今日は、可能世界意味論に関し、ごく初歩的なことを備忘録として記します。(私は可能世界意味論に無知です。間違ったことを記しておりましたらすみません。)
どこにも到達可能でないような世界で □p が真である理由の説明
可能世界意味論において、自分自身を含め、いかなる可能世界にも到達可能 (accessible) でないような世界では、□p (必然的に p) は真になると言われます。それはなぜでしょうか。
まず、可能世界意味論における □p の真理条件を、informal に記してみましょう。'≡' は同値記号です。
(NTC) ある世界 w で □p が真 .≡. w から到達可能なすべての世界で p が真
合わせて ◇p (p が可能である) の真理条件も informal に記しておきます。
(PTC) ある世界 w で ◇p が真 .≡. p が真であるような、w から到達可能な世界が少なくとも一つはある。
加えて次も informal に確認しておきます。
(DP) ¬◇p .≡. □¬p (p は可能でない .≡. p でないことが必然である)
(DPD) ¬◇¬p .≡. □p (p でないということは不可能である .≡. p であることが必然である)
さて、自分自身を含め、どの世界にも到達可能ではない世界のことを、'dead end' と言いますが、dead end では □p が真になると言われます。改めて問いますが、それはどうしてなのでしょうか。
それを理解するために、まずは少し遠回りして、可能性の概念から攻めてみましょう。
今、dead end があるとしましょう。この dead end において、◇p は真でしょうか、偽でしょうか。上記の ◇p の真理条件 (PTC) を振り返ってみてください。その条件によると、ある世界で ◇p が真であるのは、その世界から、p が真であるような、到達可能な世界が少なくとも一つある場合でした。ところで dead end からは到達可能な世界は一切ありません。したがって dead end からは、p が真であるような、到達可能な世界は一切ありません。よって、dead end では、◇p は真ではありません。偽です。
では dead end で ◇¬p は真でしょうか、偽でしょうか。これも ◇p の時と同じように考えることができます。すなわち、dead end からは、¬p が真であるような、到達可能な世界はまったくないので、dead end では ◇¬p は偽です。
つまり dead end では、◇p も ◇¬p も、ともに偽であり、そこでは可能性を主張する文はどんなものであれみんな偽だ、ということです。いずれにせよ、dead end からは到達できる世界が一つもないので、◇p なら ◇p の p が真であるような到達可能な世界は微塵もないのですから、◇p は dead end で偽です。このことは比較的見やすいことだろうと思います。
そうすると、dead end で ◇p が偽であるならば、そこで ¬◇p は真です。ところで ¬◇p は上記 (DP) により、□¬p のことでした。ということは、dead end で □¬p は真です。
同様に、dead end で ◇¬p が偽であるならば、そこで ¬◇¬p は真です。ところで、¬◇¬p は上記 (DPD) により、□p のことでした。ということは、dead end で □p は真です。
結局 dead end では、何であれ必然性を主張する文はみんな真なのです。Q.E.D.
□p の定義またはその真理条件から言って、dead end で □p が真であることは、自明なことと見なされているためか、その式が真であることの詳しい説明が書物の中でなされていない場合があります。また、dead end で □p が真であることは、□p の定義から trivial に成り立つとか、vacuously に成り立つと説明されていることもあるみたいで、十分な実感を伴った説明が見られない場合があります。Dead end で □p が真であることは trivial に成り立つとするような、tricky と言うか、technical な論拠に流れる説明がいくつかあり、優秀でない私には腑に落ちる、納得のいく説明がほしかったため、上にあるような説明を備忘録として自分で記してみました。Trivial でない、実感を伴った、わかりやすい説明をしたつもりですが、意に反して、実感のわかない、難しい説明になっておりましたらすみません。たぶんわかりやすいと思うのですが…。それにもっとうまい手があるのにうまくないことをやっているようでしたら、それもまたすみません。
諸家による、どこにも到達可能でないような世界で □p が真である理由の説明
念のため、dead end で □p が真である理由を述べている本から、その説明をいくつか見てみましょう。
例えば、
の97ページで、次の図のような、様相命題論理に対する簡単なモデルMが与えられています。
p p
● → ● → ●
w1 w2 w3
三つの黒丸はそれぞれ可能世界を表しており、'w1' は一つの可能世界の名前です。黒丸の上の p はその世界で真である原子文のすべてです。すべてとはいえ、w1, w2 どちらの世界でもそれぞれ p だけしか真である原子文はありません。w3 では真である文はまったくありません。そして矢印は到達可能関係を表しています。このモデルに関し、飯田先生は次のように述べておられます。
まず、ある特定のモデルが与えられたとき、そのモデルのすべての可能世界において真であるような式が、その「モデルにおいて妥当」な式として取り出される。引き続き、同じモデルMで考えよう。(1) [p → ¬□p] は、w2 では真であるが、w1 で偽であるから、このモデルで妥当な式ではない。これに対して、
(2) ¬p → □p
は、このモデルにおいて妥当である。w1 と w2 では「p」が真であるから、(2) の前件は偽である、つまり、(2) は全体として真である。他方、w3 は、そこから到達可能な世界を持たないから、ここで「□p」は、真理定義の (iv) [私たちの上記 (NTC) に相当するもの] により、真となり、したがって、(2) は w3 でも真である。w1, w2, w3 がこのモデルの可能世界のすべてであるから、(2) はこのモデルにおいて妥当である。*1
いつものことながら、飯田先生のご説明はとてもわかりやすくて大変勉強になります。ただ、この引用文では、到達可能な世界を持たないそのような世界において、□p がなぜ真になるのかというと、そこでは到達可能な世界がないので、定義の上から真になる、と述べられているだけで、優秀な方ならこの説明ですぐに理解されるのかもしれませんが、個人的にはもう少し説明がほしいと感じてしまいました。先生は以上の引用文で十分自明だから、特に詳しい説明の必要性をお感じにならなかったのかもしれません。
同様に、自明と見なしたためか、詳しい説明の省かれている説明が以下にあります。
- L. T. F. Gamut Logic, Language, and Meaning, Volume 2, Intensional Logic and Logical Grammar, The Univetsity of Chicago Press, 1991,
And finally, VM,w3(◇p) = 0 and VM,w3(□p) = 1, since there are no worlds at all which are accessible from w3 (so that p is true in all of the [nonexistent] worlds which are accessible).*2
引用文中の '[ ]' は原文にあるもので、引用者によるものではございません。ここでも dead end である可能世界 w3 において、◇p は偽 (0) になり、□p は真 (1) になると述べられており、その理由はその世界からどこにも到達可能でないからであると言われています。もう少し説明がほしいですね。そしてその結果、到達可能な存在しない世界のすべてで p は真である、と主張されています。存在しない世界で p が真である、と言われても、ちょっと困ってしまいます。まったく存在しないのなら、p もなにも、まったくないでしょうから、そこで p が真だと言われても困惑してしまいます。まぁ、いいんですけど。
次はもう少し説明があると言えばあるのですが、それを読んでも個人的にはもやもやとした気持ちが残ります。
- Graham Priest An Introduction to Non-Classical Logic, 1st Edition, Cambridge University Press, 2001,
Note that if w accesses no worlds, everything of the form ◇A is false at w − if w accesses no worlds, it accesses no worlds at which A is true. And if w accesses no worlds, everything of the form □A is true at w − if w accesses no worlds, then (vacuously) at all worlds that w accesses A is true.2
2 Recall that 'all Xs are Ys' is logically equivalent to 'there are no Xs that are not Ys'.*3
この引用文は 1st ed. からのものですが、同じ本の 2nd ed. でも、やはり p. 22 に今の引用文と同様の文章が出てきます。この引用文の前半、◇A が偽であることの説明はとてもよくわかると思います。ただ、後半の □A の説明は、私にはすっきりよくわかるという感じがしません。脚注の2を参考にすれば、「到達可能なすべての世界 X で、p は真 Y である」ということが、「p が真でないような、到達可能な世界はない」、または「到達可能な世界であるにもかかわらず、そこで p が真でない、などということはない」という文と同値であるとされています。ここでは「到達可能な世界があろうがあるまいが、どちらにせよ、p が真でないような世界はないのだ」と言われているようです。到達可能な世界があるならば、そこで p は真であり、ないならば、とにかく可能世界で p が偽になることはないのだから、ない世界で vacuously に p は真である、と言われているみたいです。個人的にはすきっとしませんが、まぁ、慣れればすっきりするのかもしれません。私はささいなことにこだわりすぎているのでしょう。
今度に上げる説明は、私も思い付いた説明で、私も思い付いたからというわけではないのですが、上の三つより説得力のある説明だと思います。
どこにも到達しない可能世界 w3 と、必然性の定義 (4) 「□B が w で真である .≡. w から w' へ到達可能 wRw' であるような可能世界 w' において B が真である」に関して、戸田山先生は述べておられます。
最後にこの式 [P → ¬□P] が w3 でとる真理値を求めてみよう。[…] ところが、□P が w3 でとる真理値を考えようとするとちょっと戸惑うことになる。というのは w3 から到達可能な世界がないからだ。このように、そこから到達可能な世界が1つもない世界のことをどん詰まり (dead end) と言う。こんなどん詰まり世界では □A や ◇A のような論理式はどのような真理値をとるだろう。定義に遡って考えてみよう。定義 (4) の右辺は、「任意の世界 w' について、wRw' であるならば、VM(w', B) = 1」ということなのであるから、w から到達可能な世界 w' がないならば、これは「ならば」の前件が偽であるという理由によって空虚に成り立ってしまう。つまり、w がどん詰まり世界のときはどんな論理式 A についても □A は真である。同様に、どん詰まり世界ではどんな論理式 A についても ◇A は偽になる。そうすると、どん詰まり世界では ◇A が偽なのに □A が真になる、ということになる。へんな世界。*4
この引用文の直前に記した定義の (4) と引用文中の式の表記法を、引用者によって若干変更しています。この引用文内の話は、とてもわかりやすく書かれていますので、補足は不要でしょう。私も □A に対するこの説明を思い付き、そのあと戸田山先生のこのご高著を拝見すると、先生も同じ説明をされていたので安心したのですが、しかしわずかばかり不自然に感じられました。自分で思い付いた説明なのに、こんなことを言って何ですが…。正しい説明なのかもしれませんが、幾分作為的な感じがして、靴が足にぴったり fit しないような、そんな思いを抱きました。気にし過ぎなのでしょうが…。実際自分でも気にし過ぎだと思います…。
最後に上げる説明は、以上の例とは違って私にぴったりきた説明です。様相論理の教科書の中の教科書から引用します。
- G. E. Hughes and M. J. Cresswell A New Introduction to Modal Logic, Routledge, 1996.
拙い試訳/私訳も付してみます。読みやすさを考慮して、若干原文からずれた訳をしている箇所がありますが、どうかお許しください。
We have observed that not all worlds in a frame need see themselves; but in fact there is nothing in our definition of 'frame' to prevent there being some worlds in a frame which cannot see any world in that frame at all. Kriester Segerberg has called such worlds dead ends, and we shall adopt this terminology in this book. Now the rule [VL] says that Lα is true in a world w iff α is true in every world that w can see, and we interpret this to mean that if there is no world at all that w can see, then Lα is (trivially) true in w, no matter what wff α may be (even if it is p ∧ 〜p). (It may be easier to see why we count Lα always true in a dead end by seeing why its negation 〜Lα is always false in such a world: for 〜Lα is equivalent to M〜α, and by [VM] any wff of the form Mβ can be true in w only if there is some world that w can see.)*5
私たちは、あるフレームにおいて、必ずしもすべての世界が自分自身に到達可能である必要はないと述べてきた。それどころか実際は、私たちがなした「フレーム」の定義においては、次のような世界が存在することを妨げるものは何もないのである。すなわち、あるフレームにおいてはいかなる世界にもまったく到達可能ではないような世界が存在するということである。Kriester Segerberg はこのような世界のことを dead end と呼んだ。私たちも本書ではこの用語を採用することにしよう。さて、規則 [VL] は以下のように述べている。つまり、Lα がある世界 w で真であるのは、次の場合、かつその場合に限る、すなわち、w から到達可能なすべての世界で α は真である。私たちはこのことが以下のことを意味するものと解釈する。つまり、w から到達可能な世界がまったくないならば、その時、Lα は w で (トリヴィアルに) 真である、たとえ正しく形成された式 α が何であるとしても (その式が p ∧ 〜p であるとしても)。(なぜ私たちが Lα をある dead end で常に真であると見なすのかは、なぜその式の否定 〜Lα がそのような dead end で常に偽となるのか、そのことがわかれば、より理解しやすいかもしれない。というのも、〜Lα は M〜α に同値であり、規則 [VM] によって、Mβ という形をした、正しく形成されたいかなる式も、w から到達可能な世界が何かある場合に限り、w において真であり得るからである。)
引用文中の italics は原文にあるものです。著者たちは到達可能なことを「見る (see)」という語で比喩的に表していますが、ここでは直截的に、「見る」と訳さず「到達可能である」と訳しています。言わずもがなでしょうが、frame とは可能世界の集合と到達可能性関係の組のことです。'L' と 'M' はそれぞれ私たちの '□' と '◇' のことです。[VL] は必然性の定義、真理条件のことで、以前に述べた私たちの (NTC) に相当し、[VM] は可能性の定義、真理条件で、私たちの (PTC) に当たります。
この引用文を読んでおわかりのように、今回の日記項目の前半「どこにも到達可能でないような世界で □p が真である理由の説明」における私による説明は、Hughes and Cresswell 先生の引用文での話を敷衍したものであることにお気付きいただけるものと思います。実際、両先生の上の文を読んで思い付いたのが、私による前半での説明です。ですから私の説明は目新しいものでも珍しいものでもございません。ただ、少し詳しく丁寧に説いてみただけのものです。とはいえ間違った説明をしておりましたら、それは Hughes and Cresswell 先生のせいではなく、私の責任です。そのような場合は誠に申し訳ありません。
ちなみに、Hughes and Cresswell 先生は上記のご高著の 1st ed. として、次の本をお書きでしたが、
- G. E. Hughes and M. J. Cresswell An Introduction to Modal Logic, Routledge, 1968/1972,
この本で調べてみると、dead end で □p が真である理由の説明がないように見えます。本書の邦訳、
- G. E. ヒューズ、M. J. クレスウェル 『様相論理入門』、三浦聰、大浜茂生、春藤修二訳、恒星社厚生閣、1981年、
も調べてみましたが、やはりその説明はないように見えます。しかし実はこれらの本のどこかにその説明が書かれているにもかかわらず、私が見落としているようでしたら大変すみません。この他にも手持ちの本をいくつか調べてみましたが、説明があっても自明扱いされている本もあれば、まったくないように見える本もありました*6。それらについては切りがありませんし、それを語ったところで何か新しい情報が加わるというわけでもありませんから、今日はこのあたりでやめにしておきます。
本日の説明が、可能世界意味論の初歩に関し、私と同様に今一つしっくり来ていなかった方のお役に立てれば幸いです。といっても、もしも本日の記述で、誤解、無理解、勘違い、誤訳、悪訳、拙劣な訳などがありましたら、大変すみません。私もまた勉強に励みます。
*1:飯田、100-101ページ。
*2:Gamut, p. 24.
*3:Priest, p. 22.
*4:戸田山、313ページ。
*5:Hughes and M. J. Cresswell, pp. 44-45.
*6:ちなみに次の有名な教科書にはその説明がないように見えました。Brian F. Chellas, Modal Logic: An Introduction, Cambridge University Press, 1980, James W. Garson, Modal Logic for Philosophers, 1st ed., Cambridge University Press, 2006, 小野寛晰、『情報科学における論理』、情報数学セミナーシリーズ、日本評論社、1994年。わたしが見落とした結果、あるのにないと言っているようでしたら謝ります。なお、言うまでもないですが、今問題にしている事柄の説明がないことがいけないと言っているのではございません。誰もすべてを説明することはできませんから。