On a Few Titles I Was Impressed by the Last Year

今年も次の小さな雑誌を購入させていただきました。

・『みすず』、読書アンケート特集、みすず書房、2023年1・2月合併号。

様々な方が、去年読まれた文献で、印象に残ったものの感想を述べておられます。

僭越ながら、私にとって印象に残った文献を以下に上げてみます。

ここ毎年言っていることなのですが、現在、私は精神的にも肉体的にもしんどい状況にあり、そのため去年もろくに文献集めも読書もできませんでした。そのようななか、心に残った文献を一つ上げるとするならば、次のものがそれです。

飯田隆  『増補改訂版 言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、2022年、初版1987年。

これは初版に対し、新たな前書きと後書き、それに補註を加えて出来上がったものです。

この本の刊行はちょっと意外でした。まさか改訂版が出るとは思っていませんでしたので。

以前にもちょくちょく「この本の改訂版が出るとすればどうなるだろう?」と、想像を巡らしてみたことがありました。でも、その度に以下のように思いました。

「多数の註に上がっている文献は、今では古くなったものもあるだろうし、後書きを兼ねた読書案内の文献もかなり古いものばかりだろうし、改訂するならそれらの文献を大部分差し替えなければいけないことになるな。でも、初版以降、膨大な数の文献が出ていて、さすがの飯田先生も、それらをみんなチェックして最適なものに入れ替えるなんて不可能ではなかろうか?」

このように思っていたので、改訂版が出ると知った時、「えっ、ほんと? 文献を最新版に差し替えるのかな? どうするんだろう?」と感じました。

そこで、刊行されたものを手に取って見てみると、文献は差し替えず、初版以降に日本語訳が出た文献にはその訳名を併記し、前書きと後書きを新たに追記して新版とする、という形になっていました。本文もほとんど手を加えていないようです。

文献を最新版に改めていただけると大助かりだったところですが、いくらなんでも、それは先生に対して無茶すぎる要求でしょうね。やっぱり先生でも、洪水のようにあふれかえっている文献を前にしては、文献差し替えなんて不可能なのだと思います。

 

さて、私にとって、この文献が心に残った理由を、このあとに記したいと思います *1 。そのためには、ちょっと個人史のようなものを語らなければなりません。

 

[お願い: 以下では、いわゆる「現代思想」について、ネガティヴなことを述べます。けれども私は現代思想に恩義があり、また以下で言うほど私は現代思想が好きではない、ということではありません。現代思想に割と魅かれている自分も私の中にはいるのを感じます。ですので、現代思想の好きな方は、以下の話をそんなに不快に思わないでください。どうかお願い致します。]

 

私はいわゆる分析哲学を勉強しています。なかでも論理学の哲学に興味があり、ゴットロープ・フレーゲの考えや論理学に関心を持っていて、ラッセルのパラドックスやカリーのパラドックスなどの論理的、意味論的パラドックスの分析に注目しています。

しかし元々は分析哲学以外に興味がありました。

高校生の頃は小説や詩をちらほら読んでいました。その時「古典的な作品や重要な作品と、そうでない作品とはどう違うのだろうか?」という疑問を抱きました。その際素朴に思ったのは「重要な作品には重要なことが書かれているから、重要なんだろうな」ということでした。そして次のように思いました。「でも、そうだとすると、どうやったらそこに重要なことが書かれているとわかるのだろう?」

このようなことを、それこそナイーブに思っている時、リテラリー・セオリーに関する和書を手に取りました。するとすごく面白いことが書かれていました。これはなんだか「すごい」と感じました。とてもラディカルでわくわくするような話でした。

そこで当初、文学を学びに大学へ行こうと思っていたのですが、方向転換して、リテラリー・セオリーに影響を与えた現代思想や哲学を勉強しに行くことにしました。

こうして大学では哲学を専攻し、現代思想の翻訳書や解説書をいくつか読み、またこの思想に影響を与えた哲学者の翻訳書や入門書をいくらか読んで勉強し始めたのですが、どうもよくわからないことが多く、段々疑問を抱き始め、じきにこれらの哲学者や思想家の言っていることは私にはちゃんと理解できない、私の能力をはるかに超えていると感じました。

このような印象を持ちながら、これとは別に、私は見聞を広げるため、現代思想以外の様々な哲学の本や、また哲学以外の本も乱読していました。

いろいろなことを学びながら感じたことは、「私は論理的なことに興味がある。論理学の基礎的なことに興味がある」ということでした。こんなことを感じている時に私はいわゆる分析哲学に出会いました。

今に至るまで私に大きな影響を与えた分析系の本が三冊あります。いすれも論理の基礎的な事柄に深い関係があります。出版年順に上げると次の通りです。

・ゴットロープ・フレーゲ  『算術の基礎』、原書1884年刊行、
・ウィラード・クワイン  『論理学的観点から』、原書1961年刊行、
飯田隆  『言語哲学大全I 論理と言語』、勁草書房、1987年。

ここに上げた本は、現代思想思想書とは違い、相対的に極めて明瞭で清冽なものでした。とてもクリアでクールでした。「これが私の求めているものだ。私はこのようなことを、このように哲学したい」と思いました *2

「これらの著者は、論理的に重要なことをわかって書いている、わかるように書いている」と感じました。そして細かなことも疎かにせず、細部を詰めて論証を展開していました。言いたいことをあやふやなまま、根拠を示すことなく言いっ放しにするのではなく、きちんと論証、証明を提示していました。

また権威のある哲学者や哲学説に対しても無批判に追従していませんでした。哲学史の教科書にも載っている難しそうな哲学者、哲学説について、「なんだかすごそうだ。深遠で難解でこの世の真理がそこには隠されているに違いない。自分にはまだその真理が看取できないけれど、それは私の頭が悪いからだ」と変に卑屈にビック・ネームになびいてしまわず、そこに疑問に思うことがあるのなら、自分の頭で考え、理由を述べて反論していました *3

飯田先生の上記の本は、きちんと丁寧に考え、また書かれていると感じました。そこで述べられていることを私などでも理解でき、もしも疑問に思うことがあるならば、私自身の言葉で、やはりきちんと疑問を提示でき、そうすることによってちゃんと哲学ができると思われました。

これは多くの現代思想思想書の読解とは大きく違いました。現代思想については、その思想書を読んでいても、大抵の場合、読み解けるようには書かれていないように私には思われます *4 。あえて読み解くには、思い切って細部を無視し、話を大胆に単純化する必要があるように感じられます。あるいは、そこでの文同士の流れがつながらないようならば、かなりの論理的飛躍を許すことで筋を通すよう無理強いする必要があるように感じられます。つまり、文同士に断絶があるならば、そこでは述べられていない主張を多数独自に無理矢理空隙にねじ込んで、論証のギャップを恣意的に埋めねばならないように見えるのです。

こうしてその種の文章には、わかったようなわからないような感じがいつも残り、たとえ「こういうことを言っているのかな?」と半ばわかったような気がした時も、自分勝手な単純化や個人的解釈を文章に施しているので、ひょっとして自分は大きな勘違いをしているのではないか、という危惧の念を常に拭い去ることができませんでした。いつまでたっても解読できない暗号、未知の言語を前にして、途方に暮れていました。「このまま永遠に途方に暮れることになるんだろうな」と思いました。

先ほど上げた三つの本のような分析哲学の本は、これとはかなり異なります。もちろん分析哲学の本も哲学の本ですから、曖昧なことを取り扱う必要があり、それに引っ張られてよくわからない箇所も文中にはありますし、生煮え状態の記述もあるでしょうが、大抵の現代思想の本と比べてはるかに細かいところに注意しながら字義通りに解釈できる書き方に努めており、もったいぶったほのめかしなどなく、言葉遊びや語源詮索とも無縁で、直球勝負で来るから、こちらもただ思い切ってバットを振るだけで、気持ちよく取り組めます。

私にとって、典型的な現代思想思想書は、ご神託が秘匿されている神聖なる書物という感じがし、下手なことは言えないし、ましてやそこに書いてあることに反論するなんて、十年どころか三十年は早い、と恐れ入ってしまうものですが *5 、分析系の本は「手の内はすべて見せましょう。そこに書いてあることは文字通りに解してくれて結構です。裏の意味や深い意味なんてありません。それをそのまま取って反論があるんならどんどん反論してください。ただし理由を付けてくださいね。言いっ放しや謎めいたセリフはよしてくださいね。そして相互に批判し合うことからお互いに学びましょう」という感じがします。とても清々しく潔く、自信と謙虚さのバランスが取れていて、すごく真っ当に思えます *6

また、飯田先生の上記の本は、理由を付けながら話されているとともに、詳細で膨大な文献註、事項註で裏付けを取りつつ話を展開しておられます。先生の本の中の哲学は、個人の大思想家が自らの内省だけを頼りに、心中から流れ出てくる哲学的直感を一人縷説するというていのものではなく、一個人の思い付きとは違って、他の人にもそう思われることを述べているのであり、また他の人の批判にさらすことによって暫定的にではあれ正しさの確かめられた主張を述べ、他の研究者と共同して何が正しいのかを確定していこうとする開かれた営みだと感じられました。

 

それにしても飯田先生の上記の本や論文は、どうしてあのようにちゃんとしているのでしょうか? 妙な疑問かもしれません。先生の書かれているものがちゃんとしているのは当たり前のことでしょうから。それにしてもいつも「すごいなあ」と賛嘆してしまいます。

それで以前に思ったのですが、先生の上記の本の書かれようは、なんだか松坂和夫先生の有名な『集合・位相入門』(岩波書店) の書かれようと、どこか似ている気がしたのですが、どうでしょうか? 似ているとまでは言わなくても、何か通じるものがあるような気がするのです。気のせいかもしれませんが。

新井紀子先生が以前に書かれていましたが *7 、松坂先生は教科書を書く際、表現を非常に注意深く選び、また慎重に表現を配置して、文をしたためていたそうです。誤解を招かないよう、とても気を付けながら執筆していたそうです。確かに日本語で書かれた他の集合論の入門書と読み比べてみると、松坂先生の上記入門書はわかりやすいと私も思いました。飯田先生の書かれるものも、そのように十分注意しながら書き表されているように思えます。新井先生は、松坂先生の本はちゃんと読めばちゃんとわかると言っておられましたが、飯田先生の書かれたものも、同じ印象を受けます。

哲学や思想は、はっきりしないことをある程度はっきりしないまま取り扱わざるを得ないものですが、とは言え、現代思想はその点、ちょっと行き過ぎているように私には感じられます。ほんのわずかな違いが大きな違いを生む例を分析哲学で見てしまうと、あるいはごく簡単な区別を怠ったため、間違った結果に陥ってしまう例を分析哲学で見てしまうと、ザクッと捉えるのは最初だけにして、あとはそれを細かく詰めていくようにしないと、どうにもならなくなってしまうと思います。

 

と、このように、なんだか現代思想のことをネガティヴに言っていますが、その思想でしばしば取り上げられる、倫理や政治に関する論点は重要であり、それは追究するに値する問題だと思います。他者を尊重し、不当な権力に抗するには、人や社会やこの世をどのように見て、どのように考えていけばいいのか、貴重な考察を提供してくれる点で、現代思想は重要だと思います。そこに見られるアイデアは比類なきものでしょうから、あとはそれをどう彫琢していくか、だと思います。ずいぶん生意気言ってすみません。

今日私が言っていることは、本当に生意気なことばかりですね。ごめんなさい。分析哲学には分析哲学の問題点があります。分析哲学はバラ色の哲学ではありません。私たちはみな、よりよい哲学を求めて日々研鑽を積むしかありません。まぁ、がんばりましょう。

飯田先生の上記ご高著は改訂版も印象深いものでした。この他に、英語で書かれた論文で、すごく興味深いものを昨年見たのですが、私はまだ消化不足で今はとても内容を説明できないので、その論文をここで取り上げるのはやめにしておきます。

念のため最後に、私が今日の話で言おうとしたことを一言で表せば、難解な現代思想に苦しんでいた時、飯田先生たちの明解な分析哲学に出会ってほっとした、ということです。この意味で、先生方の本がいつまでも私の心に残っているのです。

 

以上で終わります。いろいろ生意気なことを言ってすみません。例のごとく、誤解や無理解や勘違い、誤字や脱字や衍字などがありましたらごめんなさい。今後、気を付けるように致します。私の未熟な考えも、より成熟した考えへと高めて行くよう努力致します。

 

*1:この本の初版は非常に有名なので、どのような内容の本なのか、その説明は省かさせていただきます。

*2:これらの本に出会う前か、出会った頃のことだったと思うのですが、ラッセルのパラドックスを日本語だけで説明した文章がいくつかあり、重要なパラドックスだと考えられたので、それらの文章でそのパラドックスを理解しようと試みたもののよくわからず、困っていたところ、集合論の記号の入った式による説明文を読むことがあり、記号を使わない、日本語だけの説明ではわからなかった説明が、スパッとわかって驚いたことがあります。「ほんとだ。確かに矛盾している。すごい。この矛盾もすごいけれど、記号を使った説明の威力もすごい」と感嘆した覚えがあります。数式や論理式は一見わかり難いとも思えますが、わかってしまうとものすごく強力だと感じます。分析哲学ではこれらの式がよく出てきますが、これは欠かすことのできない有力な武器です。

*3:トマス・ホッブスは「真理がではなく、権威が法を作る」と述べたそうですが 、哲学の場合にも「真理がではなく、権威が哲学をつくる」という事例があるように思われます。今のホッブスの言葉については次の本で目にしました。嘉戸一将、『法の近代 権力と暴力をわかつもの』、岩波新書岩波書店、2023年、8ページ。また、ある本の中に次のような記述を見かけました。下線は引用者によります。「なお、注意しておいてほしいのは、この書物 [ショーペンハウアー『幸福について』] には男尊女卑や人種差別が含まれているということだ。もちろん、古典を真に理解するためには、読者たる自分自身よりも著者のほうが全面的に正しいはずだという前提で読む必要がある。だが、差別的・暴力的な言説についてはそのかぎりではない。それを真に受けてしまうことで読者自身が傷つき、あるいはその内容を広めることで誰かを傷つけてしまう危険性があるからだ。したがって、ショーペンハウアーの『幸福について』は、批評的意識をもって読む必要がある、取り扱い注意の書物なのだと言っておかねばならない」。梅田孝太、『今を生きる思想 ショーペンハウアー』、講談社現代新書、2022年、82ページ。「古典というものは、全面的に正しいことが書かれていることを前提して読まねばならない」というこの主張は、かなり強い主張だと思います。私としては下線の部分について、以下のように書き換えたほうがよいと思います。つまり「古典を真に理解するためには、読者にとってそこに書かれていることがたとえ奇妙であったり間違っていると感じられたとしても、著者はそれを全面的に正しいはずだと思って書いているという前提で読む必要がある」。そして実際に奇妙で間違っていると感じられる一節に出会った場合には、言下に否定、拒絶せず、「なぜまたそんな奇妙で間違ったことを言うのだろう?」と問い、その理由を探ることが大切だと思います。それにより古典の真の理解が得られるのだろうと思います。そしてまたその過程で「ひょっとして読者たる自分の方が実は間違っているのではないか?」という反省の機会が得られるかもしれません。これはとても貴重な機会でしょう。難解で深遠で権威ある思想書を読む場合、そこでは全面的に正しいことが書かれていると思って読むのは、私にはよくないと思います。正しいことが書かれているのではなく、著者は正しいと思って書いていると、そう思って読む方がよりよいと思います。私を含め、私たちは往々にして、難解で深遠で権威ある思想書に弱いものです。そのような思想書を正しいと思って鵜呑みにしながら読むとミイラ取りがミイラになってしまいます。最初はあった批判的精神が、そのうち失われてしまいます。正しいと思って読むのではなく、正しいと思っていると思いながら読むことで、差し当たり真偽の判断を保留しつつ、とりあえずはそこに書いてあることの整合的な解釈を目指すことが肝心だと考えます。

*4:そう思われるのは、何よりも私の能力不足が最大の原因だからかもしれません。私の勉強不足、知識不足、経験不足が、私にそう思わせているのかもしれません。自分の能力不足を現代思想のせいにしていなければいいのですが、その可能性はあります。正直にこのことをここで告白しておきます。それでも私は次のようにも考えます。人は時として以下のように言うかもしれません。難解で深遠な現代思想思想書が、普通に読み取れるようには書かれていないのは、意図的に跛行的で散発的な書き方を採用することで、体系的な理論の構築を拒絶しているためである、そうすることで、理論が取りこぼしてしまう大切なものを救い出したり、あるいはその取りこぼしを当然視しないためである、と。しかし私にはこれは残念ながら無駄なことだと思われます。理屈をこねる営みは、大なり小なり理論化を図らねばならず、跛行的散発的に書きっぱなすことで済ますことはできず、書いている本人の意図に反し、その内容はどうしても最終的には体系的で整合的な理論へと回収されざるを得ないと思われるからです。ただし、無駄なことはすべて無意味だ、というわけではありません。無駄なことでありながら、意味のあることもある、と思います。たとえば自分の命と引き換えに、愛する人を救う試みの中には、その試みが最後には達成されないかもしれないとわかっていながらも、その試みに賭けることは、無駄なことかもしれませんが無意味なことではありません。また、現代思想の難解な文章が読み取れるようには書かれていないのは、容易にはわからない書き方をわざとすることで、読み手の常識を揺さぶるためである、と言われることもあるかもしれません。しかしこれにも私は懐疑的です。というのも、わからないものを読まされてもわからないだけで、それ以上先には進まないからです。アブラカタブラを読まされて、自分の常識が揺さぶられたことがあるでしょうか? 常識が揺さぶられる際のその起因には、おそらくいくつかのパターンがあるでしょうが、理屈を伴った営みの場合には、事を理詰めで理解し、その結果、自分の常識のほうが間違っていると確信した場合にだけ、自身の常識が揺さぶられるのだと感じます。たとえば、ものの集まりなら何であれ集合を成す、というのが素朴な常識でしょうが、この常識が揺さぶられるのは、一つには、ラッセルのパラドックスを理を詰めて理解した場合でしょう。

*5:これに関連して、最近次の論文を見てみると、面白い体験談が語られていました。倉田剛、「概念分析のための弁明」、『哲学雑誌』、136巻、809号、2022年、43-44ページ。倉田先生は以前にパリの大学に留学されておられました。その時の話なのですが、倉田先生はフランス現象学を研究する過程で現象学の講義に出ていたのですが、その講義は先生が用意してきた原稿を読み上げ、受講生が一生懸命筆写するというものだったそうで、倉田先生はこの書き取りが苦痛だったそうです。これに反してそこで開講されていた分析哲学の講義は、先生が短い例文を黒板に書き出し、これについて先生と受講生全員が互いに質疑のやりとりを交わしながら授業を進めるというものだったそうで、倉田先生にはこの分析哲学の講義は「救い」だったと言います。そしてEHESS (社会科学高等研究院) で、現代思想のリーダーによる「まるで教会のミサのような — 講義 (最前列には録音機を携えたアメリカ人と日本人が陣取っている!) 」にも顔を出されたのですが、一、二回、覗いてみただけで、足が遠のいてしまったとのことです。このミサのような講義を行なっていた先生は、いわゆる閉じたシステムを内側から換骨奪胎し、そのシステムに見られる権威と権力を骨抜きにする手法を編み出し、またその手法のための用語を考え出した方として大変有名な現代思想のスーパー・スターですが、実際のところ、その先生の講義はというと閉じた権威のシステムを形作ってしまっていたようで、何だかとても皮肉な話だと私は感じました。なお、倉田先生は上記の論文で、この先生を「現代思想のリーダー」だとか「現代思想のスーパー・スター」だとは述べておられません。またその「ミサ」について「皮肉な話だ」などとも述べておられません。私が勝手に言っているだけです。念のため。

*6:ちなみに去年の後半に出版された次の本は、今述べたような分析哲学の美点がよく出た本で、すごく面白かったです。八木沢敬、『ときは、ながれない 「時間」の分析哲学』、講談社選書メチエ講談社、2022年。一度全部読んで、再び初めから読み直して楽しんでいます。ちなみに、その本から今回の私の話に関連する文章を引いてみましょう。「そもそも分析哲学の精神は、[...] 哲学の問題に適切にアプローチするには、道具である言葉をていねいに正確に使用することが必須だという、ごくあたりまえの態度なのです。ノコギリやカンナを粗末にあつかう大工がろくな仕事をしないように、言葉を粗末にあつかう哲学者はろくな仕事をしません」。128ページ。

*7:新井紀子、「『夢のヒヨコ』を歌いながら」、数学のたのしみ編集部編、『数学まなびはじめ 第3集』、日本評論社、2015年、56-58ページ。