目次
はじめに
前々回に引き続き、今日も Immanuel Kant の Kritik der reinen Vernenft をドイツ語原文で読んでみましょう。今回は第ニ版 (1787年) の序文 (Vorrede) の中の、有名なコペルニクス的転回の箇所がどのように書かれているのか見てみましょう。
まずドイツ語原文を掲げ、私の文法解説と私訳である直訳を記します。そして岩波文庫の邦訳『純粋理性批判』(以下『純理』) の該当箇所を引用し、この岩波訳と私訳とを比較してみましょう。(岩波訳を引用するのは、それが最も普及していると思われるからです。)
もちろんはじめに岩波訳を参照せずに、まずは自力で訳し、それから岩波訳を見て、私が誤訳していないか、チェックしてみました。するとニ箇所、明らかな私の誤訳がやはりありましたので、以下の私訳ではそのニ箇所を訂正したバージョンを提示します。私の誤訳箇所はあとで記しておきます。誤訳に気付かせてくださいました岩波訳の訳者篠田先生に感謝申し上げます。
そして、いつもならドイツ語原文に対する仏訳とその文法説明、それにその私訳を掲げるところですが、今回は時間がなかったのでフランス語関係は省きます。
なお私はドイツ語に詳しくはなく、その言語に苦手意識がある者です。そのため私による文法説明や私訳に間違いが含まれていないとは言い切れません。現時点でできるだけのことはしましたが、不幸にも瑕疵が残っているようでしたら謝ります。すみません。
さらに私は Kant 哲学のことをよく知りません。ですからその哲学については語りません。この点、ご了承いただければと存じます。
そして最後に、今回の引用文について、簡単な設問を設けています。一緒に考えていただければうれしく思います。
ドイツ語原文
Kant の文章は例によって Project Gutenberg から引用します *1 。
ドイツ語文法事項
Ich sollte meinen: この sollte は直説法過去ではなく接続法第二式。これはいわゆる「心理的強制の sollte」。意味は「私には〜と思われてならない、私としては〜と思わざるを得ない」。あるいはもっと軽く訳しても構いません。たとえば「私には〜と思われる」というように。「Ich sollte denken」と出てくれば、これもしばしば「心理的強制の sollte」のことがあります。この「心理的強制の sollte」については次を参照ください。関口存男、『接続法の詳細』、三修社、1991年、335-337ページ。というわけで、この sollte は意味を過去形にして訳すには及びません。
die Beispiele: ここから jetzt sind までが一まとまりを成しており、wäre の主語になっています。wäre についてはこのあとの註を参照。
die durch: die は関係代名詞複数1格。先行詞は die Beispiele. geworden sind が枠構造を構成する動詞です。
eine ... gebrachte: Revolution に掛かる冠飾句。
auf einmal: 「急に」または「一度に」。ここでは後者の意味で私は訳しました。
zustande gebrachte: 4格 + zustande bringen (4格を実現する) の受動表現。
das geworden sind, was: das は直後の不定関係代名詞 was の先行詞。geworden sind は完了形。
wäre: 二つのことを記します。(1) この wäre は誤記・誤植で、正しくは wären. 最初、私はなぜここで単数形の wäre が来ているのか、わかりませんでした。困惑しつつ、一生懸命単数形の主語を探したのですが、どうにも該当するものが見当たりません。そこでようやく wäre が間違いであることに気が付きました。(2) wäre[n] は間接文の中に入っています。間接文内では通常、接続法第一式でよいのですが、なぜここでは接続法第二式になっているのでしょうか。間接文内で接続法第一式を第二式にするのは普通、次の二つの場合のどちらかです。(a) 第一式にすると、形の上で直説法と区別がつかなくなる場合は第二式にして、区別を図ります。(b) 第一式は堅苦しい印象を与え、第二式は柔らかい感じを生み出しますので、語調を緩和させたい場合には第二式を使います。これら (a) と (b) については、関口、『接続法の詳細』、50-56ページ、常木実、『接続法 その理論と応用』、郁文堂、1960年、43-47ページを参照ください。さて、本文の wäre[n] ですが、(a) は該当しません。そこで考えられるのは (b) の語調緩和のために第二式になっている、という可能性です。決め付けていると思われないように断定を避けるため、第二式を使っていると思われます。あるいはもしかしてもしかすると、主文の動詞 sollte が接続法第二式になっているので、これに引きずられて間接文内で接続法第二式が使われているのかもしれません。その場合、これはいわゆる「同化の接続法」と呼ばれる用法になります。同化の接続法については、桜井和市、『改訂 ドイツ広文典』、第三書房、1968年、410-411ページをご覧ください。
merkwürdig: これは通常「奇妙な」という否定的意味合いを持った語ですが、古くは肯定的意味合いで「注目に値する」ということを意味していました。
genug, um: 「〜genug, um zu 不定詞」で、「zu 不定詞するのに十分なほど〜である」という意味。前から訳し下せば「十分〜なので zu 不定詞できる」。本文中、zu 不定詞に該当するのは、nachzusinnen と nachzuahmen の二つです。
die ihnen: die は関係代名詞女性1格。geworden ist にかけて枠構造を作っています。geworden ist は完了形。die の先行詞は Umänderung. Denkart が先行詞のようにも見えますが、意味の上からは Umänderung を先行詞とする方が適切でしょう。ihnen は「数学や自然科学にとって」ぐらいの意味。
nachzusinnen: nachsinnen は3格または über 4格を従えて「〜について深く考える」。
soviel: 接続詞で verstattet とともに枠構造を作り、意味は「〜する限り」。
ihre Analogie: 「所有冠詞 + Analogie + mit 3格」で「所有冠詞が3格と類似している様」を表わします。別言すれば「所有冠詞の、3格との類比」。
verstattet: verstatten は古語で「3格に4格を許す、許可する」。
zum Versuche nachzuahmen: zum Versuche は「試みに」。逐語訳をすれば「試みとして」となると思われます。「zum Beispiel (例えば)」という言い回しがありますが、これは細かく訳すと「例を意図するものとして」となり、この zu は意図を意味しています。zum Versuche の zu も同様に意図を意味していると思われます。また、nachahmen は「4格または3格に倣う」。ここでは3格として ihnen を取っています。
müsse: 接続法第一式。間接文内にあるため。
sich nach den Gegenständen richten: sich4 nach 3格 richten で「3格に従う」。
alle Versuche: Versuche には zu 不定詞の auszumachen が接続して「確立しようとするあらゆる試み」。
wodurch: wo- は前の句の内容を指します。
erweitert würde: 受動態。würde が接続法第二式になっているのは非現実または推量を表わすため。
gingen ... zunichte: zunichte gehen で「滅びる」。
Man versuche es: Man はことさらに訳さずともよい語です。versuche は接続法第一式。命令または要求を表わします。es はこのあとの ob 文を指します。
damit: 「それについて」。da- はこのあとの daß 文を指すので、「それについて」の「それ」とは daß 文の内容を指します。
die Gegenstände müssen: müssen は直説法のように見えますが、接続法第一式と解すべきでしょう。
unserem Erkenntnis: これは変ですね。Erkenntnis は女性名詞なので unserem のように、男性名詞か中性名詞の印である語尾 -em を取るはずはありません。正書法の確立していなかった Kant の時代は Erkenntnis は、たとえば中性名詞でもあったのでしょうか。-nis という接尾辞はしばしば中性名詞か女性名詞を表わすので、そのことに引っ張られて Kant は Erkenntnis を中性名詞と思い込み、unserem と書いたのでしょうか。だとすると「弘法も筆のあやまり」ということになりますね。
welches: 関係代名詞中性1格。先行詞は Erkenntnis. 直前の註で述べた通り、Erkenntnis は中性名詞ではないので welches では間違いなのですが、Kant 先生は中性名詞だと思って welche ではなく welches と書いているようです。
mit der verlangten Möglichkeit ... zusammenstimmt: mit 3格 zusammenstimmen で「3格と一致する」。
Erkenntnis derselben: derselben の後ろで Gegenstände が省略されています。意味は「それらの対象についての認識」。
die über Gegenstände: die は関係代名詞女性1格。先行詞は Erkenntnis で、soll とともに枠構造を作っています。
ehe sie und gegeben werden: ehe は接続詞で、挿入文を形成しており、gegeben werden とともに枠構造を成しています。gegeben werden は受動態。ところで 「und」は明らかにおかしいですよね。ほとんどの人がこれを読むとただちに「?」と思うでしょう。これは誤記・誤植で、正しくは uns.
soll: これは、この関係文の主語 die に対する要求を表わします。
Es ist hiermit ebenso, als mit ... bewandt: A ebenso als B で「A であるのとちょうど同じなのが B である」。Es は非人称の es で、bewandt は形容詞であり「〜という状態の、事情の」という意味。als 以下、非人称の es と ist が省略されていると思われます。それらを補うと「Es ist hiermit ebenso, als es mit ... bewandt ist」となると考えられます。この文を訳せば「その点で (hiermit) ちょうど同じなのが、... についての (mit) 事情である」となります。
der: 関係代名詞男性1格。先行詞は Kopernikus で、枠構造を成す動詞は versuchte.
nachdem es: nachdem は接続詞。枠構造を成す動詞は wollte. es は wollte のあとの wenn 文を指しています。
wollte: これは傾向性を表わす wollte で、ここは否定文の過去形ですから「どうしても〜しようとしなかった」という意味。wollte に本動詞がありませんが、なくても傾向性を表わすことがあります。
drehe sich um den Zuschauer: drehe は接続法第一式。間接文内にあるため。S drehen sich um 4格で「S が4格の周りを回る」。
ob es: この ob 文は、本来は直前の versuchte の前に置かれるべきですが、そうすると versuchte がその主語 der と極度に離れてしまい、読み取りにくくなるので、ob 文が versuchte のあとの枠外に置かれています。また、es はうしろの wenn 文を指します。
nicht besser gelingen möchte: möchte は接続法第二式。besser と接続法第二式で外交的接続法。「もっとうまくいかないものだろうか」、「もっとうまくいかないかどうか」。
er den Zuschauer sich drehen: 三人称単数の er が主語になっているのに動詞 drehen が複数形または不定形になっていることにご注意ください。なぜこうなっているのかというと、文末の ließ こそが er に対する本当の動詞であり、これが drehen を不定形として取っているからです。構文としては次の形になっています。「sich4 + 4格 + 他動詞 + lassen」。sich はこの文の主語 (S) の再帰表現であり、他動詞の意味上の主語、4格は他動詞の目的語、この構文の意味は「S は自らをして4格を他動詞せしめる」。本文では、S は er、自らは sich、4格は den Zuschauer、他動詞は drehen、せしめる (使役) は lassen で、「彼は自らをして観察者を回転せしめる」、つまり「彼は観察者を回す」となります。
die Sterne in Ruhe ließ: 4格 in Ruhe lassen で「4格をそのままにしておく」。ließ の主語は er.
私訳
ここでは直訳を旨とし、ところどころ意訳気味に訳してみます。語学のため、基本的にはすべて直訳にしたかったのですが、ガチガチの直訳にするとまったく読めたものではなくなるので、前から訳し下したり、長い一文をいくつかに分割して訳したり、二つの文の順番を入れ替えたり、ところどころ「開いて」訳したりしています。ドイツ語の名詞の複数形を几帳面に日本語でも複数形にして訳すということも、あまりしていません。自然な日本語にすることを第一とはしていません。なんとか読める程度の直訳にしています。
岩波訳
・カント 『純粋理性批判 (上)』、篠田英雄訳、岩波文庫、岩波書店、1961年、32-33ページ。
岩波訳と私訳との相違点
私が誤訳した箇所以外の部分について、岩波訳と私訳との違いを見てみましょう。
なお、岩波訳の篠田先生が底本とされた独文と、今回私が底本とした独文は、細部において異なっているかもしれません。そのこと故に岩波訳と私訳が違っているという可能性もあります。このことを踏まえた上で以下の相違点をご覧ください。
相違する箇所について、まず岩波訳を掲げ、それから私訳との違いについて言及します。
そこで私は、次のようなことをしてみたらどうかと思うのである。
これは「Ich sollte meinen」の訳ですが、岩波訳では心理的強制の sollte の意味合いが出ていませんね。そのような意味合いはことさら出す必要はないと判断されたのかもしれません。ちなみにたとえば平凡社ライブラリー版『純粋理性批判 上』(2005年) では「私が当然考えたのは」(47頁) と訳されています。また石川文康先生の筑摩書房版『純粋理性批判 (上)』(2014年) では「私としては、次のように思わざるをえない」(24頁) となっていて、明瞭に心理的強制の sollte の意味合いが訳し出されています。さらに中山元先生の光文社古典新訳文庫版『純粋理性批判 1』(2010年) では「そこでわたしが考えたのは」(156頁) となっていて、特に心理的強制の意味はなく、あっさりとした訳になっています (その他の日本語訳はすみませんが割愛します。)。
突如として
これは「auf einmal」の訳ですが、私訳では「一挙に」と訳しました。当時の科学革命をどう捉えるかによって、「突如として」とも「一挙に」とも訳せるでしょうね。
形而上学が数学および自然科学と同じく理性認識である
「als Vernunfterkenntnisse (理性認識として)」をどう解するかですが、私は形而上学が理性認識なのだと言っているものと解しました。しかし岩波訳はそれだけでなく数学も自然科学も理性認識なのだと解しています。そういえば、Kant にとり、数学とニュートン力学は確か理性的認識のお手本だったように思います。そうだとするなら、ここは岩波訳のように訳すべきでしょうね。
許す限り
私訳では「許されるならば」と訳しています。もちろん「soviel」は接続詞である場合、「〜する限り」と訳されるのですが、私はこれを柔らかめに訳してみました。厳密には「〜する限り」と訳す必要があります。
我々の認識はすべて対象に従って規定されねばならぬ
これは「alle unsere Erkenntnis müsse sich nach den Gegenständen richten」の訳。「sich nach 〜 richten」は普通には「〜に従う」と訳されるでしょうが、岩波訳では Kant の意図を汲んで「規定する」と訳しているのでしょう。
形而上学では
これは原文には直接対応する語はありませんが、これも Kant の意図を汲んで追加されているのでしょう。
コペルニクスの主要な思想
原文は「den ersten Gedanken des Kopernikus」。「ersten」は「第一の」という意味なので、岩波訳はこれを「主要な」に言い換えているのだと思われます。私訳では「コペルニクスが歴史上初めて思い付いた考え (= 地動説)」という感じで訳してみました。「第一の考え」と訳すと「第二の考え」があるのかと思わせますし、「最初の考え」と訳すと「次の考え」があったのかと思わせてしまいます。そこで私は「歴史上初めて思い付いた考え」みたいな感じで訳したわけです。しかしもちろん地動説を最初に思い付いたのはコペルニクスが初めてではありません。古代ギリシャのアリスタルコスだと考えられています。しかし一般にはコペルニクスが最初だと思われており、この通念に従って Kant は書いているのだろうと私は判断し、私訳のように訳してみました。
設問
最後に問題です。
皆様なら、この問題にどのようにお答えになるでしょうか?
参考までに、私なりの拙い答えを記しておきます。それは以下のようになります。
いわば、見えているものを、見えているとおりに受け取っていると解するのが、ここで言う天動説であり、見えているものを、見えているように仕向けていると解するのが、ここでの地動説に当たると考えられます。
必然的に成り立っていると思われる数式や幾何学の定理がそのようにア・プリオリに正しいことを、経験に基づく証拠を受け取ることだけで説明しようとしても説明できないと Kant は考えます *4 。そこで Kant は、経験による証拠を受け取るとともに、それに加えて経験によらない機能が主観の側に働いている、あるいは備わっていると解することにより、必然的な数式や幾何学的定理がア・プリオリであることを説明できると考えました。
認識論において、天動説は経験に基づく証拠だけで認識のすべてを、それ故ア・プリオリな認識をも説明しようとしました。しかしそれではうまくいかないのでコペルニクス的転回を施し地動説を採用し、経験に基づく証拠だけではなく、経験によらない何かがあって、これによりア・プリオリな認識が説明できると、そのように Kant は考えました。
なぜ Kant には、コペルニクス的転回が必要だったのか、その答えは、ア・プリオリな認識を説明するのに必要だったからです。ア・プリオリな認識を説明するのにその転回が必要だったのです。
旧来の考え方ではア・プリオリな認識のメカニズムとその妥当性が説明できないと Kant には思われました。そこで従来の考えを逆転させ、新しく見方を180度転回し、認識は経験的証拠を受け取るだけで成り立つとは限らず、ア・プリオリな認識の場合には、主観の側からの働きかけにより、それがア・プリオリであることが言えるようになるのだ、と Kant は考えました。
ア・プリオリな認識を説明するのに、見たままの経験によるだけでは説明できず、見えない働きが加わることによって、つまり経験によらない働きが加わることによって、その認識は説明できるようになる、と Kant は考えたわけです。このようなわけで、Kant にはコペルニクス的転回が必要だったのです。
以上、手短かに説明するつもりがちょっと長くなってしまいましたね。非常に単純な説明ですみません。皆様の答えはどうだったでしょうか?
ちなみに Kant にとってのコペルニクス的転回の意味については、瀬戸一夫先生がその種のことを主題にした本や論文をいくつか書いておられます。つい最近も
・「「コペルニクス的転回」の哲学的洞察」、『ユリイカ』、2023年1月号、特集 コペルニクス、青土社、2022年、
という論考を公表しておられます。詳しくは、また正確には、先生のお仕事を参照されるといいかもしれません。
なお私の今回の話では先生のお仕事を参照する時間も労力も、そしてもともと能力もなかったので、先生のお仕事は踏まえず個人的感想を書き連ねるということになりました。どうかご了承ください。
本日はこれにて終わりにします。例によって例のごとく、誤解や勘違い、無理解や無知蒙昧な点が残存しておりましたらごめんなさい。誤訳や悪訳もあったかもしれません。誤字や脱字もあったかもしれません。そのようでしたらすみません。ご寛恕を請いたく思います。
*1:https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html. 2023年3月閲覧。
*2:原文では「ihnen, ... zum Versuche nachzuahmen」ですが、私はこれを「それらの学について、その試みに見習う」訳していましたが、これは誤訳でしたので訂正しました。正しくは「それらの学に ... 試みに見習ってみる」となります。
*3:原文では「mit der verlangten Möglichkeit einer Erkenntnis derselben a priori zusammenstimmt」となっていますが、ここの「a priori」を私は「zusammenstimmt」にかけて訳し、当初「ア・プリオリに合致する」としていました。しかし岩波訳を読むと「a priori」は「Erkenntnis」にかけて訳されており、私が誤訳していることがわかりました。そこでこの点を訂正し、この部分を訳し直しました。
*4:Kant にとって「必然的」とか「ア・プリオリ」とか「経験」という言葉は、正確にはいかなる意味を持っているのか、これらの言葉はどのように違うのか、あるいは違わないのか、今はこの点は不問に付しておき、話を続けることにします。