目次
お知らせ
今まで毎月一回、月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になる可能性があります。
生活が刷新され、日々極度に忙しくなっていることで、なかなかブログの記事を書いている時間が取れなくなってきています。
このことにより長期に渡って更新がストップするかもしれません。
この点、前もってお伝えしておきます。何卒よろしくお願い申し上げます。
お知らせ終わり
はじめに
前回は Ludwig Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus における中盤部分をドイツ語で拝読してみました。そこでもう一回、この本の中盤部分で、予備知識がそれほどなくても一応文意がある程度取れると思われる部分を読んでみることにします。
それは 5.6 から 5.641 の部分です。私と世界の関係を論じているところです。今日も長くて細かい話になりますので、ドイツ語やフランス語に興味のない方は読むのを避けたほうがいいです。時間がありあまって困っているという方にはいいかもしれませんが。
以下では次の順番で文章を掲げます。つまり、ドイツ語の原文、ドイツ語の文法事項、直訳、逐語訳、既刊邦訳、仏訳、フランス語文法事項、直訳、逐語訳、個人的感想、以上です。(英訳はインターネットで誰でも無料ですぐに見られますので、ここでは引用致しません。)
文法事項や直訳、逐語訳、個人的感想はすべて私によるものです。間違いがありましたら大変すみません。私はドイツ語にもフランス語にも精通していませんので、誤訳や悪訳がありましたらお詫び申し上げます。
直訳や逐語訳を提示し、自然な意訳を記さないのは、意訳がいけないからというわけではなく、単に語学の勉強に資するためです。それに既刊邦訳を掲げるので、それが意訳の代わりになっています。
参照させていただいた既刊の邦訳は、次の二つです。
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、
・ ヴィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、光文社、2014年。
容易に入手できることと、比較的著名な訳であると思われるので、参照させてもらいました。訳者の野矢先生、丘沢先生に感謝致します。ありがとうございます。
私による訳文の作成に関しては、まずは既刊邦訳を見ずに独力でドイツ語原文から私訳を作り、それを上記二つの既刊邦訳と読み比べて誤訳がないかどうか、チェックしました。すると例によって例のごとく、いくつか誤訳しておりました。やはり今回も野矢先生、丘沢先生に助けられました。ここに謝意を表します。(誤訳した箇所については、「ドイツ語文法事項」の欄で言及しています。)
ドイツ語からの引用は、次の文献から致します。
・ L. Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus, tr. by C. K. Ogden, Routledge, 1922/1981, pp. 148, 150, 152.
なお、以下のドイツ語原文、既刊邦訳、仏訳と、私による直訳、逐語訳には、眼と視野の関係を表わす模式図が出てきますが、それらはすべて、原文に似せて私が作製したものです。
それでは原文を読んでみましょう。
ドイツ語原文
ドイツ語文法事項
in der Logik: この in は「~の中で」という (抽象的な) 位置を意味しているのか、それとも「~によって」という手段や方法を意味しているのか、あるいはそれら以外の何かを意味しているのか、私には確信が持てません。一応私自身としては二つ目の手段や方法を意味しているものと解し、「論理によって」と訳されると考えました。これをよりくだいて言い直せば「論理的に」と訳せるだろうと思っています。間違っていましたらすみません。
sagen: この他動詞の目的語は、そのあとのコロン以下の文です。
Das würde nämlich: Das は直前のコロンの文を指しています。würde は werden の接続法第二式で、ここでは非現実を表わしています。そして nämlich についてですが、今回引用したドイツ語の文ではしばしばこの言葉が出てきます。副詞としての nämlich には二つの意味があります。一つは「つまり、すなわち、詳しく言えば」というような言い換えを意味しています。もう一つは denn と同じように「と言うのも~だから」というような未知の理由を追加して述べることを意味しています。しかし、今回引用したドイツ語の文に出てくる各々の nämlich がこれら二つのうち、どちらを意味しているのか、私にとっては判然としない場合がかなり多いです。私からすると、どちらの意味でもないと思われる場合もあります。以下の直訳と逐語訳では私の判断で nämlich に対し、一応二つあるうちの一方の意味を割り振っていますが、あまり自信がありません。直訳と逐語訳を読まれる際は、この点をお含みおきください。
voraussetzen: この他動詞の目的語は、その直後の dass 文です。
und dies: und は文脈の内容から言って順接ではなく逆接を表わしています。つまりこの und は「しかし」の意味です。また dies は直前の文 wir ... ausschliessen を指しています。
der Fall sein: der Fall sein 主語で、「(主語) が当てはまっている、(主語) のとおりである」。
über die Grenzen der Welt hinaus: über 4格 hinaus には三つの意味がります。「(4格を位置の点で) 越えて、(4格を時間の点で) 過ぎて、(4格に物事を) 加えて」。
müsste: müssen の接続法第二式。ここでは話の流れから必然を表わす「~ねばならない」よりも推量の「~はずである」という意味合いを持っていると考えられます。ところでこの助動詞には原文中で本動詞が欠けているので、そのような場合には多くの場合「~へ行かねばならない」という意味を持ちますから、私はそのつもりでこの語を訳しました。つまり「世界の境界を越えて行くはずである」と訳したのです。しかし念のため野矢先生、丘沢先生の邦訳を参照すると、「行く」という意味では訳されておらず、私が誤訳していることがわかりました。ここでは本動詞に sein が省略されているものと思われます。そうするとその場合は「世界の境界を越えているはずである」となります。
wenn sie nämlich diese Grenzen auch von der anderen Seite betrachten könnte: この wenn 文はやっかいです。まず sie は前方の Logik のこと。nämlich は「つまり」を意味するものと思われます。auch von der anderen Seite ですが、auch は「~もまた」、der anderen Seite は不定冠詞などではなく定冠詞 der が付いていることに注意してください。定冠詞が付いているということは、任意の anderen Seite ではなく、特定の、一つの anderen Seite ということです。すなわち「何でもいいから何らかの他の側」ではなく、「もう一方の側」あるいは「あるものの側に対する、その反対側」ということです。接続法第二式 könnte は推量 (~かもしれない、~であり得る) を表わします。最後に問題の副文冒頭の wenn ですが、これは普通に「もしも~ならば」を表わしていると思われます。(wenn + 接続法第二式で願望文「~であればなぁ」となることがありますが、ここではそうではないと思います。) しかしこの wenn 文が「もしも~ならば」だとすると、この文とその前の文との関係がよくわからなくなります。そのためどうしてもこの wenn 文は補足を入れて意訳しないと意味が通じません。そこで私訳の直訳ではこの wenn 文に、[ ] を使って補足を入れつつ、次のように訳しました。「つまり、論理が世界の境界をその反対側からも見ることがあり得るとするならば [話はまた別であろうが ... ]」。あるいは最後の補足を入れ換えて「[あるいくつかの可能性を排除することも正当なこととなろうが ... ]」としてもいいかもしれません。ちなみにこの wenn 文については、Ogden さんの英訳では直訳して if で訳しておられます。Pears and McGuinness さんの英訳では意訳して理由を表わす for (というのも~だから) で訳しておられます。Granger さんの仏訳では意訳して comme si + 直説法半過去 (あたかも~であるかのように) で訳しておられます。野矢先生、丘沢先生の邦訳では wenn を関係副詞と解して「そのとき」と訳しておられます。ただ、関係副詞なら、通常、その先行詞として何らかの時間や時期を表わす表現が前方にあるはずなのですが、その種の表現は前方にありません。唯一先行詞の候補として考えられるのは Fall ですが、これは der Fall sein という慣用的な言い回しの一部であり、この Fall は特定の時間や時期を表わしているわけではありませんので、今回の wenn の先行詞とは考えられません。そのため問題の wenn が関係副詞である可能性は低いと思われます。あるいはむしろ野矢先生、丘沢先生は wenn をことさら関係副詞と解しておられるのではなく、単に「そのとき」というように意訳した結果、wenn が関係副詞のように見えているだけなのかもしれません。いずれにしてもこの wenn 文は、その前の文とのつながりを考慮した上で正確な訳を与えようとするとなかなか難しく、誰が訳しても同じ訳文になるとは限らない文だと思います。文法的には難しくはない文だと思うのですが、この wenn 文が含まれる5.61のセクション全体がそもそも何を言っているのかよくわからないので、問題の wenn 文も何を言っているのかよくわからず、訳出に困ってしまいます。各訳者の先生方によって、訳文にばらつきがあることがそのことを物語っています。私もこの文を訳出するのにとても困難を覚え、散々迷った挙句私はこの wenn 文を「wenn ... auch ... 接続法第二式」という仮定的認容文 (たとえ~だとしても) だろうと思い、当初、誤訳してしまったぐらいです。ドイツ語の力のある方には大したことはない文なのかもしれませんが ... 。
Was wir nicht denken können, das: das は was を受けています。
s a g e n: s a g e n の目的語は直後の was 文です。
Frage, inwieweit: Frage の内容を表わしているのがその直後の inwieweit の文です。つまり「どの程度~であるのか、という問題」。
Was der Solipsismus nämlich m e i n t, ist: ist の主語はこの直前の was 文です。
nur lässt es sich nicht s a g e n: nur は「ただし」の意味。前の文の内容に制限を掛けています。また、sich4 他動詞 lassen で「~される、~できる、~され得る」。
es zeigt sich: それは自らを示す。
Dass die Welt m e i n e Welt ist, das: das は1格。この das は前方の dass 文を受けています。
das zeigt sich darin, dass: ガチガチの直訳を施せば「das それは sich 自らを darin それのうちに [すなわち] dass のうちに zeigt 示している」。もう少しくだいて訳せば「そのことは次のことのうちに示されている」。
der Sprache, die allein ich verstehe: die は関係代名詞女性4格。先行詞は der Sprache。allein を無視して訳せば「私が理解する言語」。さて問題はこの allein (~だけ、唯一の~) です。これが前方の die または der Sprache にかかっているのか、それとも後方の ich にかかっているのか、判然としません。とすると、あとは文脈から話の内容に従って、どちらが意味の上でふさわしいかを判断して選択することになるのですが、例によって Wittgenstein 先生はここでもよくわからない話をされているので、意味的に前方にかかっているのか (その場合、訳は「唯一の言語」)、それとも後方にかかっているのか (その場合、訳は「私だけ」)、はっきりしません。M. Black, A Companion to Wittgenstein's 'Tractatus', Cambridge University Press, 1964, p. 309 を読むと、この箇所について、Black 先生は 'the meaning of the German is uncertain' と述べておられ、専門家の間でも allein の解釈が割れているそうです。J. Hintikka 先生、E. Stenius 先生は前方にかかると解釈 (「唯一の言語」)、E. Anscombe 先生は後方にかかると解釈 (「私だけ」)、そして Black 先生は前方にかかると解釈されています。私自身としては前方にかかると解しました。別に深い理由があってのことではありません。「私が理解する唯一の言語」と「私だけが理解する言語」を比べてみた場合、公共的で社会的な言語がただ一人の人にしか理解されていないということは考えにくいことなので、「私が理解する唯一の言語」を採用したまでです。
Das denkende, vorstellende, Subjekt: コンマでお互いが区切られた、二つの形容詞的な現在分詞 denkende と vorstellende は、それぞれが対等な立場で並列的に名詞の Subjekt に直接かかっているものと思われます。つまりこの句は Das denkende Subjekt (思考する主体) かつ Das vorstellende Subjekt (表象する主体) を意味すると考えられます。言い換えると問題の句は Das denkende Vorstellungssubjekt (思考する表象主体) という意味ではない、ということです (Vorstellungssubjekt などというドイツ語があるのかどうか、私は知りませんが)。コンマで区切られている形容詞のうち、名詞に近い vorstellende のほうが、遠くにある denkende よりも Subjekt に密接にかかわっているということではなく、denkende も vorstellende も両者とも同じ比重で Subjekt にかかっているということです。二つ以上の付加語的形容詞がコンマで区切られながら名詞にかかっている時、それらの形容詞は対等で並列的に、同じ比重でそれぞれ直接名詞にかかります。桜井和市、『改訂版 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、474ページ、注1、Schwere, unerwartete Schicksalsschläge (「ひどく予測の付かない運命の打撃」ではなく、「ひどい、思わぬ運命の打撃」)、および、阿部賀隆訳注、『Deutsche Lesestücke 対訳読本篇』、独和対訳叢書 23、郁文堂、1955年、23ページ、注1参照。一方、二つ以上の形容詞がコンマを介さず名詞にかかっている場合は、名詞に近い形容詞の方がその名詞に密接にかかわっていることがあります。たとえば、alter roter Wein は「古い、赤いワイン」というよりも「古い赤ワイン (alter Rotwein)」という具合です。桜井、『ドイツ広文典』、474ページ、注1、98ページ、注2参照。以上から、問題の句 Das denkende, vorstellende, Subjekt は、細かく言えば「思考する主体であり、表象する主体」と訳されます。
Wenn ich ein Buch schriebe „Die Welt, wie ich sie vorfand“: ein Buch と „Die Welt, wie ich sie vorfand“ は同格です。私は最初この文を読んだ時、ein Buch は4格で、„Die Welt, wie ich sie vorfand“ も4格だろうな。しかしなぜ4格が二つもあるのだろう? schreiben は4格を二つも持つ動詞だったろうか? そんなはずないよな、何なんだろう? と首をかしげて何度か読み返しているうちに、「ああそうか、„Die Welt, ... “ は本の題名なんだ、妙な題名ではあるけれど」と気が付きました。ein Buch のタイトルが „Die Welt, ... “ なんですね。そういうことです。あと、schriebe は接続法第二式で、事実に反することを表わしています。
„Die Welt, wie ich sie vorfand“: wie は関係代名詞のような働きをしています。ときどきこのような wie を見かけますが、私は個人的にこのような wie を「疑似関係代名詞」と呼んでいます。その場合、先行詞に相当するのが直前にある Die Welt ですが、wie 以下で実際にこの Die Welt を指しているのは sie です。この句を直訳すると「私が (ich) 目の前に見い出した (vorfand)、その (sie) ような (wie) 世界 (Die Welt)」とでもなるでしょうか。
so wäre darin auch über meinen Leib zu berichten und zu sagen: wäre ... zu berichten und zu sagen は、zu 不定詞 + sein で、受動的可能または受動的必然を表わし、「~され得る、~されねばならない」。ここでは受動的必然の意味。wäre の主語は後方に出てくる welche Glieder ... nicht etc. という副文です。また、先ほどの Wenn ich ein Buch schriebe ... の schriebe は反事実を表わす接続法第二式でした。同様にここの wäre も接続法第二式で、事実に反することを表わしています。よってこの wenn 文と so wäre 以下を合わせて、「もしも~であるならば、― であるだろうが ... 」という反事実を表わしています。もう少し具体的に言えば「もしも私が~という題名の本を書くならば、同書中で私の身体についても、どの四肢が ― で、どの四肢が ― でないか、報告され、述べられねばならないだろう」となります。
dies: 前文の内容を受けています。
das Subjekt zu isolieren, ... zu zeigen: この二つの zu 不定詞は直前の eine Methode にかかる形容詞的用法の zu 不定詞です。
oder vielmehr: あるいはむしろ。
dass es ... kein Subjekt gibt: dass は前の zeigen の目的語文、es gibt 4格は、周知のとおり「(4格) がある」。
Von ihm ... könnte ... n i c h t die Rede sein: von 3格 ist die Rede で、「(3格) が話題になっている、問題になっている」。また、von 3格 kann nicht die Rede sein で、「(3格) は問題外である、問題にならない」。ここの könnte は接続法第二式で、婉曲表現にするために第二式になっているものと思われます。
die Rede sein.—: ドイツ語のダッシュ「―」はいろいろな意味を持ちますが、ここでは次の文に進む前に一呼吸置き、余韻を持たせることで、直前の文の内容を読者に考えさせる効果を狙って配されています。高坂義之、『規範ドイツ文典』、三修社、1979年、405-406ページ。
Wo i n der Welt ist ein metaphysisches Subjekt zu merken?: ist ... zu merken は zu 不定詞 + sein の形をしており、意味としては受動的可能 (~され得る) または受動的必然 (~されねばならない) を表わしていて、ここでは受動的可能の意味です。
es verhält sich hier ganz, wie mit Auge und Gesichtsfeld: 私はこの文をどのように分析すればいいのか、あまり自信がありません。以下に述べる私の分析はひょっとすると間違っているかもしれません。そのつもりでこの文の私による分析結果をお読みください。さて、この文を P と略称することにします。まず verhalten については、S verhalten sich + 様態を表わす表現で、「S は (様態) の状態である、(様態) のようにふるまう」を意味します。そしてたぶんですが、P の es は漠然と状況、事情を表わしているのではないかと思います。そして P において、「S verhalten sich + 様態」のうちの様態を表わす表現は、wie 以下ではないかと思います。また、wie 以下の mit は意味上の主語を表わしているのではなく、たぶん関係、関与を表わす mit (~について、~に関して) だろうと思います。ここで P の hier ganz を一旦無視すれば、P は次のようになります。es verhält sich, wie mit Auge und Gesichtsfeld. これを Q と略称すれば、Q は次の意味を持っていると考えられます。直訳すると「事情は (es) 眼と視野 (Auge und Gesichtsfeld) について (mit) のような (wie) 状態である (verhält sich)」。もう少し意訳にすると「事情は眼と視野についてと同様である」。今度はここに先ほど省いた hier ganz (ここでは、まったく) を加えて訳すと、文 P は次のようになります。「ここでは事情は眼と視野についてとまったく同様である」。以上のように文 P を私は分析しましたが、合っているでしょうか。参考までに記しておきますと、文 P は以下の文 R と類比的な意味を持っているのではないかと思われます。文 R 「es verhält sich A mit B (B については A という状況にある)」。この es は形式的な非人称の主語で、意味上の主語は mit 以下の B です。P と R はいくらか似ていますね。そっくりだとは私は思わないのですが、ちょっと似ています。ここまで、R も考慮しながら P を分析してみました。間違っていましたらごめんなさい。
Und nichts ... gesehen wird: この一文について説明します。まず、nichts はこの文の1格。an は接地または存在の場を表わしており、nichts にかかっています。つまり意味としては「視野におけるどんなものも~ない」。なお、私はこの an を見地や限定 (~について、~に関して) を表わす an だと誤読、誤訳しておりました。既刊邦訳に救われました。野矢先生、丘沢先生に感謝申し上げます。次に、lässt darauf schliessen について、不定詞 + lassen で、「~させる」。von 3格 auf 4格 schliessen で、「(3格) から (4格) を推論する」。darauf の da- は、このあとの dass 文を指します。最後に、es は前方の nichts を指します。
nicht etwa: etwa は nicht を強調しています。「決して~ない」。
Das hängt damit zusammen, dass: mit 3格 zusammenhängen で、「(3格) と関連している」。damit の da- は、そのあとの dass 文を指します。
Alles, was wir sehen: Alles は不定関係代名詞 was の先行詞です。次の行の文中にある Alles と was も同様です。
könnte: können の接続法第二式。現在における推量を表わします。つまり「~であるかもしれない」。次の行の könnte も同じです。
Das Ich des Solipsismus: Ich は人称代名詞ではなく一般名詞です。中性の定冠詞 das を付けて、人称代名詞 ich を普通の名詞に転換しています。このあとの5.641にたびたび出てくる、大文字で始まる Ich も人称代名詞ではなく一般名詞です。
es bleibt die ihm koordinierte Realität: es bleibt + 1格で、「(1格) が残っている」。es は非人称です。何かを指しているのではありません。私はこの es が何かを指しているものと誤解してこの文を誤訳しておりました。ihm は Das Ich または Punkt を指します。
in der Philosophie nicht-psychologisch: nicht-psychologisch は形容詞として直前の名詞 Philosophie にかかっていますが、このように形容詞が後ろから前の名詞にかかる時は、その形容詞は格語尾を付けません。桜井、『ドイツ広文典』、95ページ、注4。
vom Ich die Rede sein kann: しばらく前にも出てきましたが、von 3格 ist die Rede は、「(3格) が話題になっている、問題になっている」という意味。そのため今言及している vom ... kann は「私/自我/我 (われ) は話題になりうる/問題になりうる」ということ。
dadurch ... dass: dadurch の da- は後続の dass 文を指します。
独文直訳
独文逐語訳
既刊邦訳
最も著名な次から既刊の邦訳を引用致します。
・ ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、114-118ページ。
傍点は下線に代えておきました。また訳注は省いています。
仏訳
仏訳は次から引用致します。
・ Wittgenstein Tractatus logico-philosophicus, tr. par G. G. Granger, Gallimard, 1993, p. 93-95. *2
フランス語文法事項
en logique: たぶんですがこの en は手段や方法を表わす en ではないかと思われます。その場合、「論理で、論理によって」と訳されます。意訳すれば「論理的に」。
serait: 条件法現在。事実に反することを表わしています。
apparemment: 発音は「アパラマン」。
ce qui ne peut avoir lieu: avoir lieu は「起こる、行われる」。ce qui を普通の関係代名詞とその先行詞のつもりで訳すと、直訳すれば「起こり得ないところのもの」となりますが、ここではそうではなく、この ce qui は前の文と同格であることを表わしており、前の文の内容を述べています。その場合「それは起こり得ない、それはあり得ない」と訳されます。次を参照ください。小学館の『ロベール仏和大辞典』、ce1、II の 1 の丸2、「前文と同格」、398ページ、朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目「ce1」、III の30 同格、丸1 文の同格、107ページ。
devrait: 条件法現在。これも事実に反することを表わしています。
au-delà des frontières: au-delà de ~ で、「~の向こう側に」。
comme si elle pouvait: comme si + 直説法半過去で、「まるで~であるかのように」。
à partir de: à partir de ~ で、時間、場所に関して、「~から」。
l'autre bord: 定冠詞 le が付いていますので、単に「(何らかの) 他の縁」ではなく、「(特定のものの) その反対側の縁」。
le penser: le は中性代名詞の le。前方の Ce que の節を指しています。
décider de la réponse: décider de + 名詞で、「(名詞) に決定を下す」。この décider は間接他動詞。
dans quelle mesure: これは、dans une certaine mesure (ある程度まで)、dans une large mesure (かなりの程度まで) の une certaine や une large が疑問形容詞 quel (どんな、どの) に変ったものだと思われます。その場合、意味は「どの程度まで」。
tout à fait: まったく、完全に。
seulement: この語が節の頭に置かれていると、「ただし」の意味。
se dire: これは代名動詞の受動的用法で、意味は「言われる」。このあとに出てくる se montre も同じく代名動詞の受動的用法で、「示される」。代名動詞の受動的用法においては、主語は人以外の物や事を表わす名詞が来ます。
Que le monde soit mon monde: なぜここで接続法が使われているのでしょうか。接続法は一般に、物事の正否、真偽を断定せず、保留する文脈で使われます。それが事実であるとも事実でないとも断定しない文脈で使われます。問題の接続法は文頭の que 節内に現われています。文頭の que 節では、通常、何ごとかがこれから話される主題として提示されます。この時、その何ごとかは読者に提示されているだけで、それが事実であるともないとも断定されていません。保留されたままの状態で読者に提示されています。このようなことのために文頭の que 節では接続法が使われているのです。詳細は、渡邊淳也、『中級フランス語 叙法の謎を解く』、白水社、2018年、68-71ページをご覧ください。
ceci que: ceci が que 節を伴うと、ceci は que 節を指します。
le seul langage que je comprenne: le seul langage que je comprenne は「私の理解する唯一の言語」と訳されますが、なぜこのような言い回しの際に接続法が使われているのでしょうか。まず確認しておきたいのは、接続法は何ごとかが事実であるとも事実でないとも断定されていない、判断の保留されている文脈で一般に使われるということでした。さてそこで問題の言い回しでなぜ接続法が使われるのかというと、次のような理由からです。「私が理解している言語は何か?」という問いを掲げてみた場合、私は自分が理解していると思われる言語をいくつか取り上げて、それら一つ一つについて、本当に自分はそれを理解しているかどうかを精査、検討してみることになります。たとえば「自分は日本語を理解しているだろうか。これは理解していると言える。では英語は理解しているだろうか。微妙だな。それではドイツ語やフランス語はどうか。これらは十分に理解しているとは言えないな」などというように、検討を加えることになります。この検討の際、私は「これこそが私の理解する唯一の言語だ」とは即断、断定せず、判断を保留した状態で候補となる各言語を検討しています。そしてこの検討が終わった時、私が理解している言語が一つしかなかった場合、「これが私の理解する唯一の言語だ」と、最終的に断定を下すわけです。ここまでの話でもうお気づきだと思いますが、「私の理解する唯一の言語」という言い回しでなぜ接続法が使われるのかというと、その唯一の言語を特定する過程において、判断は保留されており、この保留状態が反映されて接続法が今の言い回しに使われているのです。なぜまた「唯一の〜」などという言い回しで接続法が使われるのだろうかと不思議に思えますが、上記のような理由からなのです。また「最も〜な」という言い回しでも接続法が使われますが、これも同様の理由からです。以上については次の文献を参照してください。渡邊淳也、『中級フランス語 叙法の謎を解く』、白水社、2018年、20課 走査と接続法、88-91ページ。
ne font qu'un: ne faire qu'un で、「一体をなす、一心同体である」。
faire aussi un rapport sur mon corps: faire un rapport sur ~ で、「~について報告する」。
quels membres sont soumis à ma volonté: sont soumis à は soumettre A à B (A を B に従わせる、服せしめる) の受動態。A être soumis à B で、直訳すれば「A は B に従わせられる、服せしめられる」、まともに訳し直せば「A は B に従う、服する」。
quels n'y sont pas soumis: y は前方の à ma volonté のこと。
Ce qui est: 先ほども注記しましたが、この ce qui は前の文と同格であることを意味していて、「それは~である」と訳されます。
en effet: すなわち。
ou plutôt: むしろ正確に言えば。
c'est de lui seulement qu'il: c'est ~ que ― で、強調構文。de は、il est question de ~ の de で、「~が問題である、~が話題になっている」。lui は前方の sujet を指しています。
pourrait: 条件法になっているのは、たぶんですが語気緩和、語調緩和のためだろうと思われます。
n'appartient pas au monde: appartenir à ~ で、「~に属する」。
il en est ici tout à fait comme de l'oeil et du champ visuel: 正直に言いますと、私はこの文がどのような文法的構造を持っているのか、正確にはわかりません。自信を持った説明はできません。しかし推測に基付いてですが、この文の文法的な特徴を記してみることにします。問題は il と en と de l'/du です。まず de l'/du ですが、これはたぶん部分冠詞ではなく前置詞で、「~の/~について」という意味を持っているのだと思われます。次に問題なのは il と en が何かを指すのか指さないのか、という点です。可能なパターンは四つあります。パターン (1): il も en もともに何も指さない。パターン (2): il は何かを指すが、en は指さない。パターン (3): il は何も指さないが、en は指す。パターン (4): il も en もともに何かを指す。これらのうち、考えられるのはパターン (2) と (3) です。このなかで、私は (2) を採用したいと思います。つまり、il は何かを指すが、en は特に何かを指すというわけではない、ということです。ところで前置詞の de l'/du ですが、この前置詞の前には「la situation/le cas (事情/場合)」などが省略されていると私は考えます。すなわち省略せずに書くと、たとえば「la situation de l'oeil et la situation du champ visuel (眼についての事情と視野についての事情)」という具合になります。そこで、パターン (2) が正しく、de l'/du の前に la situation/le cas などが省略されているとすると、il が指すのはこの問題の文の前文で表わされている「事情」のことだろうと考えられます。つまり、形而上学的主体が世界の中に位置付けられている状況のことだと考えられます。したがって il が指すのは、日本語で言うと「そういう状況、そういう事態、その事情」のことだろうと思われます。こうして、問題の文を、何も指さない en を省いて逐語訳すると、「il その事情は ici ここでは de l'oeil 眼の [事情] et と du champ visuel 視野の [事情と] tout à fait まったく comme 同様 est である」となります。以上のように私は分析しましたが、いかがでしょうか。もしかするとまったく間違っているかもしれません。はっきり言って私にはあまり自信がありません。「これでいいのかな」と不安を感じています。よろしければ皆さんのほうで私の分析結果が正しいかどうか検討してみてください。間違っていたら皆さんの頭の中で訂正を施しておいてください。私は私でまた勉強し直します。
en réalité: 実際には、本当のところは。
tu ne le vois pas: le は l'oeil を指します。
permet de conclure: permettre de 不定詞で、「~することを許す、可能ならしめる」。この言い回しは、簡単には「~できる」と訳せばいい場合が多いです。
il est vu par un oeil: il は不定代名詞 rien を指します。
en fait: 発音は「アン フェ」ではなく「アン フェット」、意味は「実際に」。
Ce qui dépend de ceci: Ce qui は前文と同格の ce qui. 「それは~する/である」と訳されます。dépend de は dépendre de ~ で、「~に依存する、属する、伴う」。ceci は後続の à savoir que 節を指します。
à savoir qu': これは à savoir que 節のことで、意味は「すなわち~である」です。
en même temps: 同時に。
pourrait aussi être autre: この条件法は推量を表わします。次の行に出てくる条件法も同様です。
d'une manière générale: 一般的に言って。
en toute rigueur: 厳格に。
se réduit à un point: se réduire à ~ で、「~に帰される、還元される、帰着する」。
il reste la réalité: il reste 名詞で、「(名詞) が残っている」。
un sens selon lequel: lequel は un sens の代わりです。「その意味によれば」。
il peut être question en philosophie d'un je: il est question de ~ で、「~が問題となっている、話題となっている」。
Le je fait son entrée dans la philosophie: faire son entrée dans ~ で、「~に入る」。
grâce à ceci : que: grâce à ~ で、「~のおかげで」。ceci は直後の que 節を指します。
n'est ni l'être humain, ni le corps humain: ne 動詞 ni A ni B で、「A でも B でもない、A も B も~しない」。
être humain: 人間。
dont s'occupe la psychologie: la psychologie s'occupe de l'âme humaine の de l'âme humaine が関係代名詞 dont に変じて、主語の la psychologie が倒置しています。s'occuper de ~ は、「~に取り組む、~を引き受ける」。
qui est frontière: 関係代名詞 qui の先行詞は Le je. この関係代名詞はいわゆる説明的な関係代名詞。例文: Il poussa la porte, qui s'ouvrit. 彼が戸を押すと、戸があいた。竹内信夫他編、『ジュネス仏和辞典』、大修館書店、1993年、項目 'qui1', A の 1, 1034ページ。
et non partie: A, et non B で、「A であって、B ではない」。例文: Il était fatigué, et non malade. 彼は疲れていただけで病気ではなかった。鈴木信太郎他著、『新スタンダード仏和辞典』、デスク版、大修館書店、1991年、項目 'non', B の 2, 1200ページ。
仏文直訳
仏文逐語訳
個人的感想
5.6 以下について、一つだけ個人的な感想を記してみます。ただし、その感想はまったくの思い付きであり、真剣な研究に基付いているのではありません。そのため、完全に間違っているかもしれません。その可能性は極めて高いですが、一応記してみましょう。
問題の箇所で論じられている独我論について述べてみます。
なお、私は今まで独我論に興味を持ったことはなく、その論に詳しくもなく、それに関する文献もほとんど読んだことがないので、このあとの話はそのつもりでお読みください。
さて、私が物を見る時、それは私の眼で見ています。私にとって物を見るとは、私の眼を通して見ることです。ところでその際、私の眼自身は見えていません。視野に入っていません。私の眼は視野から落ちています。外れています。この時、見えているのは、物とそれがある世界だけ、物とそれが実在する世界だけです。
これと同様に、私が世界を感じ、理解する時、それは私を通して感じられた世界であり、私を通して理解された世界です。世界とは私にとっての世界であり、私のみにとっての世界であり、これ以外に世界はない、と考えられることもあります。大雑把な話ですが、仮にそうだとしてみましょう。そしてこれを独我論 (の一種) としてみましょう。
ところでその際、私の身体は感じられ、理解されますが、感じようとし、理解しようとしている私 (の精神) 自身は感じられませんし、理解されていないと思われます。なぜならば、私が感じられ理解されているとすると、その時、その私は、感じられている、理解されている私であって、感じようとしている、理解しようとしている私ではないからです (たぶん)。
この時、(感じようとし、理解しようとしている) 私は世界から抜け落ちています。外れています。残っているのは私を除く世界だけです。私以外の世界だけがあるということになります。このことを「実在論」と呼ぶならば、ここで述べている独我論は結局実在論になる、ということです。
以上がおおよそでも正しいとすると、なかなか面白い話ですね。
しかし上記の話は本当に正しいのでしょうか。本当にその通りなのでしょうか。それは正しくないとも考えられます。というのは、上で述べられている独我論は結局実在論に一致するということですが、これはすなわち独我論が結局独我論でない実在論に一致するということであり、もう少し縮めて言えば、独我論が独我論でないものと一致するということであって、これは矛盾だからです。
このように独我論とされているものから矛盾が出てくるということは、独我論とされているものが、実は独我論ではなかった、独我論とは別物の何かであった、ということを表わしているのではないでしょうか。
あるいはその独我論は確かに独我論だったとしても、そこから矛盾が出てくるということは、独我論の存立、成立は論理的に不可能である、ということを表わしているのではないでしょうか。
う〜む、どうなんでしょうね。Wittgenstein による問題の箇所の話は面白いですが、にわかには首肯し難い話のようにも思われます。問題の箇所では詳細な論証が欠落しているので (というか、Tractatus のどの箇所でもほとんど論証は見られないのかもしれませんが)、何とも言い難い話です。
さあ、もうこの辺りで単なる思い付きでしかない私の話はやめましょう。決して私の話を真に受けないようにしてください。読まれた方の思考を触発したり、何かヒントになったりするならば、それで十分でしょう。
これで今日は終わります。いつものように、誤解や無理解、勘違いや無知に無理な話があったかもしれません。誤訳や悪訳も多々残されているでしょう。最後に深くお詫び致します。また勉強し直します。どうかお許しください。