~する他ない」と訳し、「~せねばならない」とは訳していません。müssen は、やろうと思えばできるのだが、あえてしない、ということを表わしているのではなく、やろうにもやれない必然性、他に選択の余地がまったくない必然性を表わしているので、できるのにしないでおくというような禁欲的態度を思わせる「~せねばならない」という訳ではなく、当人の態度と無関係に絶対そうする以外にないというニュアンスを持った「~する他ない」という訳をここでは採用しています。müssen がこのような特徴を持つことについては丘沢先生に教えられました。丘沢静也、「訳者あとがき」、ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、光文社古典新訳文庫、165-167ページ。ただし、「~せねばならない」と訳したほうが深刻で重々しく威厳が出てくるので「~せねばならない」と訳したい気持ちもわからないではありませんが。
*6:Unsinn をどのように訳すかは、センシティブな問題ですが、ここではとりあえず素朴に「無意味」と訳しておきます。
*7:URL=<http://www.unil.ch/files/live//sites/philo/files/shared/etudiants/5_wittgenstein.pdf>.
*8:それとともにその23ページで先生は、Tractatus で Wittgenstein は論理学の本性にも多大な興味を持っていたという肯定的な側面も忘れてはならない、と述べておられます。確かに Tractatus では論理学のテクニカルな話が結構ありますよね。