You Can Find a Humpty Dumpty Here Too.

目次

 

はじめに

先日、何気なく以下の本を購入し、拝読させていただきました。

・ 轟孝夫 『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』、講談社現代新書講談社、2023年。

この本を、全部ではないですが、ほぼ読みました。

ハイデガーの極度に難解な哲学を、その初期から中期、そして後期に至るまで、すべてを咀嚼し消化して、平易な入門書に仕立て上げ、解説してみせる轟先生の手並みに私は圧倒されました。先生は相当な知力の持ち主だとわかります。私は先生の足下にも及びません。

本書ではハイデガー哲学全般の解説がなされているとともに、ハイデガーがナチか否か、ハイデガーの哲学はナチズムと同種のものか否かが検討されています。

そして轟先生は、ハイデガーがナチに加担したことに対し、ハイデガーを非難するのではなく、ハイデガーを擁護する論を展開されておられます。

ところで、今述べた問題を取り上げ、ハイデガーを擁護するためには (非難する場合にも)、ナチであるとはどういうことか、ナチズムとは何なのか、これらの点を事前に、完全にとは言わずとも、一定程度、明らかにしておく必要があります。さもないと、擁護派、批判派、それぞれの主張をどうとでも捉えることができ、水掛け論に陥ること必定ですが、先生はこれを明らかにせぬまま論を進めておられるように見えます。まぁ、しかしこの点は、本書が新書という性格を考慮して、不問に付しておくことにしましょう。私もここではあまり細かいことは言いたくありませんので。

さて、私は先生の論述を読んでいるなかで、いろいろと疑問を感じたのですが、そのうち、大きく言って二つ、細かく言えば五つの疑問を記してみたいと思います。今回はハイデガーの言葉の解釈について疑問を述べ、次回はハイデガーナチス加担に対する謝罪について疑問を述べてみます。

ちなみに私はハイデガー哲学の専門家ではなく、その哲学にも無知です。そのためその哲学自身について疑問を述べることはできませんし、致しません。ただ、ハイデガー哲学の門外漢が感じた疑問を述べるにとどめます。

なお轟先生によれば、ハイデガーのナチ加担を評価するには彼の哲学をよく理解していないと実のところは評価できないそうです。それ故彼の哲学を理解していない私には彼のナチ加担の評価もできないことになるのですが、門外漢の素朴な疑問という留保を付けて以下の話を記しますので、そのつもりでお読みいただければと思います。決して哲学的批判として本気で読まないようにお願い致します。本気にする人はいないと思いますが。

加えて、私は轟先生の他のご高著やご論文を拝読したことはありません。そのため、ここでの私の疑問は、今回取り上げる新書のみに基づくものです。

疑問を記す前に、私が轟先生とハイデガー氏に対し、何か誤解しているところがありましたら謝ります。大変すみません。前もってお詫び申し上げます。私の疑問はひどく素朴なものです。極めて拙いものです。けれども、きっと私と同じような疑問を抱く読者もいらっしゃると思います。そんな読者の一人として、素朴なまま、以下の疑問を記させていただきます。

 

言葉の解釈について

1930年代当初、ドイツではナチスが政権を取ったのち、ハイデガーフライブルク大学の学長に就任し、ナチ党に入党して、大学運営に乗り出します。その間、ナチの語彙を使いながら自分の考えをハイデガーは演説などで伝え、そのことを通じてナチスを導き、世の中を変えていこうといます。しかしそれがうまくいかず、学長を辞任し、ナチスから距離を取るようになります。このような事態について、轟先生は次のように書いておられます (289-290頁)。ふりがなの引用は省きます。また下線はすべて引用者によるものです。

 

 ハイデガーが自身のナチス加担を「反省して」、その要因となった自分の思想を改めたという解釈は俗受けしやすいが、実際には何の根拠もないことだ。学長期の彼の言説に見られるナチス的な語彙は、右でも見たように、あくまでも、自分の思索に立脚してナチズムのあるべき姿を示す際、その語彙の通常の意味を換骨奪胎する形で用いられたものにすぎない。したがって、そうした努力が無効に終わり、自分の主張が人びとに理解されなければ、ナチス的な語彙に託して自分の立場を説明する必要もなくなり、つまりそうした語彙が表に出てこなくなるのは当然である。彼の思想的立場は、ナチスに積極的に関与していたときとそこから離反したときとで基本的に何の違いもないのである。

 

ここで言われているナチス的な語彙とは「フォルクの大地と血」です (269頁)。

また先生は次のようにも書いておられます (342-343頁)。

 

 ハイデガーの学長時代の言説には、それ以前にはほとんど使われることのなかった「フォルク」、「共同体」、「国家」、「ドイツ」、「闘争」、「労働」、「変革」などの語が頻出する。ここから多くの論者は、ハイデガーナチス加担期に政治的に急進化したという結論を導き出す。たしかにこれらの語はハイデガーが学長を辞任し、ナチスから距離を取るようになるとともに、徐々に表から退いていく。

[...]

 しかし学長時代のハイデガーナチス的な用語を用いたのは、第四章で詳しく論じたとおり、ナチズムを自分の哲学的立場に引き寄せて、「作り替える」ためだった。ナチズムを内側から、自身の哲学に添う、哲学的に確固たるものへと「純化」できると信じ、ナチズム的なジャーゴンも、彼の意図としては、自身の哲学的な文脈に従わせているつもりで使っていたのである。したがって、その努力が失敗に終わったことが明らかになれば、もはやナチズムの言葉を使う必要はなくなる。ナチスジャーゴンを用いなくなったからと言って、彼が自分の思想を変えたわけではないのである。

 

さて、私はこれらの文を読んで、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』におけるハンプティ・ダンプティのことを思い出しました。

ハンプティ・ダンプティはネクタイをもらいました。「不誕生日プレゼント」に、です。彼によると、このプレゼントは誕生日ではない日にもらったものだそうです。誕生日でない日は365日のうち364日です。そして誕生日は365日のうち1日だけです。アリスはプレゼントはやっぱり誕生日にもらうほうがいいと言います。これに対し、ハンプティ・ダンプティはアリスに話します *1

 

「そいで、誕生日のプレゼントの方はたった一日だろ? こりゃあ名誉なことだなあ」

「名誉ってどういう意味で?」

ハンプティ・ダンプティはふふんとせせらわらって、「わかるわけないだろ、ぼくが教えないかぎり。つまり<こてんぱんに言いまかされたね>っていう意味でいったんだ」

「でも<名誉>と<こてんぱんに言いまかす>ってのと、意味がちがうでしょ」アリスは口をとがらせる。

「ぼくがことばを使うときは、だよ」ハンプティ・ダンプティはいかにもひとをばかにした口調で、「そのことばは、ぴったりぼくのいいたかったことを意味することになるんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

「ただ、問題は、そんなふうにことばにやたらいろんな意味をもたせていいものかどうか」

「問題はだね。どっちが主導権をにぎるかってこと — それだけさ」

[...]

「ひとつのことばに、よくもまあいろんな意味をもりこんで」アリスは考えこんでしまった。

 

上記、轟先生の引用文中の、特に下線部分に注目すると思うのですが、ハイデガーハンプティ・ダンプティなのでしょうか? これが私の感じた素朴な疑問です。私もアリスと同様、考えこんでしまいました。

とは言え、轟先生の説明が正しく、私が間違った疑問を抱いていたのなら謝ります。ごめんなさい。

 

またさらに轟先生は次のように記しておられます (370頁)。

 

 ハイデガーは一九三九年の第二次世界大戦の勃発に際して、「黒いノート」のある覚書で「端的な無目的性をめぐって戦われ、したがってせいぜい『戦い』の戯画でしかありえないこの『戦い』において『勝利する』のは、何ものにも拘束されず、すべてを利用可能なものにする『地盤喪失性 (ユダヤ性)』である」と述べている [...]。ここでハイデガーはあたかも、ユダヤ人の国際ネットワークが戦争の背後で糸を引いて列強を争わせ、自分たちの手を汚すことなく世界支配を実現しようとしているという、典型的なユダヤ陰謀論を唱えているように見えるかもしれない。そして実際に、多くの論者がこの箇所をそのように解釈している。

 

しかし先生によると、当時のハイデガーの考えや哲学を参照すると、そのように解釈することは間違いだそうです。そこで先生は、先生が考える正しい解釈を提示されています (370-371頁)。そのあと、先生自身のその解釈について、先生は次のように述べておられます (371-372頁)。

 

 [私の] この解釈が正しいとしても、ここでは「地盤喪失性」が「ユダヤ的なもの」であることは認められており、これはやはりユダヤ人に対する偏見、差別ではないかと疑問をもたれる方もいるかもしれない。しかしこうした見方は誤解である。そのことを以下で説明したい。

 

と記し、説明を加えておられます。

その説明は、つまるところ、「ユダヤ性」や「ユダヤ的なもの」とは、ハイデガーが哲学的に誤ったものだと考える「古代ギリシア的・キリスト教的・ユダヤ的な主体性の形而上学」という長い表現の省略形であり、だとすると、「古代ギリシア的」や「キリスト教的」という表現がギリシア人やキリスト教徒への差別表現にならないように「ユダヤ的」という表現もユダヤ人差別には当たらない、ということだそうです (372-373頁。381-382頁も参照。なお先生は「長い表現」だとか「省略形」とは書いておられません)。

これだけではありません。先生によると「地盤喪失」うんぬんという上記のハイデガーの文章は、彼がナチスに同調して書いているのではなく、その反対に、ハイデガーナチスを批判している文章なのだそうです。このことを考慮すると、今のハイデガーの文章は、ユダヤ人迫害を遂行しているナチス自身が「ユダヤ的なもの」という誤った「形而上学」に囚われていることを皮肉っている文章なのだそうで、しかも皮肉であることを明示するためにわざと「ユダヤ性」というセンシティブな言葉をハイデガーは使っているのだそうです (373頁。382頁も参照。なお先生は「明示するためにわざと」だとか「センシティブ」などという言葉は使っておられません)。

 

いずれにしても、以上の話を俯瞰すれば、ハイデガーの言う「地盤喪失性」や「ユダヤ性」、「ユダヤ的なもの」という言葉は、通俗的差別用語ではなく、ハイデガー特有の哲学的な用語なのであり、ハイデガーユダヤ人を差別する意図はなかった、というわけです。私たちがハイデガーに差別する意図があったと取ることは「誤解」だ、というわけです。

私はここでもハンプティ・ダンプティのことを思い出しました。ハイデガーハンプティ・ダンプティになって覚書を書き付けていたのでしょうか? これが私の感じた素朴な疑問です。ここでも私はアリスと同様、考えこんでしまいました。

とは言え、やはり轟先生の説明が正しく、私が間違った疑問を抱いていたのなら謝ります。ごめんなさい。

 

(次回に続く)

 

*1:以下の引用文は、ルイス・キャロル、『鏡の国のアリス』、矢川澄子訳、新潮文庫、新潮社、1994年、112-113ページからです。すぐ上の「不誕生日」うんぬんについては、同書の108-110ページを参照ください。なお、この作品は他社からも邦訳が出ていますが、今回は私の手元にあった新潮文庫版から引用します。