The Rumfitt-Hirose Puzzles: A Reply

目次

 

はじめに

前回は

・広瀬巌  「大学入試って何を試したいの?(上)」、『図書』、岩波書店、2023年5月号、

に載っていたオックスフォード大学のユニバーシティ・カレッジにおける入試問題三つに対し、私なりの解答を示しました。

そのあとに次の文が出て、

・広瀬巌  「大学入試って何を試したいの?(下)」、『図書』、岩波書店、2023年6月号、

ここに問題の解答が載っていましたので、私の答えが合っていたか、以下に記してみましょう。なお、三つの問題と私の解答の詳細については前回の話を参照ください。

 

答え合わせ

さっそく結論から言うと、三つのうち、最初の二つは正解だったようです。

「ようです」と言うのは、最初の二つの問題の正解について、広瀬先生は「正解は明らか」とだけ述べられて、答えを明記されていないからですが、先生の文章からして一問目の答えは C、二問目は D と思われます。私もこれらを答えとしておりました。

さて、三問目が問題です。私はこの問題の正解は F であり、F にダイヤモンドが入っている、としました。しかし先生によると、この「第三問に正解はない」とのことです (下、25頁)。これは私には意外でした。まさか正解のない問題を出されるとはまったく思っていなかったからです。

 

問題の第三問で取り上げられている文は次の通りです (25頁)。

箱 F「ダイヤモンドはこの箱には入っていません」

箱 G「これら二つの箱の文章のうち一つだけが真実です」

 

私自身は F にダイヤモンドが入っていないとすると矛盾を来たし、整合性を保てないと考えたので、F にダイヤモンドが入っていると結論しました。

その論証の詳しい説明は前回の私の記事に譲り、以下では、先生によるとなぜ第三問に「正解」がないということになるのか、先生の話に沿って考えてみましょう。

 

第三問に関する先生の見解

先生は「第二問と第三問は似ている」と言います (24頁)。確かにそうですね。実際ある受験生は第二問と同じ論証パターンを使って第三問も解いています (同頁)。そこで次では第二問とパラレルに第三問を考えてみましょう。まず第二問で取り上げられている文を掲げます。

第二問 (22-23頁)

箱 D 「ダイヤモンドはこの箱には入っていません」

箱 E 「これら二つの箱のうち一つは、真実さんが作りました」

E が真実さんによって作られたとしたら、D は嘘さんが作ったことになります。その時、D にダイヤモンドは入っています。

他方、E が嘘さんによって作られたとしたら、D, E ともに嘘さんが作ったことになります。その時、D にダイヤモンドは入っています。

よっていずれにせよ D にダイヤモンドは入っています (24頁)。

 

今度はこの論証とパラレルに考えた第三問です。もう一度、その文を掲示してみましょう。

第三問 (23頁)

箱 F「ダイヤモンドはこの箱には入っていません」

箱 G「これら二つの箱の文章のうち一つだけが真実です」

G が真実さんによって作られたとしたら、F は嘘さんが作ったことになります。その時、F にダイヤモンドは入っています。

他方、G が嘘さんによって作られたとしたら、F, G ともに嘘さんが作ったことになります。その時、F にダイヤモンドは入っています。

よっていずれにせよ F にダイヤモンドは入っています (24頁)。

 

さて、このように先の受験生が答えたあと、先生は次のように述べます。

「そう結論したくなるよね。でも箱 F を開けてみたらダイヤモンドが入っていなかった、ってことありえない?」(24頁)

さらにこうも述べておられます。

「第二問と第三問は似てるけど、違うよね」(同頁)。

第二問の E で「真実さんが作りました」と言っているところがありますが、第三問の G ではそこが「真実です」となっているところが主に違っています (同頁)。

F にダイヤモンドが入っているのではなく、そこにダイヤモンドが入っていないことがありえると先生は述べられたあと、さらに受験生にこう言わせています。

「両方の箱を真実さんが作ったとしてもおかしくない」(25頁)。

しかしそれはなぜでしょうか? どう解すれば両方の箱を真実さんが作ったとしても、整合性を保つことができるのでしょうか?

振り返ってみると、A から G にわたるすべての箱の文章のうち、G の文章だけが箱や箱を作った人ではなく、そこに書かれた文章について、特に自分自身について言及していることがわかります。つまり G の文はいわゆる自己言及文となっています (25頁)。

その意味で、他と比べ、G の文章だけは特異であり、どこかおかしいといえばおかしいような気もします (同頁)。

そこでこのおかしさを解消し、加えて「両方の箱を真実さんが作ったとしても」整合性を保てるようにする術を検討してみましょう。以下は、私が考えたそのような術の一例です。他の術もあり得るでしょうが、とりあえずすぐに私が思い付いた例を上げてみましょう。

(先生ご自身はその術を明記されておられないようですので、私が考えた以下の例は間違っているかもしれません。皆さまも真に受けず、批判的な精神を持ってお読みください。)

 

第三問解答の整合的解釈

G 以外の文は箱や箱を作った人について述べているのでした。これらの文を仮に「地の文(章)」と呼ぶことにしましょう。また、G の文のように文について述べている文を「文の文」と呼ぶことにしましょう。

その上で、なにより重要なのは G を文字通りには取らず、自己言及を解除しつつ、整合的に解釈し直してやることです。

そこで、G 文を次のように言い直してみましょう。すなわち、

G° 「これら二つの箱の地の文章のうち一つだけが真実です」

G° は G 文の前半に「地の」という言葉を追加しただけです。あえてこうすれば、F と G° をともに真実さんが作ったとしても整合性を保つことができます。なぜなら F と G° の文のうち、地の文は F にしかなく、G° の文は文の文、しかも自分自身について述べていない文の文だからです。実際、F, G° とも真実さんが作った時、F の文は地の文として一つだけ真実であり、G° の文は文の文として真実になっており、ここに矛盾はありません。

以上により、F, G° 両方の箱を真実さんが作った時、F にはダイヤモンドは入っていないと言えます。

ポイントは、平叙文「p」を使って、p (である) と真実を主張することと、「「p」は真実である」と主張することにおける、二つの「真実」という言葉の違いです。前者と後者では何かレベル、タイプ、次元とでもいうものが違っているような感じがします。

そして第三問ではこの違いが無視、混同されているようにも見えます。あるいはその違いが見逃されているようにみえます。この違いを無視、軽視して、G 文を文字通りに取って解釈すれば、「正解」は、ある受験生や私が考えたように、F である、ということになるでしょう。

しかしこの違いを無視せず重要視し、ここに何か「根本的な問題」 (25頁) が潜んでいると洞察すれば、上記のように F にダイヤモンドは入っていないとも考えられます。

こうして結局「正解」は F であるとも F でないとも言えることになって、最終的に「正解」なし、という結論になると思われます。

これが「正解」のない理由だとは、先生は明言されておられませんが、私はおそらくこのようなわけで先生は「正解」がないとおっしゃっているのだと推測します。

 

そして総評として、第三問に関し、先生は以下のように述べておられます (25頁)。この問題で受験生に対し試しているのは、

「正解を答えられるかではなく、推論する能力」

であり、

「箱 F にダイヤモンドが入っていない可能性を想像できるか、そのような可能性を言葉で表現できるか、そして (欲を言えば) なぜそのような可能性がありえるのかを説明できるか」

なのである、と。また

「大切なのは、おかしな推論にハマってしまったときに何かがおかしいなとピンとくるか、問題がなんとなく根本的だと直感することができるか、そしてどうして根本的な問題なのかをなんとなくでも表現することができるかである」と。

真実さんが真実を言うことと、真実さんが「真実です」と真実を言うことには何か「根本的な問題」があると「察知」(25頁) することができるか? できなければ、ある受験生や私のように「正解」があると考えることになるでしょうが、「察知」できれば、先生がおっしゃるように「正解」はないと考えることになるでしょう。

どうやら私は「根本的な問題を察知」(同頁) できなかったようですね。う〜む、私は相当鈍感みたいだ。

 

「根本的な問題の察知」について

それにしてもなぜ私は「根本的な問題を察知」できなかったのでしょうか? 省みるならば、次のことに思い当たります。

 

原因その一

最大の原因は、今述べたように私が鈍感でセンスがなかったからでしょう。これは言うまでもないことです。

 

原因その二

それとともに、まさか入試問題で答えのない問題が出されるとは思ってもみなかったので、私の回答は「正解」があるという前提で考えた結果でもあると思います。小論文のような問題でもない限り、実は答えがない、などということが入試であり得るとは想像もしていませんでした。

入試問題はそれ特有のルール、「お約束」に基づいて成り立っているものだと思います。「そんなことは普通あり得ない」というようなことを想定して問題を立てたり、問題の前提を疑ってかかり、その前提にツッコミを入れたら身もフタもない、元も子もない、入試問題が成り立たないという、そういう大枠には触れず、その大枠を受け入れた上で答えを出すゲームのようなものが入試問題だと感じます。ゲームと言ってはなんですし、入試問題のすべてがそうだとも言いませんが。

仕事や生活の場面でも、その場の雰囲気や暗黙の了解というものがあります。いちいちそこに見られる「根本的な問題」を指摘していると先に進まないし、第一、厄介なことになって自分の身が危うくなるという、そういう事柄がちょくちょくあります。

普段の流れ作業や一時的な通過的作業の場合、「根本的な問題」が見られても、流して先に進むのが通例であり「大人の対応」というものです。

もちろんその「根本的な問題」が個人的にどうしても看過できないと感じられてならない時は、意を決し、リスクを冒して批判の声を上げるということもありえるでしょう。

私もかつてそのような批判の声を上げたことがあります。もちろん痛い目にあいました。散々な目にあいました。このような経験を積むと、問題点に気付いても本当に「ここぞ」という時以外、スルーするようになります。

以上いささか大げさではありますが、先生の入試問題でもこの種の「根本的な問題」がまさか入試で問われているとは思わなかったので意表を突かれました。そのため、問題を「察知」できなかったようです。

 

原因その三

もう一点、なぜ私が「根本的な問題を察知」できなかったか、思い返してみるに、先の点とも関連するのですが、G 文にはおかしいところがあるといえばその通りであるものの、いわゆる分析哲学の真理論を勉強していると、もちろんその種の文は頻繁に出てくるのでなじみがあり、感覚が鈍麻していて G 文の異常性を見逃してしまったというのがあります。

そしてそれとともに、また次のようにも思いました。

一般的に言えば、哲学や思想の本、論文を読んで勉強していると、「おかしな」文などそこら中にあり、逐一「おかしい」などと言っていられない、ということです。そのようなことを言っていたら、哲学や思想の本などは読めない、ということです。

また、そんなことを専門家の先生の前で真顔で言えば「まずはちゃんと勉強しろ」と怒られるでしょう。

たとえば、難解で深遠で晦渋な文章をよく書く秘教的な哲学者や思想家の典型的な哲学書思想書などは、「おかしい」文が頻出するので、ことあるごとに「おかしい」などと言っていては読み進めることはできません。

そのため、「おかしい」ことに「おかしい」と気付くことは大切ですが、そのことを気にすべき時と気にすべきではない時とがあることに、それこそ気が付かねばならないと思います。

哲学の勉強や研究は、哲学的文章の中に「おかしい」と感じられるものがあっても、とりあえずそのことは横に置いておいて、本当は「おかしい」ことはなく、整合的に理解できるはずだ、との予測のもと、その文章を読み込み、勉強していきます。これは「おかしい」文に気が付いてもいちいち気にすべきではない場合とも言えます。

しかしこのことは、悪く言えば、「おかしい」というこの自分の感覚を不当かつ強制的に抑圧し、あるいは勉強、訓練の過程でこの感覚を矯正、馴致していくことなのだ、とも言えるので、気にすべき場合だとも言えます。ミイラ取りがミイラにならないためにも、「おかしい」文にははっきりと「おかしい」という声を上げ、過誤に陥らないためにも抵抗の姿勢を示すべきだ、ということです。

黙って「おかしい」哲学的文章の勉強に勤しむべきか、それとも声を上げて専門の先生から手ひどい批判を受けるか、悩ましいところですね。私を含め、大抵の人はそんな文章を見かけてもスルーすることでしょう。

ちなみに Wittgenstein なら「おかしい」哲学的文章を見かけたら、あと先考えずに「おかしい」と言い放つでしょうね。「おかしな」文章を書く哲学者に「お前をハエトリ壺から助け出してやろう、後ろを振り返るんだ、出口は開いている!」と、そんなふうに喝破するでしょう。

 

最後に

私は先生がおっしゃるような「根本的な問題」を指摘できず、「不正解」になりました。私にセンスがなく、また感覚が鈍麻して気が付かず、あるいは「おかしい」哲学的文章に対し、すれたところがあるので「正解なし」という「正解」に達しませんでした。

もっと素朴で常識的な感覚を持って問題に挑めばよかったのかもしれません。しかし哲学、思想を勉強すると、特にその種の文については「おかしい」ものだとの大前提で接する癖が付いているので、「おかしい」文を、それはそれとして、思わず「おかしくない」ように鋳直してしまうんですよね。

哲学、思想以外の普段の文脈の文章は「おかしい」時に「おかしいなぁ」と、自分は気付いていると思うんですけれどね。いや、どうなんだろう? 今回の例からもわかるように、ひょっとして自分は気付いていない時も結構あるのかもしれませんね。それこそ気を付けなければならないなぁ。

 

これで終わります。今回の入試問題はオックスフォードのユニバーシティ・カレッジが課した問題でした。この問題の第三問に私は期待されたような解答を首尾よく提示できなかったので、ユニバーシティ・カレッジからは合格通知はもらえないでしょうね。むしろ「うちには洞察力を欠いた人間はいらないんだよ。特に君! 君のような鈍感な人間は!」と、指刺されそうで怖いな。残念です。しかし困ったな、いや別に頭を抱えることでもないんですけれども ... 。

 

いつものように、本日の話の中で、誤解や無理解、勘違いや見当違いをしていましたらごめんなさい。誤字や脱字の類いにもお詫び申し上げます。

また広瀬先生と Rumfitt 先生には興味深い問題と話を聞かせていただいてありがとうございました。もしも先生の話を私が何か誤解していましたらすみません。特に、第三問に「正解」がない理由については先生は明言されていないようであり、この理由の上記の提示は私の推測によるものなので、本当に間違っているかもしれません。皆さんには「またかよ」とぼやかれるかましれませんが、その場合は切にお許しください。