Reading the Final Installments of Wittgenstein's Tractatus

目次

 

お知らせ

今まで毎月一回、月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

生活パターンが急変する可能性があります。

そのため、突然更新のペースが乱れたり、長期間止まったりするかもしれません。

前もってこの点、お伝えしておきます。何卒よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

はじめに

前回は Ludwig Wittgenstein 著 Tractatus Logico-Philosophicus の前書きをドイツ語原文で読んでみました。

そこで今回はその本の終盤部分を読んでみることにしましょう。6.43 から最後までをドイツ語で読みます。6.43 以下を選んだことには特に深い意味はありません。「分量や内容からいって、ちょうどこれぐらいがいいかな」という感じで 6.43 以下にしています。

なお、前回と同様、本日のブログの話も長くてこまごまとしています。ドイツ語はもとよりフランス語の文も読みます。そのため、時間がないかたや手間だとお感じのかたは読まないほうがいいかもしれません。また Wittgenstein の哲学についてちょっとコメントをします。まったく大したコメントではありません。「そんなコメントなんか読みたくない」とお思いのかたもおられるだろうと思います。そのようなわけで、「手間でも何でもいい、ひまで仕方がないから」とお感じのかただけが以下の文を読まれればいいと思います。あまりお勧めはしません。

このあとの文章は次の順で並べます。独語原文、独語文法事項、直訳、逐語訳、既刊邦訳、仏訳、仏語文法事項、直訳、逐語訳、ちょっとだけコメント、以上です *1

独文と仏文からの直訳、逐語訳、文法事項の解説は私によるものです。拙いものですが、この私訳や解説を読むことによって勉強の一助にしていただけるかたがおられれば幸いです。私としてもうれしく思います。直訳と逐語訳を採用しているのは、原文を文法的に解析するためであり、この訳を読まれるかたが原文を文法的観点から理解できるようにするためです。意訳や自然な日本語の訳は既に様々な種類の和訳が刊行されていますので、ここではあえて私自身の意訳を提示することはしておりません。

私が自力で直訳と逐語訳を済ませたあとは、容易に手に入る文庫本の既刊邦訳を二種類 *2 開いて私が誤訳していないかチェックさせてもらいました。やはり誤訳してしまっているところがありました。おかげで救われました。訳者の先生方に感謝致します。誠にありがとうございました。私が誤訳したところは以下の「独語文法事項」の欄で触れています。この誤訳以外の箇所では私訳に手を加えず、そのまま訳文を提示しています。

皆さまも、自力で和訳してみることをお勧め致します。訳者の先生のお仕事から教えられることもありますし、自分の弱点を把握することもできます。また何よりも自分の訳と既訳を比較することで「なるほど、こうすればうまく訳せるんだな」と感心させられたり、不遜ながら「この部分の自分の訳もそんなに悪くないな」などと訳文の出来ばえについていろいろと感じることがあります。

なお、念のために一言添えておきますと、当たり前の話ですが、私はドイツ語、フランス語の専門家ではありません。それらの言葉を不得意としている者です。間違ったことを書いていましたらすみません。あらかじめお詫び申し上げます。

また、私は Wittgenstein さん自身についてや彼の哲学についてよく知りません。なので、それらのことについて詳しい話はまったくできません。こちらもあらかじめ承知しておいていただければと存じます。

ドイツ語原文は次から引用します。

・ L. Wittgenstein  Tractatus Logico-Philosophicus, tr. by C. K. Ogden, Routledge, 1922/1981, pp. 184, 186, 188.

それでは始めます。

 

独語原文

6.43 Wenn das gute oder böse Wollen die Welt ändert, so kann es nur die Grenzen der Welt ändern, nicht die Tatsachen; nicht das, was durch die Sprache ausgedrückt werden kann.

 Kurz, die Welt muss dann dadurch überhaupt eine andere werden. Sie muss sozusagen als Ganzes abnehmen oder zunehmen.

 Die Welt des Glücklichen ist eine andere als die des Unglücklichen.

6.431 Wie auch beim Tod die Welt sich nicht ändert, sondern aufhört.

6.4311 Der Tod ist kein Ereignis des Lebens. Den Tod erlebt man nicht.

 Wenn man unter Ewigkeit nicht unendliche Zeitdauer, sondern Unzeitlichkeit versteht, dann lebt der ewig, der in der Gegenwart lebt.

 Unser Leben ist ebenso endlos, wie unser Gesichtsfeld grenzenlos ist.

6.4312 Die zeitliche Unsterblichkeit der Seele des Menschen, das heisst also ihr ewiges Fortleben auch nach dem Tode, ist nicht nur auf keine Weise verbürgt, sondern vor allem leistet diese Annahme gar nicht das, was man immer mit ihr erreichen wollte. Wird denn dadurch ein Rätsel gelöst, dass ich ewig fortlebe? Ist denn dieses ewige Leben dann nicht ebenso rätselhaft wie das gegenwärtige? Die Lösung des Rätsels des Lebens in Raum und Zeit liegt  a u s s e r h a l b von Raum und Zeit.

 (Nicht Probleme der Naturwissenschaft sind ja zu lösen.)

6.432 W i e die Welt ist, ist für das Höhere vollkommen gleichgültig. Gott offenbart sich nicht i n der Welt.

6.4321 Die Tatsachen gehören alle nur zur Aufgabe, nicht zur Lösung.

6.44 Nicht w i e die Welt ist, ist das Mystische, sondern d a s s sie ist.

6.45 Die Anschauung der Welt sub specie aeterni ist ihre Anschauung als – begrenztes – Ganzes.

 Das Gefühl der Welt als begrenztes Ganzes ist das mystische.

6.5 Zu einer Antwort, die man nicht aussprechen kann, kann man auch die Frage nicht aussprechen.

 D a s R ä t s e l gibt es nicht.

 Wenn sich eine Frage überhaupt stellen lässt, so k a n n sie auch beantwortet werden.

6.51 Skeptizismus ist n i c h t unwiderleglich, sondern offenbar unsinnig, wenn er bezweifeln will, wo nicht gefragt werden kann.

 Denn Zweifel kann nur bestehen, wo eine Frage besteht; eine Frage nur, wo eine Antwort besteht, und diese nur, wo etwas g e s a g t werden k a n n.

6.52 Wir fühlen, dass selbst, wenn alle m ö g l i c h e n wissenschaftlichen Fragen beantwortet sind, unsere Lebensprobleme noch gar nicht berührt sind. Freilich bleibt dann eben keine Frage mehr; und eben dies ist die Antwort.

6.521 Die Lösung des Problems des Lebens merkt man am Verschwinden dieses Problems.

 (Ist nicht dies der Grund, warum Menschen, denen der Sinn des Lebens nach langen Zweifeln klar wurde, warum diese dann nicht sagen konnten, worin dieser Sinn bestand [?])

6.522 Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies z e i g t sich, es ist das Mystische.

6.53 Die richtige Methode der Philosophie wäre eigentlich die: Nichts zu sagen, als was sich sagen lässt, also Sätze der Naturwissenschaft – also etwas, was mit Philosophie nichts zu tun hat – , und dann immer, wenn ein anderer etwas Metaphysisches sagen wollte, ihm nachzuweisen, dass er gewissen Zeichen in seinen Sätzen keine Bedeutung gegeben hat. Diese Methode wäre für den anderen unbefriedigend – er hätte nicht das Gefühl, dass wir ihn Philosophie lehrten – aber s i e wäre die einzig streng richtige.

6.54 Meine Sätze erläutern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie – auf ihnen – über sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.)

 Er muss diese Sätze überwinden, dann sieht er die Welt richtig.

7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

 

独語文法事項

so kann es: es は前方の das 〜 Wollen を指します。

das, was: 指示代名詞 das は不定関係代名詞 was の先行詞です。

dann dadurch: dadurch の da- は前文の内容「世界の境界線が変わること」を指すと私は解しましたが、邦訳訳者の野矢先生、丘沢先生は「善意または悪意」を指すと解しておられます。

eine andere werden: この andere のあとに Welt が省略されています。

eine andere als die des Unglücklichen: ここの eine andere als の andere のあとにも Welt が省略されています。また als 〜 は「〜 以外の、〜 より他の」の意味であり、die のあとには Welt が省略されています。全部合わせて直訳すると「不幸の世界以外の或る別の世界」。

Wie auch beim Tod: この文は、仮定的認容文「たとえ 〜 だとしても」とも、類似を表わす文「〜 のように、〜 と同様に」とも取ることができるように思われました。どちらなのか私には判然とせず、逡巡したあとで前者と私は解したのですが、そのあと Ogden 訳、Pears and McGuinness 訳、野矢先生訳、丘沢先生訳を拝見してみると、全員類似を意味する訳を採用されていましたので、私は自分の訳を間違っているものとして訂正し、「〜 と同様に」と訳し直しました。諸先生方に教えられました。誠にありがとうございます。

unter Ewigkeit ... Zeitdauer ... versteht: 4格 unter 3格 verstehen で、「(3格) を (4格) と理解する」。

lebt der ewig, der in der Gegenwart lebt: 最初の der は指示代名詞で、あとの関係代名詞 der の先行詞になっていて、人を表わします。

Unser Leben ist ebenso endlos, wie unser Gesichtsfeld: A ist ebenso B wie C で、「A は B とちょうど同じように C である」。

das heisst also: これら三語合わせて「つまり」の意味。

nicht nur ~, sondern ―: ~ だけでなく、― も。

auf keine Weise: まったく ~ でない。

vor allem: (ものごとについて) とりわけ、特に。人について「誰よりも」と言う場合は vor allen.

leistet diese Annahme gar nicht das: leistet が (他) 動詞、diese Annahme が主語、das が目的語。

das, was: この das も was の先行詞です。

erreichen wollte: wollte は接続法第二式。「~ したいのですが」。

dadurch ein Rätsel gelöst, dass: dadurch の da- はそのあとの dass 文を指します。

das gegenwärtige: このあとに、前に出てきた Leben が省略されています。

Nicht Probleme der Naturwissenschaft sind ... zu lösen: この文が普通に Die Probleme der Naturwissenschaft sind nicht zu lösen なら、訳は「自然科学の諸問題は解かれない/解かれ得ない」となり、文全体が否定された訳になりますが、Nicht Probleme der ... だと、否定されているのは文の一部の Probleme der Naturwissenschaft なので、訳は「解かれるのは自然科学の諸問題ではない」となります。

Die Tatsachen gehören alle nur zur: alle は主語の Die Tatsachen と同格です。「事実はみな、すべての事実は」。主語と同格の alle はしばしば定動詞のあとに出てきます。

Nicht w i e die Welt ist, ist das Mystische: das Mystische が主語で、その補語が w i e die Welt です。つまりこの文は倒置文です。補語の否定を強調したいために、その否定語句を先頭に出して倒置しているのだと思われます。

Die Anschauung der Welt sub specie aeterni ist ihre Anschauung als – begrenztes – Ganzes: sub specie aeterni は Spinoza の有名なセリフのようです。哲学の本はもとより、哲学以外の著作でも見かけることがあります (V. Frankl 先生の『夜と霧』)。このセリフは「永遠の相のもとに」としばしば訳されているみたいです。私はラテン語はわからないのですが、羅和辞書を引くと aeterni は「永遠の」という意味、specie は「見かけ、外見、形」などの意味、sub は「~の下に、(時間の点で) ~のあいだに、(抽象的な関係として) ~に従って、~によって」などの意味を持っているようです。そこでこのセリフを直訳すると「永遠の見かけの下に」となるみたいです。また、Anschauung は哲学ではよく「直観」と訳されます。そこでこれらを考慮して問題の文全体を直訳すると「永遠の見かけの下に世界を直観することは、(限定的な) 全体としてその世界を直観することである」となります。これではちょっとよくわかりませんね。ところで Anschauung はときどき見かける anschauen (見る、見つめる) という動詞を名詞化したものです。そして Spinoza のセリフもとりあえずは「永遠の姿をしているものとして」ぐらいの意味と解されます。以上から問題の文を訳し直してみると「永遠の姿を持ったものとして世界を見ることは、(限定された) 全体としてその世界を見ることである」となります。前よりはちょっとましですね。この訳文の少なくとも主部は、さしあたり「永遠に続くものとして世界を見ること」ぐらいに解されます。ただし、Spinoza のこのセリフが出てくる『エチカ』のページを開いて該当する箇所を邦訳で読んでみると、「永遠の相のもとに」物を見るとは、物をある時間内に存在しているものとして見るのではなく、時間を越えているものとして、時間と無関係なものとして見ることとされているようです。あるいは神の視点から物を見ることのようです。ですから、もしも Wittgenstein が例のセリフを Spinoza の『エチカ』から引用し、その箇所の含みをここでも持たせながら Die Anschauung der Welt sub specie aeterni と言っているのならば、これを「永遠に続くものとして世界を見ること」のように、世界が永遠に時間の面で続いて行くかのような意味合いで訳すのではなく、「時間を越えた、永遠の姿をしているものとして世界を見ること」という感じで訳すのがよいかもしれません。なお、Spinoza の例のセリフはたとえば次に出てきます。『エチカ (下)』、畠中尚志訳、岩波文庫岩波書店、1975年改版、第五部 知性の能力あるいは人間の自由について、定理29~30、124-126ページ。また、Wittgenstein は Schopenhauer の『意志と表象としての世界』を愛読していましたが、この本のなかにも Spinoza のセリフが出てきますから *3 、Wittgenstein は例のセリフを Spinoza からではなく Schopenhauer から引用しているのかもしれません。あるいは両方を念頭に置いているのかもしれませんが。Schopenhauer については、『意志と表象としての世界 II』、西尾幹二訳、中公クラシックス中央公論新社、2004年、第3巻、第34節、28ページに出てきます。私は「永遠の相のもとに」というセリフは知っていましたが、何のことだかよくは知りませんでした。今回調べてみてようやく大まかながらそのセリフの意味を理解しました。要するに物を、永遠の姿をしたものとして見ること、時間を越えたものとして神の視点から見ることなんですね。大体ですが、そのような感じみたいです。

Das Gefühl der Welt ... ist das mystische: まず、この 6.45 の das mystische ですが、これは直前の 6.44 の文にも das Mystische として出てきます。ただし注意すべきは、ここの 6.45 では mystische が小文字の m で始まっているのに対し、6.44 では Mystische が大文字の M で始まっているということです。ということはつまり、6.44 の das Mystische は形容詞が完全に名詞化したものであり、それだけで独立し、自立している名詞であるのに対し、6.45 の das mystische は名詞化しておらず、単独で自立しているのではない、省略されたところのある語句だ、ということです。では das mystische については何が省略されているのかというと、それはこの語句の前にある Das Gefühl の Gefühl であり、これが mystische のあとに略されているということです。ですから、6.44 の das Mystische は「神秘」と訳せばよいですが、6.45 の das mystische は「神秘」ではなく、「神秘的な感情」とか「神秘的な感じ」、「神秘的に感じること」などと訳すとよいと思われます。実際 Ogden 先生は das mystische を the mystical feeling と訳しておられます (Pears and McGuinness 先生は mystical と訳されていますが)。最後に、ここの文の主語は Das Gefühl der Welt であり、その補語は das mystische だと思われますが、しかし 6.44 では das Mystische が主語であり、ドイツ語ではしばしば主語と補語が倒置されることを鑑みて、私はここの文の主語を das mystische と解し、その補語を Das Gefühl der Welt と解して訳しています。これは諸先生方とは異なる訳し方です。そのため私は誤訳をしてしまっているのかもしれませんが、私訳を訂正せず、そのままにしておきます。

wenn er bezweifeln will, wo nicht gefragt werden kann: ここの副文は、よく言えば変則的、悪く言えば破格の構文になっているように見えます。たとえば bezweifeln ですが、これは「~を疑う」という他動詞ですけれど目的語が見当たりません。また wo の副文には主語が見当たりません。ですので、ここの副文を文法どおりに訳すことは困難だと思われます。それでも言わんとしていることを汲み取って訳してみますと、wo の副文は認容文で「問われ得ないにもかかわらず」と解せます。あるいは wo は was の間違い、誤植なのかもしれません。そうだとすると wo 以下は「問われ得ないこと」と解せます。こうするとこれが4格の関係文として bezweifeln の目的語と見なすことができて、不明だった目的語が確保できます (岩波文庫の野矢先生の訳は、そのように解せる訳を提示しておられます)。一方、他動詞 bezweifeln は自動詞 zweifeln の間違いだと取ることもできるかもしれません。そうするとそもそも目的語がなくても問題は生じません。しかしそう取らずとも、他動詞 bezweifeln をそのままにして、これに目的語が見当たらないのは、目的語を省略する他動詞の絶対的用法としてこの動詞が使われているからだ、と取ることも可能かもしれません。どうなんでしょうね。いろいろな可能性が錯綜していて面倒ですね。まぁ、どれを取っても最終的には似たような意味の訳にはなるのですけれど、とりあえず暫定的に私は他動詞 bezweifeln をそのままにして、これを他動詞の絶対的用法と解し、wo の副文を認容文と取って、wenn から kann までの全体を次のように直訳しておきます。「問われ得ないにもかかわらず、懐疑論 (er) が疑いを入れようとするならば」。

nur bestehen, wo: ここの nur は wo にかかっています。意味は「~である場合にだけ、~である場合に限り」。このように wo や wenn にかかる nur が wo や wenn から離れて前のほうに置かれていることがありますのでご注意ください。なお、このすぐあとに出てくる nur, wo も同じ意味です。

eine Frage nur, ..., und diese nur,: これらの表現の前に Zweifel kann nur bestehen が出てきていました。ということは、eine Frage nur と diese nur のそれぞれの nur の前後に kann と bestehen が省略されているということです。省略せずに書くと、eine Frage kann nur bestehen, ..., und diese kann nur bestehen, となります。ちなみに、ここの diese が何を指しているのかについてですが、この語に対応している (助) 動詞は kann ですので主語は単数と考えられます。そこで diese が指しているのは前方の (1) eine Antwort か、または (2) 複数の主語「Zweifel と eine Frage と eine Antowort」を一つの全体と見なしたもののどちらかと思われます *4 。diese の入っている文は Zweifel (疑い) から始っていますが、この文を読むと、流れとしては「疑いが成り立つのは、問いが成り立つ時だけであり、問いが成り立つのは、答えが成り立つ時だけであり、diese が成り立つのは、しかじかの時だけである」のようになっていて、その骨格は「A ならば B であり、 B ならば C であり、 diese ならば D である」となっていると考えられます。そうするとこの diese には (A + B + C) が入るのではなく、ただの C だけが入ると考えるのが自然だと思われます。ところでこの C に対応するのは本文中の eine Antwort です。よって diese が指しているのは前方の (1) か (2) のうち、(1) であろうと推測されます。ただし、Zweifel から始まるこの文の構造や流れから言えば確かに diese の主語は (1) の eine Antwort がよいのだろうと思われますものの、この文の意味から考えますと (2) の複数の主語を diese の指すものと解することも十分にあり得ます。微妙ですね。どちらでしょう? 私は一応 (1) を採用したほうがこの文の構造的な流れにぴたりと「はまる」ので (1) を採用しておきます。

selbst, wenn: 通常 selbst wenn ~ で、「たとえ~であろうとも」。

wissenschaftlichen Fragen : wissenschaftlich に対応する日本語の言葉には、「学問的/学術的」と「科学的」の二つがありますが、ここでは話の内容からいって後者の「科学的」のほうがふさわしいです。私はよく考えずに「学問的」と訳し、あとで既刊邦訳で読み合わせてみた時、自分が訳語の選択を間違っていることに気が付きました。初歩中の初歩をミスしていますね。これは誤訳です。皆様もお気を付けください。

eben keine: eben と否定語で「まったく~ない」。

am Verschwinden: この an は時「~の際に」か、または原因・手がかり「~によって」の意味。

der Grund, warum Menschen, denen der Sinn des Lebens ... klar wurde, warum diese ... nicht sagen konnten: ここの丸括弧内の文も、よく言えば変則的、悪く言えば破格の構文になっているように見えます。というのも Menschen とともに枠構造を作るはずの動詞が見当たらないからです。その意味で Menschen が浮いてしまっています。この不完全な状態を正すには、おそらく warum diese の二語を削ってしまうのがよいと思われます。これを削れば Menschen とともに枠を作る動詞が konnten として現われてきて、Menschen の浮いた状態が解消されます。いずれにしても、とりあえず細部を確認しましょう。一つ目の warum は関係副詞と推測され、der Grund にかかっています。この関係文内の主語は Menschen だと思われるのですが、これと一緒に枠を作る動詞がありません。denen は複数三格の関係代名詞で、枠を作る動詞は wurde であって、先行詞は Menschen です。この先行詞と関係文を訳すと「人生の意味が明らかになった人々」となります。次に二つ目の warum ですが、これも関係副詞であって、der Grund にかかっています。この関係文の主語は diese であり、枠を作る動詞は konnten です。この diese は Menschen を指し、sagen の目的語は、そのあとの worin です。そこで der Grund から最後の bestand までを直訳すれば以下のようになります。「長い疑いのあとに人生の意味が明らかになった人々、この人々がその時にこの [人生の] 意味が何に存するのかを言うことのできなかった理由」。これに対し、warum diese の二語を削った場合の訳を記せば次のとおりです。「長い疑いのあとに人生の意味が明らかになった人々が、その時にこの [人生の] 意味が何に存するのかを言うことのできなかった理由」。たぶん warum diese は、話をわかりやすくするため、念のためを思って付加されているのではなかろうかと思います。なお、ここの丸括弧内の文章を、私は先ほど「よく言えば変則的、悪く言えば破格の構文になっている」と、ネガティブに評価しましたが、ひょっとしたらここの文章はネガティブに評価されるものではなく、その反対にとても洗練された言い方になっている、との評価を受けることがあるかもしれません。ここで私は warum diese (= warum Menschen) が冗長に繰り返されていると述べましたが、英語でならこのように関係代名詞の類い (とその先行詞) を余分に繰り返し、そのことで読みやすさ、理解のしやすさを高めることにより、洗練された文体を作り出すことができる、と言われることがあるからです。ドイツ語でも同様に、関係代名詞や関係副詞の冗長な繰り返しが「洗練されている」との評価を受けることがあるのかもしれません。英語での事情については、このドイツ語の「文法事項」末尾の「warum diese (= warum Menschen) の冗長な繰り返しについて」をご覧ください。

Dies z e i g t sich, es ist das Mystische: Dies は直前の Unaussprechliches を指します。sich はその主語 dies を指します。それで Dies zeigt sich は「これ [語ることのできないこと] は自らを示す」と訳されます。また es も Unaussprechliches を指します。それで es ist das Mystische は「それ [語ることのできないこと] は神秘である」、またはこの文は、6.44や6.45にならい、あえて倒置文だと解するならば「神秘的なのはそれ [語ることのできないこと] である」となります。なお私は Dies z e i g t sich, es ist das Mystische を最初、誤訳しておりました。Es zeigt sich, dass ~ という言い回しがあり、これは「~であることが明らかになる」という意味なのですが、Dies zeigt sich もこれと同じ意味だと思い、Dies が es 以下を指しているのだと思っていました。そう思って訳しては見たものの「これはどうも変だなぁ」と感じたので既刊の和訳や英訳で諸先生方の訳を確認してみると、全然私が間違っていることに気が付きました。助かりました。先生方に感謝申し上げます。

wäre eigentlich die: この wäre はいわゆる外交的接続法で、断言を避け、控えめな調子を演出する用法です。また、die のあとには前方にあった Methode が省略されています。

Nichts zu sagen, als: nichts zu 不定詞 als ~ で、「~の他には (不定詞) しない」。もともと zu 不定詞は名詞としての性格を持っており、ここの zu 不定詞を含んだ文脈には本動詞がないので、この zu 不定詞は名詞として訳す必要があります。つまり「~の他には (不定詞) しないこと」というようにです。

sich sagen lässt: sich 他動詞 lassen で、「~される、~できる、~され得る」。

etwas, was: etwas は不定関係代名詞 was の先行詞です。

was mit Philosophie nichts zu tun hat: mit 3格 nichts zu tun haben で、「(3格) とは関係がない」。

und dann: これら二語ひとまとまりで「その上」の意味です。

immer, wenn: immer wenn で、「~である場合にはいつでも」。

etwas Metaphysisches: これは時々見かける etwas Gutes や etwas Neues などと同じ形をした言い回しです。では、この etwas Gutes の Gutes は何格なのでしょうか。桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、99-100ページの説明に従えば、etwas Gutes (あるよきもの) の格変化は次のとおりです。1格 etwas Gutes, 2格なし, 3格 etwas Gutem, 4格 etwas Gutes. この Gutes は元々2格で、etwas にかかっていたのだそうです。しかし今では2格ではなくなって、1格または4格になっているそうです。すると、1格の etwas Gutes の部分を成す Gutes は1格で、その etwas も同格の1格、4格の etwas Gutes の部分を成す Gutes は4格で、その etwas も同格の4格だと考えられます。また、関口存男、『和文独訳漫談集』、三修社、2019年 (初版1958年) の5ページによると、意味の上では etwas Gutes の Gutes は、その前の etwas にかかっていて (もの←よい)、その逆 (多少→よいもの) ではないとの話です。なお、桜井先生の話では、上に記したように、etwas Gutes の格変化に2格はないとのことですが、その2格はあると言われることもあります。次を参照ください。関口存男、『初等ドイツ語講座 下』、三修社、89ページ、備考2。そこを見ると、etwas Neues ならその2格は etwas Neuen とされていますので、私たちの etwas Gutes ならその2格は etwas Guten ということになります。それではひるがえって etwas Metaphysisches の Metaphysisches は何格なのでしょうか。ドイツ語原文中では etwas Metaphysisches は sagen の目的語になっていますので etwas Metaphysisches は全体として4格、そして etwas と Metaphysisches もともに同格の4格であると考えられます。

wollte: 接続法第二式。「~したいのだが」。

ihm nachzuweisen: この zu 不定詞も、その文脈中に本動詞を欠いているので名詞として訳す必要があります。すなわち「彼に証明してやること」。

wäre für: この wäre もいわゆる外交的接続法。

für den anderen: これを単に「他の人にとって」と訳すのは危険です。というのも、このドイツ語の語句は少し前に出てきた ein anderer (他のある人) を受けて述べられており、定冠詞 den があることからわかるように、単にたくさんいる「他の人にとって」と言っているのではなく、前に出てきた「他のある人」に関し、「その他人にとって」と言っているからです。「諸々の他人にとって」と言っているのではなく、先ほど述べた一人の特定の「他人にとって」と言っているわけです。私はこの für den anderen を最初、ちょっと変だと思いつつ「諸々の、他の人一般にとって」という感じで訳したあと、既刊邦訳で読み合わせたところ、私がこれを誤訳していることに気が付きました。「他人一般にとって」ではなく、前に言及した「その他人一人にとって」という意味なのです。邦訳訳者の野矢先生、丘沢先生に助けられました。誠にありがとうございます。皆さんもお気を付けください。

er hätte nicht das Gefühl, dass: S haben das Gefühl, dass ~ で、「S は~であると感じる、S には~という気がする」。hätte は先ほどから出てきている wäre と同様にいわゆる外交的接続法です。

wir ihn Philosophie lehrten: 弱変化動詞 (規則動詞) lehren は4格を二つ取ることのある他動詞です。4格 + 4格 lehren で、「(4格) に (4格) を教える」。また、ここの lehrten は間接引用文内にあり、しかも主節は接続法第二式になっていて、さらに間接引用文内の事柄を nicht で否定しているので、間接引用文内の事柄は非現実に属し、このことからこの lehrten は直説法過去ではなく接続法第二式と解すべきでしょう。間接引用文内では通常接続法第一式が用いられますが、ここで lehren を接続法第一式で用いると、主語が wir なのでその定形は lehren となり、これは直説法現在形と同形です。そこで同形の場合は接続法第二式を用いることになっています。そうするとここでは lehren は lehrten となります。しかしこの後者は接続法第二式ではあるものの、今度は直説法過去形と同形になってしまいます。接続法第二式と直説法過去形とが区別できません。しかしこれはやむを得ないこととされています。つまり間接引用文内では普通は接続法第一式を用いるのですが、それが直説法と同形になる場合は接続法第二式を用い、それでも直説法過去形と同形になる場合は、もうそのまま接続法第二式を用いて済ましておく、ということです。間接引用文内は接続法第一式、それが直説法と同形になる場合は接続法第二式、それがまた直説法過去形と同形になる場合はそのまま第二式を使っておく、という話については、関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、1943/2000年、53-54ページ、常木実、『接続法 その理論と応用』、郁文堂、1960年、43-44ページ、特に44ページの「備考」を参照ください。以上から、lehren のような弱変化動詞 (規則動詞) は接続法第二式と直説法過去形の形がまったく同じなのですが、ここでの lehrten は接続法第二式ですので、その訳は「教えた」と過去形で訳すのではなく、「教える」と現在形で訳す必要があります。

s i e wäre die einzig streng richtige: s i e は前方の Methode を指します。また、richtige のあとに、やはり Methode が省略されています。wäre はここでもいわゆる外交的接続法です。

am Ende: 最後には。

sie ... als unsinnig erkennt: A als B erkennen で、「A を B と認める」。

über sie hinausgestiegen ist: hinaussteigen 単独では「外へ出る」、über 4格 hinaussteigen では、「(4格) を越える、上回る」。steigen は完了形を作る時、助動詞に sein を使うので、ここの語句は過去を表わします。このあとに出てくる hinaufgestiegen ist も同様に過去を表わしています。

sieht er die Welt richtig: 4格 ~ sehen で、「4格を~であるように見る」。

Wovon man nicht sprechen kann: von ~ sprechen (~について話す) の von が Wovon の von のところに来ています。wo- は不定関係代名詞 was のことです。

darüber: darüber の da- は Wovon を指します。

 

warum diese (= warum Menschen) の冗長な繰り返しについて

・ マーク・ピーターセン  『日本人の英語』、岩波新書岩波書店、1988年、126-128ページ

を読むと、そこでは関係代名詞とその先行詞が遠く離れて置かれてしまうことの問題点が指摘されています。両者がかなり離れて置かれると、誤解を招いてしまうというのです。そこで誤解を避けるためには、次のようなやり方があることが説かれています。引用してみましょう。太字は引用者によるものではなく、原文にあるものです。

ところで、長くて複雑なセンテンスの場合、節の中に繰り返して主語を入れる [ことで先行詞に関する誤解を解く] 方法もある。たとえば、

The Problems for foreigners of conducting research at the major Japanese universities, which are well known to most visiting scholars, are numerous and deep-rooted. (外国人が日本の主要大学で研究をするときの問題は、ほとんどの客員研究員にはよく知られている問題であるが、多岐にわたっており根も深い。)

の ''which are well known'' はおそらく ''problems'' がよく知られていることを指しているのであろうが、位置的にいえば、それは ''Japanese universities'' がよく知られていることになる。それを直すために、関係節を ''problems'' のすぐあとに移してもよいけれども、それよりきれいな流れになるのは、

The Problems for foreigners of conducting research at the major Japanese universities, problems which are well known to most visiting scholars, are numerous and deep-rooted.

である。この類の洗練された英文を読むと、ネイティブスピーカーのうける印象はかなり良いものとなろう。

以上のように、英語で関係代名詞とその先行詞をあえて余計に繰り返すことが、かえって洗練の度合いを増すように、ドイツ語でも (またフランス語でも) 同様のことが言えるのかもしれません。語学力のない私には、はっきりしたことはわかりませんが。

 

独文直訳

6.43 善意または悪意が世界を変えるならば、それらの意志は世界の境界 *5 だけを変えることができるのであって、事実は変えることはできない。つまり言葉によって表現され得るものを変えることはできない。

 要するに、その時、世界はそのこと [境界線が変わること] により、全体的に別の世界にならざるを得ないのである。世界は言わば全体として増大または減少せざるを得ないのである。

 幸福な世界は不幸な世界とは異なる別の世界である。

6.431 死に際し、世界は変わるのではなく、終わるのと同様に。

6.4311 死は人生の出来事ではない。死を経験することはない。

 永遠ということで終わりのない時間の持続のことを理解するのではなく、時間のないこととして理解するならば、その時、今を生きる人は永遠に生きる。

 我々の人生は、視野に境界がないのとちょうど同じように、終わりがない。

6.4312 人間の魂が時間の上で不死であることは、つまり魂が死後も永遠に生き続けることは、まったく保証されていないだけでなく、特にこの [ような魂の不死性の] 想定をしてみても、それ [不死性] を利用することでやはり達成したいと思っていることは、まったく成し遂げられることもないのである。いったい私が永遠に生きることによって、謎は解かれるのだろうか。そうすると [= 永遠に生きるとすると] いったいこの永遠の人生は今の人生とちょうど同じぐらい謎めいているのではないか。空間と時間の内における人生の謎の解決は、時間と空間の「外に」あるのである。

 (確かに [人生の謎を解くに当たって] 解かれるべきなのは自然科学の問題ではないのである。)

6.432 世界が「いかに」あるかは高きにあるものにとってまったくどうでもいいことである。神は世界の「中に」現れることはない。

6.4321 事実はみな課題だけに関係があるのであって、解決には関係ない。

6.44 神秘的なのは世界が「いかに」あるかではなくて、世界があるという「そのこと」である。

6.45 永遠の姿を持ったものとして世界を見ることは、世界を (限定された) 全体として見ることである。

 神秘的に感じるのは、限定された全体として世界を感じることである。

6.5 述べることのできない答えに対しては、その問いも述べることはできない。

 「謎」は存在しない。

 そもそも問いが立てられうるならば、それにはまた答えられる「うる」のである。

6.51 懐疑論は、問いを立てることができないにもかかわらず、疑念 [という名の問い] を提起しようとするならば、それ [懐疑論] は反駁不可能なのでは「なく」、明らかに無意味なのである。

 というのも疑念は問いが成り立つ場合にのみ、成り立ちうるからである。さらに問いが成り立ちうるのは答えが成り立つ場合のみであり、しかもこの答えは何かを「言う」ことが「できる」場合にのみ成り立ちうるのである。

6.52 たとえ科学の問いの「ありうる」すべてが答えられるとしても、我々の人生の問題とは依然としてまったく関係がないと我々は感じる。確かにその時、問いはもはやまったく残っていない。しかしこれこそがその答えなのである。

6.521 人生の問題が消滅する時、その問題が解決したことに気がつく。

 (長い間疑念を抱いていたあとで、人生の意味が人々に明らかになり [はしたものの] 、その際その意味が何に存するのかを人々が言えなかったのは、今述べたことが理由ではなかろうか。)

6.522 語り得ないことはもちろんある。この [語り得ない] ことは自らを「示す」のであり、それが神秘なのである。

6.53 哲学の正しい方法とは本来次のものであろう。語り得ること、つまり自然科学の文以外には、— それ故、哲学とは関係ないこと以外には — 何も語らないこと、その上他の人が形而上学的なことを語りたい時にはいつでも、彼は自分の文の中の何らかの記号に意味を与えていなかったことを彼に立証してやることである。この方法はその他人には満足がいかないだろう。つまり、彼は我々が彼に哲学を教えているとは感じないだろう。しかし「この方法」が唯一厳密に正しい方法であろう。

6.54 これにより、私の文章から次のことが明らかとなる。すなわち私を理解する者は、私の文章を通り、それからその上に立ち、そしてそれを乗り越えたならば、私の文章は最終的に無意味であることがわかる、ということである。(彼は言わばはしごを登って上に立ったあと、それを投げ捨てる他ないのである。)

 彼はこれらの [私の] 文章を克服せざるを得ず、そうしてから彼は世界を正しく見るのである。

7 語り得ないことについては沈黙する他ない。

 

独文逐語訳

6.43 das gute oder böse Wollen 善意または悪意が die Welt 世界を ändert 変える Wenn ならば、 so その場合 es それ [善意または悪意] は die Grenzen der Welt 世界の境界を ändern 変えることが  kann できる nur だけであり、 die Tatsachen 事実を [変えることはでき] nicht ない。 ; つまり durch die Sprache 言語によって ausgedrückt werden 表現され kann 得る was もの das それを [変えることはでき] nicht ない。

 Kurz 要するに die Welt 世界は dann その時 dadurch それ [境界が変わること] によって überhaupt 全体的に eine andere 別 [の世界] に werden なる muss 他ないのである。 Sie それ [世界] は sozusagen いわば als Ganzes 全体として abnehmen oder zunehmen 減少するかまたは増大する muss 他ないのである。

 Die Welt des Glücklichen 幸福の世界は als die des Unglücklichen 不幸のそれ [世界] より eine andere 他の [世界] ist である。

6.431 beim Tod 死の際に die Welt 世界が sich nicht ändert 変わるのではなく、 sondern むしろ aufhört 終わるのと Wie auch また同様に。

6.4311 Der Tod 死は Ereignis des Lebens 人生の出来事 ist kein ではない。 Den Tod 死を man 人は erlebt ... nicht 経験しない。

 man 人は unter Ewigkeit 永遠ということで nicht unendliche Zeitdauer 際限のない時間の持続ではなく sondern むしろ Unzeitlichkeit 時間のないことと versteht 解する Wenn ならば、 dann その時 in der Gegenwart lebt 今において生きる der 者 der その者は lebt ... ewig 永遠に生きるのである。

 Unser Leben 我々の人生は unser Gesichtsfeld 我々の視野が grenzenlos ist 境界を欠いている ebenso ... wie のとちょうど同じように  endlos 終わりがない ist のである。

6.4312 der Seele des Menschen 人間の魂の Die zeitliche Unsterblichkeit 時間の点での不死性 das heisst also つまり auch nach dem Tode 死後にも ihr ewiges Fortleben それ [魂] が永遠に生き続けることは auf keine Weise まったく ist ... verbürgt 保証されて nicht nur ないだけでなく、 sondern むしろ diese Annahme この [魂の不死性という] 想定は man immer 人が依然として mit ihr それ [その想定] によって erreichen wollte 達成したい was こと das それを vor allem とりわけ leistet 成し遂げるということは gar nicht 全然ないのである。 denn というのも ich ewig fortlebe 私が永遠に生き続ける dass こと dadurch そのことによって ein Rätsel 謎が Wird ... gelöst 解かれるのだろうか。 denn というのも dann その時 dieses ewige Leben この永遠の人生は das gegenwärtige 現在の [人生] と ebenso ... wie ちょうど同じほどには rätselhaft 謎めいて Ist ... nicht いないと言うのだろうか。 in Raum und Zeit 時間と空間内の Die Lösung des Rätsels des Lebens 人生の謎の解決は von Raum und Zeit 時間と空間の a u s s e r h a l b 「外に」 liegt あるのである。

 (ja 確かに sind ... zu lösen 解かれるべきなのは Nicht Probleme der Naturwissenschaft 自然科学の問題ではない。)

6.432 W i e die Welt ist 世界が「いかに」あるかは für das Höhere 高きにあるものにとって vollkommen gleichgültig まったくどうでもよいこと ist である。 Gott 神は i n der Welt 世界の「中には」 offenbart sich nicht 現れない。

6.4321 Die Tatsachen 事実は alle みな nur zur Aufgabe 課題にだけ gehören 関係し nicht zur Lösung 解決には [関係し] ない。

6.44 das Mystische 神秘 ist であるのは w i e die Welt ist 世界が「いかに」あるか Nicht ではなく、 sondern むしろ sie ist それ [世界] がある d a s s 「こと」である。

6.45 sub specie aeterni 永遠の姿の下に Die Anschauung der Welt 世界を見ることは als – begrenztes – Ganzes 限定された全体として ist ihre Anschauung それ [世界] を見ることである。

6.5 man 人が nicht aussprechen kann 述べることのできない die ところの Zu einer Antwort 答えに対しては man ひとは die Frage ... aussprechen 問いを述べることも kann ... auch ... nicht またできない。

 D a s R ä t s e l 「謎」は gibt es nicht 存在しない。

 eine Frage 問いが überhaupt そもそも sich ... stellen lässt 立てられ得る Wenn ならば so その場合 sie それ [問い] は beantwortet werden 答えられ k a n n 「得る」。

6.51 Skeptizismus 懐疑論は er それが gefragt werden 問われ nicht ... kann 得ない wo 場合に bezweifeln will 疑おうとする wenn ならば、 ist n i c h t unwiderleglich 反駁できないのでは「なく」 sondern むしろ offenbar unsinnig あきらかに 無意味な [のである]。

 Denn というのも Zweifel 疑いは eine Frage besteht 問いが成り立つ nur ..., wo 場合にだけ kann ... bestehen 成り立ちうるのであり eine Frage 問いは eine Antwort besteht 答えが成り立つ nur, wo 場合にだけ [成り立ちうるのであり] und diese そして後者 [答え] は etwas g e s a g t werden k a n n 何かが 「言わ」れ「得る」 nur, wo 場合にだけ [成り立ちうるからである]。

6.52 alle m ö g l i c h e n wissenschaftlichen Fragen すべての「可能な」科学的問題が beantwortet sind 答えられる selbst, wenn 場合でさえ unsere Lebensprobleme 我々の人生の問題は noch まだ gar nicht berührt sind まったく触れられてはいない dass と Wir fühlen 我々は感じる。 Freilich 確かに dann その時 Frage 問題は mehr もはや bleibt ... eben keine まったく残ってはいない。 und しかし  eben dies これこそが ist die Antwort その答えなのである。

6.521 man 人は Die Lösung des Problems des Lebens 人生の問題の解決に am Verschwinden dieses Problems この問題が消滅する際  merkt 気が付く。

 (dies これが der Grund その理由では Ist nicht ないのか。 [すなわち] nach langen Zweifeln 長い間、疑ったあと der Sinn des Lebens 人生の意味が klar wurde 明らかになった denen ところの Menschen 人々 diese これらの [人々] が dann その時 dieser Sinn この [人生の] 意味が worin ... bestand 何に存するのかを nicht sagen konnten 言うことができなかった warum ところの [der Grund 理由では?])

6.522 allerdings もちろん Unaussprechliches 述べることができないものは Es gibt ある。 Dies それは sich 自らを z e i g t 「示す」。 es それは das Mystische 神秘 ist である。

6.53 Die richtige Methode der Philosophie 哲学の正しい方法は eigentlich 本来 die [次の方法] wäre であろう。 : すなわち was sich sagen lässt 言われ得ること also それ故 Sätze der Naturwissenschaft 自然科学の文 also それ故 was mit Philosophie nichts zu tun hat 哲学とは何も関係がないところの etwas あること als より他に Nichts zu sagen 何も言わないこと und dann その上 ein anderer 他の人が etwas Metaphysisches 形而上学的なことを sagen wollte 言いたい immer, wenn 時はいつでも er 彼は in seinen Sätzen 彼の文の中の gewissen Zeichen ある記号に Bedeutung 意味を keine ... gegeben hat 与えていなかった dass と ihm nachzuweisen 彼に証明してやることである。 Diese Methode この方法は für den anderen その他人にとって unbefriedigend 不満 wäre であろう。 er 彼は wir 我々が ihn 彼に Philosophie lehrten 哲学を教えている dass とは hätte nicht das Gefühl 感じないだろう。 aber しかし s i e 「それが [その方法が]」 die einzig streng richtige 唯一厳密に正しい [方法] wäre だろう。

6.54 dadurch これにより Meine Sätze 私の文章は mich versteht 私を理解する welcher ところの der 者が durch sie それ [私の文章] を通り、 auf ihnen その上に [立ち] über sie hinausgestiegen ist それを乗り越えた wenn ならば er 彼は sie それ [私の文章] を am Ende 最終的に als unsinnig 無意味として erkennt 認める dass ということを erläutern 明らかにする。 (er 彼は sozusagen いわば die Leiter はしごの auf 上に hinaufgestiegen ist 登った nachdem あと Er 彼は ihr それ [はしご] を wegwerfen 投げ捨てる muss 他ないのである。)

 Er 彼は diese Sätze これらの文章を muss ... überwinden 克服せねばならず、 dann その時 er 彼は die Welt 世界を richtig 正しく sieht 見るのである。

7 man 人が sprechen 語ることの nicht ... kann できない Wovon ものについて darüber それについては man 人は schweigen 沈黙する muss 他ない。

 

既刊邦訳

既刊の邦訳からは、最も著名で最も入手しやすいと思われる次から引用します。

・ ウィトゲンシュタイン  『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫岩波書店、2003年、146-149ページ。

邦訳原文中の傍点は下線で代用し、訳者注は省略します。漢字に付された読み仮名は、その漢字のあとに丸括弧に入れて記します。

六・四三 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。

 ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。

 幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。

六・四三一 同様に、死によっても世界は変化せず、終わるのである。

六・四三一一 死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。

 永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。

 視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。

六・四三一二 人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、もちろんそんな保証はまったくない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待されている役目をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間のにある。

 (ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。)

六・四三二 世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。

六・四三二一 事実はただ問題を導くだけであり、解決を導きはしない。

六・四四 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

六・四五 永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体として ―限界づけられた全体として― 捉えることにほかならない。

 限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。

六・五 答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。

 は存在しない。

 問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる

六・五一 問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。

 すなわち、問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ちうるのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。

六・五二 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。

六・五二一 生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。

 (疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、それでもなお生の意味を語ることができない。その理由はまさにここにあるのではないか。)

六・五二二 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。

六・五三 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は ―それゆえ哲学とは関係のないこと以外は― 何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はその人を満足させないだろう。 ―彼は哲学を教えられている気がしないだろう。 ―しかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。

六・五四 私を理解する人は、私の命題を通り抜け ―その上に立ち― それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行なう。(いわば、梯子 (はしご) をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)

 私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。

七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

 

仏訳

仏訳は次から引用します。

・ Wittgenstein  Tractatus logico-philosophicus, tr. par G. G. Granger, Gallimard, 1993, p. 110-112. *6

6.43 - Si le bon ou le mauvais vouloir changent le monde, ils ne peuvent changer que les frontières du monde, non les faits ; non ce qui peut être exprimé par le langage.

 En bref, le monde doit alors devenir par là totalement autre. Il doit pouvoir, pour ainsi dire, diminuer ou croître dans son ensemble.

 Le monde de l'homme heureux est un autre monde que celui de l'homme malheureux.

6.431 - Ainsi dans la mort, le monde n'est pas changé, il cesse.

6.4311 - La mort n'est pas un événement de la vie. On ne vit pas la mort.

 Si l'on entend par éternité non la durée infinie mais l'intemporalité, alors il a la vie éternelle celui qui vit dans le présent.

 Notre vie n'a pas de fin, comme notre champ de vision est sans frontière.

6.4312 - L'immortalité de l'âme humaine, c'est-à-dire sa survie éternelle après la mort, non seulement n'est en aucune manière assurée, mais encore et surtout n'apporte nullement ce qu'on a toujours voulu obtenir en recevant la croyance. Car quelle énigme se trouvera résolue du fait de mon éternelle survie ? Cette vie éternelle n'est-elle pas aussi énigmatique que la vie présente ? La solution de l'énigme de la vie dans le temps et dans l'espace se trouve en dehors de l'espace et du temps.

 (Ce n'est pas la solution des problèmes de la science de la nature qui est ici requise.)

6.432 - Comment est le monde, ceci est pour le Supérieur parfaitement indifférent. Dieu ne se révèle pas dans lè monde.

6.4321 - Les faits appartiennent tous au problème à résoudre, non pas à sa solution.

6.44 - Ce n'est pas comment est le monde qui est le Mystique, mais qu'il soit.

6.45 - La saisie du monde sub specie oeterni[sic] est sa saisie comme totalité bornée.

 Le sentiment du monde comme totalité bornée est le Mystique.

6.5 - D'une réponse qu'on ne peut formuler, on ne peut non plus formuler la question.

 Il n'y a pas d'énigme.

 Si une question peut de quelque manière être posée, elle peut aussi recevoir une réponse.

6.51 - Le scepticisme n'est pas irréfutable, mais évidemment dépourvu de sens, quand il veut élever des doutes là où l'on ne peut poser de questions.

 Car le doute ne peut subsister que là où subsiste une question; une question seulement là où subsiste une réponse, et celle-ci seulement là où quelque chose peut être dit.

6.52 - Nous sentons que, à supposer même que toutes les questions scientifiques possibles soient résolues, les problèmes de notre vie demeurent encore intacts. À vrai dire, il ne reste plus alors aucune question ; et cela même est la réponse.

6.521 La solution du problème de la vie, on la perçoit à la disparition de ce problème.

(N'est-ce pas la raison pour laquelle les hommes qui, après avoir longuement douté, ont trouvé la claire vision du sens de la vie, ceux-là n'ont pu dire alors en quoi ce sens consistait ?)

6.522 Il y a assurément de l'indicible. Il se montre, c'est le Mystique.

6.53 La méthode correcte en philosophie consisterait proprement en ceci : ne rien dire que ce qui se laisse dire, à savoir les propositions de la science de la nature - quelque chose qui, par conséquent, n'a rien à faire avec la philosophie -, puis quand quelqu'un d'autre voudrait dire quelque chose de métaphysique, lui démontrer toujours qu'il a omis de donner, dans ses propositions, une signification à certains signes. Cette méthode serait insatisfaisante pour l'autre - qui n'aurait pas le sentiment que nous lui avons enseigné de la philosophie - mais ce serait la seule strictement correcte.

6.54 Mes propositions sont des éclaircissements en ceci que celui qui me comprend les reconnaît à la fin comme dépourvues de sens, lorsque par leur moyen - en passant sur elles - il les a surmontées. (Il doit pour ainsi dire jeter l'échelle après y être monté.)

 Il lui faut dépasser ces propositions pour voir correctement le monde.

7 - Sur ce dont on ne peut parler, il faut garder le silence.

 

仏語文法事項

le bon ou le mauvais vouloir: le bon vouloir は「善意」、le mauvais vouloir は「悪意」。ただしどちらも古語。

non les faits: non は大まかには、否定の返答の言葉「いいえ」として使われる場合と、文中の要素の否定「A ではない (non A)」として使われる場合があります。ここでは後者が使われています。このすぐあとに出てくる non ce qui ... の non も同様です。

les faits ;: フランス語では英語と違い、; や : や ? などは直前の語からスペースを一つ空けて配されます。つまり英語では、たとえば語 A に関し、「A;」と記されるところをフランス語では「A ;」と記されます。

En bref: 手短に言えば。

par là: それによって、そのやり方で。

totalement autre: autre のあとに monde が省略されています。

pour ainsi dire: 言わば、ほとんど。

dans son ensemble: 全体的に。

un autre monde que: un/une autre 名詞 que ~ で、「~とは別の (名詞)、~以外の (名詞)」。

celui de l'homme: この celui は前方の le monde の代わりです。

Ainsi dans la mort: Ainsi のあとにおそらく que が省略されているものと思われます。その場合、ainsi que ~ は、「~するように、~であるのと同様に」。dans la mort の dans は時 (死に際して) または状況 (死という状況下で)。

l'on entend par éternité non la durée: entendre A par B で、「B で A を意味する」。

il a la vie éternelle celui qui: この il は後続の celui を受けており、その celui は人を意味します。

Notre vie n'a pas de fin: de fin は、元は une fin だったのですが、une fin は avoir の直接目的語で、かつ否定文中に置かれているため une が de に変っています。一方、三つ前の文の La mort n'est pas un événement では、un événement は属詞であり、直接目的語ではないため、un はそのままであり、de に変わることはありません。また、二つ前の文 On ne vit pas la mort の la mort は vivre の直接目的語ですが、不定冠詞ではなく定冠詞の la が付いているため、これはそのままであり、de に変ることはありません。

c'est-à-dire: すなわち。

non seulement n'est en aucune manière assurée, mais encore: non seulement ~ mais encore ― で、「~だけでなく、―も」。

en aucune manière: どのような仕方でも、全然。

et surtout: ここになぜこのような et があるのか、私は自信を持って答えることができません。誤植の類いでなければ、この et は強調のような意味があるのではないかと推測しています。『新スタンダード仏和辞典』(机上版) の項目 surtout の例文に次のものがあります。「Et surtout n'oubliez pas de + inf. 特に、忘れずに ... してください」。ここでは et によって surtout が強められているような気がします。そのようなわけでこの et は強調のために置かれているのだろうと私は解しています。間違っていたらすみません。

n'apporte nullement: ne ~ nullement で、「少しも~でない」。

en recevant la croyance: en + 現在分詞で、ジェロンディフ。ここでは手段の意味。「死後も魂は永遠に生きるのだと、そう信じるのを受け入れることにより」。

se trouvera résolue: S se trouver + 属詞で、「S が (属詞) であるとわかる」。ちなみにこの属詞が場所を表わす状況補語ならば、「S が (その場所) にある」。また、se trouvera の単純未来は憤慨、抗議を表わしています。「一体〜なのか?」

du fait de mon éternelle survie: du fait de ~ で、「~のために、~のせいで」。

n'est-elle pas aussi énigmatique que: A n'est pas aussi ~ que B で、「A は B ほどには~でない」。

se trouve en dehors de l'espace: 少し前にも注記しましたが、S se trouver + 場所の状況補語は、「S が (その場所) にある」。なお、この場所を表わす状況補語が属詞ならば、「S が (属詞) であるとわかる」でした。

en dehors de l'espace et du temps: en dehors de ~ で、「~の外に」。この de に当たるのは、de l'espace の de とともに、du temps の du、すなわち de le でもあることにご注意ください。ちなみに「~の内に」は en dedans de ~。

Ce n'est pas la solution ... qui est ici requise: 強調構文。C'est A qui ~ で、主語 A を強調して「~であるのは A だ」。

Comment est le monde, ceci est: ceci は Comment est le monde を受けています。「世界はいかにあるのか、これは~である」、または「世界がいかにあるかということは~である」。

Les faits appartiennent tous au problème: appartenir à ~ で、「~に属する」。tous は主語の Les faits に同格で、「事実はすべて、すべての事実は」。この tous は不定代名詞 tout の男性複数形で、「トゥ」ではなく「トゥス」と発音されることにご注意ください。

Ce n'est pas comment ... qui est le Mystique: これも先ほど述べたばかりの強調構文。主語を強調。「神秘的なのは、世界がいかにあるか、ということではない」。

mais qu'il soit: ここには省略があります。mais 以下をすべて書き出すと、Qu'il soit, cela est le Mystique となります。il は le monde のことです。訳せば「世界があること、それが神秘なのだ」。ところでこの文頭の que 節内では接続法が使われていますが、それはなぜなのでしょうか。何ごとかを事実であるとも事実でないとも断定せず、判断を保留する文脈でしばしば接続法は使われますが、文頭の que 節ではその内容がとりあえず前もって提示されているだけで、まだそれが事実であるともないとも判断が下されていないため、そこでは接続法が使われています。その que 節の内容の判断は、この節を受けた主節 (cela est le Mystique) においてなされています。文頭の que 節で接続法が使われる理由については、次を参照ください。渡邊淳也、『中級フランス語 叙法の謎を解く』、白水社、2018年、68-71ページ。

La saisie: これは動詞 saisir (つかまえる) を名詞化したもので、普通は法律用語の「差押え」を意味するようです。しかしここでは「把握」の意味で使われています。辞書を見ると (小学館のロベール)、saisie がこの意味で使われるのはまれとのことです。

sub specie oeterni[sic]: このラテン語の内容については、ドイツ語の文法事項を記した際に詳しく話をしていますので、そちらをご覧ください。なお oeterni は aeterni のことだと思われます。

on ne peut non plus formuler: ne ― pas non plus ~ で、「~もまた―ない」。なお、pouvoir を ne ... pas で否定する時、文語では pas を省略することは可。

Il n'y a pas d'énigme: ここで une énigme ではなく d'énigme, すなわち de が使われているのは、une énigme が avoir の直接目的語になっていて、それが否定文中に置かれているからです。

scepticisme: この単語の発音は、英語に引きずられて「スケプティシスム」と言いそうになりますが、フランス語では「セプティシスム」ですのでご注意ください。

évidemment: この単語の発音も「エヴィドマン」と言いそうになりますが、「エヴィダマン」です。

dépourvu de sens: dépourvu de ~ で、「~を欠いた」。pourvoir (備える、備え付ける) の過去分詞 pourvu に否定の接頭辞 dé- が付いています。

là où l'on: 接続詞句。「~する場合に」。すぐあとに出てくる là où subsiste と là où quelque chose の là où も同様。

une question seulement: question と seulementne のあいだには、おそらくですが ne peut subsister ではなく peut subsister が省略されているのだと思われます。celle-ci と seulement のあいだにも ne peut subsister ではなく peut subsister が省略されているのだと思われます。celle-ci は「後者/手前/こちらのそれ」で、それとは une réponse のこと。「前者/向こう/あちらのそれ」なら celle-là。

à supposer même que: à supposer que + 接続法で、「~だと仮定して」。これに même (~でさえ、ですら) が加わっているので、全体で「~だと仮定してさえも」。

demeurent encore intacts: demeurer + 属詞で、「(属詞) のままである」。

À vrai dire: à vrai dire または à dire vrai で、「実は、本当のことを言うと」。

il ne reste plus alors aucune question: il は非人称で、この文の論理的主語。意味上の主語は aucune question です。「その時、もはや何らの問題も残されてはいない」。

on la perçoit: la は前方の La solution を受けています。

ceux-là: これは前に出てきた les hommes を指していますが、この ceux-là は削除してしまっても構わないと思います。削除したほうが文法に適ったものになると思います。関係節 les hommes qui, ~ de la vie が終ったあと、ceux-là 以下、かけるところのない完全な文が現われて、名詞 les hommes が一個だけ、pour laquelle 以降で「浮いて」しまっています。この構造はドイツ語原文と同じであり、元のドイツ語の構造をそのままなぞるように仏訳がなされています。なお、「ceux-là は、削除したほうが文法に適ったものになる」というようなことを今述べましたが、むしろこの ceux-là があったほうが readable になってよりよい、という意見もあるかもしれません。詳しくは上記、独語文法事項の欄の項目「der Grund, warum Menschen, ...」をご覧ください。

en quoi ce sens consistait ?: consister en ~ (~に存する) の ~ を疑問代名詞 quoi (何) で表わして、en とともに前方に立て、倒置しています。訳すと「何にこの意義は存するのか」。

de l'indicible: ここの de は前置詞ではなく、de la のひとまとまりで部分冠詞だろうと思われます。このように冠詞が形容詞 indicible (語り得ない) の前に置かれているのは、その形容詞を名詞化するためだろうと思われます。しかし形容詞を名詞化するためだけなら部分冠詞以外にも定冠詞や不定冠詞でもできます。なぜ定冠詞や不定冠詞ではなく部分冠詞が使われているのでしょうか。私は以下のように推測しています。まず私たちは、語り得ないものについて、それは目の前の机や通りを走る車のように明確なものだとは考えていないでしょう。漠然としたものだと感じています。ところでもしも語り得ないものを定冠詞で名詞化してやるならば、語り得ないものは明確に名詞化されてしまうことになるでしょう。そのため、定冠詞で名詞化するのは不適当と考えられます。また、不定冠詞で名詞化してやると、そうやって名詞化された語り得ないものは、一個二個というように数えられるものだ、ということになります。しかし、私たちは漠然とした語り得ないものが数えられるとはあまり感じていないと思います。そのため、不定冠詞で名詞化してやることも不適当だと考えられます。一方、部分冠詞は数えられないものに付けられる冠詞です。それほど形のはっきりしていないものに付けられます。そうすると、数えられず、形もはっきりしていない語り得ないものを名詞化したいのならば、定冠詞や不定冠詞よりも、部分冠詞のほうが適当だと考えられます。以上の理由により、ここでは部分冠詞で形容詞 indicible が名詞化されているのだろうと推測します。間違っていたらすみません。

consisterait: 語気緩和を表わす条件法現在。

ne rien dire: rien は不定詞の直接目的語である時、その不定詞の前に置かれます。そのため、ここでは rien が dire の前に来ています。

se laisse dire: se laisser + 他動詞で、「~される」。

à savoir: すなわち。

par conséquent: したがって。

n'a rien à faire avec la philosophie: n'avoir rien à faire avec ~ で、「~とは関係がない」。

quelqu'un d'autre: 「他の人」。quelqu'un や quelque chose を形容詞で修飾する時、quelqu'un/quelque chose とその形容詞のあいだに de をはさみます。その際、形容詞は男性形を取ります。

voudrais: 仮定を表わす条件法現在。

quelque chose de métaphysique: 「形而上学的なこと」。二つ前の註を参照ください。quelque chose de métaphysique の métaphysique は形容詞だと思います。形容詞ではなく、「形而上学」を意味する名詞なら、たぶん la métaphysique のように定冠詞が付くと思います。ですので、quelque chose de métaphysique は厳密には「形而上学のこと」と訳すのではなく、「形而上学的なこと」と訳す必要があると思われます。

il a omis de donner: omettre de + 不定詞で、「~するのを怠る、忘れる」。

Cette méthode serait: serait は推測を表わす条件法現在。

pour l'autre: 「その他人にとって」。l'autre は不特定の他人ではなく、少し前に出てきた quelqu'un d'autre という他人を指しており、「(先ほど言及した) 他人であるこの人にとって」という意味です。単純に「(誰であれ) 他人にとって」と訳すと誤解を招きます。

n'aurait pas le sentiment que: avoir le sentiment que + 直説法で、「~である印象を持つ」。aurait は推測を表わす条件法現在。

enseigné de la philosophie: この de la は部分冠詞だと思われます。その場合、この部分冠詞はどのような意味を持っているのでしょうか。私の推測では、この部分冠詞はいわゆる情意的意味を持っているのではないかと思います。その情意的意味にはいくつかあり、たとえば (1) 軽蔑的意味: du pauvre 貧乏人の奴ら、(2) 称賛的意味: Ça, c'est de l'amitié. これこそ友情というものです、(3) 誇張的意味: Quatre francs! c'est de l'argent. 4フラン! 相当の金だ、などがありますが、ここでのフランス語原文の意味は、「我々が彼に、彼の望んでいるような典型的で理想的な哲学を教えてあげたとは、彼は感じていないだろう」ということです。この意味合いにかなうのは、上記 (1) 〜 (3) のうち、(2) だと思われます。(2) の例文の話者は、典型的で理想的な友情を目の前にして称賛しているからです。そのようなわけで、フランス語原文における de la philosophie の de la は、典型的、理想的、称賛的意味での部分冠詞だと思われます。ただし、一つだけ気になることがあります。それは (2) の意味での部分冠詞は、ほとんどの場合、その例文にもあるように、c'est で始まる文中で使われるものらしい、ということです。c'est 以外では voila で始まる文で使われることもあるようですが、これら以外の普通の文脈で (2) の意味の部分冠詞が使われるものなのか、私は知りません。ちなみに、次の文献に当ってみますと、小田涼、『中級フランス語 冠詞の謎を解く』、白水社、2019年、「36課 部分冠詞の不思議な用法」の156-159ページにおいて、小田先生は部分冠詞の情意的用法を説明しておられるのですが (先生は「情意的用法」という言葉は使っておりませんが)、その箇所で「これは典型的な/理想的な〜だ」ということを部分冠詞で表わす場合の例文として「c'est 〜」で始まる文だけをいくつか上げておられ、「c'est 〜」以外の例文は上げられておりません。そのため、「c'est 〜」以外の文中で部分冠詞を使いながら「典型的な/理想的な〜」ということを表わすことがあるのか、私にはわかりません。ですので、de la philosophie の de la は、(2) の意味で使われていると申しましたが、ひょっとしたら間違っているかもしれません。そのようでしたらすみません。また勉強し直します。なお、ここでの部分冠詞の情意的意味については主として次を参照しました。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目「article partitif (部分冠詞)」、II、意味と用法、10、不特定の名詞の前、まる8、部分冠詞の情意的用法、69ページ。

ce serait: serait は語気緩和を表わす条件法現在。

la seule strictement correcte: correcte のあとに méthode が省略されています。

en ceci que: ceci が que 節を伴うと、ceci は que節を指します。en は「~に関して」。

celui qui: celui は人を表わします。「~である人」。

les reconnaît ... comme dépourvues de sens: reconnaître A comme/pour B で、「A を B として認める」。

à la fin: 最終的に、結局。

en passant sur elles: passer sur ~ で、「~の上を通る」。en passant は en + 現在分詞でジェロンディフ。ここでの意味は同時性か手段で、「~の上を通りながら、上を通ることによって」。

après y être monté: y は sur l'échelle のこと。être monté は受け身ではなく複合形の過去。monter (登る) や descendre (降りる) は複合形の時、助動詞として être を取るので。

pour voir correctement le monde: この pour は目的 (~のために) を意味するとも取れますが、ドイツ語原文と照らし合わせると、目的ではなく継起性や結果を表わす pour と解すべきでしょう。継起性の pour: A pour B で、「A して、そしてそれから B する」。結果の pour: A pour B で、「A した結果、B する/A という結果になるほど B である」。

Sur ce dont on ne peut parler: dont は de ce のことであり、この de は paler de ~ (~について話す) の de から来ています。

 

仏文直訳

6.43 善意または悪意が世界を変えるなら、それら [の意志] は世界の境界線しか変えることはできず、事実を変えることはできない。つまり、言語によって表現され得るものを変えることはできない。

 手短に言えば、その時、世界はそれ [境界線の変更] によって、まったく別の世界にならざるを得ない。それ [世界] は全体的に、言わば減少または増大可能でなければならないのである。

 幸福な人間の世界は、不幸な人間の世界とは異なる世界である。

6.431 死の際におけるように、世界は変わるのではなく、終わるのである。

6.4311 死は人生の出来事ではない。死は体験されない。

 永遠ということで時間が無限に続くことではなく、時間がないことを意味するならば、今を生きる者は永遠の命を有する。

 我々の視野に境界線がないように、我々の命にも終わりがない。

6.4312 人間の魂の不死性、すなわちそれ [魂] が死後も永遠に生き続けることは、まったく保証されていないだけでなく、それ [魂の不死性] を信じ、受け入れることによって、常に得たいと思っているものを、その不死性がとりわけもたらしてくれるということもまた少しもないのである。と言うのも、私の魂が死後も永遠に生き続けることによって、どんな謎が解けるとわかるのだろうか。この永遠の人生は、今の人生と同じぐらい謎めいているのではないだろうか。時間と空間の中における人生の謎の解決は、時間と空間の「外に」あるのである。

 (ここで必要なのは、自然科学の問題を解くことなのではない。)

6.432 世界がいかにあるか、これは高い存在にとってはまったくどうでもいいことである。神は世界の「中に」現れることはない。

6.4321 事実はすべて、解決すべき問題に属しているのであって、その解決に属しているのではない。

6.44 神秘的なのは、世界の有り様ではなく、「世界があるということ」である。

6.45 世界を「永遠の姿を持ったものとして」把握することは、世界を限定された全体として把握することである。

 世界を限定された全体として感じることは、神秘的である。

6.5 表現することのできない解答については、その問題もまた表現することはできない。

 「謎」は存在しない。

 問題が何らかの仕方で提起され得るならば、それ [問題] はまた解答も許容することができる。

6.51 問題を立てることができない場合に懐疑論が疑問を提起する時には、それ [懐疑論] は反駁不可能なのではなく、明らかに意味を欠いているのである。

 と言うのも、疑いは問題が成り立つ場合にしか成り立ち得ないからであり、問題は答えが成り立つ場合にだけ成り立つからであり、そして後者 [答え] は何事かを「言う」ことのできる場合にだけ成り立つからである。

6.52 たとえありうる科学的問題のすべてが解かれた場合でさえ、我々の人生の問題は依然として手を触れられぬままであると、我々は感じる。本当のことを言えば、その時、何らの問題ももはや残ってはいないのであり、しかもこれこそがその答えなのである。

6.521 人生の問題が消え去った時、その問題が解決したことに我々は気付く。(人生の意味について長い間疑問を抱いたあとで、明確な見解を見出した人が、その時、この [人生の] 意味が何に存するのかを言うことができなかったのは、今述べたことが理由ではなかろうか。)

6.522 語り得ぬことは確かに存在する。それは自らを示す。それは神秘である。

6.53 哲学における正しい方法とは、本来次のことにあるだろう。語られることしか、つまり自然科学の命題しか、したがって、哲学とは関係のないことしか、語らないこと。それに、誰か他の人が形而上学的なことを言いたい時には、彼は自分の命題の中の、ある記号に意味を与え損なっていると、彼にその都度証明してやること。この方法はその他人にとっては満足の行くものではないだろう。彼は、我々が彼に哲学というものを教えたとは、感じないだろう。しかしそれが唯一厳密に正しい方法だろう。

6.54 私の諸命題は次の点に関し、説明を行なっている。私を理解する者がそれら [私の諸命題] を用い、それらを登ることにより、それらを乗り越えた時、彼はそれらを最終的に意味を欠いたものとして認めるのである。(彼ははしごを登ったあとで、それを言わば投げ捨てねばならないのである。)

 彼はこれらの諸命題を克服せねばならず、そうしてから世界を正しく見ることになるのである。

7 語り得ないことについては、沈黙を守らなねばならない。

 

仏文逐語訳

6.43 le bon ou le mauvais vouloir 善意または悪意が le monde 世界を changent 変える Si ならば、 ils それら [善意または悪意] は les frontières du monde 世界の境界 ne peuvent changer que しか変えることはできず、 les faits 事実を [変えることはでき] non ない。 ; つまり par le langage 言語によって peut être exprimé 表現され得る ce qui ところのものを [変えることはでき] non ない。

 En bref 手短に言えば le monde 世界は alors その時 par là そのこと [境界の変化] によって totalement autre まったく別 [の世界] に doit ... devenir ならざるを得ない。 Il それ [世界] は dans son ensemble 全体的に pour ainsi dire いわば diminuer ou croître 減少または増大することが doit pouvoir できねばならないのである。

 Le monde de l'homme heureux 幸福な人間の世界は celui de l'homme malheureux 不幸な人間のそれ [世界] un autre monde que より他の世界である。

6.431 dans la mort 死の際におけるのと Ainsi [que] 同様に、 le monde 世界は n'est pas changé 変わるのではなく il cesse それ [世界] は終わるのである。

6.4311 La mort 死は un événement de la vie 人生のできごと n'est pas ではない。 On 我々は la mort 死を ne vit pas 体験しない。

 l'on 我々が par éternité 永遠ということで non la durée infinie 無限の時間の持続ではなく mais l'intemporalité むしろ時間がないことを entend 意味する Si ならば alors その時 vit dans le présent 現在において生きる celui qui ところの人 il その彼は a la vie éternelle 永遠の命を持つ。

 Notre vie 我々の人生は notre champ de vision 我々の視野が est sans frontière 境界を欠いている comme ように n'a pas de fin 終わりを持たない。

6.4312 L'immortalité de l'âme humaine 人間の魂の不死性 c'est-à-dire すなわち après la mort 死後に sa survie éternelle それ [魂] が永遠に生き続けることは en aucune manière いかなる仕方でも n'est ... assurée 保証されていない non seulement だけでなく、 mais encore また la croyance それ [魂の不死性] を信じることを en recevant 受け入れることにより on a toujours voulu obtenir 人が依然として得たいと欲していた ce qu' ところのものを et surtout 特に n'apporte nullement もたらすということも少しもないのである。 Car というのも mon éternelle survie 私の [魂] が永遠に生き続けること du fait de により quelle énigme いかなる謎が se trouvera résolue 解決されるとわかるだろう ? か Cette vie éternelle この永遠の人生は la vie présente 現在の人生 aussi énigmatique que と同じぐらい謎めいている n'est-elle pas のではないか。 dans le temps et dans l'espace 時間内と空間内における La solution de l'énigme de la vie 人生の謎の解決は de l'espace et du temps 空間と時間の en dehors 「外に」 se trouve あるのである。

 (est ici requise ここで必要であるのは Ce ... qui まさに de la science de la nature 自然科学の la solution des problèmes 問題の解決 n'est pas なのではない。)

6.432 le monde 世界が Comment est いかにあるか ceci これは pour le Supérieur 高い存在にとって parfaitement indifférent まったくどうでもよいこと est である。 Dieu 神は dans lè monde 世界の「中に」 ne se révèle pas 現れない。

6.4321 Les faits 事実は tous すべて au problème à résoudre 解決されるべき問題に appartiennent 属しているのであって non pas à sa solution その [問題の] 解決に [属しているのでは] ない。

6.44 est le Mystique 神秘であるのは Ce ... qui まさに le monde 世界が comment est いかにあるか n'est pas ではなく mais むしろ qu'il soit 「それ [世界] があること」である。

6.45 sub specie oeterni[sic] 永遠の姿の下に La saisie du monde 世界を把握することは comme totalité bornée 限定された全体として est sa saisie それ [世界] を把握することである。

 comme totalité bornée 限定された全体として Le sentiment du monde 世界を感じることは est le Mystique 神秘である。

6.5 on ne peut formuler 我々が表現できない qu' ところの D'une réponse 答えについて on 我々は formuler la question その問いを表現することも non plus また ne peut できない。

 d'énigme 「謎」は Il n'y a pas 存在しない。

 une question 問いが de quelque manière 何らかの仕方で être posée 設定され peut 得る Si ならば、 elle それ [問い] は aussi また recevoir une réponse 答えを認めることが peut できる。

6.51 Le scepticisme 懐疑論は l'on 人が poser de questions 問いを設定することが ne peut できない là où 場合に il それ [懐疑論] が veut élever des doutes 疑いを提起したい quand 時、 n'est pas irréfutable 反駁不可能なのでは「なく」 mais むしろ évidemment 明らかに dépourvu de sens 意味を欠いている [のである]。

 Car というのも le doute 疑いは subsiste une question 問いが存立する que là où 場合にしか ne peut subsister 存立し得ないのであり une question 問いは subsiste une réponse 答えが存立する seulement là où 場合にだけ [存立し得るのであり] et celle-ci そして後者 [答え] は quelque chose 何かが peut être dit 「言わ」れ得る seulement là où 場合にだけ [存立し得るからである]。

6.52 possibles 「可能な」 toutes les questions scientifiques 科学的問題のすべてが soient résolues 解かれると à supposer même que 仮定してさえ les problèmes de notre vie 我々の人生の問題は encore 依然として demeurent ... intacts 手つかずのままである。 À vrai dire 本当のことを言えば alors その時 aucune question いかなる問題も ne reste plus もはや残されていないのである。 et cela même そしてこれこそが est la réponse その答えなのである。

6.521 La solution du problème de la vie 人生の問題の解決 la それに à la disparition de ce problème この問題が消える時、 on ... perçoit 我々は気付く。

 (N'est-ce pas la raison これがその理由ではないのか。 [つまり] pour laquelle これがために après avoir longuement douté 長い間疑ったあと du sens de la vie 人生の意味の la claire vision 明確な見解を ont trouvé 見い出した qui ところの les hommes 人たち ceux-là その人たちが alors その時 ce sens この [人生の] 意味が en quoi ... consistait 何に存するのかを n'ont pu dire 言うことができなかった [のではないのか]。)

6.522 assurément 確かに de l'indicible 言うことのできないことは Il y a 存在する。 Il それ [言うことのできないこと] は se montre 自らを示すのであり、 c'est le Mystique それが神秘なのである。

6.53 en philosophie 哲学における La méthode correcte 正しい方法は proprement 本来 consisterait ... en ceci 次のことのうちに存する。 : つまり se laisse dire 言われる ce qui ところのこと à savoir すなわち de la science de la nature 自然科学の les propositions 命題 par conséquent したがって la philosophie 哲学とは n'a rien à faire avec 関係のない qui ところの quelque chose あるもの ne rien dire que しか何も言わないこと puis それから quand quelqu'un d'autre 他の誰かが quelque chose de métaphysique 形而上学的なことを voudrait dire 言いたい quand 時には il 彼は dans ses propositions 彼の命題において à certains signes ある記号に une signification 意味を a omis de donner 与え損ねた qu' と toujours たえず lui démontrer 彼に証明してやることである。Cette méthode この方法は pour l'autre その他人にとっては serait insatisfaisante 不満だろう。 qui それ [その他人] は nous 我々が lui 彼に de la philosophie 理想的な哲学を avons enseigné 教えた que とは n'aurait pas le sentiment 感じないだろう。 mais しかし ce これが la seule strictement correcte 唯一厳密に正しい [方法] だろう。

6.54 Mes propositions 私の諸命題は en ceci 次の点に関する sont des éclaircissements 説明である。[すなわち] me comprend 私を理解する celui qui ところの者が par leur moyen それら [私の諸命題] の方法を用いて en passant sur elles それらの上を通ることにより il les a surmontées 彼がそれらを乗り越えた lorsque 時、 les それらを à la fin 最終的に dépourvues de sens 意味を欠いているもの comme として reconnaît 認める que ということ [である]。 (Il 彼は l'échelle はしごを être monté 登った après あとで y それを pour ainsi dire いわば jeter 投げ捨て doit ねばならないのである。)

 lui 彼には ces propositions これらの諸命題を dépasser 克服する Il ... faut 必要があり、  pour そうしてから correctement 正しく le monde 世界を voir 見るのである。

7 on 人が ne peut parler 語ることのできない dont ところの Sur ce ものについては le silence 沈黙を il faut garder 守らねばならない。

 

ちょっとだけコメント

最後にささいなコメントを少しだけ付します。まったく大したことのない話なので、以下の記述を真に受けないでください。真に受けるかたはいないと思いますが。

 

Tractatus の終盤を読んでみましたが、正直に言って、勉強不足の私にはよくわかりません。疑問に思われることが多くあります。

そこで、古い文献ですが、次の本で今回の該当部分の註釈を読んでみました。

・ M. Black  A Companion to Wittgenstein's 'Tractatus', Cambridge University Press, 1964.

すると一部だけですが、疑問が少しだけ解消した気がします。

以下では Black 先生の本を読んで何がわかったのか、二つだけ記したいと思います。きっと皆さんにとってもごくごくわずかだけながら参考になるでしょう。

なお、6.54にあるように、Tractatus の文は結局無意味だから捨て去られねばならない、という主張は矛盾しているのではないかとか、有名な7のセリフについてだとか、前書きとこの終盤とを考え合わせた時、Tractatus という書物の特徴や目的として何が言えるのか、というような「大問題」は私の手に負えないので、以下では触れません。

 

(1) 6.43 では、意志は世界の境界だけを変えることができて、事実は変えることはできない、と述べられています。ここで言う世界の境界とは何なのでしょうか。

Black 本の372ページを見ると、次のようにあります。

6.43 limits of the world: at 5.632 and 5.641 [...], the 'metaphysical subject' is called a 'limit of the world'. 'Willing', W. [= Wittgenstein] suggests, changes the essential, the transcendental, ego.

これが正しいとすると、極めて簡単に言えば、主体が、主観が、あるいは自己が、世界の境界または限界だ、ということです。そして意志が自我を、あるいは自己を変えるのだ、ということです。

これをひどく簡略化して記せば、

   自己 = 世界の限界

   意志は自己を変える。

ということであり、故に結論として、

   意志は世界の限界を変える。

と言えることになります。この結論は6.43で述べられていることです。しかしこの結論を振り返ってみると、大仰な結論ですが、要は意志によって私たちは自分自身を変える、ということです。これだけだと、ありきたりの話ですね。けれどもここでは凡庸なことしか述べられていないのではなく、何か非凡なことが述べられているのでしょうね。それを理解するにはちょっと時間がかかりそうです。

 

(2) 6.45で、限定された全体として世界を感じることは、神秘的な感じがする、と述べられています。なぜなのでしょうか。

Black 本の373ページを読むと次のように書かれています。

The 'mystical feeling' is that the world is 'limited' (6.54 [...]), i.e. the feeling that there is something beyond the world.

「限定された全体として世界を感じることは、神秘的な感じがするものだ」ということですが、その理由は、世界が限定されたものとして感じられるならば、限定を越えたところがあることをそれは予感させるからだ、というものだと思われます。

しかし限定を越えたところがあるからといって、なぜ神秘的だと言えるのでしょうか。

たとえば世界の果てに高くて長大な山脈が連なっているとして、それを越えてみたところ、まだ雄大な平野が広がっていたならば、何かこれは神秘的なのでしょうか。

とは言え、世界の限界の向こうとこちらとは、たぶん地理的、空間的な違いなのではなく、何か論理的な違いなのでしょうね。だとしても、論理的に違っていたところでなぜ神秘的になるのだろう? ちょっと私にはよくわかりません。こちらを理解するのにも時間がかかりそうです。

 

このあたりでもう私のつまらない話はやめましょう。

Tractatus の終盤については何となく切実なことが書かれていることは感じられますが、書かれ方が尋常ではないので、平凡な私の理解を超えています。何か倫理的なことについてヒントが得られそうな気がしますので、またこの本はぽつぽつと読んでいきたいと思います。

 

以上で終わります。いつものように誤解や無理解、勘違いや無教養なところがあると思います。誤字や脱字や誤訳、悪訳もたくさんあると思います。それらすべてに対し、最後にお詫び申し上げます。どうかお許しください。

 

*1:英語の Ogden 訳と Pears and McGuinness 訳は、インターネットで簡単に見つかり、誰でも無料で読めるようになっていますので、ここで引用することは控えました。

*2:ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫岩波書店、2003年、およびヴィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、光文社、2014年。

*3:Spinoza の例のセリフが Schopenhauer の『意志と表象としての世界』にも出てくることは次から教えられました。古田徹也、『はじめてのウィトゲンシュタイン』、NHK Books 1266, NHK 出版、2020年、69ページ、註*。

*4:動詞が単数でありながら、主語が複数の語 (のひとまとまり) である場合もドイツ語ではあるようです。ですから「動詞が単数だから、主語も単数で、一個の単語であるはずだ」と早合点をすると痛い目に会うことがあるので気を付けないとまずいです。詳細は次を参照ください。桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、462ページ。

*5:訳語「境界」に対応するドイツ語は「die Grenze(n)」ですが、このドイツ語を「限界」と訳すことも考えられます。確かに「限界」と訳すほうやよい文脈もありますが、「限界」という訳語だと、少しかっこよすぎると言いますか、文学的すぎると言いますか、読解の際、「限界」という訳語に引っ張られすぎるきらいがありますので、今回の私訳では、もっとニュートラルかつ散文的に「境界」や「境界線」という言葉を採用しています。以下でのフランス語からの私訳でも、対応するフランス語 (la frontière) を「境界」や「境界線」で訳出しています。これら訳語の選択に、哲学上、深い意味はありません。ですので「境界」という訳語が気に入らないという方がおられれば、お手数ですがそれをところどころ「限界」と読み換えて読み進めていただければと存じます。

*6:URL=<http://www.unil.ch/files/live//sites/philo/files/shared/etudiants/5_wittgenstein.pdf>.